裏切りのサーモン

映画の話をするバイセクシャルの魚。

SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。

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SSUをご存じか?

 ご存じの方に向けた記事だが、念のため再確認をしておこう。耳にタコだ、という方は次の見出しへ。

 ソニーズ・スパイダーマン・ユニバースは、コロンビア・ピクチャーズがマーベル・エンターテインメントと共同で製作するスーパーヒーロー映画を中心としたメディア・フランチャイズおよびシェアード・ユニバースである。wikiより。

 早い話、ソニーが作っている、スパイダーマンに関連するキャラクターたちの映画シリーズのこと。現状、『ヴェノム』『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』『モービウス』『マダム・ウェブ』の4本が公開されており、年内には新作『クレイヴン・ザ・ハンター』『ヴェノム3(仮題)』の2本が公開予定となっている。

 MCU(アベンジャーズ)とは違う世界。昔やってたスパイダーマンの映画(サム・ライミ版)とも、アメイジングスパイダーマンとも違う。というか、今のところ、この世界にスパイダーマンことピーター・パーカーは登場していない。……いや、厳密には登場しているのかも、しれない。どうなんだろう。よくわからない。彼の"知り合い"だけが、次から次へと出てくる世界。まったく、空虚な中心である。なんでそんな奇妙な事態が発生しているのか、それを解説するだけで何本か記事の書けそうな話題だが、今回はスルーする。とにかく、4本の映画がこの世に生まれたのだ。生まれたからには、生きねばならない。

当記事の趣旨

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 はっきり言って評価の芳しくないシリーズである(特に直近2作は。僕もモービウスはちょっとどうかと思う。マダム・ウェブは普通に面白かったけど)。でも僕は好きだ。僕の好きな90年代末〜00年代初頭のアメコミ映画っぽい雰囲気(ファストフード的な良さがある)や、ヴィランやアンチ・ヒーローとして語られる、王道から外れたキャラクターたちのストーリーなど……SSU特有のカラーがあるのだ。ここでしか吸えない栄養素が。僕はそれに、病みつきになっている。

 なので、ほとんどの人がポップコーンを貪りながらボーッと観ているであろう(その鑑賞態度で合ってると思いますよ)SSUを、僕は結構マジに、ガチに観ている。先日公開された『マダム・ウェブ』も、真面目に観た。結構面白かったので、感想を書きつつ、これまでのSSUを概観していたら、あることに気がついた。

 SSUは毎回、それぞれの作品ごとに異なる、多種多様なトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)と、それに捉われた男性キャラクターたちを、批判的に描いているのでは?

 もはやそれがシリーズの目的、一貫したメッセージ性なのでは……と思ってしまうくらい、SSUはトキシック・マスキュリニティに関する表現が多い。元々、ヴィランやアンチ・ヒーローとされる人物たちにフォーカスする頻度の高いシリーズだが、そんな彼ら──他人や自分を傷つけてしまう、ままならない男性たち──の心情や苦悩、それを助長しているトキシック・マスキュリニティを、SSUは毎度、あの手この手で描いてきた。

 意図されたものではなく、おそらく偶然であろうが……僕の中ではすっかり、点と点が繋がって、一本の糸(ウェブ)が出来上がっているのだ。今回はそれを語ろうと思う。

トキシック・マスキュリニティとは

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 有害な男らしさ、と訳されることの多いワード。「男らしさという概念(社会によって構築された行動規範)の持つ、当事者や他者・社会にとって有害な側面」と言えば、より伝わりやすいだろうか。別に、男性的であること、男性であることそのものを「有害だ」などと決めつける考え方ではない。それはミサンドリーだ。僕はミソジニーにもミサンドリーにも同調しない。

 男性は強くなければならない、弱さを見せてはならない……そんな強迫観念から、自己の感情を抑圧し、ときに暴力的な形で発露してしまったり。女性性的少数者など、「男らしくない」と判断した相手を排除することで、力を誇示したり。目を凝らせば、我々の日常にトキシック・マスキュリニティは溢れている。"有害な男らしさ"に呪われているのだ。それは生まれ持ったものではなく、社会構造によるもので、私たち一人一人の働きかけによって、より良いものへと変えることができる。僕はそう信じている。

 当初設定された言葉の意味・定義を超えて、近年では、より広範に及ぶ「男性性のネガティブな側面」を指して、このワードは使われている。僕もそうしている(本記事でもそうする)。意味の拡大解釈については、良し悪しあるだろうが……。少しでも多くの男性が、かけられた呪いについて自覚を持つキッカケになればいいな、と楽観視している。(楽観視はよくないかもしれないので)僕もまだまだ勉強を重ねるが、ぜひ当記事を読まれた方は、男性でも男性以外でも、ご自身で色々と調べてみてほしい。その気付きと学びは、あなたの周囲の人々と、何よりあなた自身を救うことになるだろう。

