ウォシャウスキー姉妹の映画(監督作品)を全部観たので、今回は、それら全ての作品に共通するテーマである"支配のシステム"との戦い と、その描き方の変遷 を考えた上で、『マトリックス レザレクションズ』 のテーマとメッセージを読み取ります。
【前編】↓
キーワード
「支配のシステム」「自分が何者かは自分が決める」「人は死んでも理念は死なない」「個人の幸福と革命の大義」「二元論の超越」「愛と選択」「語り直し」「虚構(創作)の肯定」
⑧『マトリックス レザレクションズ』(2021年)
3部作のゲーム「マトリックス」をつくったクリエイター・アンダーソンは、夢と現実の境界が曖昧になる症状や度々生じる既視感に悩まされていた。社内では新作「マトリックス4」の企画が持ち上がり、その制作に追われる。そんな中、彼は自身がつくったゲームのキャラクター・モーフィアスと遭遇する。
本作の監督は姉のラナ・ウォシャウスキーのみで、妹のリリーは参加していません。これには複数の要因があると考えられますが……。姉妹の両親が相次いで他界したことを、理由の一つとして挙げることは可能でしょう。ラナは両親の死の悲しみを紛らわせるために、本作『レザレクションズ』を作った、とも語っています。本作は約20年ぶりとなる『マトリックス』シリーズの"続編"です。リブートでも、リメイクでもなく。
……さて、どう書いたものでしょう。何度も何度も繰り返し本作を鑑賞しましたが、上手くまとめられる気がしません。仕方がないので、とりあえず最初から順を追って、一つずつ考えていくことにします。長くなりそうですが、どうかお付き合いを……。
前編の反省は文章の"常体"と"敬体"が混在していたこと。なんか、筆が乗ると勝手に常体になってしまうんですよね。なので、ここからは全部、常体でお送りする。よろしくどうぞ。
「この話 知ってる」
冒頭。いつものワーナーロゴ。いつもの数字とカタカナがワーッと出てくるやつ。いつもの音楽。そして、迫り来る警察の部隊を蹴散らすトリニティ……。うん、『マトリックス』じゃん! "語り直し"どころの話ではない。同じことが起きている。ただ、違うところもある。一連の流れを観察している、謎の人物・バッグス(とシーク)の存在。トリニティも、似ているけど違う人。現場に到着したエージェント・スミスに至っては、人種が変わっている。私たちは一体、何を観ているのか。わからないまま、状況は進んでいく。
本来の展開とは異なり、エージェントに拘束されてしまうトリニティ(?)。事態に巻き込まれ、エージェント・スミス(?)の攻撃を受けたバッグスは、鍵店に逃げ込む。エージェントたちに見つかる寸前、間一髪のところでバッグスを助けたのは、先ほどのエージェント・スミス(?)その人だった。
「繰り返す奇妙なループの中に 我々はいる」
鍵店の扉の先、真っ白な部屋を抜け、スミス(?)とバッグスの二人は"トーマス・アンダーソン"の部屋へと辿り着く。これは現実の世界じゃない、という"違和感"を通じて、共鳴する二人。主人公たちにとっての敵でありながら、自らシステムの一部であることを自覚し、迷いや苦しみを抱える存在としてのスミス。その人物造形が活きている。
本作が、繰り返しを打破する物語であるならば……『リローデッド』で提示され『クラウド アトラス』で描かれてきた"繰り返す人の支配"と向き合い、それを乗り越える(ためのヒントを与えてくれる)展開を、私たちは見ることになるのかもしれない。
いま彼らがいるのは、どうやら"モーダル"という、繰り返すことで進化していくシミュレーションの中だとのこと。何度も何度も繰り返すことで、スミス(?)は違和感を覚えた。繰り返しは無駄ではない、ということか。
「私は… モーフィアス。ネオを見つけ出す」
なんと、スミスはモーフィアスだった(意味がわからない)。まぁ、これに関しては、また後で改めて考えるが……。いま言えるのは、二人ともネオを捜索し、見つけ出し、試練を与え、(結果的に)救世主として覚醒するのを導く存在であった、ということか。
真実の赤いピルを選択した、新・モーフィアスの"取り出し"が始まる。人間のみならず、プログラムも望めばマトリックスから脱出できる。時代は進んだものだ。なぁ、旧・スミス。
「どのドア?」と訊かれて指差したドアが、出たらエージェントたちの目の前(大間違い)だったり……「エージェント・スミス?」と呼ばれて、思わず吹き出しちゃったり(そりゃこんな意味不明な組み合わせを自覚しちゃったら、笑うしかないよな)……と、新・モーフィアスには、ユーモラスなところがある。
なんとか、モーダルを脱出した新・モーフィアスとバッグス。そして場面は変わり、パソコンをポチポチするジョン・ウィック、じゃなくて、トーマス・アンダーソン。今度は何が起きているのか。またしても、混沌へと引き摺り込まれていく観客たち。
『BINARY(バイナリー)』
見た目がジョンというか、いまのキアヌそのまんまであることにも、意味はある。あとで触れるが。
デスクの上には『リローデッド』での、落下しつつ射撃する、印象的な場面のトリニティのフィギュア。飾ってあるトロフィーは、実在するゲームの賞を受賞して貰えるものと同じだそう。モニターには制作途中のゲーム『BINARY』のロゴが。バイナリーとは、「二進数の」や「二つからなる」といった意味。男性か女性か、という二元論的な枠組みに当てはまらないセクシュアリティのあり方を、ノンバイナリーと呼ぶのを知っている人も多いのでは。
本記事の前編で書いたように『マトリックス』とは二元論を超越する救世の物語だったはず。しかしいまトーマス・アンダーソンはバイナリー(二元論)という名の精巧な虚構を作り、その構造と、中に生きる知性たち(AI)を管理する仕事をしている。マトリックスの管理者(アーキテクト)のように。
「あのトリロジーは衝撃だったよ」
いま我々の目の前にいるのは、伝説のゲーム『マトリックス』トリロジー(三部作)を開発した、天才ゲーム・クリエイターのトーマス・アンダーソン。こんなところにメタフィクションがある。興奮してきたな(サンドウィッチマン)。
アンダーソンの同僚で、マトリックスのテーマ性を捲し立てるオタク丸出しの男性、ジュード。どこか、自分を見ているような感覚もある。
「エロいママ」
コーヒー店・SIMULATTE(シミュラッテ。Tを一つ抜くと……なんて、くだらない冗談だが)。ジュードと共にそこへやってきたアンダーソンは、子供を連れた一人の女性に目を奪われる。横から、エロいだのなんだの、ろくでもないことを言っているジュード。アンダーソンに呆れられると、自分はオタクだ、ゲームで育ったんだなどと御託を並べるが、そんなもん言い訳にはならない。(相手には届いていないものの)ひどい発言であることに変わりはない。
彼の人物造形は、いわゆるインセルというか、ミソジニストというか。洋の東西を問わず、こういうオタクは少なくないのが現実だ。歴とした社会問題であり、非モテなどと冷笑するべき対象ではないのだが、このジュード(『マトリックス』オタク)に対し、あえて突き放すような言い方をすると「お前は『マトリックス』の何を見てきたんだ」とは言いたくなる。濡れ場の多い『マトリックス』およびウォシャウスキー姉妹作品だが、しかし同時に一貫して、性的消費を悪しきものとしても描いてきたのだ。どこに目をつけてやがる、という気持ちは大いにある。『マトリックス』やウォシャウスキー姉妹作品に限った話でもないが。差別反対のメッセージを含んだ作品を愛好しながら、平気で差別をする人は、残念ながら大勢いる。創作物にメッセージを込めること。メッセージを読み解き、語ること。これらの営為は、無力なのか。
