※映画『トイ・ストーリー4』(2019年)と『トイ・ストーリー』シリーズ作品のネタバレを含みます。

まえがき
人気のない映画である。愛されていない。でも僕は大好きだ。ものすごく逆風を感じながらも、本作への愛を捨てることができない。ここまでくると「なぜなのか?」という疑問に向き合わざるを得なくなる。「好きなのは好き」という軽い言葉では、とても説明しきれないものがあるように思う。それを考えてみるブログです。自己探求の旅。なんの社会的意義もない個人的なセラピーのようなものなので、お時間のある方だけお読みください。"トイ4"と"僕"のお話。
"トイ4"のこと
僕の鑑賞姿勢(スタンス)
とりあえずトイ4を観ながら思ったことを書いていきます。これで10回目ぐらいかな。何回でも観れる。たぶん映像が綺麗で、演出が上手くて、映像作品としての強度が充分にあるからだと思う。本当によくできてる映画なんですよ、cinemaなんですよ(よくわからずに使ってる言葉)。台詞で説明せずに、演出で語る作劇が好きだ。そこが本作の全体的な説明不足感を助長していて、低評価にも繋がっているのだろうが。
トイ4に限らず、僕はなるべく全ての映画を、できる限り深く理解したいと思っている。より正確に言うと、"納得"が欲しい。わからないままにしておくのが気持ち悪いから、自分の中に"これ!"という"解釈"を持っておきたい。それは他人から見たら、ひょっとすると見当違いの珍説かもしれないが、少なくとも僕自身の中では、論理的推論の果てにたどり着いた結論であり、その流れを筋道立てて説明することもできる……つもりでいる。ツッコミを入れられて「あ、確かに」と考えを改めることもしょっちゅうなのだが。とにかく、自分の中での"答え"を確定させるための、ある種の謎解きとして映画を観ている節はある。
考察系YouTuberみたいな鑑賞態度で、不純にも見えるだろうが、言い訳しておくならば、僕が映画のことを考えるのは、手段であって目的ではない。あくまで目的は映画を楽しむこと。感情移入して共感して感動したり、笑ったり興奮したり、知見を深めたり、なんでもいいが、とにかく映画を心から楽しみたくて、そのために深く映画を理解したい。理解し、解釈し、自分の一部として取り込んだという"納得"がほしい。その納得を経て、ようやく映画は"僕のもの"になる。より善く生きるための材料になるのだ。映画を観て楽しむことは、僕が"より善く生きる"という目的を果たすための手段である。
僕にとって映画を観ることとは、作品に込められたメッセージ(暗号)を解読し、そこからなんとかして自分の人生をより善くするためのヒントを引き出そうとする試みである。やっと言語化できた。僕はお土産を持って帰りたいのだ。
台詞ではなく演出で語る作劇が好きなのは、おそらく僕の発達の特性に由来している。文字というメディアが苦手だ。それでも手軽に自分の考えをまとめたり表明したりする媒体が、(今のところ)自分には文章しかないので、仕方なく書いているのだが。脳内イメージをそのまま共有できたら、どんなにか楽だろう。口頭で説明されたり、文章で解説されたりしても、全然頭に入ってこない。残らない。その代わり映像のことはよくわかる。映像を通じて作り手の情緒や体温、呼吸のリズムにまで触れているような、そんな感覚を覚えることもある(ちょっと言い過ぎかもしれない)。素晴らしい映像表現を観ると、人一倍感動することができる。そのぶん、酷いものを観ると人一倍のダメージを受ける。
そんなだから、台詞でサラッと重要情報を開示したり、立ち話で本質的な内容を語ってしまう作劇とはすこぶる相性が悪い。そういうところこそ演出で見せてくれないと。お土産を持って帰れない。
何が言いたいかと言うと、僕はトイ4の演出で語る作劇が大好きだし、自分に合っているし、そもそも僕はどんな映画もできる限り深く考えて自分なりの解釈を確立させたいと考えているので……要するに、かなり好意的に読み取ってあげようとしている。悪い言い方をするなら、作り手への忖度がある。だいぶこっちから"迎えに行く"ことになる、ということ。でも映画というか、文学作品ってそういうもんだと思うんですけどね。こっち側から能動的に積極的に迎えに行かない限り、お土産をくれない作品の方が多いんじゃなかろうか。僕はトイ4のことを全力で迎えに行きます。
冒頭:引き離される恋人たち - 構造の悲劇
いよいよ本編を観ていく。いつものピクサーロゴを突然の雷鳴と豪雨が襲い、そのまま本編へと遷移していく。不穏な始まり方でワクワクする。
トラブル発生。庭にRC(ラジコンカー)が取り残された。ここで既に"迷子"という語彙を使っている。今作の最重要キーワードの一つだ。ウッディは持ち前のリーダーシップを発揮し、仲間たちと共にRCの救出を試みる。一方で、今作のキーパーソンであるボー・ピープ、そしてジェシーやバービー(のちに3で大冒険を繰り広げることになる個体も確認できる)といった女性型オモチャたちの活躍も目立つ。後の展開を暗示しているようだ。
なんとかRCを救出したウッディ。しかし今度は、ボーが他の家へと譲られてしまうことに。助け出そうとするウッディは、「アンディのためにも」どこかへ行ってはいけないと言うが、ボーは「私は、アンディのオモチャじゃない」としてこれを拒む。そう、もう既にアンディは妹のモリーにボーを譲渡しているし、そのモリーもまた他者へと譲ることに同意していた。持ち主の意向に従うことがオモチャの宿命。それはこれまでのシリーズで何度も描かれてきたことだ。必要とされているところへ行く。必要とされなくなれば……。
それでも別れを惜しむ二人は、同じ箱に入ることを試みるが(ここマジでウッディは行こうとしてましたよね)、そこへアンディの声が届く。ウッディがいなくなったことに気付き、豪雨の中わざわざ外へと探しに来たのだ。RCを忘れたことには気付かなかったのに。ボーは譲られ、RCは忘れられるが、ウッディは違う。なんならアンディは、後にウッディのことを大学にまで連れて行こうとする。ウッディは"特別"だから。当然ウッディにとっても、アンディは"特別"な持ち主。二人は「ともだち」で「相棒」で、「親子」でもあった。