Toxic masculinity(有害な男らしさ)とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD

注意点

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 さて、そんな気付きと学びに満ちたSSUについて語っていく前に、いくつか注意点がある。

 第一に、先ほど述べた通り、僕が当記事で繰り返し用いる「トキシック・マスキュリニティ」「有害な男らしさ」は、狭義でなく広義のもので、厳密な定義に基づくものではないということ。僕の勉強不足のために「厳密にはそれトキシック・マスキュリニティじゃねぇだろ!」というようなものまで、それに組み込んでしまっている可能性はある。不徳の致すところで大変申し訳ない。優しく指摘してもらえると嬉しい。

 第二に、当然のことながら、SSUの映画作品に関するネタバレがふんだんに含まれていること。特に最新作『マダム・ウェブ』に関するネタバレには充分注意されたい。

 こんなもんでしょうか。ではそろそろ本題へ。SSUに登場する、"有害な男らしさ"に捉われた男性キャラクターたちについて、一人ずつ語っていく。

セルフネグレクト男性:エディ・ブロック

(『ヴェノム』『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』より)

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 映画『ヴェノム』とその続編『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(以下、1と2)に登場するエディ・ブロックは、物語の主人公でありながら"有害な男らしさ"に捉われた人物である。彼の救済、あるいは進歩こそ、ヴェノムシリーズのメインテーマであると言ってよい。彼はひょんなことから、宇宙からやってきた寄生生物(シンビオート)のヴェノムに寄生され、共に生活を送りながら、弱きを助け悪を喰らうリーサル・プロテクターとなったわけだが……。

 2で語られるように、エディは"父親に愛されない息子"だったらしく、そのせいかわからないが、ずっと強烈な自己嫌悪を抱えているようだ。自分のことを愛せない。自分を愛してくれる人にも心を開けない(けど依存はしてしまう)。だからずっと、雑に生きてきた。自分にも他人にも。他人のことを大事にしたい、と思っても、自分を大事にしないことで結果的に相手を傷つけてしまう。セルフネグレクトは本人だけでなく、本人を愛する人たちをも傷つける行為だ。都合の悪いことは無視し、その場の勢いだけで突っ走り、破滅してしまう。金遣いも荒い。弱者を救いたいとか、悪人を懲らしめたいとか、そういう信念はあるけど、後先を考えられないので、上手くいかない。とにかく、自分のケアができない。なんとも救い難い男である(カイジみたいなやつかもしれない。善人だがクズ。クズだが善人)。

 そんな彼にとって……彼を救うことが目的である『ヴェノム』という作品において……ヴェノムというキャラクターは、どのような意味を持つ存在なのだろう?

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 僕の解釈では、エディにとってヴェノムとは"もう一人の自分"である。自分を愛せないエディの代わりに、エディを愛してくれる存在。エディが自分の気持ちと向き合い、自問自答し、本当にやりたいことを見つけるために、対話してくれる存在。そして見つけたやりたいこと="生きる目的"のため、必要なパワーを与えてくれる存在。それがヴェノム。もう一人のエディ。原語版ではヴェノムの声も、エディ・ブロック役のトム・ハーディが演じている。一人二役だ。

 同一人物である以上、ヴェノムの殺人衝動はエディに由来するものと考える(設定の話ではなく、作劇の話)。エディは、"人を食べる"という行為とその感覚のキモさに拒絶反応を示しているだけで、悪人を殺すことそれ自体には、それほど良心の呵責がないように見えた。1のラストでカールトン・ドレイクを殺害する時に言い放つ「いい人生をな!」は、確実にエディの台詞だろう。自分の意志で人を殺している。誰彼構わず喰らおうとするヴェノムの凶暴性は、触れる者を皆傷つけてしまうエディの性質、そのカリカチュア(戯画)だ。自分も他人も尊ぶことない、そういう生き方の現れ。自尊心(それ)は捨てたろ(呪術廻戦を読んでください)。

 そんな危うさとは裏腹に、エディは弱者に優しい人物でもある。もともとジャーナリストとして、リベラルな問題意識を持っていることと関係があるのかもしれないが。仕事と恋人を失ったドン底生活の中でも、ホームレスの女性と友好的に接していたし、その女性が助けを求めていたら、自身が危険な状況下にあっても、迷わず助けようとしていた(後先を考えない性格の現れ、とも言えるか)。

