※映画『トイ・ストーリー4』(2019年)と『トイ・ストーリー』シリーズ作品のネタバレを含みます。
続きです。前編 → 僕はなぜ『トイ4』が好きなのか?【前編】 #随筆 #自己探求 - 裏切りのサーモン
死の受容、対象喪失、"有害なオモチャらしさ"。いまウッディを苦しめるこれらの要素と、その根本原因である「オモチャと子供」という非対称的な"構造"の問題。トイ4で描かれるテーマが明らかになったところで、いよいよ物語は大きく動き始め、問題の解決……というより、新たな答え(変えられない構造、抗えない悲劇とどのように向き合い、受容し、自分なりの幸福を発見していくのか)の提示へと進んでいく。
「オモチャと子供」の構造自体を変えることは今後もないと思う。残酷で理不尽で、無茶苦茶な構造だとは思うが。もし変えるのなら、その時はオモチャが人類に声明を出して、自由を勝ち取るための戦争を始めるしかないだろう。ゲーム『Detroit: Become Human』の世界だ。興味深いテーマだが、トイストーリーでやる話ではないだろう。
中盤:特定個人への依存
もう問題提起は済んだので、ここからはテンポ良くサクサク行く。偶然通りがかったアンティークショップ『セカンドチャンス』(キリスト教の一派が主張する思想で「死後の救済の機会」を意味する)の店頭でボーのランプを見つけたウッディは、(ボニーの元へ帰るのを一時中断して)フォーキーと共に店内へと侵入する。「中に友達がいるかも」「友達?」「あぁ、友達ってのは……つまりあれだ、そう、君と俺みたいなもの」「ゴミ?」「ゴミ? あぁ(半笑い)そうだな、彼女"迷子"なのかもしれない」。お前さぁ、自分がゴミ呼ばわりされた時はめっちゃ否定してたよな。ナチュラルに"迷子"のオモチャのこと見下してるよな。
店内でギャビー・ギャビーと遭遇。彼女は生まれつきボイスボックスが壊れているため、オモチャとして子供に愛された経験がない。つまり、オモチャとして生きることが叶わない、産まれてくることが叶わなかった命と言える。オモチャ価値観においては、死んでいるのと同じだ。
(公式でショート動画が投稿されていたので、リンクを貼っておく)(便利だね!)(サムネはベンソン)
ここでの会話でウッディが50年代後半に作られたらしいことがわかる。作中の設定年代は不明だが、たぶん2000年代後半くらい(1が95年で、そこから十数年経っているはず)なので、50歳くらいか。オモチャにしては凄まじく長生きだ。そりゃ中年の危機にも瀕する。
ギャビーにボイスボックスを狙われ、逃げ出すウッディ。ここで古いタイプライターに足を取られる描写は、彼が自身の"古さ"(古く凝り固まった価値観)に捉われていることを暗示しているのか。
(またしてもサムネはベンソン)
店主の孫娘・ハーモニーに拾われ、かろうじて店からの脱出を果たすが、フォーキーはギャビーに囚われてしまう。一方、帰りの遅いウッディたちを探すため、バズは自らの「内なる声」に従って捜索を始める。前編で述べた通り、この要素にはあまり触れないでおく。
前編で「バズにとって、オモチャとしてのロールモデルであり精神的支柱でもあるウッディがあんなことになっているため、混乱しているのでは」という理由を考えたが、さっきもう一つの説を思いついたので、いちおう書いておく。いまウッディが(現実にはそのような役割はもう担えないにも関わらず)「強くて、勇気があって、優しくて賢くて、友達を絶対に見捨てないカウボーイ」として振る舞おうとして苦しんでいるのは、アンディが"そうある"よう望み、ウッディが"それ"に応えようとしてきた過去の残滓ではないか。相手が望む存在になろうとするのは、美しい愛のあり方だと思うが。しかし今のウッディはもうアンディのオモチャではないし、ボニーからは何も求められていない。何も求められない者は、何者にもなれないのだろうか。
このように、オモチャは子供を愛する = 子供が望む存在になろうとする。それがオモチャ個人の性格や人間性を形作っているのだとしたら。アンディの家にいた頃のボーが「お淑やかな女性」だったのも、ポテトヘッドやハムが「意地悪な皮肉屋」なのも、いずれもアンディが遊びの中でそのような役割をオモチャたちに求めてきて、オモチャたちがそれに応えてきたからなのでは。アンディの家では、バズは「スペースレンジャー」として扱われ、本人も(自分がオモチャだと自覚した後も)スペースレンジャーらしく勇敢で知的で愛情深い性格を持っていた。
ただ、ボニーは違う。非常に豊かな想像力を持つ彼女は、バズに「郵便屋さん」の役割を与えて遊んでいる。このことが、バズに新たなアイデンティティの揺らぎをもたらしているのではなかろうか。ただこの説は、「地球上でいちばん恐ろしい恐竜」という役割を求められていたレックスが、実際には臆病で優しい性格であることから破綻してしまうかもしれない(しかしレックスが「恐ろしい恐竜」になるべく努力していたのも事実で、それもまた愛の形だと思う)。
ハーモニーに可愛がられるウッディだったが、すぐにその場から逃走し、アンティークショップへの帰還を目指す。別にハーモニーのところにずっと居てもいいんじゃないかなぁ、と思ったりもするのだが。しっかり愛されてますし、きっと一生残る幸せな思い出を一緒に作っていくこともできたんじゃないか。でも彼は(自分を愛してくれない)ボニーのオモチャであり続けることを選ぶ。まぁフォーキーが拉致されている(仲間を置き去りにはできない)から、というのが大きいのだろうが。アンディの時から変わらず、ウッディは何があろうと「持ち主(特定個人)のオモチャ」であり続けてきた。博物館や保育園といった、異なる幸せを拒み続けてきたのだ。博物館はともかく、サニーサイド保育園は必ずしも悪いものとして描かれてはいなかったはず。ロッツォの支配体制が悪いのであって、ケン&バービー政権のサニーサイドはまさに地上の楽園。それでもウッディは、アンディとボニー、特定個人の持ち物であり続けたい。それが唯一絶対の幸福だと信じ続けてきたから。その価値観が今、彼の足を絡め取るタイプライター(古きものの呪縛)となっている。彼の抱える苦しみ、その具体像が少しずつ見えてきた。
店へと向かう道中、公園で子供たちと遊ぶ"野良オモチャ"たち(彼に言わせれば"迷子"のオモチャたち)と出会うウッディ。ここでさりげなく、女の子っぽいかわいいオモチャで遊ぶ男の子が描かれていて良いですね。そしてついに、その"迷子"の中の一体、麗しのボー・ピープとの再会を果たす。ウッディとボーのロマンス(これロマンスですよね?)(ロマンスに見えちゃうとかいうレベルではなく、確実に)(それでいて終盤バズにあんな表情させるんだから、これはジョシュの趣味としか思えない)(趣味が悪いぞ!)(僕は好きだけど!)が始まると途端に映像表現のレベル、というかアクの強さがグンと高まる。見てくれ、この被写界深度を! ウッディの目にはボーしか映っていない!