アンディの家には父親がいない。一作目から続く、この不在の演出(語らないことによる語り)は意図的なものだろう。1時点で赤ん坊のモリーがいるのに父親がいないのは、1の直前に亡くなったか離婚したか。なんにせよ、父親のいないその家庭で、オモチャ = 子供に無条件で奉仕する存在 = 親のメタファーであるウッディは、アンディの"父親"代わりを務めていた(2のラストで、2階の窓から庭のアンディ一家を眺めるウッディとバズのカットは、完全に天国のパパ視点を仮託したものだったと思う)。そしてアンディ自身もまた、積極的に妹の面倒を見るなど、家庭内唯一の男性として幼いながらに"父親"代わりであろうとしていたように見える。同じ役割を果たそうとする者同士で「相棒」だったわけだ。3のラストはそんな相棒同士の別離(「あばよ、相棒」で〆る)であると同時に、アンディの親離れとウッディの子離れを描いた素晴らしい結末だったのだ(これを踏まえて、改めて『君はともだち』を聴いてみてほしい)。
アンディの声を聞き、ウッディはそっと箱から手を離す。自分がここから去るわけにはいかない。「アンディのために」。持ち主の意向に従うことがオモチャの宿命であり、そうやって自分を犠牲にしてでも子供に尽くすことがオモチャにとっての幸福だと信じてきた。特にウッディの場合、1でも2でも「アンディに必要とされなくなったらどうしよう」と悩み「それでも(たとえいずれ必要とされなくなるとしても)アンディの側にいる」「それがオモチャの幸福である」というその時点での答えを出し、道を選択して生きてきた。それゆえ持ち主への奉仕精神は、より強固な信念としてウッディの人格を形成している。
こうしてウッディとボーの二人は、互いに愛し合っているのにも関わらず、引き離されてしまう。悲劇だ。雨と光の表現が本当に美しいし、ウッディの表情の演技も最高。実に美しい悲劇である。
僕は美しい悲劇が好きだ。そもそも悲劇が好きで、それはままならぬ現状の社会の理不尽や不条理への、怒りと問題提起が込められているから。現状から目を背けたハッピーエンドより、よっぽど真摯だと思う。ただ美しい悲劇は、下手をするとそんな理不尽や不条理を"美しいもの"として肯定してしまう恐れもあるのだが……。まぁこれは難しいところなんだけど、しかし人間が生きていく中で悲劇を受容する際、それを美しいものや面白いものとして表現する(感動的な失恋ソングや、自身の不幸をネタにする不謹慎なジョークなど)ことで、精神の安定をはかるということはよくある。それが例えば差別的な表現と結び付く場合、差別を受けた当事者であったとしても非難を浴びることはあるが……。それもわかるし、正しいんだけど。でもイデオロギーや正義のために、個人の感情(それも悲劇の受容というセンシティブなところ)を封殺するのは、僕は好ましくないと思う。最終的には、発信者の影響力の大きさだったり、いろいろな側面を考慮に入れて判断すべきことだが。
アンディに見つかって、一瞬で表情をスッと戻すウッディが切ない。僕はトイストーリーってずっとこういう話をしているシリーズだと思うんですよ。子供の機嫌一つで簡単に生命や尊厳が蹂躙される、残酷な構造のお話。要するに「オモチャはつらいよ」をずっとやってるんです。1の冒頭から。もちろん、子供に愛されたり子供の成長を見守ったりすることの素晴らしさも、同時に描かれてはいるが。
構造主義(コウゾウシュギ)とは? 意味や使い方 - コトバンク → 構造主義とは、簡単に言うと「私たちの思考や行動は、所属している社会や文化によって決められているという考え方」のこと。
子供たちはオモチャ側の事情など知らず、オモチャ側も子供たちに自分たちの自我を知られてはならないことになっている。「オモチャのルール」とやらで。そんな残酷な構造の中に身を置き、消費されていくことを、"オモチャらしさ"として彼ら自身が肯定する。そのように作られている。そもそもオモチャという、消費される物体に"自我"がある時点でグロいと思う。
前提からしてグロテスクなお話。残酷で理不尽な構造の中に生まれ落ちた存在が、時代や環境の変化を経験し、悩みながら構造と向き合い、その時々の幸福を探し出して掴み取る。そうやってなんとか生きていく。そういう物語をずっとやっているのが『トイ・ストーリー』シリーズなのだ。これはまさに人生の戯画(カリカチュア)である。我々もまた、望んでもいないのに無理やりこの不条理に満ちた世界へと産み落とされ、それでもなんとか幸せになろうと足掻いている。我々の人生とオモチャたちの生き方は重なる。だからこそ、僕たちはウッディたちの物語に感情移入して泣いたり笑ったりするのだ。
トイ4の冒頭で引き離される恋人たちが表しているのは、まさに"構造の悲劇"そのものだろう。そして今作は、そんな悲劇的な構造とまた新たな形で向き合うことになる。そのことを観客に宣言するための、オープニング・セレモニーとしての意味合いもある。トイ4が急にしんどい話を始めたのではない。トイシリーズは最初からずっとしんどかったし(1でバズが経験するアンデンティティ・クライシスや、2で語られるジェシーの過去など。そこで語られる「オモチャには忘れられない。でも向こう(子ども)は忘れちゃう」という台詞が、この構造の残酷さを最も端的に表現している)、1〜3の延長線上でこういうテーマを扱うのは、極めて自然な流れである。ずっとやってきたことを、もう一度やっているだけなのだ。
ほぼ5分(冒頭のディズニーとピクサーのロゴを除くと、本当に5分ジャスト)の回想シーンで、今作で向き合うテーマの明示をしてみせた。本当に上手い。さらにそこからシームレスに、1〜3までの超速ダイジェストと現在のウッディの立ち位置を、『君はともだち』に乗せて流れるように説明してくれる。本ッ当に上手い。興奮する。目が幸せ。初見にもやさしいし。足裏のBonnieで終わるの最高。ジョシュ・クーリーは映画がうまい。映画上手人間(えいがうまにんげん)。『トランスフォーマー/ONE』もよかった。