 エディ・ブロックの中に確かに存在している、「悪人を殺したい」「弱者を救いたい」、二つの本能的な欲望。それを体現するヴェノム。2にて「平穏に暮らしたい」などと言っていたエディだったが……それも嘘ではないのだろうが、今のエディ(ヴェノムの有無は関係なく)が平穏に暮らすことは難しいだろう。自分を愛さず、他人を利用し、雑に生きているエディでは、どのみち破滅してしまう。自分の感情を上手く表現できない、トキシック・マスキュリニティに捉われているのだから。

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 ヴェノムのやることは、全てエディにとって必要なこと。傷つけた恋人には謝罪するよう促し、侮辱されたら怒り、生命の危機には身を挺して守る。そして悪を殺し、弱者を救う。そんなリーサル・プロテクター稼業が、今のエディには丁度いいのではないだろうか。他者を救うことで、自分に自信が持てるようになる。自分を愛することから、他者を愛することが始まる。

 時にエディが、自ら露悪的に振る舞うのは……そして「悪人を殺したい」という欲望を内に秘めているのは……彼は自分自身を悪人だと思うことで、そんな自分を殺したいと思うことで、ある種の安心感を得ているのではないか。2で、アンが結婚すると知らされたあと、エディはバイクで暴走する。ヴェノムが傷を治すため、「どうやっても自分を傷つけられない!」と自暴自棄に陥るエディ。この台詞こそ、二人の(同一人物だが)関係性の全てだろう。自分を傷つけてしまうエディと、エディが傷つかないよう守る、もう一人のエディ=ヴェノム。結局エディは、自分を傷つけられないから、もう一人の自分であるヴェノムを傷つけ、二人は喧嘩別れをしてしまうが……やがて仲直りをし、互いを尊重しながら共に生きていくことを誓う。どこまで行っても、エディは自分を愛せない。それでも、自分を愛するために、ヴェノムという"もう一人の自分"を、自分から切り離して、他者として愛することにしたのだ。それが2の結末。まったく難儀な男だが、少しは好転したようだ。自分を無理やり変えるのではなく、ありのままの自分=ヴェノムを受け入れて、より良く生きていく方法を探す、という方向性へと舵を切ったのだ。

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 2における、エディの最大の成長は、アンへの依存を断ち切ったことだろう。クライマックスの戦闘中、エディはアンを守るため、敵の攻撃を背中に受けながら、アンを結婚相手のダンへと手渡す。ヴェノムの顔のまま、目を潤ませて。つらいことだが、今のエディに他者を愛することはできない。自分を愛することが先だ。

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 「弱者を救いたい」エディにとって、虐待を受けてシリアルキラーとなってしまった2の敵、クレタス・キャサディは、救うべき弱者ではなかったか。しかし、エディとヴェノムは容赦なく、キャサディとカーネイジを殺害し喰らう。エディに親近感を抱くキャサディと同様に、エディもまた、被虐待児のシリアルキラーに共感を覚えていたのだろう。自分と同じような悪人、だから殺す。自分を殺したいエディにとって、それ以外の選択肢はなかった。彼がどこまで行っても自分と、自分によく似たものを愛せないことが残酷なまでによくわかる。だからヴェノムと、一時的に分離したのだ。ヴェノムを(本当は自分自身だけど)他者とすることで、自分とは似ても似つかない存在と仮定することで、愛し始めたのだ。まだまだ前途多難だなぁ。

 家族を求めるキャサディを殺し、ヴェノムをファーザーと呼ぶカーネイジを喰らった。父親に愛されなかったトラウマ。そして1の敵、カールトン・ドレイクは「父なる神」を自称するような振る舞いを見せ、聖者のイサクの逸話を引用する。それは父親のため、犠牲になる息子の伝説。『ヴェノム』シリーズは、セルフネグレクト男性のエディ・ブロックを通じて、父親と息子の物語を描こうとしているのかもしれない。トキシック・マスキュリニティについて考えるとき、父親と息子の関係性は非常に重要なトピックである。3にも期待したい。

②関係性に執着する男性:マイロ

(『モービウス』より)

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 『モービウス』に登場するマイロは、作中でヴィランの役割を担うキャラクターだ。主人公マイケル・モービウスの幼少期からの親友で、現在は大富豪。二人とも血液の難病を患っており、医師として治療法を研究するマイケルを何かと支援している。

 幼き日、マイケルはマイロに言った。「僕たちはギリシャ兵だ。二人で大軍に立ち向かうんだ」と。やがて、優秀なマイケルはニューヨークへと移り、医学を修めることに。一人残されるマイロ。