近くの草むらに身を隠した二人は、9年ぶりの再会を喜び合う。咄嗟にハグしようとしてぎこちない挙動をしてしまうウッディがかわいい。ボーはウッディの帽子の角度を直し、腕についた葉っぱを落とし、胸のバッジの向きを修正する。世話焼きだ。ボーも別にハグを拒んでいるわけではなく、その後何気なく頭のリボンの角度を調整するなど、照れている様子。ツンデレなんだと思う。そして相思相愛。悔しい(バズ目線のオタク)。
今は"迷子"のオモチャをしているボー。ウッディはそのことを嘆くが、本人は迷子の日々を満喫している様子。迷子仲間たちと共に、公園やパーティー会場で子供たちと遊ぶ生活を送っているようだ(警官のギグル・マクディンプルズが保安官 = シェリフのウッディに丁寧な挨拶をする描写が細かい。現代アメリカにおける「シェリフ」の称号は、主に地方の警察署長くらいの地位を意味しているらしい)。
ギャビーの手からフォーキーを奪還するべく、かつて『セカンドチャンス』に居たことがあるというボーに協力を要請するウッディ。「君もモリーに必要とされてただろ?」と、昔話をして説得を試みる。ギグルに「ボーは特別な子のオモチャだったんだ」と語るが、はたして"特別な子"とはなんだろうか。オモチャを大切にする子供? モリーはボーを躊躇なく他人に譲ったし、その数年後には、またしても軽々とバービーを保育園への寄付用の箱に放り投げたが。
とはいえ、幼少期のモリーとボーの間には素敵な思い出があったようで(それを残すことがオモチャの存在意義だとウッディは考えているのだろう)、そんなウッディの説得の甲斐もあり、みんなで『セカンドチャンス』へと潜入することに。
一方、その『セカンドチャンス』では、ギャビーがフォーキーと共にウッディの帰りを待っていた。するとそこに店主の孫娘・ハーモニーが帰ってくる。連れて行ったはずのウッディはそこにいない。「無くしたのかな?」と心配するフォーキーに、「まさか。私のハーモニーは完璧な子なの」と返すギャビー。フォーキーの心配は当たっていて、なんならハーモニーはウッディを無くしたことにすら気付いてなさそうだが。ティータイムのおままごとをして遊び始めるハーモニー。それを見て歓喜の声をあげたギャビーは、自身もオモチャのカップを持ち、ハーモニーの動作に合わせてティータイムごっこをする。傍らに「ギャビー・ギャビーの遊び方ガイド」を置いて。その表紙に描かれている少女は、ハーモニーにそっくりだ。
もうこの時点でわかるが、ギャビーはハーモニーという特定個人を完全に理想化している。自らの運命の相手だと信じ込んでいる。生まれながらにオモチャとして生きる幸せを剥奪されたまま数十年の時を過ごしてきて、もうそれに縋るしかないのだろう。遊んでもらうため(オモチャとして生きるため)、ずっと自らのコンディションを完璧な状態で維持し続け、遊びの練習も重ねてきた。それでも自分はずっと戸棚の中。ボイスボックスさえ正常に機能すれば、ハーモニーに遊んでもらえるかもしれない。「遊び方ガイド」(オモチャらしさの教科書)に記載された通りの、オモチャとしての幸福を享受できるかもしれない。そんな不確定要素の強い、微かな希望に期待を寄せることだけが彼女の生きる道、その先を照らす光なのだ。
そのためならなんでもする覚悟のギャビーは、当然ボイスボックスを入手するための策略も周到。仲良くなったフォーキーから、ウッディの情報を全て聞き出している。「まだアンディのことを引きずっている」ことも。
そしてウッディとフォーキーの救援に向かったバズは、遊園地の人間に捕まり射的ゲームの商品とされてしまっていた。そこでぬいぐるみのダッキー&バニーと出会う。どうしても「消費されるモノ」としての側面を持つオモチャという存在は、人間の都合次第で、商品として何年も壁に吊るされたり、不良品として何十年も戸棚に飾られたりする。珍しいことではない。
(毎回なぜか拘束されることがお約束となっているバズ)
ボー、そしてギグルと共に店へと向かうウッディ。腕が取れても動じないボー(2でウッディが同じ目に遭った時はプロスペクターに「イカれてんのか!?」とブチギレていた)は、自立した"強い女性"として描かれている。以前の淑女っぷりとは大違いだ。「子供部屋にこだわる必要はない。だってこんなに広い世界があるのよ」と、賑やかな遊園地を見せながらウッディに語る。言ってしまえば、これが今作のメッセージそのものみたいなもんなんだけど。でも広い世界へ飛び出していく(自由になる)理由付けに、ウッディのボー個人に対する恋愛(のような)感情を持ってくるのは、あんまり上手くないような気もする。結局アンディやボニーから、ボーという別の個人へと執着の対象が入れ替わっただけに見えてしまって。そういうわけではないとは思うんだけど。うーん。案の定、この場面のウッディはボーしか見てないし。
このあと昔の仲間たちの話題が出たとき、ボーが「レックスはいる?」と訊くのが、細かいけど好きな場面。3ではレックスがボーの名前を出していたし、我々の知らないところで二人はそれなりに仲良しだったのだろう。昔からアンディの部屋にいたオモチャたちの中で、恋仲のウッディを除けば、いちばん"たおやか"なのはレックスだろう(というか他の連中がオッサン過ぎるというか)。当時のお淑やかなボーにとっても関わりやすい相手だったのでは。
そしてウッディを追ってきたバズ(と付いてきたダッキー&バニー)と店の屋上で合流。1で「引っ越しのパートナー」だったバズとボーは自然な流れでハグをする。バズもどちらかというと"たおやか"な男性だ。何が言いたいかというと、前編で触れた"有害な男らしさ"について。今作でボーが自立した"強い女性"として描かれているのは、有害な男らしさを抱え、アンディへの依存を拗らせているウッディとの対比の意味合いがある(3でロッツォのホモソに反論したのがジェシーとバービーだったのと同じ文脈)。あまり男らしさに捉われていないバズやレックスが、そうした女性とも友人として仲良くやっていけてるのも示唆的だ。ただ、そんなボーが恋人として意識しているのがウッディという男らしさに捉われた男なのが、なんというか、生々しいというか……。
(ウッディ! ボー・ピープだ! がかわいい)(ウッディはここまでずっとボーと一緒に歩いてきたんだから、わざわざ言わなくてもわかるじゃん)(赤ちゃんなのかな?)