(アマプラで配信中)
序盤①:来るべき時が来た - 死の受容
時間の流れの早さと、その"変化"が不可避であることを示すオープニングを経て、"いま"の物語が始まる。そしてまた、ウッディたちは"変化"を経験することとなる。今まで通り。
クローゼットに押し込められ、不安を感じている仲間たちを落ち着かせるウッディ。手慣れた様子で、彼のリーダーシップを感じさせる一幕だが、そんなウッディ自身も周囲と同じく、目に見えてソワソワしている。バズとのやり取りもぎこちない。不安を感じているのに、それを表明せず隠そう(押し殺そう)としているのだ。全然隠せていないが。強がりだ。
ボニーが戻ってくると聞いて、俄然元気になるウッディ。不安の反動だろう。ボニーの部屋の本当のリーダーであるドーリーを差し置いて、その場を仕切り始める。アンディ時代の癖が抜けていない。
ボニーがやってきた。やはりいちばんのお気に入りなのだろう、ドーリーが"町長"として真っ先に選ばれる。それから一人、また一人と"町の住民たち"が選ばれていき、最後の"保安官"はウッディ……ではなくて、ウッディから取り外された保安官バッジを付けたジェシーが務めることになった。クローゼットに取り残されるウッディ。
初めはショックを受けて寂しそうな顔をしていたが、周囲の(同じくクローゼットに取り残された)オモチャたちの視線を察すると、すぐに何ともないような芝居をして強がってみせる。どっからどう見てもバレバレだが、それでも彼は隠さざるを得ないのだ。他ならぬ彼自身が、いま自らの置かれている状況を受け入れられていないから。クローゼットの隙間からボニーの遊ぶ様子を眺め、(遊んでもらっていた)あの頃は良かったと懐かしみ、身体についた綿埃に名前をつけて遊ぶクローゼット仲間たち。彼らの言動にイラつきながらも、結局は同じように隙間からボニーを覗くしかないウッディ。
ずっとアンディのいちばんのお気に入りだったし、2での選択(博物館に飾られて永遠を生きるより、いずれ飽きられたり壊されたりするとしても子供と一緒に遊ぶことに価値を見出す)や、3での選択(アンディと共に大学へ行くのではなく、仲間たちと共にボニーと遊ぶことを選ぶ)を経て「子供に遊んでもらうこと」こそが至上の幸福であるという価値観を、ウッディは強く持っているのだろう(子供と遊ぶ喜びを知っているオモチャは、皆この価値観を共有している)(子供と遊ぶために存在している生命なので)。結構なことだが、その思想は、子供に遊んでもらえないオモチャへの蔑みと、自分が"そう"なることへの不安、そしていざ自分が"そう"なってしまった時の焦燥と無力感をも、同時に孕んでいる。理不尽な構造に適応する中で、彼自身が内面化し、強固に積み上げてきた価値観が、いま彼自身を苦しめている。
まぁ、これはオモチャとして生きる上での避け難い苦しみであるし、1でも2でも3でも「いずれ遊んでもらえなくなる問題」はずっと議題にあがっていた。というか、その問題をどうするかがトイシリーズの根本的な問いであると言ってもいい。抗えぬ"変化"に直面し、生きる意味や目的を失った時、人はどう対処すればよいのか?
ただ、結局のところアンディがウッディに飽きることはなかった。一時的に熱が冷めることはあっても、最初から最後までウッディはアンディのいちばんのお気に入りであり続けた。そりゃ「ともだち」であり「相棒」であり「父親」なんですもの。特別なオモチャ、特別な持ち主。2でプロスペクターは「アンディがお前を大学に連れて行くか?」とウッディに問うたが、実際連れて行こうとしていたのだ。二人は永遠に一緒にいることもできた。結果は違ったが。
ウッディは「子供に遊んでもらうこと」と「仲間を見捨てないこと」の二つを行動の指針としている。それはアンディがウッディにそうあれと望んだことでもあるだろう。アンディを愛するからこそ別離を受け入れるアンディのママ。その様子を見て、ウッディはそれに倣うことを決意する(同じ"親"として思うところがあったのかも)。「仲間と共に」、ボニーという「子供に遊んでもらう」道を選んだのだ。アンディもそれを受け入れ、自らウッディを手放す。バズの言葉を借りるなら「アンディのための任務は終わった。今大切なのは、みんな一緒にいることだ」ということ。
こうしてアンディという守護天使の手を離れ、いちばんのお気に入りという特別な存在、得難い幸運を手放したウッディ。ボニーにとって、ウッディはいちばんのお気に入りではない。特別な存在ではない。なぜならボニーには父親がいるから。ウッディはボニーの父親代わりにはなれない。なる必要もない。その代わりにボニーが求めているのは、ドーリーやジェシーのような"お姉さん"なのかもしれない。一人っ子だし。
そしてついに、来るべき時が来た。1、2、3とずっと恐れ続けながら、ついぞ訪れることのなかった"その時"。ある意味、オモチャにとっての死。すなわち「遊ばれなくなる」こと。2のラストで「今を目いっぱい楽しむのさ」と先送りした(その時点ではそれが正解だった)問題と、とうとう真正面から向き合わなければならない。
つまり、オモチャとして避けられない死の運命を、どのように受け入れるのか。"死の受容"こそが本作の重要なテーマの一つである。持ち主の意向に従うのなら、クローゼットで埃を被り、忘れ去られていく現実を認めなければならない。だが、今のウッディはそれを拒んでいる。無理もない。「自分には価値がない」と思い知らされることは、誰にとってもつらい。
実際のところ、1でも2でも3でも"死の受容"に近いことは描かれ続けてきた。とりわけ2では、物語の直接的なテーマとして。「永遠の命」を得られるという楽園(博物館)。そこに留まることを命ずる父親(プロスペクター)に反抗し、いずれ死ぬ運命だとしても(だからこそ)限りある生を精一杯楽しんで生きる、というお話だった。これはどう考えても「失楽園」の文脈で読み取るべき展開だろう。知恵の実を食べたアダムとイブは、父なる神に楽園を追われ、人として生きることになる。キリスト教では原罪として扱われている事象だが、一方、様々な創作物で「人間の主体的な生」を肯定する、ある種の人間讃歌として描かれてきた側面もある。映画『バービー』もその一例だろう。