 そもそも、彼の本名はルシアンであり、マイロではない。マイロは、マイケルが勝手に付けた名だ。同じ病院の隣のベッドにやってくる子供を、みんなマイロと呼んでいた。そのうちの一人。しかしルシアンは、自らをマイロと名乗り続ける。マイロにとって、マイケルは何よりも尊い存在。たった一人の親友なのだ。一方のマイケルにとって、マイロはそういう存在だったか、果たして。

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 正直、マイケル・モービウス博士の気持ちは、僕にはよくわからない。淡々として、乾いている。恋人のマルティーも同様だ。よくわからないタイミングでキスをする。僕の感受性の問題か、映画の不備か、あるいは意図された作劇か。

 ただ、マイロのことは非常によくわかる。あまりにもわかりやすい。彼はとことん、マイケルとの"関係性"に執着しているのだ。"二人で大軍と戦うギリシャ兵"であり続けたい。そのためには、二人が常に一緒でなければ。同じでなければ。ギリシャ兵はピッタリと密着し、互いを守り合って戦うのだ。映画『300』を観よう。

 幼少期、マイケルがマイロに宛てた手紙を、いじめっ子たちが奪おうとした。マイロは、そのうちの一人を松葉杖で殴り(他の連中からボコボコにされたが)、大人に見つかり他の連中が去ったあと、動けないでいる一人を執拗に殴り続けた。確かにそりゃ、大事な手紙を奪われるのは許し難いことだが……ちょっと、暴力的な執着心を感じさせる一幕だった。マイロは子供の頃から、こうだった。

 そして現代。散歩の途中、マイロはマイケルに、マルティーヌと最近どんな感じか、おもむろに訊ねる。「惚れたりしちゃダメだ」「恋愛は僕たちには無理だ」と冗談めかして言っているが……。

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 やがてマイケルは、禁断の実験の果てに、吸血鬼の能力を手に入れる。抑え難い血への渇望と引き換えに、超人的な身体能力を獲得し、病気を治すことに成功したのだ。そこへ現れたマイロ。自分にもそのパワーを与えるよう、マイケルに懇願するが、自らの作り出した危険なパワーを恐れるマイケルは、その申し出を拒否する。「君は生き続けるが僕は死ね、そういうことか?」と激昂するマイロ。マイロを巻き込まないよう、ただ「出てけ!」と繰り返すマイケル。典型的なディスコミュニケーション。お互い、トキシックな部分があるな。

 当然、マイケルと同じであることを望むマイロは、こっそり薬品を盗み出しており、マイケルと同じ吸血鬼の能力を獲得する。血の渇望に駆られ、傭兵たちを殺害してしまったことを悔やむマイケルに、自身も看護師を殺害したことを告げるマイロ。「抑えが効かないんだ」。それは、親友の罪を赦すと同時に、自らの行いを正当化する言説。強大なパワーを恐れるマイケルに対し、マイロはこの力を、圧倒的な暴力を、極めて好意的に受け止めているようだ。ここが二人の分かれ道。同じなのに違う二人。

 このパワーを受け入れ、共に怪物として生きていくことをマイケルに提案するマイロ。「俺たちはずっと死に怯えながら暮らしてきただろう?」「なら何故、今度は奴らに同じ気持ちを味わせちゃいけない?」と語りかける。

 マイロと戦いたくないマイケルは、その場から逃走。マルティーの協力を得ながら、吸血鬼のパワーを無くす方法を探す。一方のマイロは、全能のパワーで人生を謳歌する。以前の痩せ細った身体とは大違いの、筋骨隆々の肉体を見せびらかすように踊り(このシーンはミームになった)(というか『モービウス』自体ミームにされている)、生まれて初めてバーへ行き、酒を飲み、女性を口説いた。ついでに、邪魔をしてきた男を何人か殺した。

 僕は、マイロは同性愛者なんじゃないかと思っている。マイケルに対する執着、独占欲……それらが恋愛感情のように見えるからだ。あくまで僕の解釈でしかなく、作中で明言されていないため、正解はない。女性を口説いているからゲイではないのでは(あるいはバイかパンか)、という考え方もあるだろう。ただ、繰り返し主張したいのは、マイロの目的は、マイケルと同じになることだ、ということ。マイケルにマルティーヌがいるのなら、自分にも誰かいて然るべきだ。そう思って、女性に声をかけたのでは……と僕は考えている。

 もう一つ主張しておくなら、現実において、人のことを異性愛者か同性愛者か、ゲイなのかバイなのか、みたいなことを勝手に言ったり書いたりするのは、とても失礼であるということ。僕も、現実の人間に対してそういうことは決してしない。あくまで、創作物に登場するキャラクターの考察、という場においてのみ、こういうことをしている。

 「ドラキュラってロマンチックよねぇ」とか言いながら、ラボの屋上でいきなりキスをするマイケルとマルティーヌ。本当によくわからない。映画史に残るキスシーンだろう。そして、その様子を遠くから、怖い顔で見つめているマイロ。マイロに見せつけるためだけのキスシーンですよね、監督?