かくして、ボーを中心にギグル、羊ちゃんたち、ウッディ、バズ、ダッキー&バニーがチームを組んで店へと侵入。フォーキー奪還作戦を開始した。ボーの指示に「ああバッチリ。着いていく」と宣言するウッディ。言ったからな?
店内の棚と棚の隙間を通っていく一向。ホコリの表現が凄まじい。空気中に漂うチリさえも美しい。今後これを超えるCGのホコリ、チリの表現が現れることはあり得るだろうか。
ジェシーの活躍で足止めを食らったボニー一向。母親に連れられ『セカンドチャンス』へと訪れたボニーを見るなり、ウッディは先ほどのフォロー宣言を無視し、慌ててフォーキーの元へと駆け出してしまう。勝手な行動だ。周りが見えていない。大切な人の言葉さえも彼の耳には届かない。やはり見張りのベンソンたちに気付かれ、ボーの応戦も虚しく羊たちを連れ去られてしまう。やってしまいましたなぁ。ウッディの大ポカ、とんでもないやらかしである。
「ほんとごめん。悪かった。俺、なにすればいい?」「役に立ちたい? だったら邪魔しないで!」と叱られてしまい、あからさまに落ち込むウッディ。己の無力さを痛感する展開だ。かわいそうだが、しかし今のウッディには必要な過程だと思う。もうみんなのリーダーではない(求められていないことを義務感や使命感で無理にこなす必要はない)という現状を、しっかりと認識してもらう必要がある。ウッディは今までずっと、その"らしさ"の毒に自ら苦しみ続けてきた。今回の失敗は、ついにその毒が他者にまで及んでしまったことを意味する。その"らしさ"に捉われたままでいることがいかに有害なのか。自分より他人を優先するウッディにそれを理解させるためには、こうする(自分の失敗で他人に迷惑をかけたことで、己の無力さを痛感してもらう)のが最も効果的であり、不可欠だと思う。気の毒だが、一旦ボコボコにしなければ地獄男の運命は変えられない。
地獄男または地獄女とは、トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)を始めとする社会の規範・構造に捉われ、自らの言動で他者と自分自身を傷つけ苦しめてしまう、救い難い人間のこと。大抵の場合、彼らが死ぬことで物語が終わる。
アンティーク店内に隠れ住むオモチャたちのコミュニティがある。ウッディには想像もできなかった世界で、たくましく生きるボー。オモチャたちのうちの一人、バイクに乗ったスタントマンのデューク・カブーン。祖国カナダへの愛国心に満ち溢れる彼に、ボーは、フォーキーと羊たちの奪還作戦への助力を請う。
(ウッディの表情が良い)
黙ってろと言われたのにうっかり口を滑らしたウッディの「持ち主」というワードに、カブーンが反応する。かつての持ち主・リジャーン少年に捨てられたことで心に消えない傷を抱えている彼もまた、特定個人への依存を拗らせてしまったオモチャと言えるだろう。ウッディにとってのアンディ、ギャビー・ギャビーにとってのハーモニー。
過去に捉われず、今の自分の真の姿を見せて。というボーの説得を受け、なんとか立ち直ったカブーン。フォーキーが囚われているキャビネットの鍵を(ものすごく苦労して)入手したバズたちと合流し、いよいよ奪還作戦が始動する。
作戦の準備中、ウッディとボーが語り合う。今作において、メッセージが最も端的に表現されているのが二人の会話シーンだ。冒頭から一貫して。
「それで、ここにはどのくらい居たの?」「二、三年くらいかしら。棚に飾られてずっと待ってるだけの人生が嫌になって、出てったの」「すごいよ。君は一人になっても立派にやってる」。ここでボーにだけ光が当たってるのもわかりやすくていい演出。今作の映像、演出を読み解く際には、何よりも"光"に注目すること。太陽光、月光、建物の明かり、遊園地の電飾。あるいはそれらの光源を反射して煌めく、ありとあらゆる物体。ホコリやチリさえも光に照らされ輝く。
「あなたにだってできるわ。迷子のオモチャになっても大丈夫!」「なぁ、本当にもう子供部屋に戻るつもりはないのかい?」「ない! 今ちょうど移動遊園地が来てるし、この街を出るいいチャンスよ」「え? 街を出る?」「そうよ! 子供部屋を出て、世界を見たいと思わない?」「子供抜きで? ははは……無理だよ。俺は古いタイプのオモチャだからな」「ふふん、試してみたら?」
中年ロマンスですよね、この映画。トップガン マーヴェリックでありマトリックス レザレクションズでもある。僕はそういうの好きです。というのも、若者のロマンスにありがちな、衝動(性的なものも含む)に身を委ねる破滅的な恋愛ではなく、お互いの積み上げてきた人生観を照らし合わせ、これから待ち受ける"人生を終えるための旅路"を共に歩んでいきたいという、切実な願いが込められているように思うから(無論、若者の衝動もそれはそれで切実なんだけど)。
(トップガン マーヴェリック)(過去の喪失を引きずる、古い時代の男の物語)(中年ロマンスも相棒との絆も、擬似親子もあるぞ!)