人はいずれ死ぬ。その事実を認識し受け入れることで、人はより善く生きていくことができる。哲学者のハイデガーが言っていたことであり、映画『スタンド・バイ・ミー』や漫画『ジョジョの奇妙な冒険』でも語られているメッセージだ。
(子供に遊んでもらうこと = オモチャとして"生きること"という図式がこのとき成立した。それは4まで続いている)(では遊んでもらえないオモチャは死んでいるのと同じなのか? という問いが同時に成り立つ)(生まれた意味・目的を果たせなくなった存在の行き着く先とは?)(人間として生きる我々にとっても、無視できないテーマだ。やはりトイシリーズは"人生"の話をしている)
ただ今回(トイ4)は、いずれ訪れる死などではなく、いま眼前に迫った(あるいは既に到来している)死をどのように受け入れるか、というまた違った問題への対処を求められている。
序盤②:親と子供、死者と生者 - 対象喪失α
幼稚園の体験入園に不安を覚えるボニー。その様子を見たウッディは、仲間たちの気遣いやドーリーの静止(アンディの時のことを比較に出すウッディに対し「ボニーはアンディじゃない」と返す)も振り切って、勝手に一人で幼稚園へと着いていくことに。もはや誰の言葉も耳に入らない、かなり深刻な状態だ。"強がり"だけは一丁前だが。
ドーリーは、ボニーや彼女の両親の行動の傾向をしっかり把握しているし、仲間たちのケアも怠らない(ちゃんと後でウッディの話を聞こうとしているし)。いいリーダーやってるんですよ。
さて、幼稚園に着くとウェンディ先生がボニーに挨拶をし、不安で押しつぶされそうなボニーの様子を見るなり、子供の好奇心を刺激する見事な誘い文句で教室内へと誘導してみせた。プロフェッショナルの技術だ。ここで"わざわざ"挿入される"幼稚園教諭"単体のカットには、必ず意味がある。本作の結末にも繋がるような、極めて重大な意味が。
安全な家庭から離れ、新しい環境に身を置くことは、子供にとって"喪失の経験"となる。家庭の子供から社会の子供となるのだ。午後になって学校や幼稚園が終われば、また家庭の子供に戻るわけだが。何年もかけて、これを何百回も繰り返すことで、人間は少しずつ喪失に慣れていく。成長には不可欠な過程だ。メンタルヘルスの観点においても、この"喪失の経験"は極めて重要となる。精神分析学の創始者であるフロイトは"対象喪失"という語を用いて、この現象を理解しようとした。愛する人を喪ったり、環境が変化したり……とにかく、何かを喪失した時の人間の心の働きに注目することが肝心なのだ。人として生きていく限り、喪失は避けられない。どのように喪失と向き合い、受け入れるのか乗り越えるのか……。
対象喪失(たいしょうそうしつ)とは? 意味や使い方 - コトバンク → "死の受容"にも大きく関わってくる本作のキーワード。
ここで林檎を齧る少年が登場。笑ってしまうくらい、あからさまなモチーフである。彼がペッと林檎を吐き捨てたゴミ箱の中から、ウッディは適当なゴミを拾い集めて、ボニーがそれを使って工作をするよう仕向けた。こちらもプロの技だ。そしてボニーは、自らの喪失を乗り越えるため、そのゴミから「ともだち」を作り出す。先割れスプーンに目玉と手足のついた、"フォーキー"だ。フォーキーを作るうちに、ボニーの表情には明るさが戻る。そして完成の瞬間の煌びやかなショットは、"祝福"を意味している。フォーキーが、子供に愛され、遊んでもらう存在 = オモチャとしての生命を得たことへの祝福だ。林檎を齧ることで、"生きること"が始まったのだ。特別な持ち主の、特別なオモチャの誕生である。
フォーキーのおかげで幼稚園の体験を乗り切ったボニー。彼女へのご褒美として、家族みんなで車で旅行に行くことが決定した。部屋に戻ったウッディは、仲間たちにフォーキーを紹介する。ただフォーキーの様子がおかしい。自らを「ゴミ」と認識しており、ちょっと目を離すとすぐゴミ箱に身を投げようとする。オモチャとして扱われながら自らをゴミと認識するフォーキーと、ゴミのような扱いを受けながらもオモチャであり続けようとするウッディ。
新入りのオモチャで、持ち主のいちばんのお気に入りで、しかも本人はオモチャの自覚がない……となると、やはりトイ1のバズを思い出さずにはいられない。しかしあの頃と比べると、ウッディのこの、赤子をあやすような態度でフォーキーと接する慈愛っぷりには、目を見張るものがある。さながらママだ(一般的に、母親の方が子供、とりわけ幼児と接する機会が多いため、こういう表現をさせていただく)(別にパパでもいいし、とにかく"親"という概念だ)。オモチャ(親のメタファー)の親ってなんなんだろう。オモチャではない何者か、なのか。
仲間たちがフォーキーの価値を理解しかねる中、自らフォーキーの「子守り」役を買って出るウッディ。かつては同じ"いちばんのお気に入り"だった者として、思うところがあるのだろう。フォーキーに「ゴミじゃない」「君はオモチャなんだ」と繰り返し説明し、なんとかしてオモチャとしての自覚を根付かせようと苦心する。これもまたトイ1でのバズとの接し方を思い出させる流れだ(いいか、お前はオモチャだ!)(飛べやしないんだ!)。
(それまで自分が信じていた価値観 = スペースレンジャーを全て否定され、アイデンティティ・クライシスに直面したバズは、代わりとなる新しい生き方 = オモチャを理解し、幸福を得る)(1と4は割と似た話である)