話を『マトリックス』に戻すと、本作の場合、とりわけインセルやミソジニスト以上に、陰謀論者に都合良く利用されてしまっている現状がある。本邦ネット言論空間においても、その一端を垣間見ることは可能だが、特に海外、欧米において、その猛威は凄まじいものがある、らしい。はっきり言って、現代における『マトリックス』は、"陰謀論者御用達コンテンツ"と化してしまっているのだ。
まぁ、考えてみれば、確かに"相性の良い"作品ではある。僕たちの生きている世界は、実は全部作り物の虚構で、嘘を"真実"だと思い込まされていて(僕たちはみんな洗脳されていて)、本当は、僕たちの世界は巨大な陰謀によって支配されてしまっていて、日常の違和感から"気付き"を得て、やがて"目覚め"、真実を知ることになる、という……。
『マトリックス』側の、そもそもの陰謀論との相性の良さもあるだろうが、それだけでなく、陰謀論者側(デマやフェイクを流布し、不安や恐怖を煽ることで、利益を得ようとする者)が、『マトリックス』を都合良く利用している側面もあるだろうことを、失念してはならない。
お馴染みイーロン・マスクが、Twitterにて(あえてこの名前で呼ぶよ) 「Take the red pill(赤いピルを飲もう) 」と呼びかけ(このRed Pillというのは、アンチ・リベラル、アンチ・フェミニズム界隈の合言葉のようなもので、本当は白人男性こそが差別されているのだ、という"真実"に気付くことを指していたりする)(最悪だと思う) 、イヴァンカ・トランプ(トランプ大統領の娘) が引用リツイートで賛同を示し、それらのやり取りに対し、リリー・ウォシャウスキー(妹) が「Fuck both of you(てめえらくたばれ) 」という内容のリプライを送った一件は、大きな話題を呼んだ。
件のツイートのリンクを貼るべくTwitterでリリーのアカウントを探したが、発見できなかった。Blueskyにはあった。移動したのだろう。賢明だ。
代わりに、『マトリックス』の誤った解釈についての、近年のリリーによる公式の発言を見つけることはできたので、そちらを貼っておく。
要するに、このジュードの描写は、現実に存在する一部の(というには、かなり多い)『マトリックス』のオタクでありながら、インセルやミソジニストである者や、または『マトリックス』を利用する陰謀論者に対する、痛烈な批判である。ここが本当に大事なポイントで、このための『レザレクションズ』と言ってもいいくらい。作品のメッセージを、誤った受け取り方をしている人たちに対し「この物語は、あなたたちのためのものではないよ」と宣言する行為。ファンダムのオタクに冷や水をかけるための続編、僕だいすき。トイ4もフォリアドゥも。"語り直し"の持つ、大きな意義だ。
では誰のための『マトリックス』なのか。そのことも考えつつ、この先の展開を見守りたいと思う。
本編の読解に戻る。
「前に会った?」
成り行きでその女性・ティファニーと会話することになったアンダーソン。彼女は、どっからどう見てもトリニティ。独身のアンダーソンに対し、ティフは、夫のチャド(『ジョン・ウィック』シリーズの監督で知られる、チャド・スタエルスキ。『マトリックス』シリーズではキアヌのスタンドダブルを担当。言わばキアヌの分身、もう一人のキアヌ) との間に、二人の息子と一人の娘をもうけている。チャドが夫なのは別として……この家族構成は、実際の(当時の)キアヌ・リーブスと、キャリー = アン・モスのそれと同じ。キアヌの容姿そのまんま問題の"意味"は、まさにここにある。メタフィクション展開や、インセル批判等と合わせて、本作がいかに"現実に根差している"(現実の社会に向けて、テーマを語ろうとしている)かの、証左に他ならない。すごく抽象的なことをやっているようで、読み解いていくと、極めて具体的な"現実"の話をしているのだ。
僅かに違和感を抱くものの、お互いの正体や真実に気付くことはなく、そのまま別れる二人。オフィスに戻ったアンダーソンは、ボスに呼び出される。
「数十億の人々がこの中で生涯を過ごす」
うん、どう考えてもスミス。この映画、スミス多いな(もともとスミスは多いか)。ただし、やはりと言うべきか、顔は変わっている。のちに、彼自身が「より完璧になった」と表現するような、碧眼のハンサム(ヒューゴに失礼だぞ)。部屋の隅には、『レボリューションズ』でのスミスの勇姿()を模ったスタチューが聳え立っている。
「物語というものに終わりはない。同じ物語を語り続ける。違った名前と違った顔で…」
緊張した様子のアンダーソンに、新スミスことボスは、『マトリックス』トリロジーの続編の計画を打ち明ける。親会社のワーナー・ブラザーズに強要されたとのこと(ほんと、ろくでもないな)(買収されたね)。資本主義って、いやだなあ(和風総本家)。そして上述の台詞を吐く。これぞまさに、ウォシャウスキー姉妹のフィルモグラフィそのものと言えるだろう。終わりなき支配と戦い続ける、終わりなき愛と革命の物語。設定や登場人物は変わっても、根本にあるテーマや、メッセージはいつも同じ。何度も何度も、繰り返し、同じ話を語り続けてきた。
その現実がいま、アンダーソンに襲い掛かる。幻覚を見るほどのストレスに苦しめられるアンダーソン。自分の意志とは関係なく、永遠に同じことを繰り返すだけの戦いは、恐怖そのものだろう。モーダル(無限ループ)に閉じ込められていた新・モーフィアスも、同じ苦しみを味わっていた。本作の"問い"は「"支配のシステム"との戦いは、永遠に同じことを繰り返すだけなのか?」「同じことを繰り返すだけだとして、その積み重ねに意味はあるのか?」とまとめることができる。これまでの姉妹のフィルモグラフィを、まるごと相対化するような壮大な試みだ。
「どう感じたかい?」
ストレスに圧倒されたアンダーソンは、アナリスト(精神科医)のカウンセリングを受けることに。どうもアンダーソンは過去に自殺を図り、それ以来こうして通院を繰り返している様子。ときおり、現実(ゲームクリエイターのアンダーソン)と空想(救世主のネオ)との区別が付かなくなり、幻覚が見えるとのこと。青いメガネをかけ、青い服に身を包むアナリストは、アンダーソンに優しく語り掛ける。
「二者択一でなく 別の見方もあるだろうね」
過去に自殺を図り、生き延びたこと。そして想像力が豊かなこと。アナリスト曰く、この二つが組み合わさることで、アンダーソンは幻覚(人生を脅かす作り事)を見るようになったのだとか。姉妹が過去に何度か、自殺を連想させるような演出をしてきたことを、想起させる台詞だ。
アナリストは、アンダーソンの"幻覚"(という名の過去の真実)に合理的な説明を与えると同時に、"二元論の否定"という、患者にとって気持ちのいい概念を持ち出すことで安心させ(本人にそうと気付かせないまま)、懐柔していく。そして、「いつもの薬を」と言って、青いピルを服用させ続けるのだ。
言っていること自体は救世主のネオと同じなのに、やっていることは真逆。まるで、『マトリックス』のメッセージを作り手の想定とは真逆の解釈で受け取り悪用する、陰謀論者のよう。
『マトリックス4』
こうしてアンダーソンの開発地獄が始まる。テーマは「"マトリックス"とは何か?」。開発スタッフは口々に語り始める。マトリックスとは……「頭がヤられる」「暴力」「精神ポルノ」「ニュー・セクシー」「トランス・ポリティクス」「隠れファシズム」。
リブートはあり得ない? リブートは売れる?
ひとことで言うと……バレット・タイム! 新しいバレット・タイムが必要だ。再び革命を!