(マトリックス レザレクションズ)(メンタルヘルスと中年ロマンスのお話)(支配的な構造からの脱出を描く)
死を受け入れられず、喪失に苦しみ、"有害なオモチャらしさ"に捉われてしまった「古いタイプのオモチャ」であるウッディ。それは彼がこれまで積み上げてきた人生観によるものだが、そんな彼にとってあり得ない選択肢であった「迷子のオモチャ」という道が、その道を強く美しく生きるボーとの出会いによって、"あり"になりつつある(同時に自分には無理だという諦観もある)。まさに中年ロマンス。
このあとの、店の天井から吊り下げられた無数の照明やランプ、古いシャンデリアなどの煌びやかな輝きを二人で見つめる場面がなんともロマンチックだが、やがてウッディは照明ではなくボーを見つめ、恍惚とした表情を浮かべ始める。自分の知らない世界で強く美しく自由に生きてみせるボーが、輝いて見えるんですよね。ここで大事なのは、相手への単純な(ロマンティック・ラブ・イデオロギーに基づいた)恋愛対象としての"惹かれ"があるだけではなくて(むしろそれは主題ではなくて)、ここでの主題は「相手の人生観への"惹かれ"」だということ。ウッディは、ボーの歩む"人生"を美しいと思い、見惚れていたのだ。これが中年ロマンスの文脈。
先ほど、自由を選択する理由付けが恋愛(執着)なのは上手くないのでは、という話をしたが、まぁ概ね今述べたような理由による演出なのだろう。トイ4は、地獄男映画と中年ロマンス映画の文脈の上に成り立っている映画なのだ(んなもんわかるか)。地獄男を救う方法として、選ばれたのが中年ロマンスだった。こうでもしないと地獄男は救われない。
終盤①:忠誠心 - オモチャとしての"死"
いよいよ作戦が開始するも、様々な問題が重なり、フォーキーの奪還は失敗。仲間たちも傷を負ってしまう。仲間たちが口々に撤退を勧める(そもそもウッディとバズ以外にとってはフォーキーなど縁もゆかりもないオモチャだし、なんならプラスチックの先割れスプーンでしかない)中、それでも断固として奪還作戦の続行を主張するウッディ。抗議するボー。「誰も一緒に行かない!」「俺は行く」「どうして!?」「どうしても!」「なんで!?」「だからなんででも!」「どうして……」
「もう俺にはこれしかないんだよ!!」
うわぁ、言ったぁ……! とうとう訪れた感情の爆発。抑圧の末路。これが全てだ。まさに本作の白眉。トイ4という地獄男映画の、地獄たる所以がまさにここ。この瞬間のこの台詞に全て凝縮されている。やっとここまで来た。この話をしたかったんだ、僕は。そのためにここまで三万字近くを費やしてきた。
「他にできることはない」んですって。ああ、そうだろうとも。オモチャとして子供に愛され、子供と遊び、子どもの心に一生残る幸せな思い出を一緒に作っていくこと。それだけが生きる目的、生きる幸せ。何のために生まれて、何をして喜ぶ。"生きること"を果たせなくなって、死んだように時を過ごすウッディ。これまで彼が積み上げてきた価値観と、アンディの喪失。多くの苦しみが彼を雁字搦めに……地獄のような状況に追いやっている。これは避けられない構造の悲劇。いずれ訪れることは判り切っていた、オモチャの宿命である(繰り返しになるが)。
そんな構造の中で、彼が唯一見出した希望……というか、もはやそれに縋ることでしか自分を保てない、精神の最終防衛ラインであり依存先。それがフォーキーだ。フォーキーが"特別なオモチャ"としてボニーに尽くす。ボニーと共に、ボニーのために"生きる"。自分はその手助けをする。報われない献身は辛く、彼の心身を擦り減らし続けるが、自分の生きていく道は「もうこれしかない」のだ。ウッディはそう思っている。だからバズが手伝おうとしても拒むし、周りが反対してもフォーキーのために危険を犯し続ける。「他にできることはない」から。地獄男だ……。
「私たちはどうでもいいの?」と訊くボー。「ボニーのためなんだ」と返すウッディに、ボーは「違う。自分のためでしょ」と反論する。さすがよく見抜いている(そうさ全部君のためさ〜とはなんだったんだ、ユカイ)(皮肉たっぷりの一曲だった)。「目を覚ましてウッディ。子供は他にも大勢いるのよ? なのにボニーにだけこだわるなんて、間違ってるわ」。うーん、これはまぁボーがそういう意見なのはわかるけど、ウッディにはわからない(どころか逆効果だ)よね……。
「忠誠心だよ。迷子のオモチャにはわからないだろうな」。この映画『裏切りのサーカス』でしたっけ。忠誠心(loyalty)の話をしている。
(僕のいちばん好きな映画)(冷戦、そして男性社会。自己も他者も傷つける有害な構造の中で疲弊し、孤独な愛や報われない忠誠心に翻弄され、泣いたり死んだりする男たちの物語)(実質トイ4)
2では博物館という「永遠の命」を拒み、3では「捨てられることも飽きられることも、忘れられることもない」「奇跡」の保育園を拒んだ。アンディのオモチャだから。持ち主(特定個人)への依存は、極めて不安定(不健全と言ってもいい)な構造だが、その構造の理不尽を受け入れる、どころか積極的に肯定し、命を危険に晒してまでも尽くすことを美徳としてきた。その哲学のもと、プロスペクターやロッツォの生き方を否定してきたのがウッディのこれまで(思い返してほしい。3でウッディは、ロッツォの支配体制自体には、特に何も反対意見を述べていなかった。文句を言ったのはジェシーだし、具体的な改善を行ったのはバービーとケンだ。ウッディは「お前も持ち主に愛されていたんだろう?」という方向性で攻めていた)。
その美徳が、哲学が、忠誠心が、今はウッディ自身を苦しめている。愛する人たちの言葉さえも届かぬほど、彼を追い詰めている。そしてこの価値観と、それに付随する苦しみは、ウッディだけが抱えているものではない。思い返せば1作目、しかも冒頭。ウッディは仲間たちに向けてこう演説している。「アンディが俺たちを必要とする時に役に立てばいいんだ。みんなそのために作られたんだろう?」と。この場面は、ウッディが部屋のみんなに自らの思想を押し付けている、という意図のものではないだろう。みんなそれぞれ個人差はあれど、同じ思想を共有している。持ち主という特定個人に対する"忠誠心"を。だからギャビーもハーモニーに、カブーンもリジャーンに執着し続けている。そして苦しんでいる。トイシリーズは常に、持ち主に捨てられるんじゃないかという構造的恐怖との戦いを描いてきた。その構造的恐怖に適応した結果の忠誠心(オモチャらしさ)であり、忠誠心があるからこそ喪失に苦しむ。そして人間がいずれオモチャで遊ばなくなる以上、持ち主(特定個人)に依存したオモチャの"生き方"にはいずれ終わりが来る。命の終わり、すなわち"死"が。