 かつて、マイケルとマイロが出会った病院に勤務していた、医師のニコラス。マイケルの才能に気づき、彼をニューヨークに送った。そしてマイケルの代わりに、ずっとマイロの側にいてやった。二人にとっての父親のような存在だ。変わり果てたマイロの凶暴性を恐れつつも、寄り添う姿勢を見せるニコラス。そんな"パパ"に対し、マイロは怒りを爆発させる。「ずっと俺を憐れんでた!」「いつもマイケルの味方だったな!」「完璧なマイケル、人を助けるマイケル、マイケルがお気に入りだ!」。ずっとマイケルと一緒にいたかったマイロにとって、ニコラスは、二人を引き離した存在として、憎むべき相手となっていたのだろう。「俺たちには恥じることなどない」「俺たち少数派が、大軍と戦う」と宣言し、ニコラスをその手にかける。父殺しだ。

 そのあと、なんやかんやでマイロはマルティーヌも殺す。「これで二人きりだ!」。そんなマイロと、怒りを燃やすマイケルとの、決戦の火蓋が切られた。マイケルはコウモリの"大群"を呼び寄せ、マイロはその辺の鉄パイプを、ギリシャの槍のように持ち、激突する。マイロは敗れ、マイケルによって、吸血鬼のパワーを無くす薬品を注射される。生き絶えるマイロ。ただ一言、「悪かった」と言い残して……。

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 これはあれだ、マイノリティの悲劇を描く作品なんだ。そう思う。その文脈で読み解くと、やはりマイロは性的少数者なのか。そのように見えて仕方がない。彼は男性(性別)で、難病患者で、もしかしたら同性愛者(性的指向)かもしれない。そのような、複数のアイデンティティが組み合わさることで起こる、様々な差別や苦しみについて理解するために、"インターセクショナリティ"という概念がある。調べてみてほしい。

インターセクショナリティとは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD

 だからマイロの抱える問題を、トキシック・マスキュリニティという一つの物差しだけで測るのは、とても難しいし、本来やるべきではないような気もするが……。ここは一旦、当記事の趣旨に沿って、ちょっと考えてみる。マイロは幼少期から、暴力的な気質を持っていた。自分たちを憐れむ、あるいは蔑む社会に対する憎しみ。ままならぬ自身の肉体、そして苦痛に満ちた人生に対する怒り。様々な要因があるだろう。「男らしく」振る舞えなかったからこそ、「男らしい」肉体を手にしたあとのマイロは、過度に「男らしく」振る舞う。肉体を見せつけるように踊り、女性を口説き、他者を攻撃して力を誇示する。

 マイケルと一緒になることが、マイロの無二の望みであったはずだ。なのに、マイケルは人を殺したくないと言っているのに、マイロは大勢の人を殺す。マイケルの大切な人たちも。ずっと社会(大軍)から抑圧されてきて、復讐したかったのだ。二人のギリシャ兵で。死ぬなら一緒に死にたかったし、怪物として生きるなら、一緒に怪物になりたかった。最期になって詫びるくらいなら、きちんと話し合う道もあったろうに、マイロは言語ではなく、暴力によるコミュニケーションを選んだ。彼の気持ちは、マイケルにもニコラスにも正しく伝わっていないのではないか。そう思えてならない。二人が対話を呼びかけても、一向に聞く耳を持たず、暴力によってねじ伏せようとする姿勢は、トキシック・マスキュリニティを感じさせる。

 彼自身の抱える"有害な男らしさ"もそうだが、社会に蔓延る"有害な男らしさ"が、彼を追い詰め、怪物へと変えてしまったのかもしれない。突発的な暴力によってしか、他者とコミュニケーションが取れない存在へと。

 もっとも、彼が自身の感情を素直に打ち明けられなかったのは、彼が難病患者であったことや、同性愛者である(かもしれない)ことと、無関係とは言えない。それが、インターセクショナリティについて考えるということだ。多くの場合、トキシック・マスキュリニティは、個人の抱える問題の、ほんの一部に過ぎない。そのことを忘れてはならないが、同時に、一部であっても理解し、改善を目指すことによって、より良い生き方を選べるようになる……かもしれない。僕はそう信じる。マイロの悲劇は、避けられたはずだ。

③女性を抑圧する男性:エゼキエル・シムズ

(『マダム・ウェブ』より)(ネタバレ注意!)