うーん。どれも間違いではないが、どれも正解とは言い難いような。多様な解釈の余地があるのが、本作の良いところでもあるわけだが(先ほどから「誤った解釈」の話を何度かしているが、そういう、明らかな不正解は別として……多様な"読み"と正解が成り立つ = 唯一絶対の正解があるわけではないことは、優れた作品の証と言えるのではないか。無茶な読みができてしまうことの問題点は無視できないが、しかしそれは名作と呼ばれる創作物には付き物の課題でもある) 。
多様な読みと"正解"を尊ぶこと。一方で、明らかな"不正解"は否定すること。多様性にまつわる"寛容のパラドックス"を想起させる、線引きの難しい問題だ。僕も、そのタイトロープの上を渡っている。
煮詰まってしまい(誤用)、追い詰められていくアンダーソン。その憔悴ぶりには胸が痛む。ラナもこんな想いをして本作を生み出したのだろうか。ラナ自身にとっての「マトリックスとは」、いったい何なのか。
「これって私が女性だから?」
限界を迎えたアンダーソンは、カフェで例の女性・ティフに声をかけ、お茶することに。救いを求めたのだろうか。互いに悩み(疑問、"違和感"、生きづらさ)を抱える二人。ティフは言う。
「家庭が欲しかった。それって私が女性だから? 自分の意志? そう育てられたから?」
いい着眼点だと思う。構造主義と自由意志の狭間。テーマ自体はいつも通りだが、このように、"女性の生き方"について取り上げたのは、『マトリックス』シリーズでは初めてのことではなかろうか。
アンダーソンのことをググったというティフ。彼女はゲームのことについて、いろいろと質問をする。主人公・ネオのこと。そして、トリニティのこと……。記憶はないものの、ゲームの中のトリニティに奇妙なシンパシーを感じている様子のティフ。
「夫のチャドに見せて"どう思う?"って。(彼は)分かってないから…。"似てない?"って。そしたら…笑ったの。だから私も一緒に笑うしかなかった。無性に腹が立った。笑った自分が悔しくて。夫を思い切り蹴りたかった。ほどほどによ。アゴが外れるくらいに」
名台詞、名場面だ。本音を打ち明け、心の安らぎを得る二人。すると、ティフの携帯が鳴り、お茶は終了する。後で見返すとわかることだが、二人の心の距離が縮まりそうになるたび、ティフの家族が顔を出し、二人の仲を無理やり引き裂いていく。何者かの意志を感じる。それも露骨な。
「久しぶりの登場はトイレの個室から」
オフィスに戻ったアンダーソン。すると今度は会社のビルにFBIの職員が押し寄せ、避難を指示される。アプデに怒った14歳がウソの通報をしたんだろう、と予想し、呆れつつも指示に従う人々。そんな中、アンダーソンの携帯に送信者不明のメッセージが届く。
"答えを知りたければ通路の奥のドアへ"。
ジュードの悪戯を疑いつつも、指示に従いトイレに入ると、そこには新モーフィアスが。
ついに会えた、と旧モーフィアスの台詞を引用するも、なんとも間の抜けた登場。彼は、アンダーソンが作成したモーダル(無限ループのシミュレーション・プログラム)の中のモーフィアス。答えはここにあると告げ、赤いピルを差し出すモーフィアス。しかし、目の前の現実を受け入れられないアンダーソンは選択を拒絶してしまう。
そこに、特殊部隊の隊員たちが突入。ゲーム企業のオフィスは銃撃戦の舞台と化してしまう。これは妄想だ、と自らに言い聞かせるアンダーソン。爆破と共にスプリンクラーが作動し、あたりに水滴と銃弾が飛び交う中、同じく困惑した表情で現れたのは、ボスこと新スミス。彼は、足もとに落ちていた拳銃(デザートイーグル)を見つめ、"違和感"(あるいは既視感)を覚えつつ、おもむろにそれを拾い上げると、やがて恍惚とした表情を浮かべ、そして……
「アンダーソン君!(ミスターアンダーソーン!)」
と甲高い声で叫ぶ。無事、覚醒です。おめでとう。おかえり。待ってたよ。
全ての運命が決したはずの……あの、『レボリューションズ』での雨の決闘。その決着から20年の時を経て、止まっていた時計の針がいま再び動き出した。今回の始まりは、スミスの覚醒によって。その高らかな叫びは、黙示録の始まりを告げるラッパの音か。
覚醒した、その瞬間から"アンダーソン君"目掛けて鉛玉をぶっ放す、安心と信頼のスミス。
「会いたかったよ」
キャーッ! 僕も会いたかった!
ただ逃げ惑うばかりのアンダーソン。混迷を極める戦場に、唐突に、一匹の黒猫が姿を現す。一作目の、デジャヴュ(マトリックスの書き換え)の場面で登場したのと、よく似ている。繰り返し"これは妄想だ"と、何度も何度も自らに言い聞かせるアンダーソンの脳天を、スミスの銃弾が貫いた……。
「聞こえるかい?」
気が付くと、そこは診察室。目の前にはアナリストと、"デジャヴュ"という名の彼の飼い猫が。
アナリストは言葉巧みに誘導し、メッセージも襲撃もなかった、現実と空想の区別がつかなくなっている(アンダーソンが飛び降りを試みたときと同じ症状)と、アンダーソン自身に思い込ませようとする。
現実のように思えた、と訴えるアンダーソンに対しアナリストは、「現実と区別できないゲームを、君は目指した」「自身の日常の要素を物語に仕立てた」と言い、もっともらしい理屈を与える。
「アーティストにはよくあること」としつつ「だが空想が周囲に危害を及ぼせば問題だ。誰も傷つけたくないだろう」と、アンダーソンが"違和感"を追うのを防ごうとする。ある意味、彼の優しさを逆手に取り、利用しているとも言える。
僕自身、心療内科でカウンセリングを受けたことがあるので、わかるのだが、このアナリストの物言いは実に本物の"それ"っぽくなっていて、現実味がある。不安や混乱に襲われる患者を落ち着かせ、納得できる理屈を与え、考え方のヒントを示してくれる。常に冷静なプロと対話することで、患者は安心し、なんでも打ち明けることができるのだ。落ち着かせることや、納得感を与えることだけが、彼らの仕事ではないが。
世の中の、ほとんどのセラピストやカウンセラーは悪い人ではないと思うが、今作のアナリストは患者と医師との不均衡なパワーバランスを利用して、何やら悪巧みをしている様子。その語り口の現実味も含め、なんとも恐ろしい相手だ。
「"心を解き放て"」
酒瓶片手に、ビルの屋上から夜の街を見下ろすアンダーソン。トリニティと紡いだ愛の記憶、そしてその凄惨な最期が思い起こされる。これまでのウォシャウスキー作品は、愛の記憶によって人が強くなる物語を何度も描いてきた。しかしいまアンダーソンは、その愛(と悲惨な最期)の記憶に苦しめられている。
記憶の中の、旧モーフィアスが語り掛ける。「心を解き放つんだ」と。そう言ってモーフィアスは、ビルからビルへと飛んでみせる。傍らの鳥が羽ばたくのを見たアンダーソンは、(精神疾患とアルコールの相乗効果で)"心を解き放つ"べく、再度、屋上からの飛び降りを試みる。恐る恐る、片足を前に出した瞬間。
「あなたは私の人生を変えた」
冒頭のバッグスが、アンダーソンの身体を掴んで、飛び降りを阻止した。かつては、"電池"の一人だったというバッグス。しかし、過去にアンダーソンと……ネオと出会い、その力を目の当たりにしたことで覚醒し、このマトリックスの中から抜け出せたという。
ウォシャウスキー作品で"自殺を止める"展開が描写された。これは、意義深いことだと思う。これまでの作品群は、なんというか、"命が軽い"ように見えて。確かに、信念を貫くためや、愛する人を守るための(やむを得ない)自己犠牲は立派かもしれないし、自由や真実を求める戦いは、支配という名の仮初の平和を否定するものなので、ある程度の流血は避けられないのかもしれない。しかし誰も死ななくていいのなら、それに越したことはない。
いまアンダーソンが行おうとしていた、精神疾患とアルコールの相乗効果による、自暴自棄のスーサイドを、ラナは明確に否定した。
バッグス曰く、ジュードはアンダーソンを操るためのプログラム(つまりジュードの背後にいる存在が、インセルであり陰謀論者であるということ)で、敵は(その辺にいる人間を上書きし襲ってくる)エージェントではなく、(その辺の人間に擬態し、そのまま襲ってくる)"ボット"とのこと。確かにボットは厄介だ。
ウサギのタトゥー(星型の痣のマークがあるけど、イースターエッグなのかしら)のバッグスに導かれ、アンダーソンは"真実が待つ"という、光る扉の向こうへ。いよいよ物語が動き出す。
物語が動き出す、ということはつまり、提示された問いの答え合わせが始まるということで、一旦、ここまでの論点をまとめて整理しておこう。そんで、ここから先はもう少しテンポよく進めていけたらと思う。問題提起パートが長すぎた。
「繰り返す奇妙なループの中に 我々はいる」
「物語というものに終わりはない。同じ物語を語り続ける。違った名前と違った顔で…」
本作に至るまでのウォシャウスキー姉妹のフィルモグラフィを、まるごと相対化し、同じことの繰り返しでしかないのか、そうだとして、そのループに意味はあるのか、という問い。 僕のブログ(前編)を読んだ人にとって、その答えは自明だが、監督本人はどう回答するのか。
「エロいママ」
「これって私が女性だから?」
いまや、インセルやミソジニストから派生した陰謀論者の玩具と化しつつある『マトリックス』。多様な読みを許容する余地のある、器の大きいシリーズではあるものの、明らかに間違った(悪意のある)(有害な)解釈が広まっている現状に、作り手はどう対応するのか。『マトリックス』の問いは、女性やマイノリティといった抑圧されている人々を解放するためのものではなかったか(無論男性も抑圧から解放されるといい)(みんな解放されるべきだ)(自分たちが解放感を味わうために、弱者や少数者を抑圧するのはおかしいよね、ということで) 。いま、このタイミングで、マトリックスを復活(レザレクション)させる意味とは?