「迷子はあなたの方じゃないの?」と言い残し、ボーと仲間たちはウッディから離れていく。唯一残ったバズの静止も聞かず、ウッディは「オモチャ仲間を置き去りにはしない。今回も、この先も……」と言って、店内へと戻って行った。「私を置き去りにした……」と悲嘆に暮れるバズに背を向けて。
ウッディが戻ると、待ち構えていたギャビーが語り始める。彼の心に訴えかけるように。
「私たち、想いは同じじゃない?」「子供のそばにいることこそ、オモチャのいちばん大切な役目だと思ってる」「私は、最初から故障していたの。あなたは私が夢見る人生を送ってきた。アンディと共に過ごした日々。初めて自転車に乗った時も一緒。膝を擦りむいたとき慰めたり……成長をずっと見守ったのよね。二度目のチャンスも訪れた。ボニーよ。幼稚園を怖がるボニーを安心させたり、つらい時、支えになってあげてるわ。いい時も、悪い時も、あなたは子供のそばに」「……どうか、正直に答えて?」「それって本当に素晴らしいこと?」。
2での問いの繰り返しだ。子供に尽くすこと = オモチャとして生きることは、そんなに価値のあることなのか。無論、ウッディにとって答えはイエスだ。ギャビーの問いにも「……そうだよ」と優しく答える。
「……一度でいいから味わいたいの。そのチャンスを頂戴?」「なんだって、するわ。あなたのように愛されるなら……」。ギャビーの懇願を受け、逡巡し、やがて頷くウッディ。2では、同じ問いを受け、永遠の命を捨てて限りある生(いずれ訪れる死)を受容したが、今回もまた、同じ問いに同じ答えを返すことになる。持ち主のために。そしてオモチャ仲間(今回はギャビーも含む)を置き去りにしないために。「……フォーキーが戻ればいい。ボニーに必要だ」。そう言うと、暗闇に包まれていくウッディ。今回受容するのは、いずれ訪れる死などではなく、今まさに、この瞬間の死。ウッディは今、オモチャとして生きることをやめた。子供のそばにいること = 生きることとする価値観を持つオモチャとしては、死んだことになる。ウッディはもう、オモチャではない。
明らかにこの暗闇は、死として描かれていると思う。この一連の流れは死のシークエンスだ。ただ、オモチャとしての正常な機能を失ったり、持ち主に飽きられたりすることが、必ずしも生命の終わりを意味するのかというと、それは違う。あくまでウッディの掲げる、子供のそばにいることこそオモチャの仕事(その仕事を果たすために生きている)(果たせなくなったら死んでいるのと同じ)という価値観上の、オモチャの死だ。現に、ボイスボックスを交換したあとのウッディにもまだ意識はある。まだ人生は続いていく。
終盤②:子供は大勢いる - 特定個人への依存を克服するために
「俺のブーツにはガラガr……」。ギャビーにボイスボックスを差し出したウッディは、約束通りフォーキーを取り戻し、ボニーの元への帰還を目指す。子供に尽くすこと、そしてオモチャ仲間を見捨てないこと。ボニーとフォーキーのために、そしてハーモニーとギャビーのために、"オモチャとしての"最後の使命を果たそうとする。最後の忠誠心だ。
そしてハーモニーの目の前でボイスボックスの声を鳴らし、ついに夢を叶えようとするギャビー。しかし「いらない」の一言でポイされてしまう。彼女に遊んでもらうため、全てを捧げてきたギャビーの忠誠心を、ハーモニーは知る由もない。オモチャの忠誠心を、子供(人間)は知らない。そういうルールだから。なのでどう足掻いても、消費されるモノとしての側面は消えない。ボニーだってウッディに飽きるし、なんならアンディだってRCを雨の中に置き去りにしたり、一部のオモチャ以外は他人に譲ったりしていた。特別でないオモチャの人生など、こんなものだ。
なんとかボニーのリュックの中に飛び込み、フォーキーを送り届けたウッディ。アンディの、そしてボニーの = 特定個人の持ち物としての"オモチャの仕事"は、これでやり遂げたことになる。木箱の中に捨てられたギャビーのことが気になってる仕方ないウッディは、フォーキーに合流地点を伝えてリュックから飛び出す。オモチャ仲間を置き去りにできないから。
悲嘆に暮れるギャビーに、ウッディは優しく語りかける。「友達に言われた。子供は大勢いるってね。その中に、ボニーもいる」「棚に飾られて待ってるだけじゃ変わらないだろ? 何も」。そこへボーが現れる。「その通り」「最高の友達の教えさ」。こうして、ギャビーの"セカンドチャンス"を手にするための冒険が始まる。
特定個人への忠誠心を掲げていたウッディが、子供は大勢いるという異なる価値観を受け入れ、その考え方によって他のオモチャ(なんなら敵対していた相手)を救おうとしている。まだ"ボニー"にこだわってはいるが、これは大きな変化と言えるだろう。
合流地点のメリーゴーラウンドを目指す一向。カブーンのジャンプで上空を飛ぶルートを選択する。不安に怯えるカブーンをウッディとボーが励まし、いよいよジャンプ。「君に捧げる、リジャーン……」。美しい花火と月光が照らす、見事な跳躍(クラッシュ)を見せ、特定個人への依存を断ち切り、トラウマを克服してみせた。
ボニーの元へと急ぐ道中、ギャビーが立ち止まる。物陰で泣く迷子の女の子を見つけたからだ。「計画変更だ」。少女を放っておけないと思いつつ、嫌われる恐怖に震えるギャビーを、ウッディが励ます。「君が言ったように、これがオモチャのいちばん大切な役目なんだ」。仲間たちの協力もあって、少女の手に渡るギャビー。「あなたも迷子?」「助けてあげる」と言うと、少女は勇気を出して近くを通りかかった警官に助けを求めた。無事に両親と合流する少女、そして持ち主を得たギャビー。特定個人(ハーモニー)への依存を克服し、幸せそうな表情を浮かべるギャビーの様子を見て、安堵と満足感を覚えるウッディ。一人の子供の"特別なオモチャ"として直接愛されるとか、オモチャたちのリーダーとして慕われるとか、そういうのとは違う喜び。新しい幸せ。
カブーン、ギャビーときて、いよいよ順番が回ってきた。メリーゴーラウンドの上でバズと合流し、ボーに別れを告げるウッディ。しかしその足取りは重い。冒頭で描かれた構造の悲劇を繰り返してしまうのか。「バズ……俺……」。お前そんな顔すんなよな! バズにだけそんな顔してさぁ、相棒だからって甘えやがって……。ここまで来るのにバズと仲間たちがどんだけ苦労したと思ってんだ……?(かなりオモチャのルールすれすれというか、アウトですよね?)