だいたい映画で登場人物が、他の誰かに向かって同じことを何度も繰り返し言い聞かせるとき、それは自分自身に向かって言い聞かせているものと解釈することができる。今回のウッディの場合、「ゴミじゃない」「君はオモチャなんだ」と繰り返し言い聞かせている対象は、他ならぬウッディ自身なのではないか。これはつまり「自分はもはやオモチャではない(オモチャとしての生きる意味・目的を果たせない)」「自分はゴミなのではないか」という不安に襲われていて、それを否定し払拭するための強迫観念としての"言い聞かせ"なのではないか、ということ。だからこそウッディは、このあとものすごーく躍起になってフォーキーの子守りをする。疲弊し、自らを犠牲にしながら。その、もっと具体的で簡潔な(身も蓋もない)理由は、中盤以降でウッディ自身の口から説明されることになるのだが。
このあとの、ボニーの父がウッディを踏んづけてしまう場面はなんとも心の痛むところだが、これもやはり、今のウッディ(遊ばれなくなったオモチャ)がオモチャというよりゴミに近づいているということ(少なくともボニーの家においては)。そしてその理由は、父親が存在している = ウッディはボニーの父親代わり(特別な存在)になれないから、ということ。この二つを同時に表現してみせる、ジョシュの高度なテクだ。実際のところ、オモチャとゴミの境目はなんだろう。子供がオモチャと認識するかどうか、それだけでしかないのでは。両者のちょうど境目に立つフォーキーという生命体、その自我について考察するのも興味深いが、そこまで手を出すとさすがに長くなり過ぎると判断するので、今回はあまり触れないでおく(既にだいぶ長くなってるな〜とは思っている。まだ序盤も序盤だぞ)。
旅行に連れて行くオモチャとして、真っ先にドーリーの名を挙げるボニー。本当に好きなんですね。そして二度も踏んづけられて顔のひん曲がったウッディに、バズが心配の声をかける。こっちも本当に大好きなんだな……。そりゃバズからしたら、オモチャとしての生きる喜びを教えてくれたのはウッディその人なわけで、何があろうと彼と彼の信念に着いていこうと思っているに違いないし、今その彼が不安な心境を抱えていることには誰よりも目敏く気づいていることだろう。ウッディ自身よりも。フォーキーの子守りを手伝おうというバズの提案を、ウッディが拒否する。あくまでも自分一人でやりたいらしい。本当にボニーとフォーキーのことを思うなら、みんなで協力してやるべきなのに(いつもならそうしていただろうに)、なぜ今回はこうも頑固なのか。その理由も、やはり後ほどわかる。
序盤③:俺の役目 - "有害なオモチャらしさ"
そう言えばさっき、フォーキーの子守りをすることを決めた場面で、手がかかって困ることを理解しながらもウッディはどこか楽しそう(満足げ)であった。大変な状況に身を置くことで、彼は安心感を得ている(不安から逃れている)のだ。他人の援助はむしろ困る。ボニーのため、フォーキーのためと言ってはいるが、果たして本当にそうだろうか……。
こうして、キャンピングカーでの家族旅行が始まった。君のため♪ (君のため♪) 全部 そうさ 君のためさ♪ とダイヤモンド⭐︎ユカイの軽快な歌唱(と裏腹のだいぶ重い歌詞)に乗せて、ウッディのドキドキワンオペ育児奮闘記(という体の地獄映像)がお送りされる。
(いいかい? 君は ゴミくずなんかじゃない 話せばわかるはずだ このままじゃ 俺だってもう お手上げなのさ それでも今は これだけは これだけは これだけは ゆずれないのさ)
一見コミカルだが、あまりにも切ない。報われない。ウッディが無理をしていること(そうすることでしか不安を誤魔化せない状態にあること)が嫌というほど伝わってくる。そして、やはり仲間内でそのことを最も理解しているバズが、夜半のキャンピングカーでフォーキーを見張るウッディの元へ、心配をしにやってきた。ワンオペ育児に疲れ果て、意識朦朧のウッディ。明らかに疲弊している。擦り減っている。
「アンディが小さかった時は、ここまで大変じゃなかった」と(信頼できる相棒にだけ)苦労を打ち明けるウッディ。この時の二人の描写は、明らかに「育児ノイローゼに苦しむ親」と「それを支えようとするパートナー」の隠喩だろう。わざわざ後方にポテトヘッド夫妻を映り込ませているところからも、作り手の意図は明白だ。カップリングのオタクは大喜びのシーンである(ちなみにウッディとバズの誕生日は11月22日で"いい夫婦の日"らしい)(オモチャの誕生日ってなんだよ)(トイ1の公開日でもある)。
この場面で語られるウッディとバズの「内なる声」という概念についても、先の"フォーキーのオモチャとしての自我について"と同様、本記事で詳しく語ることは避ける。長くなりそうだし、正直まだよくわからないところも多い。たぶん、ウッディが"迷子"の状態になったことで混乱したバズが、自らの内心を言語化するための儀式として「内なる声」を解釈したのだろう。その自己探求の過程を経たことが、バズの最後の決断に繋がるのだろう。そういうことはわかるのだが、今の僕にはあんまり深く語れない。
見張りの交代を申し出るバズだったが、ウッディはそれを柔らかく(しかし頑固に)断る。「俺の役目」だと。そうしてちょっと目を離した隙にフォーキーはボニーの手を離れ、小窓から車外へと逃げ出してしまった。後を追って、走る車から身一つで飛び出すウッディ。あまりにも危険で無謀な行動だ。
ここで少しまとめてみよう。彼がここまで頑なに、自らを追い込む行動を取る理由。はっきり言って今の彼がやっていることはセルフネグレクトに等しい。もっと酷い言い方もできるが、センシティブなので避けておく。この記事、子供も読むかもしれないので。先述した通り、彼のセルフネグレクトの理由はまた後で彼自身の口から(怒りと悲しみを携えて)説明されるのだが。現時点でわかることは、文句を言いつつも彼は子守りをすることで"慢性的な不安"から一時的に逃れているということ。慢性的な不安とは、自らの死。すなわちオモチャとして生きること = 子供に愛され遊んでもらうこと、を果たせない状態にあることへの不安だ。子供に愛され遊んでもらえない自分は死んでいるのと同じで、何の価値もない「ゴミ」なのだと彼自身は思っている。それは彼がこれまでの冒険で築き上げてきた価値観。どんなことがあっても「子供に尽くし、子供と遊ぶこと」と「仲間を見捨てないこと」を絶対視する生き方。それはオモチャ = 子供に無条件で奉仕する存在(いつ飽きられ壊され捨てられてもおかしくない)という残酷で理不尽な構造の中で生きる内に、その構造を内面化し、適応した結果身につけた哲学だ。多くのオモチャが彼と同じ価値観を共有している。いわば「オモチャらしさ」だ。ウッディが1のバズや4のフォーキーに押し付け、2のプロスペクターを退治する理由としたのも、このオモチャらしさである。