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 前作『モービウス』のヴィランであるマイロが、物語の主軸を担う「もう一人の主人公」とも呼ぶべき存在であるのに対し、今作『マダム・ウェブ』のヴィランであるエゼキエルは、完全に「倒すべき悪役」として描かれており、物語の主軸を担う存在ではない。『マダム・ウェブ』は、彼のための物語ではないのだ。

 主人公・キャシーの母親を殺害して奪った蜘蛛のパワーで、超人となったエゼキエル。過去の苦労がトラウマになっているようで(社会に見捨てられたのだとか)、何を犠牲にしてでも、自らの栄華を極め続けることに執着している。彼の"栄華"が、実際にはどういうことを意味するのか、全く描かれないのでよくわからない。まぁどうせ、酒と博打と女遊び程度のもんじゃないかな。

 そんな彼の栄華を脅かすもの、それは毎晩夢にみる三人の女性。エゼキエルと同じ蜘蛛のパワーを駆使し、彼に死をもたらす存在だ。数十年間、ずっと悪夢にうなされてるのかなぁ。気の毒な人だ。絶え間ない不安に襲われ続けて、それを誤魔化すため、仮初の繁栄を追いかけ続けている。カウンセリングを受けるべきだと思うが、彼が選んだのは、夢の中に登場する女性たちを現実で殺害する、という解決法だった。

 彼女たちを見つけ出すには、政府が極秘裏に開発した"監視ハッキングシステム"を入手する必要があった。それを管理している役人の女性接触するエゼキエル。好きでもないのに誘惑し、一晩を共に過ごして、なんやかんやでシステムを奪うことに成功した。役人の女性は殺害した。寝る必要があったのかわからないが、後に彼自身が、このシステムを「苦労して入手したんだ」と繰り返し語っていたので、どうしても避けられない(そして彼にとってはあんまり望ましくない)過程だったのだろう。エゼキエルは栄華を守るために、自分も他人も犠牲にする。トキシックだと思う。

 そんな苦労の果てに盗み出したシステムを、部下の女性に操作してもらい、夢に出てくる女性たち──現在はまだ少女なのだが──を特定するエゼキエル。少女たちに逃げられたり、口答えされたりすると、その部下を恫喝して当たり散らすのだが、彼は自分でパソコンを操作しない(できない?)ので、殺すという選択肢はない。

 いざ、少女たちをその手にかけるべく、行動を開始するエゼキエルだったが……色々あって未来予知の能力に目覚めていた主人公・キャシーの妨害を受け、電車の中に取り残されたり、車に撥ねられたりして、逃げられてしまう。かつて、蜘蛛を渡そうとしなかったキャシーの母親へ言い放ったのと同じ「黙って渡せばいいものを!」という台詞を、少女たちを守るキャシーにも吐き捨てる。

 少女たちは社会に居場所がなく、孤独を抱えていた。彼女たちと連帯し、彼女たちを守ることを誓うキャシー。容赦なく襲来するエゼキエルを車で撥ね(二回目)、AEDでショックを与え、大量の爆発物が放置されている倉庫へと誘き出す。キャシーの知恵と、覚醒した能力に翻弄され、次第に追い詰められていくエゼキエル。ついに、倉庫の爆発に巻き込まれ、無様にも転落。その栄華に幕を下ろした。

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 こう、まとめて書くと、なんとも薄味なヴィラン(前作のマイロが濃すぎるのかも)に見えるかもしれないが、僕は、薄味であることに意味があるのだと思う。先ほど述べたように、この物語はエゼキエルのものではない。社会に居場所がない少女たちと、彼女たちと連帯し、彼女たちを守る女性・キャシーの物語だ。その物語において、エゼキエルのやることなすことは単なる脅威でしかない。必然、彼のドラマは薄味の作劇となってしまう。それでいいし、そうすべきだと思う。変に同情を買ったり、主役を食うような魅力を発揮してしまうと、話がブレる。公式がSNS#エゼキエルを称えようと言い出したり、劇場でエゼキエルの魅力ダダ漏れステッカーを配布し始めたり、そういうのはおかしい(去年公開の、とある映画の話)。

 それに、この作劇によって(いわゆるカリスマ性のあるヴィランだとか、可哀想な悪役だとか、そういうのとは違う)独特の味わい深さが、エゼキエルという人物に付加されてもいるのだ。詳しくは後述するが、とにかく、よく考えられたキャラクター造形と作劇をしている。