そんな顔されたら、バズもこうするしかない。「彼女は大丈夫」「ボニーは、大丈夫だ」。必死に笑ってみせるバズ。「内なる声を聴け」と言って背中を押す。笑顔で振り返り、ボーを見つめるウッディ。そのままこの世の春のような表情を浮かべて、ボーの元へと駆け出していった。ここ! この瞬間のバズの「あっ……」っていう表情を! 見てくれ! 好きな男が女を選んだ瞬間の男の顔を! 一瞬で表情を戻してみせるのもつらすぎるよ! やっぱりこれ裏切りのサーカスだったんじゃないか??(裏サーにも同じようなシチュエーションで同じような表情を浮かべる男が出てくる)
バズは本当にえらい。今作では終始ポンコツな印象が拭えないが、最後のこの選択。大好きな男を自分から手離すなんて、耐えられるはずがないのに、でもそうすることが愛する男の幸せだとわかってしまったから……そうするしかないよね……。ウッディにとってアンディが特別であるように、バズにとってはウッディこそが生きる意味、目的、幸せを与えてくれた存在だった。
抱き締め合うウッディとボー。かつての仲間たちとも再会を喜び合う。ウッディはジェシーを見つめると姿勢を正し、自らの胸についた保安官バッジを外してジェシーの胸につけた。ボニーが必要とする保安官はジェシーだから。この選択をもって、本当の意味でウッディはボニーのオモチャであることをやめた。
仲間たちと別れの抱擁を交わし、最後はバズと。ここのバズの表情もまたつらそうで……でもそれをウッディには見せまいとしていて……健気すぎるぞ……これが愛じゃなければなんと呼ぶのか僕は知らなかった(米津)。
車が走り出し、オモチャたちはそれぞれの道を往く。ボーと共に新たな人生を歩み出したウッディの表情は、どこからどう見ても幸せそのものだ。確かにボイスボックスも保安官バッジも、安住の家も失った。周りから見れば不幸な「迷子のオモチャ」に見えるだろう。しかし「迷子じゃない。今はもう」とバズは言う。古いオモチャらしさとアンディの喪失、その根本にある特定個人への忠誠心というトキシックな信念、その信念を作り上げてしまう「オモチャと子供」の非対称的な構造……。それらから解き放たれ、死んだように生きていくウッディの苦しみは終わったのだ。子供に愛されるオモチャとしての人生を終わらせ、新しい生き方を選び取った。構造からの脱出、有害な"らしさ"の克服が描かれている。「無限の彼方へ……」「さぁ行くぞ」。二人の冒険はこれからも続く。あるいはこれから始まるのかもしれない。無限の彼方、構造のその先へ……。その終わりのない旅路こそ、我々の歩む人生なのだ。変化を受け入れ、ウッディは幸福を掴み取った(バズは本当に気の毒だが……)。
彼らの新たな旅立ちを、月光が祝福している。青空に輝く、明るい太陽の光ではなく。厳しい現実の暗闇の中を、優しく照らし見守ってくれる月の光。今作の最後を飾るに相応しい演出だ。
終盤③:新しい生き方
これにて本編は終了。ここからはエンドロールとなる。ウッディの選択した新しい生き方、その具体的な様相が描写される。移動遊園地と共に新しい街へとやってきた一向は、例の射的ゲームで壁に括り付けられたオモチャたちの所へ現れ、彼らに助け舟を出す。射的に失敗した子供にも、こっそりとオモチャを与えていく一同。ギャビーに対して行った、いわば子供とオモチャのマッチングを手助けしているようだ。
この活動は「子供にはオモチャが必要」であり、「子供に奉仕することがオモチャの幸福」とするこれまでの価値観に沿ったもの。トイ4という作品そのもののテーマ、メッセージも同様で、これまでの価値観を全否定するものではないのだ。ただ、ウッディはそれだけではなくて、違う幸せと新しい生き方を見つけた、というだけのことで。これまで積み上げてきたものを毀損しているわけではない。
自身は"オモチャとして"生きることはないものの、他の子供たちとオモチャたちが幸福を享受する手伝いはできる。むしろ、今はそのことに生きる意味と喜びを見出している。「子供に尽くす」と「オモチャ仲間を置き去りにしない」、この二つの価値観を持ったまま、生き方を変えることでウッディは幸福を掴んだ。トイ4の結末は、ウッディにとってはめちゃくちゃハッピーエンドなのだ(バズは気の毒だが)。
こうして物語は幕を下ろす。エンドロールの余韻を引き立てる、しっとりとした楽曲の名称は『The Ballad of the Lonesome Cowboy(孤独なカウボーイのバラード)』。本作は徹頭徹尾、ウッディという時代遅れのカウボーイを救済するための映画だった。
俺は孤独なカウボーイだった。でも今は違う……という歌詞。たぶん、子供とオモチャの関係性のことを歌っている。結局のところ、子供とオモチャが愛し合い共にあることこそが至上の幸福である、とする価値観は何も変わっていない。ただ、ウッディがその幸福を享受するターンは終了して(死の果てにセカンドチャンスを掴み取り)、今度はその幸福を多くの子供たちと仲間たちが享受するための手伝いをするようになった。こうしてウッディは救済されたのだ。忠誠心と言うなら、あのままボニーの家のクローゼットで埃をかぶっていくのが正しい生き方だろう。しかし、ウッディはそれに耐えられない。物語の冒頭と結末を見比べて、どちらのウッディがより幸福に見えるだろうか? 断然、後者だろう。
いわばウッディは、親としての役目を終えて、他の親たちと子供たちのために奉仕する余生を送り始めたのだ。その役割を現実の職業に当てはめるなら、幼稚園の先生になるだろうか。今作の序盤に存在する幼稚園の先生単独のカットは、ウッディの結末を暗示していたのだ。ウッディは幼稚園の先生になった。
まとめ - 人生の教科書
で、結局『トイ・ストーリー4』とはなんだったのか。何のために、何を伝えようとしていたのか。その問いを突き詰めると、以下の一言に収斂されるだろう。「3の奇跡的な結末を否定する意義があったのか?」。その答えは観客のひとりひとりが、作品との対話を通して導き出すことになる。僕は導き出した。その意義は確実にあった。