『マトリックス4』
本作において「マトリックスとは?」の問いが頻出するのも、本作がメタフィクションの構造をしているのも、上記の問題 = 現代の現実の社会における、『マトリックス』の持つ意味とは。果たすべき役割とは。誰のための、何のための『マトリックス』なのか。これらに、まとめて回答するための(現実と接続するための)仕掛けだ。 二十数年の時を経て、数々の作品を世に送り出してきた(支配のシステムとの戦いを繰り返してきた)ウォシャウスキーが、いま再び『マトリックス』を撮ることの意味とは。目的とは。
終わりなき"支配のシステム"との戦いの繰り返しの先に、何があるのか。
こんな感じだろうか。これらの問いに答えるためのヒントは、このブログの初めに列挙した、キーワードたち。つまりウォシャウスキー作品に通底するテーマが、繰り返しの軌跡(積み重ね)が、われわれを解放へと導く、レッド・ピルとなるだろう。
結局短くまとまってない気がする。つまり今作は、マトリックスのメッセージが歪められてしまっている現代に、様々な作品を経てマトリックスに帰ってきた作り手自身が、改めて"マトリックスとは何か"を示す(ためにメタいことをしている)。そういう作品だ。
では、本編の読解に戻る。テンポよく行こう。
「現実の世界へようこそ」
"違和感"の答えを求め、レッド・ピルを飲み込んだアンダーソン 、もとい、ネオ の"取り出し"が始まる。
やっとネオと書ける。
アナリストの執拗な妨害("ボット"の襲撃)を躱し、再び目覚めるネオ。一作目同様、ポッドの中で無数のコードに繋がれた状態。違うのは、だだっ広い空間にポッドがポツンと二つだけあるところ。ネオのポッドと、もう一つは、トリニティのポッドだ。
そこへ突如現れた機械によって、ネオはポッドから解放され、人類の船へと運ばれていく。
「敵対するプログラムのコンボパック」
ネオを完全に目覚めさせるため、真っ白な仮想空間の中で、新モーフィアスは語り掛ける。ネオの作ったものが、ネオを覚醒へと導く。虚構を生み出すこと、物語ることの肯定とも取れる。
「君には1つだけ 大切なものがある」
かつてのように道場を用意し、完全に復活するためには「戦って勝ち取れ」 と告げる、新モーフィアス。ネオは「戦うのはやめた」 と返す。アクション・ヒーローとして有名なネオだが、もともと彼は、好戦的な性格ではない。それにいまは、現実に打ちひしがれ、生きる目的を見失っている状態だ。新モーフィアスとの格闘戦と対話を通じて、"トリニティのために戦うこと"を新たな生きる目的と定めたネオは、両手から衝撃波(救世主の能力)を放ち、見事"復活"を果たす。
"自分がどうあるか"を選択するのは、実際は"誰をどう想うか"の問いなのでは。ネオはいつだってそうだった。モーフィアスを救うため、死地へ飛び込み、トリニティに愛され、彼は救世主となった。自己決定の前には、必ず他者との繋がり、愛があった。
『マトリックス』は、そういうシリーズだ。
「あなたのおかげで全てが変わった」
意識を取り戻したネオは、自身とトリニティの真実がマトリックスに奪われていたこと。そして預言者(オラクル)がアプデで消されたことを知らされる。
以前と変わらないどころか、前よりもひどくなっているのではないか。俺たちのしたことは無意味だったと悲観するネオ。その言葉を否定し、バッグスは、"ネオのおかげで"変化したという、いまの世界の現実を見せてくれることに。
「今は機械が仲間?」
船の名はムネモシュネ号(記憶の女神)。そのクルーたちの中には、ネオをここまで運んできた、あの機械の姿も。人類に友好的で、共存の道を選んだ機械たちは、シンシエントと呼ばれている。
かつてのネオたちの戦いは、人類だけでなく、機械たちの世界にも影響を与え、人類 VS 機械の二項対立構造に大きな変化をもたらした。混沌の先に、希望があったのだ。
「"アイオ"へようこそ」
ザイオンに代わる新たな人類の都市・アイオ。機械たちと戦うためでなく、機械たちから隠れるための街。天井には、本物の空によく似たバイオ・スカイが映し出されている。帰還した彼らを待っていたのは、アイオの将軍・ナイオビ。あの(旧モーフィアスの元カノの)ナイオビ。ネオとトリニティがマシンシティに旅立ってから、"現実"では60年以上が経過。すっかり老人となったナイオビが、アイオの指導者だ。
「ザイオンは戦争 に明け暮れてた」
多くのことが変わった、というナイオビ。酒は以前よりずっと美味しく。さらにバイオ・スカイの下で、シンシエントたちの協力を得ながら、果物の栽培にも成功。鼻水みたいなスープを飲むしかなかった、あの頃の暮らしとは大違いだ。これなら、あのサイファーも裏切らずに済んだかもしれない。
「静かでしょ? マトリックスは私たちにノイズを詰め込んでた。よく似たノイズは他にもある。マトリックスのように全てを支配するものが。戦争 よ」
「ザイオンは戦争 に明け暮れてた。マトリックスと同じ。人間が勝つか、機械が勝つか。ここ(アイオ)は私たち人間と…彼ら(シンシエント)が作った」
ネオの活躍によって平和がもたらされたあと、マシンシティでは、電力不足(ザイオンによる人間の解放を、アーキテクトは止めなかったのだろう。彼は約束を守ったのだ)による機械たちの内戦が勃発した。『レボリューションズ』の直後に、圧倒的支持を受け人類の最高指導者となった旧モーフィアスは、そんな時代の変化と、それを裏付ける預言者の「新たな力が生まれる」という預言を、「ネオの功績は覆らない」として無視(まぁリローデッドあたりで、預言者とはいろいろあったもんね)。そのまま、旧モーフィアスと共に機械との戦争に明け暮れたザイオンは滅亡し、いまのアイオ(人間と機械が共存する都市)が生まれたのだ。
機械との壮絶な戦争が描かれた『レボリューションズ』に対する、自己批判か。片や人類 VS 機械という単純な二項対立構造を否定するのは、一作目『マトリックス』からの一貫したネオのスタンスであり、作品のテーマでもある。そういう意味では、このザイオンの滅亡とアイオの誕生を、当然の帰結と見ることも、可能だ。
象徴的である。真実と自由を得るため、多くの生命を犠牲にしながら、終わりなき支配との、終わりなき戦いを、何度も何度も繰り返す。そんな構造(を美化する時代)の終焉を告げるかのよう。
しかし同時に、無意味な繰り返しに終わるかと思われたネオの平和的革命(大きな犠牲を伴うものだったが)は、確実に世界を変え、新たな時代を到来させ、世界をより良く変えていた。意味は、あったのだ。
クラウドアトラスに足りないと思っていたものが、ここに全部ある。
"意味"はあった。人が人である限り、支配と戦争に終わりはないとしても、それでも。ネオの(愛と信頼の)"選択"は、ほんの少しだが、しかし確実に、世界をマシな場所にしたのだ。希望のメッセージだ。
かつての戦いが否定されると同時に肯定もされる。同じテーマやメッセージでも、"語り直し"をすることで、より進化した(洗練された・時代に合った)表現をすることができるようになる。この"進化"は一足跳びに到達できるものではない。これまでの積み重ね……つまり"変遷"があって、辿り着いた境地と言えるだろう。姉妹の創作活動は、決して無意味な繰り返しなどではなかった。モーダルのように、繰り返すことで、進化してきたのだ。ここまで変遷を追ってきた甲斐があるというもの。僕のブログもまた、意味のあるものだと信じたい。
ザイオンの英語表記はZionで、これはシオニズム、シオニストのZionと同じだ。『機動戦士ガンダム』のジオン公国も同じ(そのまんま、ジオニズムとかいうワードも出てくる)。簡単に言うと、ユダヤ人のパレスチナ回帰運動のこと。現在の、イスラエルによるガザ地区への攻撃、というか虐殺の、思想的根拠となっている。『マトリックス』もガンダムも、パレスチナ問題についていろいろ思うところがあったのだろう。ユダヤ人が迫害を受けていたのも、また事実だ。時代によって見方は変わる。ただ、いま現在においては、決して褒められたもんではない運動だ。僕はハッキリと、ガザの虐殺に反対する。ザイオンが滅び、アイオがあるのは、そういう事情も加味されてのことだと思う。
「昔は誰もが自由を望んでた」
トリニティの救出を望むネオを、ナイオビは「街の住人に危害が及ぶ」として「状況が分かるまで」幽閉することに。ナイオビの部下であるシェパードに連行されるネオ。「伝説の人」であるネオに、シェパードは告げる。
「昔の話をよく聞きます。あなたやエージェント、ザイオン襲撃。昔は誰もが自由を望んでた。今は違います。みんな諦めてると思うことも。負けたと」