このように、残酷で理不尽な構造に適応していく中で、その論理を内面化してしまって、結果自らもその構造を強化するような言動をしてしまう……という例は、我々の現実世界でもよくあることだ。有名なのは(そして僕自身の専門分野でもあるのは)トキシック・マスキュリニティ。"有害な男らしさ"と訳されることの多いワードだ。
Toxic masculinity(有害な男らしさ)とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
元々は「男性が感情を抑え込むことで、ときに暴力的な激しい爆発に至ること」を指していた。近年では、より広範に「男性性のネガティブな側面」を指して使われている。自らの感情を押し殺す。助けを求めることや豊かな感情表現を恥だと考える。家庭や職場での支配的な振る舞い。弱者や少数者への排他的な態度。そして暴力(性的なものも含む)など……。
別に男性そのものや、男性であること自体を非難する概念ではない。問題なのは、社会から規範として押し付けられる"男らしさ"と、それに適応して内面化した結果、他者や、あるいは自分自身に"有害"な言動をしてしまうことだ。"有害な男らしさ"の本質は、"男らしさ"という"振る舞いへの固執"であり、端的に言えば"強がり"である。"有害な男らしさ"を、より正確に言い表すならば「男らしさの持つ有害な側面」。あるいは「男らしさに起因する有害な言動」だろうか。なんにせよ、悪の根源はやはり"構造"だ。
(トイシリーズにおける"有害な男らしさ"と言えば、3のロッツォとその部下たちが思い出される。ケンを「女の子のオモチャ」として揶揄い、強い者 = ビッグ・ベビーを従えるロッツォの言うことには簡単に流され、ミセス・ポテトヘッド(女性)の口を奪い黙らせることで優越感に浸る。絵に描いたようなホモソーシャルとミソジニー。そんな彼らの構造に明確な反論を行うのが、ジェシーやバービーと言った女性型オモチャだったのも示唆に富んでいる)
なんでこんな説明をガッツリしたのかと言うと、僕は今のウッディが抱えているもの(今のウッディを苦しめているもの)も、性質的にこの"有害な男らしさ"と近いものではないかと睨んでいるからだ。残酷な構造に適応した結果、(とりわけ彼自身にとって)有害な"らしさ"を内面化してしまい、自己の感情を押し殺し、他者に頼ることも避け、その"らしさ"に従わない者にも"らしさ"を押し付けようとしている……。言わば"有害なオモチャらしさ"を内包しているのではないか、と。あとカウボーイってトキシック・マスキュリニティのシンボル的な存在だし。カウボーイを扱った"有害な男らしさ"について語る映画は、枚挙にいとまがない。
(映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、カウボーイと"有害な男らしさ"を扱った作品)(ネトフリで観れるよ)
やや繰り返しになるが、僕は別にウッディが悪いとか有害だとか、1〜3でウッディの積み上げてきたものが間違いだったとか言うつもりはない。1〜3でウッディが選び取ってきた道は、いずれもその時点では正しい道だったと思う。ただ人生はそう単純なものではなく、環境が変われば答えも変わる。今は今の問題があるし、それはかつての"正解"の延長線上に位置していることもある。それだけのことだ。そしてウッディの抱える"有害なオモチャらしさ"に最も苦しめられているのは、他ならぬウッディ自身である。勝手な行動をして周りを困らせることもあるが、基本的には自分自身を追い詰めてしまうのがウッディというオモチャだ。"有害"の対象は他者だけでなく、本人にも向けられることはよくある。彼自身のためにも、構造や"らしさ"との付き合い方を考え直す必要があるのだ。
ウッディは今、長年に渡り築き上げてきた自らの"オモチャらしさ"に起因するセルフネグレクトと、その"らしさ"ゆえにより強くのしかかる"死の恐怖"とで、こんな破茶滅茶な精神状態に陥っている。そして、あともう一つある……。
序盤④:アンディ - 対象喪失β
なんとかフォーキーを回収したウッディは、嫌がるフォーキーを引きずりながら、ボニーと仲間たちの待つキャンプ場を目指して歩く。改めてオモチャとして生きることの素晴らしさを説き、フォーキーにオモチャの自覚を持たせようとするウッディ。「わかってないだろ? 自分がどれくらいラッキーなのかってことを。君はボニーのオモチャになった。つまりボニーの心に、一生残る幸せな思い出を一緒に作っていけるんだぞ?」。これぞまさに、オモチャとして生きることの幸福、その全てだろう。オモチャの自覚がないフォーキーにはまるで響かないが。イラついたウッディは「ボニーのためだ、ボニーのため……」と自らに言い聞かせ、そして続ける。「嫌でも今の君はオモチャなんだ。たとえオモチャで居たくなくても、オモチャだという事実は変えられない。だから君はアンディのそばにいなきゃ……」。えっ。
こいつめちゃくちゃアンディのこと引きずってるんすよ。
ボニーのためじゃないよね。というかボニーとアンディの区別がついてないよね。「アンディって?」と訊くフォーキーに、カウボーイは重い口を開く(まるで意識することをずっと避けていたように)。「その子のオモチャだった」「長〜いことね。……楽しかったなぁ。俺はいちばんのお気に入りで、みんなのまとめ役だったんだよ」。楽しくなってきたなぁ(地獄男映画愛好家)。これはね、つまりね、今はそうではないということです。もうみんなのまとめ役じゃないし、いちばんのお気に入りじゃないし、楽しくもない……。うわぁ……保安官、お前……。これ、仲間のオモチャたちがいない今だから、赤子同然のフォーキー相手だから言えることですよね。みんなの前ではリーダーっぽくありたいもんね。もうリーダーじゃないけどね。