1の冒頭から一貫して「子供とオモチャ」の関係性、その構造の話を繰り返してきたシリーズである。彼らオモチャの、オモチャとして生きる = 子供に奉仕することの喜びや尊さと同時に、いずれ飽きられ捨てられ死んでしまう構造的恐怖も常に描かれて続けてきた。しかし、1でも2でも3でも、結局ウッディはその運命から逃れ続けてきたのだ。アンディという守護天使がいたから。
ずっと死の恐怖と向き合い続けてきたシリーズの責任として、明確な"死"と、その"受容"を描く。これが僕の思う、4の意義だ。ウッディをオモチャとして死なせることに意味があった。そして死の先 = 構造の果て = 無限の彼方に、新たな生き方を見つける。そうしてカウボーイは救われる。慈悲と救済。
現実の我々が学べることは、お前も死んでみろということではなくて、あなたも変われるよ! という前向きなメッセージだ。社会でも家庭でも、なんでもいいが、あなたを恐怖で苦しめる構造があるなら、そこから抜け出していい。その世界で積み上げてきた価値観があなたを苦しめるなら、考え方を変えればいい。生き方は一つじゃない。誰でも、何歳からでも変われるし、どこへでも行ける。無限の彼方へも。ずっと"人生"を描き続けてきたトイシリーズだからこそ、描く重みのあるテーマだ。自由と解放。
死について考えることと、それを前向きに受け入れることも、別に暗いテーマではない。生きている限り、死は不可避なのだから。むしろトイ4の描き方はかなり優しい。こういう地獄男映画に出てくる地獄男は、惨たらしく死ぬのが普通だ。最終的に彼が新しい生き方、違う幸せを掴み、救済されたのは本当に素晴らしいこと。僕を含む、現実に生きる男性たちも、ウッディのように"有害な男らしさ"を克服することができるだろうか。ボー・ピープの大胆なイメチェンに代表される、自由で開放的な女性キャラの活躍は、もちろんフェミニズムやポリティカル・コレクトネスの文脈を踏まえたものだが、それ以上に、"有害な男らしさ"を想起させるオモチャらしさ = 価値観 = 構造に捉われて苦しんでいるウッディとの"対比"の意味合いが強い(男性のテーマを引き立たせるための女性表象って、なんだか逆行してるような気もするが)。
違う生き方があるよ! と示すことは古い生き方を否定するものではない。夫婦別姓が同姓を否定するわけでも、同性婚が異性婚を否定するわけでもないのと同様に。トイ4も、オモチャが子供に奉仕することそのものを否定などしていない。ただ、ウッディが新しい道を選んだだけのこと。構造を否定したり破壊したりするのではなく、共存しながら、自分は異なる幸福を追い求める……という、ちょうどいい距離感。僕はそういうのが好きだ。それは構造に多様性をもたらす。いずれオモチャは捨てられる(その運命は避けられない)が、その先でウッディのような幸せを掴むこともできる。構造の否定ではない。改革だ。
考えれば考えるほど、真摯だ。現実的でありながら、暗くなり過ぎない。むしろ明るくて優しいメッセージを届けてくれている。改めて僕は、3のその先に4を作ったことは、意義深いことであったと思う。
避けられぬ死。大切な存在の喪失。有害な構造と、その中で自ら内面化してしまう有害な価値観。いずれも我々の極めて身近にある、切実なテーマだ。人生の課題だ。それらと向き合い、乗り越え、あるいは受け入れていくためのヒントを与えてくれる『トイ・ストーリー4』は、まさに今を生きる我々にとっての"人生の教科書"と言える。我々は多くのことを、トイ4から学べるはずだ。
"僕"のこと
さて、長い長いトイ4のお話が終わって、ここからようやく随筆パート。僕の個人的なお話をする。というか、今まで書いてきたことも、僕の個人的な解釈に過ぎないのだが。まぁでも、誤読の指摘とかは、気の向く限り受け入れます。一応、世に出す以上は責任がある。あとほんの少しだけお付き合いを。
"有害な男らしさ"との対峙
前編の、冒頭の問いに立ち帰る。なぜ僕はトイ4が好きなのか。人生の教科書などと大層なことを書いた(し、実際に素晴らしいテーマやメッセージは充分に含まれていると思う)が、完璧な映画かと言われると、まぁ……首を縦に振ることは難しい。完璧と言える映画なんてほとんど無いんだけどね。むしろ欠点のある映画の方が愛おしかったりして。なんせSSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の映画群を愛好して、ブログを書いたりしているくらいなのだから。
SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。 - 裏切りのサーモン
SSUを愛好するのは、それらが"有害な男らしさ"を批判的に描くシリーズであるから。この概念の説明は前編で行った(はず)ので省く。そういう作品に出てくる男を、僕は地獄男と呼び、地獄男映画を愛好していることも伝えたと思う。伝えてなければ、今知ったね。地獄男映画のブログも前に書いた。トイ4の話もしているので、暇な時に読んでみてほしい。
"地獄男映画"愛好家の地獄めぐり備忘録【前編】 - 裏切りのサーモン
「なぜトイ4が好きなのか」の根源的な理由は、「トイ4が地獄男映画だから」になる。「もう俺にはこれしかないんだよ!!」「忠誠心だよ」って、こんなんさぁ、地獄男映画でしか聴けない台詞だよ。有害な構造を内面化し、自分で自分を苦しめている囚人になってしまった、哀れな男の吐く言葉だ。悪いのは構造です。でも、その構造の中で生まれ育ち、価値観を内面化した男は、やがて自らもその構造を強化する一部となってしまうので……厄介ですね……。被害者であり加害者。それが"有害な男らしさ"について考え、議論するときの難しいポイント。彼らは「ケアが必要な加害者」なのだ。でも加害者をケアしていられるほど、今の社会に余裕はない。被害者へのケアすらままならないのに。なんとかしたいね。