昔、すなわち『マトリックス』旧三部作の時代(20年前)と現代との、価値観の違いを端的に表した、名台詞だ。自由と尊厳を求め、命を賭して戦うことが、無条件に肯定されていた時代。確かに、いまは違う。誰もが、革命のために命を投げ出したりはしないし、支配のシステムを認知しながら、現状に甘んじる人も少なくない。支配されることを望むもの。サイファーのような人たち。20年の時を経て『マトリックス』という作品は、彼らとどう向き合うのか。
「彼は我々の絆を利用したんだ」
ナイオビの命令を無視した、ムネモシュネのクルーたちと共に、ネオは牢獄を抜け出し、トリニティ救出へと向かう。マトリックス内部に侵入した一同を待ち構えていたのは、あの新スミスだった。
「我々の腐れ縁に目をつけたのは、あの精神科医(アナリスト)だ」。そう言い、自身(とネオの)コードを書き換えたアナリストへの(あるいはネオに対する)「暴力的な復讐」を望んでいること。そして、ネオがトリニティと接触するのはアナリストの思う壺だとして阻止することを告げるスミス。交渉は決裂。スミスはネオを始末すべく、ポータルを開き、ネオの「古い知り合い」を呼び出す。
スミスはいつも動機がシンプルというか、とにかく破壊者で気持ちいいよね。守ることで変えていくネオと、壊すことで変えていくスミス。
ここからのメロヴィンジアンのくだりは、まぁなんというか、ネタというか……(ある意味ラナの本音でもあるのだろうな、と邪推することはできる)。過去の栄光や復讐に囚われた存在としてのメロヴィンジアンとスミス。ネオもまた、トリニティという過去に固執している……という見方もできるか。彼女が(現状に)満足していたら? というバッグスの問いに、ネオは明確な答えを出すことができなかった。
「物事の本質がいかに二元的(バイナリー)か」
戦いはやがて、ネオとスミスの一騎討ちに。
「1と0。光と闇。選択とその欠如。アンダーソンとスミス」
スミスの提唱する二元論は、ネオと彼自身を強烈に規定するもの。当然ネオは反発する。いつもの流れだ。自分が何者かは自分が決める。ウォシャウスキー作品を貫く大テーマを、真っ向から否定しようとするスミスだが、彼にとっては、この論理(ネオとの関係性)こそが、自らを定義付けるものなのだろう。
「他者との関係性が自己を定義付ける」というのは何も珍しいことではない。それこそ、ネオを救世主と定期付けるのは、周囲の人々の期待や、トリニティの愛なので。思い出すべきなのは『レボリューションズ』の結論。全てが仕組まれたことであったとしても、大事なのは「選択すること」そのものだ、というネオの辿り着いた"答え"だ。
作用(ネオ)に対する反作用(スミス)。もうひとつのアノマリーであるスミスは、ただ、与えられた役割・状況の中で暴れているだけ。自ら何かを「選択する」ということがない。(前編から何度となく繰り返していることだが)他者との愛と信頼が、"正しい選択"を導く。正しい選択は、少しずつ世界をより良く変えていく。構造そのものを変えるのだ。それは革命、または救世。これがネオの持つ力であり、だからこそネオはスミスに勝つことができる。さて今回、ネオは何を選択するのか。
VIDEO
愛のない革命は、ただの破壊だ。 先日、映画『トランスフォーマー/ONE』を再見した。ポスト・トゥルース的な搾取と支配の構造(極めて現代的だ)の中で、労働者として生きる二人の若者の物語。彼らは真実を知り、一人は民衆を導く正義の英雄へ、一人は全てを破壊する新たな支配者へと変化していく。本作においても、"英雄"は、他者から求められ、信頼され、認められ、選ばれることで"なる"ものであることが、描かれている。同時に、他者との繋がりを断ち(あるいは暴力によってのみ繋がり)、自らの衝動の赴くまま、既存の構造を破壊するだけでは何も解決しないことも。まさに、愛のない革命は、ただの破壊なのだ。
スミスとの激しい肉弾戦を繰り広げる中、少しずつ全盛期の力を取り出していくネオ。やはり、スミスとモーフィアスは似た役割を持つ存在なのだろう。二人とも、ネオ(アンダーソン)を外部から強烈に規定し、覚醒へと導く。最後のトリガーは、トリニティだ。
「昨夜は変な夢を見た」
衝撃波を放ち、スミスを撃退したネオは危険が待つと知りながらも、トリニティの元へ。夕陽が照らす中、彼女の手を取り愛を伝えるネオ。愛の逃避行、といった趣がありロマンチックだが、トリニティはネオの手を拒む。予知夢を見たというトリニティ。予知夢は救世主の能力の一つだが……。
「やっと大人同士の会話ができる」
突然、そこにいたはずのトリニティが消え、黒猫のデジャヴュと、あのアナリストが。
「一言で要約させてもらうと、"バレットタイム"」
「皮肉な話だろ。"君の力"で君を操る」
アナリストは、時間を速くしたり遅くしたり、自在に操作してネオを翻弄する。
この言い草、やはり、ジュードを操作していたのは彼なのだろう。また、ネオの救世主としての力を悪用し、他者を支配する彼の言動を、『マトリックス』のテーマやメッセージを(故意に)悪用し、デマやヘイトを拡散し、自己の利益を追求する(悪質な)陰謀論者の暗喩と見ることも、不可能ではない。
騙されて、デマやヘイトの拡散に加担してしまう人の罪も重いが、(故意に)人を騙して、デマやヘイトの拡散に動員し、自己の利益だけを追求する悪質な陰謀論者は、ほんとうに最悪だと思う。
(悪役らしく)滔々と計画を話し、謎の答え合わせをしてくれるアナリスト。
「君には酷な話だが、君が苦しんで死のうが、世界は終わらない」
『レボリューションズ』の終盤、ネオの自己犠牲の場面を目撃していたというアナリストは、二人の遺体を回収し、上("スーツ"と呼んでいる)に掛け合い、"再生"(レザレクション)の処置を施した(二人再生させるのは、かなりコスパとタイパの悪いことだったらしいが)。
再生したネオは深い絶望の中にあり、使い物になる状態ではなかったという。
「1人だけでは価値がない」
トリニティを近くに置くことで、ネオは安定した。二人が触れ合うのは、(アナリスト的には)いろいろとまずいらしいので、付かず離れずの"ほどよい近さ"に保つことで、アナリストは二人を支配下に置くことに成功した。こうして、ネオとトリニティは再びマトリックスの中で、自由と尊厳を奪われたまま眠りにつくことになったのだ。
これもまた、"自己犠牲"では全てを解決することはできないというメッセージの一つだろうか。死んでも解決しない。生きて戦い続けなければ。
「私の前任者は正確さを好んだ。彼のマトリックスは実証と方程式ばかり。人間の心を嫌った。だから、フィクションが大事だと気づかなかった。君の大切な世界は全て、この中(頭)にある。君たち人間は無意味なものを好む。なぜか? 何がフィクションを現実に変える? 感情だよ」
前任者というのはアーキテクトのことだろう。機械の世界で起きたという、電力不足による内戦の影響で失脚したのだろうか。約束を守る、(人間にとっては)いいやつだったが。
ここでアナリストが言っているのは、おおむね、『レボリューションズ』終盤のスミスが言っていたのと同じようなことだ。何もかもが無意味だと突き付けられても、それでもなぜ、ネオは立ち上がり戦い続けるのか。"選択"したから。その選択の背後にあるのは、他者との愛と信頼だ。愛とか信頼とか、そういうものを引っくるめて、アナリストの語彙で表現すると「感情」というやや淡白な言葉になるのだろう。
繰り返される支配構造の中で、ネオはその「感情」を力に変えることで、正しい選択をし、変えられないと思われたものを変えることに成功した(その事実はアイオの現状が示している)。救世主として、革命を成し遂げたのだ。アナリストは(恐ろしいことに)この仕組みを理解している。その仕組みを = 「感情」をハックすることで、支配のシステムを構築している。「感情」を操作する支配者、それがアナリストだ。
「感情というやつは、事実より簡単に操れる。私のマトリックスは、君が苦しむほど君をよく操れる。君のエネルギーが増す。すごいだろ。就任以来、発電量を増やしてる」
そう、彼がここまで大掛かりなことをするのは、ただ"発電量を増やす"ため。それだけ。数字を追いかけ回すことしか考えていない。数字のためなら、ネオとアーキテクトとの約束も平気で反故にするし、何より人間の感情を弄ぶことに何の躊躇もない。資本主義の権化だ。もちろん彼ら機械にとって、発電量を増やすのは、生存に関わる重要な事項であるのは確かだが、毎年増やし続ける(ネオの苦痛も増やし続ける)のは、ちょっと話が違う。
適当なストーリー = フィクションを用意し、人間の「感情」を弄び、数字を追いかけ続ける。かつてのネオの物語(旧三部作)から得たヒントを、悪用する。そんなアナリストの悪役造形は、まさに、『マトリックス』のテーマやメッセージを(故意に)悪用し、デマやヘイトを拡散し、人々を騙し自らの利益のためだけに利用する、(悪質な)陰謀論者そのものだ。
ほんとうに! ウォシャウスキーは! 悪役を描くのがうまい!