脱線。トキシック・マスキュリニティについて語ること。答えを出すこと。

 僕は、同情すべき悪役が好きだし、人が悪事を働くのは多くの場合、構造に問題があるのだと考えているし、どんな争いもなるべく平和的な対話で解決してほしいと常々思っているのだが……。とはいえ、なんでもかんでも相対化して、誰の敵にも味方にもならない態度を取るのが、社会の成員として相応しいかと言われると、それは違うと思う。虐げられる側に立ち、虐げる側へ毅然とNOを突き付けるのが、責任ある大人のあるべき姿ではないか。

 トキシック・マスキュリニティについて語ると、「悪い男らしさがあるかのような言い方はやめろ」、あるいは「男らしさに良い面があるかのような言い方はやめろ」といった正反対の意見を頂くことが、時々ある(僕も実際、両方言われたことがある)。

 現状の社会において、多くの場合、男性という属性は特権階級にある。女性が、女性であるというだけの理由で被る不利益を、男性が、男性であるというだけの理由で被らずに済むのなら、既にそこには、性別による階級差が生じている。

 しかし、インターセクショナリティを考慮に入れた時、「この世の全ての男性が特権に守られ、何の苦痛もない安寧な日々を送っている」とは、口が裂けても言えなくなる。男性という属性の中には、無数の個人が存在している。富裕層も貧困層も、白色人種も有色人種も、美男子とされる人も、醜男とされる人も、難病患者も、同性愛者もいる。

 事実として特権階級にある(その属性に自分が含まれている)ことと、実際の自分の人生が、とても特権の恩恵を受けられているとは思えないほど、困窮や苦痛に満ちていること。そのギャップが、トキシック・マスキュリニティに関する議論を難しくさせている。ある面では加害者(抑圧する側)であり、別の面では被害者(抑圧される側)なのだ。それを理解するためにインターセクショナリティがある。漠然と、属性やイデオロギーを振り翳して憎み合うのではなく、そこに生きる人間のひとりひとりを見たい。"有害な男らしさ"について知り、学び、考えることは、ひとりひとりのより良い生き方に繋がる。最初の方にも書いた、そんな祈りを込めて、僕はこんな記事を書いている。

 ただ、こうやって書いていると、やっぱりどうしても「なんでもかんでも相対化して、誰の敵にも味方にもならない態度を取」っているように見えてしまうきらいがある。トキシック・マスキュリニティについて語ることは、「加害者にも事情があるんですよ」と説いてまわるようなもので、支持を得るのが難しいのは仕方のないことだろう。

 社会の成員として、虐げられる側に立ちたい。昨今の情勢を踏まえて、より強くそう思う。……まだ上手くまとめられないが、とにかく、僕はこれからも多くを学び、多くを考え、ひとつひとつの事例になんとか答えを出していくだろう。抑圧する側ひとりひとりの事情も考慮に入れつつ、抑圧される側ひとりひとりの味方であり続けたい、と思う。そうやって考えて答えを出す、その訓練のために映画を観るのもいい。僕はマイロに深く同情するが、エゼキエルにはあまり同情しない。そしてどちらも、罪なき人を死に追いやっているので、裁かれるべき悪人である。

脱線おわり。

 さて、エゼキエルの話に戻る。彼は妊婦を殺害して蜘蛛を奪い、役人の女性を殺害して技術を奪い、部下の女性を恫喝し、少女たちを殺そうとする……典型的な"女性を抑圧する男性"である。口癖の「黙って渡せばいいものを!」が象徴的。女性を黙らせ、奪い、殺す存在なのだ。『マダム・ウェブ』の物語が、そんな彼の"ために"あるわけがない。冒頭で妊婦に発砲した瞬間から、彼は許されざる抑圧者だ。そういう作劇になっている。

 ただ、そんな恐るべき存在であるのと同時に、彼の言動からは、一抹の情けなさを感じ取ることもできる。そもそも、ペルーの蜘蛛はキャシーの母親が発見したものだし、苦労して(本当に苦労して)女性から奪ったシステムも、女性の部下にパソコンをぽちぽちしてもらわないと使えないし。女性を抑圧していながら、実際は女性がいないと何もできない非力な存在であることが、明確に描かれている。

 女性を抑圧するくせに、女性に依存している……そんな"カス男性"としての造形が非常に良いことが、エゼキエルというキャラクターの持つ魅力であり、『マダム・ウェブ』(女性たちの連帯と解放を描く物語)のヴィランに相応しい資質だと言えるだろう。だから彼は、毎晩悪夢にうなされ、二度も車に撥ね飛ばされ(ジョン・ウィックにも匹敵する見事な撥ね飛ばされ具合だった)、AEDでショックを与えられ、最後は呆気なく命を落とす。"カス男性"の象徴として、相応しい末路を迎えたのだ。