この「なんとかしたい」が僕の原動力だ。被害者の救済がもちろん最優先だが、それと同時に、加害者あるいはこれから加害者になってしまうかもしれない人たちをケアして、加害者を減らすことで被害者を減らす。社会をよりよく変えていくためのコストは、マジョリティが支払うべきだ。そういう使命感。僕が社会(とそこで生きる個人たち)のためにできる、最も重要なことが、有害な男らしさについて語っていくことだと思っている。
僕自身も男性の端くれとして、自らの"有害な男らしさ"を自覚するところはあるし、そう簡単には変えられないとも理解している。向き合っていきたい。そして同時に、自分はいわゆる"男らしさ"から外れた存在であるという自認もある。ようは、ホモソに馴染めないのだ。子供の時からずっとそう。運動も勉強も微妙なので、体育会系にもエリートにもなれない。あと、いちばん大きいのは僕の性的指向。つまりバイセクシュアルである、という点かも。ヘテロではない。自分は純度100%の男性ではない、という意識は物心ついた頃からあった(発達の問題もあって、物心がついたのは割と最近だが)。
男には馴染めないが、自分は男だし、男が好きな気持ちもある。そんなアンビバレントな心境が、"有害な男らしさ"という概念への興味を僕に抱かせたのか。断言はできないが、たぶんそんな感じだろう。"男らしさ"について、男性について知ることが、自分を知ることになっていく。"男らしさ"に馴染めない自分が、より生きやすい世の中に変えていくことにも繋がる。そんな期待。
なんたって、今の世の中でまだまだしぶとく力を持っているのは男性たちなのだ。望むと望まざるとに関わらず、彼らの流儀を知らなければ、この世の中を上手く渡っていくことなどできない。上手く渡っていかなければ、僕のようなマイノリティは簡単に沈んでしまうだろう。そういう恐怖もある。悔しいことだが。
そんな訳で、"有害な男らしさ"を想起させる構造と価値観の悲劇を描いた"地獄男映画"であるトイ4を、僕が愛好するのは自然なことである。ただ、それだけではない。ここから先のことは、このブログを書いている途中に気づいたことなのだが。
喪失、そして新しい生き方
ウッディの経験する「死の受容」と「対象喪失」。これらもまた、僕にとっては重要なトピックである。僕が人生で経験した最も大きな出来事は、母親との死別だ。前編でも触れたが。僕が18歳の時なので、だいたい5年前(2024年時点)か。全然まだ引きずっている。ウッディのことなんも言えん。さすがに少しずつダメージはマシになりつつあるが、一生消えることはないだろう。抱えたまま生きていくしかない。それでいい。
というのも、母親がガンになって、少しずつ弱っていって、それと同時に僕も学校をサボりがちになり、それでもなんだかんだ18歳になって大学へと進学し、それを見届けるようにして母親が亡くなり……。それから僕は(せっかく進学したのに)本格的に学校へ行けなくなり、カイジしか観れなくなって、やがて辞めた。心療内科で鬱(不安症と睡眠障害)を診断された。これは一生ものだ。今でも時々、布団から起き上がれなくなって一日を寝て過ごすこともある。
病床で、母はときどき映画を観ていた。幼い頃の僕や姉と、一緒に観ていたような作品たち。その中には『トイ・ストーリー』シリーズもあった。当時はまだ3までしかなかった。入院生活の全てを僕は知らないので、実際はわからないが、母の最後に観た映画が『トイ・ストーリー』シリーズだった可能性はある。僕の中ではそういう位置付けだ。そして結局、4を見届けることなく母はこの世を去った。
やがて4は公開されたが、当時の僕はカイジしか観れない状態だったので、スルーした。なんか評判も悪かったし。母親の最後の映画かもしれないトイストーリー。その続きが、クソつまらない映画だったら……と思うと、どうしても観ることができなかった。
結局、4を観たのは去年だ。めちゃくちゃ面白かった。地獄男映画だったから。もっと早く観ればよかったかもしれないが、でも映画をいっぱい観るようになって、地獄男映画愛好家になった今の僕だからこそ、4を楽しめたのかもしれない。
元々通っていた大学を辞めたあと、しばらくフリーターをして過ごしながら、色々な出会い(人であったり、映画であったり)を経験して少しずつマシになっていった僕は、通信制の大学(放送大学)へと進学した。布団の中で寝転びながらでも、眠れない真夜中でも、自分なりのペースで学べるところだ。今でも続いている。多くのことを学んだ。構造主義も、対象喪失も、みんなここで学んだものだ。
同世代が就職し、それぞれ社会で活躍しているであろう中、僕はまだ学び続けている。叶うことなら、ずっとこうして学び続けながら生きていきたい。元々あった社会のレールからは、多少外れてしまっているのかもしれない(ありがたいことに包括してもらっている感覚もある)が、それでもなんだかんだ、生きている。正直、今がいちばん楽しい。今後の人生も、自分なりのやり方で生きていこうと思う。
喪失の傷を負いながら(今もそれを抱えながら)、新しい生き方を選び、僕は幸福を享受している。ウッディのように。……そりゃトイ4好きなわけだよ! 考えてみれば当たり前のことだが、このブログを書くまでは気づかなかった。そのことに気づけただけでも、書いた価値はある。そしてトイ4は素晴らしい映画だ。僕にとっては。
皆さんももう既に、あるいは遅かれ早かれ、喪失を経験する。生きている限り、人を愛する限り、それは避けられない。それでも人生は続いていく。痛みを受け入れて、新しい生き方で再び歩き始めるとき、トイ4は、ウッディは、あなたの背中を押しながら共に歩いてくれることだろう。彼らの旅路に、僕たちも着いていこう。トイ5、いやその先、もっと向こうへ。
無限の彼方へ、共に行こう。