「持っていないものに憧れ、失うことを恐れる」
「人間の99.9%にとって、それが現実の定義だ」
「欲望と恐怖だよ」
「欲しいものをやればいい」
名言だ。いちばん好きな悪役の台詞かもしれない。欲望と恐怖。確かに、と思う。だからこそ、僕たちはそこに抗っていかないといけない。
人間(猿)の"知恵"を愚弄するように、リンゴの果実を銃弾で粉砕するアナリスト。なんとも憎らしい。
「家に帰れ。恐ろしいことが起きる前に」
再びマトリックスに戻るよう、ネオを脅迫し、姿を消すアナリスト。警官隊の襲撃を受け、一向は撤退を余儀なくされる。
「父が設計したポッドにネオとトリニティが」
アイオに帰還したネオとムネモシュネのクルーたちは、ナイオビから叱責を受ける。かつてのザイオンの反省からか、革命の大義よりもアイオを守り、暮らしを豊かにすることを重視しているナイオビ。
そこに"クジャク"が現れる。孔雀というより、足の生えたエイに見えるが。クジャクもまたシンシエント(人類に友好的な機械)のようだ。
クジャクを遣わし、ナイオビとネオを呼び出したのは"サティー"という女性。そう、『レボリューションズ』の序盤、駅でネオと出会い、交流したあの機械(プログラム)の一家の娘。ずっとネオ(アンダーソン)を見守ってきたというサティー。そのわけは、彼女の父親のしたことの贖罪のため。実はネオとトリニティを復活させたポッドは、彼女の父親が設計したのだ。
ネオと、あの駅の一家との交流は、ネオが「機械にも愛が(感情が)ある」と理解し、やがて対話と停戦を"選択"するキッカケとなる、極めて重要な出来事であり、また現在の人間と機械との友好と共存の始まりを象徴するものでもある。あの日の、他者との繋がりが、いまも生き続けている。
サティーの情報提供により、トリニティ救出の目処が立った。アイオの防衛を第一に考えていたナイオビだったが、その心の革命の炎は消えてはいない。考えを改め、ムネモシュネのクルーに救出作戦を説明し、志願者を募るナイオビ。決死の任務と知りながらも、全員が志願する。ずっとアイオを守り続けてきたナイオビのことを、信頼しているから、正しい選択をする強さを持っているのだ。優しく微笑み、感謝を告げるナイオビ。いい指導者だと思う。
「問題は彼女がそれを選択するか」
人間、機械、プログラム。異なる出自の、同じ志を持つ仲間たちが、一丸となって支配に抵抗している。ザイオンでは考えられなかったことだ。
サティーの計画は完璧。アナリストに反抗しポッドの設計図をサティーに送ったことで、彼女の両親は、アナリストに消されてしまっていたのだ。この作戦は、彼女の両親の弔い合戦でもある。
作戦を成功させる最後のピースはトリニティ自身。彼女が何を望み、何を選択するのか。
「トリニティが憧れだった」
作戦開始前。船のクルーの一人、レクシーがネオに声をかける。トリニティのおかげでここにいると語る彼女は、トリニティが別人になっていたら? と懸念を吐露する。
注意して見てみると、レクシーとバッグスはかなり距離が近い。親密、というか、愛し合っていると見るのが自然かも。トリニティに憧れていたレクシーが、バッグスを愛しているのも、バッグスとトリニティの適合度が高いことの証拠と言えるのでは。
「俺は救世主なんかじゃない」
「でも、彼女は信じた。俺を信じた」
「今度は俺が彼女を信じる」
レクシーの問いに、ネオはこう答える。まさにこれこそが本作の核心だ。愛と信念が人を救世主にする。愛と信念が世界を革命する。その応酬。トリニティがしてくれたことを、今度はネオがするのだ。
ここからはもう、ノンストップで行くぞ!
アナリストの待ち受ける、カフェ・シミュラッテにやってきたネオ。周囲を武装した警官隊が取り囲む中、ティファニー……もとい、トリニティとの対話が始まる。
「彼の人生最大の選択をするのは彼じゃない」
アイオの仲間たちが見守る中、二人は席に着く。
ネオは真実を告げる。心のどこかで、ずっとネオを待っていた気がすると言うトリニティ。しかし"遅すぎた"。ネオが、愛する人を再び喪うことを恐れて、現実から目を逸らし続けた時間は、トリニティの心を変えてしまうのに充分だった。"ティフ"を追って店内にやってきた彼女の家族たち。かなり露骨な(必死な)アナリストの妨害工作だが、効果は大きい。ティフは去り、ネオの敗北は決まった……かと思われた。
取り押さえられるネオ。振り返るティフの手を強く引くチャド。「ティファニー、行くぞ」。彼女はグッと強く拳を握り締め、言う。「そんな名前で呼ぶのはやめて。その名前は嫌い」。
「私は、トリニティ。その手を離しなさい」
ついに覚醒! ボットの夫をねじ伏せ、ネオの名を叫ぶ。その声に呼応し、ネオも衝撃波を放ち警官隊を弾き飛ばした。しかしまた、時が止まる。アナリストの"バレット・タイム"だ。
急ぎすぎた(ほんとにね) 、近ごろの女は手強い(やかましい) と冗談めかして語るアナリスト。「君たちを自由の身にするわけがない」と約束を反故にし、再び二人を自らの支配下(マトリックス)に置こうとする。そこへ……。
「ウソ、ウソ、ウソ」
スミスの登場。"バレット・タイム"に、完全に適応している(そりゃ誰よりも多くネオと戦ってるもんね)。プログラムが泣くぞ(吹替版だと「プログラムを信用できないとは世界も終わりだ」)とアナリストを非難する。わかる。最近よく嘘つくよね、AIも。
ネオとの腐れ縁(結び付き)を理解し、受容しているスミスは、ネオを守るためアナリストを殴り飛ばす。実にナイスな援軍だが、これもまた、彼自身の自由と尊厳を守るための、言わば本能的な行動であり"選択"とは違う。結果的には人を助けているのだが。
カフェは戦場と化した。殴り飛ばされたアナリストは、黒猫のデジャヴュに手を伸ばす。マトリックスの書き換えに関わる、重要な存在なのだろうか。行手を阻むスミス。
作用(ネオ)と反作用(スミス)。ネオと同等の強さとネオ以上の厄介な性格を持つスミスの介入を、少しも想定していなかったのなら、アナリストの計画は詰めが甘すぎると言わざるを得ない。
同時に、トリニティの"取り出し"も進行していく。ポッドから救出され、もはや後顧の憂いは無い。ネオとトリニティは、かつて(旧三部作)の日々と同じように、互いに駆け寄ると、手を伸ばし合う。二人の手が触れ合った瞬間、まばゆい閃光と共に強烈な衝撃波が発生し、周囲の敵は一斉に吹き飛んだ。愛の奇跡だ。
「まだ終わってない」と捨て台詞を吐くアナリストの脳天をぶち抜くスミス。予定外の協力は終了。
「私と君の違いは…」
「誰でも君になれるが、私は誰にでもなれる」
そう言い残し、スミスは姿を消した。
確かに、愛と信念の"選択"の果てに、救世主として覚醒する可能性は、万人にある。僕にもあなたにも。その意味でネオは特別な存在ではない。ただ、一人の人間だ。しかし、ほんとうは、ひとりひとりの人間が全員特別なのだ。誰にでもなれるがゆえに、何者にもなれないスミスとは違って。
支配のシステム、構造を変えていくためには、ネオの"選択"(愛や信念が導く正しい行い)(希望を信じ平和的な対話を試みること)が何より欠かせない。しかし『レボリューションズ』で、デウス・エクス・マキナとネオとの対話が成立した背景には、スミスによるマトリックスの"破壊"があったことも否定できない事実だ。ネオとスミス、二人で革命を成功させたと言ってもいい。正しい"選択"と、"破壊"。決して交わることは無くとも、しかしきっと、どちらも"革命"には必要不可欠な要素なのだろう。
「まだ飛べない?」
消える直前、スウォーム(ボットの暴走)を起動していたアナリスト。無数のボットがネオとトリニティ、ムネモシュネのクルーたちを襲う。
陰謀論者の手先のボット。ほんとよくできてる。
飛行を試すネオだったが、その場でぴょーんと跳ねるだけ。思わずトリニティも目を逸らす。今作でいちばん"かわいい"場面だ。超人のパワーを持ちながら、しかし誰よりも苦悩し、最愛の人・トリニティのことをずっと考えている。旧三部作の頃から、僕はそんなネオの"人間らしいところ"が好きだ。
「ネオ! 乗って」
トリニティの駆るバイクにしがみつき、共に逃げるネオ。ついに二人の逃避行が始まった。トリニティの予知夢の内容をなぞるような展開。