④"有害な男らしさ"を再生産する男性:クレイヴンの父親

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(画像はクレイヴン本人)

 まだ公開されていない映画の話もしちゃおう。今年公開予定の新作『クレイヴン・ザ・ハンター』。現在、予告編と簡単なあらすじだけが発表されている状態だが、ここから既にトキシック・マスキュリニティに関する表現・作劇を読み取ることができる。まずは見ていただこう。

映画『クレイヴン・ザ・ハンター』予告1 2024年公開 - YouTube

【ストーリー】
幼い時に母親を亡くした少年セルゲイは、冷徹な父親から「強き者が生き残る。相手を全て獲物と思え。」という精神を叩きこまれて育つが、その軟弱な性分から父親の期待に応えられずにいた。ある日、父親と共に狩猟に出たセルゲイは、ライオンに襲われ生死を彷徨う事態に。死と直面し、やがて彼の中である<本能>が目覚める──。「父親がもたらした悪を始末する」と言いながら次々と<狩り>を実行していくが、その狂気は次第に暴走してゆく──。

 どうだろう、今まで以上にド直球ではないか。強さを誇示することに固執し、「男らしくない」ものを蔑む。誰の目から見ても明らかに、クレイヴンの父親は"有害な男らしさ"に捉われている。そして彼の恐ろしさは、その呪いを息子たちにも植え付けようとしているところ。"有害な男らしさ"の再生産を、行おうとしているのだ。主人公・クレイヴンは、そんな父と、父の悪業に立ち向かう。再生産の運命に抗うように。しかし、その壮絶な戦いの日々は、彼の生き方を、よりトキシックなものへと変えてしまうのではないか……。

 SSUの5作目にして、今まで以上に正面からトキシック・マスキュリニティを描こう、という意志を感じる。上の画像やオリジナル予告編にあるVILLAINS AREN'T BORN. THEY'RE MADE.(悪党は生まれながらに存在するのではない。彼らは造られた存在なのだ)という文章は、まさしく構造主義の考え方であり、作り手が"有害な男らしさ"について真剣に考え、作品に活かそうとしていることが期待できる。

 ここまで来ると、やはり僕が冒頭で打ち立てた、SSUは"有害な男らしさ"を描くことを目的としたシリーズなのではないか……という説も、現実味を帯びてくるというもの。どうか『クレイヴン』が、そのメッセージを十全に表現してくれますように。そして、より多くの人間の生き方を、より良い方向へと変えるキッカケとなりますように。そう願ってやまない。

まとめ

 本当は番外編として『スパイダーバース』シリーズのピーター・B・パーカーミゲル・オハラの話もしたかったのだが、(彼らの抱える問題があまりに巨大であるため)さすがに膨大な文量になってしまうし、たぶん年内には3作目『ビヨンド』が公開されるので、そのタイミングで書こう(先送りにしよう)と思う。

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 彼らって本当にトキシックだと思うんです。スパイダーマンという属性(正体を明かせない、軽口で誤魔化す、悲劇に遭う運命が定められている)が、彼らの苦しみを膨らませているのだろうか。マイルスにはどうか、そんな運命("有害な男らしさ"を助長する構造)をもブチ壊してほしい。

 『スパイダーバース』も実質SSUみたいなもんと思えば(『アクロス』で『ヴェノム』の世界も映ったし)、なんだか急にSSUが名作シリーズのような気がしてきた。平均点がグッと上がった。そして、そんなシリーズの全ての作品で、"有害な男らしさ"に捉われた男性たちが描かれている。

 "有害な男らしさ"と一口に言っても、彼らの抱える苦しみは多種多様で、各作品での描かれ方・扱われ方も人それぞれ。大事なのは、インターセクショナリティの概念に基づき、彼らが(記号化された属性ではなく)ひとりひとりの人間であることを認識しておくこと。その上で、特定の属性に付随する苦しみ(当事者にとっても社会にとっても)を取り除くため、社会を変えていくこと。多くの問題は、社会構造に起因しているのだから。

 SSUを始め、多くの映画作品が、現実を生きる我々ひとりひとりの生き方を、より良く変えていくためのヒントを与えてくれるだろう。願わくば、一人でも多くの人がトキシック・マスキュリニティ("有害な男らしさ")について考え、行動してくれますように。モービウスとマダム・ウェブが再評価されますように。いや、モービウスは確かにいろいろだめなところあるけど、それは認めるけど、マダム・ウェブは普通に面白かったよ!ほんとに!