オモチャとして生きることの幸福(子供に愛され、遊び、一生残る幸せな思い出を一緒に作っていくこと)を語りながら、彼自身はもうその幸福を享受することはない。今はフォーキーの子守りをすることで、フォーキーにオモチャの仕事を果たしてもらい、間接的にボニーを幸せにする。それが彼の仕事だ(と彼自身が言っている)。それしかない。楽しくなくても。たとえオモチャで居たくなくても、オモチャだという事実は変えられない。だから持ち主のそばにいるしかない。愛されなくても。仕事だから。
これはもう誰がどう考えても不幸じゃないですか。このままで良いわけがない。その報われない忠誠心、一方的な愛情(依存)、それらの根源にある"オモチャと子供"の非対称的な(残酷で理不尽な)構造。その無慈悲さに疲弊しながら、それでもそこに縋るしかない(内面化してしまっている)ウッディの"オモチャらしさ"の有害な側面。その価値観に由来する「遊ばれない = 価値がない(死んでいる)」とする発想。受容し難い「オモチャとしての死」。そしてアンディとの別れという対象喪失の経験が、ウッディの心身を更に追い詰めている。何重苦や。
これまでの冒険譚を語りながら、フォーキーを抱いて歩くウッディ。次第に二人は打ち解けていった様子。やはり頑なに押し付けるだけでは駄目だったのだ。空も明るみ始め、ついに冒険物語は最終章へ。「それから子供たちは成長して、大人になるといずれ……去っていく。俺たちが見ることのない世界へと」「……ああ、誤解しないでくれ。別にそれが不満ってわけじゃないんだ。けどずっと一緒だったのに、クローゼットの中に置き去りにされてると……まるで、自分が……」。フォーキーが問う。「用無し?」「……あぁ」「役目は終わったって?」「そう感じる」。中年の危機(ミッドエイジ・クライシス)やなぁ。ずっとその話をやってるようなシリーズだが。不満じゃないって言ってるけど、本当にそう? 悲しいし、つらいんだろう? それを無理に押し殺そうとしてるんじゃないの? その苦しみを表出してしまったら、今までの自分を、アンディとの幸せな思い出をも否定することになりそうで。
しかしこの苦しみは、いずれ到来することが分かりきっていた、避けられない悲劇である。一部のオタクでない限り、多くの子供はオモチャを卒業する。少なくとも子供のような遊び方はしなくなることがほとんどだろう。オモチャの宿命だ。しかしその宿命 = 構造と、どのように向き合い、どうやって受容していくか。そこに一つだけの正解はない。ウッディと共に我々も自分事として考えていこう。避けられない構造の悲劇(宿命)をどのように受容するか。それが今作のテーマだ。そしてその問いは、間違いなく1〜3までの物語の延長線上に位置しているもの。ずっとこういう話をしているシリーズ。
(やっと本作のテーマが言えた)(そして僕はこのポスターヴィジュアルが大好き)(一目見て本作が只者ではないとわかる)
ウッディと僕の「メランコリー」
さて、改めて「アンディとの別れ」という対象喪失を経験したウッディの心境を、もう少しだけ考えてみることにする。素人の精神分析ごっこだが。
まずウッディが今でもアンディのことを引きずっているのは、疑いようのない事実である。そもそもボーをなんとか連れ戻そうとする時の言い訳に「アンディのためにも」って言い出すやつ(自分が一緒にいたいから、って言えばいいんだよ)(言えないけどね)なんだから、そもそもの依存度が高い。僕は依存アンチだが(不健全な依存の関係に起因する悲劇を何度も見てきたため)、オモチャの場合はそれも仕方ない。構造的に、オモチャは持ち主に依存することでしか生きていけないからだ。だからオモチャたちも、自分たちを理不尽な目に遭わせる子供たちを恨んだりせず、むしろ愛することで(構造を内面化し"オモチャらしさ"とすることで)、その試練を乗り越えようとしてきた(これはキリスト教における神と人間の関係性に近いものがあると思う)(イエスは「神への愛」と「隣人愛」を説いた)(ウッディが持ち主と仲間たちを愛するのはそれに似ている)。ウッディはその最たる例である。つらいことだが、それは仕方がない。
しかし問題なのは、ウッディは既にアンディのオモチャではないのに、アンディのオモチャとして振る舞っていることだ。みんなのまとめ役で、いちばんのお気に入りで、楽しかったあの頃のウッディとして。ウッディの足裏には既にBonnieの名前が刻まれているにも関わらず、事あるごとに彼はアンディの名前を出す。「アンディの時は」「アンディが小さかった時は」「アンディのそばに」……。
精神分析学の創始者であるフロイトは自身の著作にて、愛する人との別れや、祖国・自由・理想などの抽象的なものを失うことを含めた対象喪失における様々な反応を考察している。まず、喪(も)において苦痛に満ちた気分となり、外界へ向かう関心・能力を失うのは自然な反応である。愛する者の"不在"を時間をかけて実感し、少しずつ情動を引き離していく。失った人への相反する(アンビバレントな)気持ち……愛と憎しみ、感謝と恨み、自己非難など……が想起され、やがてそれらの心の収まりどころを作っていく。フロイトは、この心的エネルギーを必要とする"喪の(哀悼の)作業"を、不可欠な過程として提唱した。
一方、失った人との間に激しい葛藤的な気持ちが存在するとき、「メランコリー」という病的な反応を引き起こしてしまうこともあるという。愛と憎しみに加え、侮辱や冷たくしたこと / されたこと、幻滅といった感情が想い起こされ、自らの憎しみや攻撃性を相手に向けたことが対象喪失を招いたのではないか、という罪悪感(事実とは異なる空想だが、"実際の事実"と"心理的な事実"とは往々にして異なる)に苦しめられる。