両手から衝撃波を放ち、押し寄せるボットの群衆を吹き飛ばしたり、銃弾を押し留めたりしながら、トリニティと共に逃走するネオ。銃は使わない。ほとんど殺しもしていない。かつて「銃をくれ。どっさりと」("Guns. Lots of Guns.")という名言を残した、アクション・ヒーローの変節っぷり。本作『レザレクションズ』を、派手なアクション・シークエンスが無いと批判する人の気持ちもわかる(旧三部作が凄すぎた)が、このネオの変節もまた、本作のテーマを象徴する重要な描写のひとつだ。もう、殺し合いで自由を勝ち取る時代ではない、ということが言いたいのだろう。
それに、変節と言うものの、もともと救世主のネオってこういうやつだったとも思う。救世主の能力は、敵対者に銃弾をぶち込むパワーではない。飛んできた銃弾を避けたり、止めたりするパワーのこと、だったはずだ。構造の破壊でなく、改変または超越。宿敵・スミスにさえ自由を与えるのが、救世主・ネオだ。
追い込まれ、高層ビルの屋上へと逃げ込む二人を、ヘリが襲う。必死に抵抗するも、爆発に巻き込まれ、ついに二人は倒れる。
「きれい」
マトリックスに朝日が昇る。偽物の太陽。しかし、立ち上がったトリニティはその輝きを見て「きれい」と溢す。彼女は現存する人類で、ただひとり本物の(現実の)太陽を目撃した人物。この場面は、かつてのマシンシティの展開を再演する(この映画はやたらと"再演"を多用している)ことで、その後に待つ悲劇の再演をも予感させる、そんな効果を持つ以上に、"極めて重大な意味"を含有しているように思う。
マトリックス(虚構)は「きれい」なのだ。現実の、本物の太陽をその目で見たトリニティ本人がそう言うのだから、間違いない。虚構から覚醒する(目覚める)ことを啓蒙し続けてきた『マトリックス』シリーズによる、最大限の"虚構の肯定"と言える。現実と虚構は等しく美しいのだ。
かつてのスミスやアナリストの言うように、人間は虚構によって形作られている生き物だ。愛も信念も、マトリックスと同じ"作りもの"かもしれない。しかしその虚構は人を強くする。虚構の力で現実を変える。そう、虚構には現実を変えるだけの、強力なパワーがあって、結局は、その力をどう使うかの問題なのだ。虚構と現実は相互補完の関係にあり……その意味で、両者の区別は大した意味を持たない。
ウォシャウスキー姉妹の創造した『マトリックス』という虚構は、世界を(現実を)変えた。
『マトリックス』のストーリーに救済され、人生を好転させた人もいるだろうし、一方で(アナリストのように)、『マトリックス』のストーリーを悪用する陰謀論者も存在する。虚構、それ自体が悪ではない。現実もまた然り。現実か、虚構か。『マトリックス』を象徴してきた二項対立の問いは、この瞬間、本当の意味で、その役割を終えた(『レボリューションズ』の時点で、既に示唆されていたことではあった)。
昇華された、と言うべきか。虚構のもたらす絶大なパワーを正しくコントロールしていくためのカギは、やはり愛と信念の"選択"なのだろう。
虚構の"夜明け"だ。その光は「きれい」だからこそ人を生かし、「きれい」だからこそ人を殺す。
見つめ合い、口付けを交わす二人。互いの手を強く握り(愛と信念だ)、駆け出していく(テルマ&ルイーズ的でもある)。果たして、飛べるのか……?
『テルルイ』の流れを汲む『バウンド』から数十年経ち、改めて『テルルイ』を想起させる展開を描いてみせる。感慨深いものがある。
「俺じゃない。君なのか?」
落下していくネオ……を、トリニティが持ち上げている。飛んでいる。そう、今回、愛と信念の"選択"によって、選び選ばれ、救世主となったのはトリニティだったのだ。
旧三部作、とりわけ一作目の展開を丁寧になぞり(語り直し)つつ、役割を反転させることで、シリーズのメッセージは、より広く、深く、新しくなった。
優れた続編は、往々にして、過去作の評価をも押し上げるもの。(少なくとも僕にとっては)本作もそうだ。正直、かつて(旧三部作)のトリニティの表象には不満があった。心境の変化の描写が不足している、というかそもそも、いつネオを好きになったのか、よくわからない。ただ、本作のこの結末は、そんな不満を吹き飛ばし、なんなら全てはこの結末(トリニティの救世主としての覚醒)のためにあったのではないか、『マトリックス』とはトリニティのための物語だったのではないか、と思わせるほどの、情緒的なパワーを持っている。大袈裟かもしれないが、そう思いたくもなるくらいの、感動的な展開だ(このブログは感想を言うためのものではないので、あんまり情緒とか感動とかの話をしたくはないのだが)(しかし、虚構が人の感情を揺さぶり、現実を変えるほどの強烈なパワーを発揮するキッカケとなるのは、事実だ。そのことは、他ならぬ『マトリックス』が証明してきた)。
覚醒したトリニティは、ネオと共にマトリックスを脱出。ついに、二人は現実で再会を果たす。ふたたび終わりなき"支配のシステム"との戦いへと身を投じることになるわけだが、愛し合う二人の胸中は、希望に満ちていることだろう。
「実にドラマティックだ」
自室で優雅に茶を啜るアナリスト。その壁をド派手にぶち抜いて、天空からトリニティが降り立った。「"ティファニー"?」と名前の意味を問いただす彼女に、「ふざけただけさ」と返すアナリストのニヤケ面が、即座にトリニティ渾身の蹴りによって粉砕されたのは言うまでもない。アゴが外れるくらい……では、ちょっと済まないな。
「嫌いな名前にしては、従順なメス犬だったな」
と悪態をつけば喉を掻っ切られ(いつの間にか黒猫のデジャヴュを抱っこしているネオも「そのくらいは当然」と擁護)、
「よく躾(しつ)けとけ」
とネオに非難の矛先を向ける(女性を家畜扱いする)と、顔面を引っ叩かれ、壁に叩きつけられる。
もう何も言わなきゃいいのに……。
黒猫のデジャヴュを抱っこしている、ということはつまり、このマトリックスという構造 = システムを作り替えるためのパワー、その主導権を、ネオが掌握していることを意味している。
座り直し、なおも悪態をつき続けるアナリスト。
「システムを知ってる。人間を知ってる。君たちのことも」 「好きにやればいい。この世界を作り直せ」
「空を虹で彩れ」
「だが忘れるな。"羊のような人々"(シープル)はなくならない。この世界が好きだ」
「こんな感傷は望まない。自由も権利も求めない。従順で支配されたい。慰めと安心が欲しい」
「君たちもポッドの中で、孤独な眠りに戻ることになる。彼らのように」
アナリストの語る"人間"。サイファー問題。確かに世の中を見ていると、そういう人間が大多数を占めるのではないかと思うこともある。心が折れそうになることも。しかし、そんなアナリストの言葉に、ネオとトリニティは笑顔を返す。
ネオ「交渉に来たんじゃない」
トリニティ「作り直しに行くとこ」
ネオ「少し手を入れる」
トリニティ「空を虹で彩るのはステキ」
ネオ「自由な心を思い出させる」
トリニティ「すぐ忘れちゃう」
ネオ「彼のせいだ」
トリニティ「ほんと」
ネオ「よく考えてもらおう」
これが、(現時点での)『マトリックス』シリーズの出した結論だ。構造(システム)を作り直す。 破壊するのではなく、少しだけ手を入れる。例えば、空を虹で彩るような。"羊のような人々"(シープル)が、忘れてしまいがちな"自由な心"を思い出せるよう。そして、そんな彼らを騙して利用する陰謀論者・資本主義者とは、冷静に対峙していく。殺し合いではなく。向こうが"物語"を悪用し、人々の"感情"を操作するのなら、こちらも"物語"を語り続ける(語り直し続ける)。
現実と虚構は、二項対立(バイナリー)の関係にあるものではない。人は、現実を基に虚構を作り、虚構を糧に現実を生きる。両者は、相互補完の関係にある。
なにも、過去の戦いの全てが無意味だったわけではない。過去の犠牲があるから、今がある。ただ、人の世が続く限り、"支配のシステム"もまた、形を変えて存在し続ける。人は変わる。社会も変わる。卵が先か、鶏が先かは置いておくとして(こちらも相互補完の関係にあるのだと思う)、支配のシステムが変わりゆくのなら、人の戦いも変わりゆく。現代の戦場は、虚構の中だ。
「始める前にお礼を言いに来たの。諦めてたものが手に入った。二度目のチャンス」
と、アナリストに告げ、トリニティはネオと共に、ふたたび天空へと飛び立っていく。飛び交う鳥の群れ(繰り返しの象徴)を蹴散らしながら。その表情からは、愛する人と共にある喜びと、強い決意を感じ取ることができる。こうして、『マトリックス』の物語は現代に復活した。形を変えて、戦いは続く。