僕にも経験がある。母親が亡くなったのは僕のせいではないか。普段から僕が母に頼りきりで、気づかぬ内に酷使してしまっていたから。あるいは僕が、病に冒され日に日に弱っていく母親を見ていることに耐えられなくなり、内心で「早く終わらないだろうか」と思っていたことが天の意志に悟られてしまったから、などと。前者はともかく後者は馬鹿げた空想だが(でも本気で信じていた)、今思えばこれも、僕が「母親の死」という対象喪失を受容するための過程だったのだろう。
耐え難いこの気持ちをなんとかするため、人はさまざまな対処法を試みる。そのうちの一つが、"失ったその人になる"「自己愛的同一化」という方略だ。それは死んだように生きていく、フロイトが「自己虐待」と呼ぶ状態。こうして憎しみは「わが身へと向き直」り、「患者は自己処罰という迂回路をとって辛うじて本来の対象への報復を成し遂げる。」とフロイトは言う。そう、報復だ。失ったその人がどんなにいい人で、残された者とどんなに愛し合っていたとしても……あるいは、だからこそ……対象喪失は、去っていったその人からの、残された者に対する「攻撃」だ。このようなメランコリーの場合、"喪の作業"をやり遂げられず(対象と自らを分離できず)、自我の喪失へと繋がってしまう危険性がある。
僕の場合、僕が母親と同一化していたような記憶はないので、当てはまらないかもしれない。死んだように生きていく「自己虐待」は身に覚えがあるかも。プロテインバーしか食べてない時期があった。学校へ行けず、一日中『カイジ』のアニメを観ていた(彼の生き様には励まされた)。
そしてウッディの場合、これはめちゃくちゃ当てはまるのではないか。自ら選んだこととはいえ、喪失は喪失。元はと言えばアンディが大学なんかに行くと言って、オモチャの仲間たちを離れ離れにしようとするのが悪いのだ。……と、ウッディが思ったとしても不思議ではない。このとき、事実として「愛されていたかどうか」はあまり関係がない。受け入れ難い喪失と向き合うにあたり、対象への愛と憎しみの感情が同時に沸き起こるのは自然なことだ。ただ、ウッディのように自罰的な傾向のある(感情を押し殺す)タイプだと、メランコリーに、そして「自己虐待」の状態に陥ってしまうかも。ウッディは、アンディと自らを同一化し、自らを痛め付けることで、自らを置き去りにしたアンディへの報復を成し遂げようとしているのではないか……と、僕は考える。
フロイトはこうも言う。「自分は"誰"を失ったのかということは知っていても、その人物における"何"を失ったのかということは知らない」と。
ウッディは何を失ったのだろう。生きる意味? 目的? 幸福? 僕が失ったのは何だったのだろうか。未だによくわかっていない。
グリーフケア・ターミナルケア・障害受容 : 心理学用語集("喪の作業"についてより詳しく知りたい方は、こちらのサイトを参考にするなどして、ご自身でいろいろと学んでみてください)(本記事における対象喪失、"喪の作業"、メランコリーなどに関する記述は、放送大学の講義「精神分析とユング心理学」の印刷教材から一部を引用・抜粋し、改変したものです)
一旦まとめ、そして弁明
①死の受容(オモチャとして生きることの終わり)と②対象喪失(アンディとの別れ)、そして③"有害なオモチャらしさ"(セルフネグレクト)。今のウッディを苦しめるこれらの問題は、全て元を辿れば「子供とオモチャ」という非対称的で残酷で理不尽な④"構造"に起因している。トイ4は、そんな構造の悲劇(避けられない宿命)とどのように向き合い、"有害なオモチャらしさ"を克服し、アンディの喪失を認め、オモチャとしての役割の終わりを受け入れるのか(あるいは何か違う答えを見つけるのか)。そんなテーマを抱えた作品である。このことを説明するために約20000字を費やしてしまった。まだ映画が始まって26分しか経ってないのに。
ただまぁ、これで序盤の問題提起パートはほとんど終わりで、ここから時間をかけてゆっくりと問題解決へと物語は進んでいくので、後は流れでどうとでもなる……と思う。たぶん。
まず一つ、ここで改めて弁明しておきたいことが。それは、僕がトイ4の話をしている時にいろんな人たちから質問されることなのだが、「それは果たしてトイ3の美しい結末を破壊してまでも描くべきテーマだったのか?」ということ。こんな長文ブログを書いている時点で答えは自明だが、僕にとってそれはイエスである。いずれ訪れることが確定していた構造の悲劇。ついにその時が訪れて、ウッディはどのような道を選ぶのか。非常に興味深い問題だと思う。死の受容や対象喪失、"有害な男らしさ"も僕個人にとっては無視できないテーマだ。詳しくは後述するが。全人類にとっても重要なテーマだと思うよ。
3の奇跡のようなハッピーエンド、それを破壊することになっても。多少無理のある話運びになったとしても。それでもやはり、描くべきテーマだと僕は強く思う。描いてくれてよかったと思う(もうちょっと伝わりやすい描き方はできたかもしれないが)。
トイシリーズは常に"人生"を描いてきた。無慈悲な構造の中を生きるオモチャ(人間)たちが、ライフステージの変化と共に様々な問題と直面し、その時々の幸福な答えを出してきた。大抵の場合、人生にハッピーエンドはない。その瞬間は幸福でも、後になって状況が変化して、また新たな問題と向き合うことになるのは日常茶飯事だ。ウッディとバズの冒険はまだまだ終わらない。人生の果てを見届けるまで。それこそが「無限の彼方」の意味するところなのかもしれない。
もう一つ弁明しておかなければならないのが、記事を一旦ここで切らせていただくということ。あんまり長くなるとはてなブログがバグり始めるし、僕にも皆さんにも休憩が必要だと思うので……。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。引き続きお楽しみください。
後編 → 僕はなぜ『トイ4』が好きなのか?【後編】 #随筆 #自己探求 - 裏切りのサーモン
(トマトなんか信用しちゃいけません)(ですが……!)(なんと……!)(今回に限り……!)