まとめ
"支配のシステム"との戦い。その最前線。
さて、やはり素晴らしい映画だった。ここからは、猛スピードでまとめに入る(はてなブログは三万字を超えるとバグる)(もう二万五千字を突破している)。
主人公
「私は、トリニティ。その手を離しなさい」
まずトリニティの話から。「自分が何者かは自分で決める」(自己決定権)という、ウォシャウスキー作品の根幹を最も体現する存在だった。覚醒場面のアツいこと。フェミニズムの文脈も乗っかり、より現代的で、後述の"敵"に対するカウンターとして機能する、見事な描写だった。"復活"してよかったことの筆頭と言える。彼女を覚醒へと導くのがゲーム(虚構)というのもいい。虚構は武器だ。使い方次第で、現実を良くすることも悪くすることもできる。
「でも、彼女は信じた。俺を信じた」
対照的に、今作のネオは選ぶ側ではなく「選ばれる側」だ。愛し愛され、信じ信じられ、彼は戦う。愛と信頼(信念)の応酬。まさにそこが、ネオとスミス(構造の"改善"と"破壊")の最大の違いであり、アナリスト(陰謀論者)と対峙していくための、武器となる要素と言えるだろう。自己決定権は、極めて重要なものだ。ただ、他者との情緒的な繋がり(愛や信頼)のない自己決定は、あまねく他者と社会(構造)を破壊してしまう恐れがある。ときには、その破壊も必要なのだが。
だから本作はスミスのことも否定しない。
トリニティとネオの二人は、最後に、マトリックスという構造を作り替えていく(改善していく)と、宣言していた。空を虹で彩る。これはまんま、レインボーフラッグの文脈で理解すべき描写だろう。もともとのザイオンからしてそういう読解はいくらでも成立しただろうが、アイオの人々の描写は、かなりクィア表象に満ちている。
「あなたのおかげで全てが変わった」
アイオは希望だ。かつて(旧三部作)の戦いと犠牲は、無駄ではなかった。愛と信念の、正しい"選択"を繰り返すことで、ネオは変えられないと思われたものを変えたのだ。少しずつでも、構造は変えていける。人も、世界も。むろん、変わったら変わったで、また新たな問題はいくらでも発生するのだが、しかしマシになったことが、多くあるのも事実。支配のシステムとの終わりなき戦いは、無意味な繰り返しのマラソンゲームなどでは、断じてないのだ。希望のメッセージとしか言いようがない。
現実の現代においても、女性や性的マイノリティを取り巻く環境は、過去(たとえば90年代)と比較して、よくなっていることもあれば、悪くなっていることもあろう。先人たちの流血には敬意を。ただ、現代には現代を支配する構造があり、現代を生きる人間たちは、現代の戦い方をしていく必要がある。ザイオンのように、時代の変化を認めず、闘争に固執していてはいけないのだ。
このように、今作はバランス感覚に優れている印象を強く受ける。二項対立の超越はマトリックスだからこそ、と言えるか。結末も同じ。アナリストに挨拶をするネオとトリニティ。ある意味で"宣戦布告"だが、その趣旨は、"感謝"であった。どっちも、だと思う。支配のシステムと対峙しつつ、目の前にある幸福を、ひとりひとりの人間として尊び、享受する。または、自分らしく幸福に生きていくことで支配に抵抗する。かなりジュピター的な、"ミクロ"な情緒と、クラウドアトラス的な、"マクロ"な視点とが、共存している。いいとこ取りの、素晴らしいバランス感覚だ。
選択の先の現在の幸福を尊ぶのはスピードレーサー的でもある。
個人の幸福と革命の大義の天秤が、極めてちょうどいいバランスで釣り合っている。だから僕は、本作を愛しているのかも。
敵
「持っていないものに憧れ、失うことを恐れる」
「人間の99.9%にとって、それが現実の定義だ」
なんと言ってもアナリスト。実に見事な悪役っぷりであった。彼の表象こそ、本作の白眉。現代の社会、そして現代の『マトリックス』という作品が直面している深刻な問題を象徴する存在だ。つまり陰謀論。
インセルでミソジニストで、自覚アリの陰謀論者。『マトリックス』のテーマやメッセージを悪用し、人々の感情を"欲望と恐怖"で支配する存在。その動機に思想はない。ただ、資本主義のゲームでより多くのパイを獲得することだけを考えている。我らの生きる社会にも(残念ながら)ありふれているクソ野郎だ。日々増えている。
数多くの素晴らしいヴィランを世に送り出してきたウォシャウスキー姉妹のキャリアの中でも、史上最も素晴らしい悪役造形だ、と僕は思う。現実とのリンクっぷりが凄すぎる。うますぎる。興奮する。
もうさんざ語ったので、アナリストについてはこのくらいで。
支配のシステム
アナリストはマトリックスの支配者(管理者)だが、支配のシステムそのものではない。コスパ至上主義者である彼は、そういう意味で資本主義者のメタファーとして(作劇上)機能しているわけだが、より根本的な話をすると、"発電"すなわち機械たちの生存そのものを保障することが、彼の目的であり使命であった、と言える。生きていくこと、それ自体が支配を生む。
ナイオビが語るように、かつては"戦争"が、全てを支配していた(いまなお、その脅威は去っていないが)(本作の公開は2021年なので、ね)。しかし、いま現在マトリックスを支配するアナリストは戦争をもたらす者ではない。戦争をする必要がない。マトリックスを出て行こうとする者がいないのだから。
「"羊のような人々"(シープル)はなくならない」
人間たちが自ら、支配されることを望む。これまでの監督作品で何度も描かれたように、やはり"人間"が全ての支配の根源なのか。アナリストが"虚構"を利用し、人間たちの"感情"を自在に操作 = 欲望と恐怖をコントロールして、人間たちが自ら支配されることを望むよう、誘導していく。支配の根源である"人間の感情"を操り、支配を構築する"虚構" = 陰謀論こそが、本作の支配のシステムではないか。
クラウドアトラスの悪魔(ヒューゴ・ウィーヴィング)の描写も、要はそういうことを言おうとしていたわけだ。人間の感情が全ての支配の根源であると。
人間が人間であること、機械が機械であること……それ自体が支配を生むのなら、我ら、生きとし生けるものが支配から完全に逃れることは不可能だ。ただ、その支配はシステムによって、ある程度コントロールが可能となっている。支配を生み出す"人間の感情"、それを操作する"虚構"こそが、支配を制御するためのハンドル、つまり支配のシステムだ。私腹を肥やそうと陰謀論という"虚構"で、より悪辣な支配をもたらす者がいる一方、愛と信念の"選択"の物語 = "虚構"を語り継ぐ、語り直すことで、変わりゆく支配の在り方に抵抗し、自由を伝え続けることもできる。より良い支配の形へ、作り替えることができるのだ。支配そのものを打ち倒すことはできない。しかし、マシな支配へと変えていくことはできる。ぜったいにできる。
ネオとトリニティは"復活"を果たした。今度の戦場は"虚構"の中だ。虚構をより良いものへと作り替えることで、現実を生きる人々の心に自由を思い出させる戦い。それは、本当の現実を生きるウォシャウスキー姉妹の戦いでもある。陰謀論者に悪用されてしまった物語を、奪い返し、作り直す。空を虹で彩る。
"虚構"が世界を悪くする時代だからこそ、"虚構"で世界を良くするための戦いを、繰り広げていくのだ。僕のブログが、その助けになっていればよいのだが。
その戦いは暴力によるものではなく、愛する人と共に天空を舞いながら、空を虹で彩るような、美しく尊いものであっていい。流血だけが戦いではない。人の感情をめぐる戦いなのだから。
革命は続く。全ての人の、日々の中で。
これまでの積み重ねてきたテーマ、進化させてきたメッセージの全てが、この一本に、見事に集約されている。現代の現実の社会に根差した、完璧なバランスに仕上げられている。のに、評価が低いのは、残念なことだ。しかしこれは、まだまだ進化する余地があるということ。もっと広くもっと深く、全ての人に届く虚構を目指し、ウォシャウスキー姉妹の進化は続いていくことだろう。本作も、その変遷の一部となった。
『マトリックス レザレクションズ』は、誰のための物語か。女性、性的マイノリティ、あるいは陰謀論者に向けて。もしくは、ウォシャウスキー姉妹自身のために。答えは一つではないだろう。この戦いは、『マトリックス』を取り戻すための戦いだった。まだ道半ばだが、次なる虚構の戦いがあるとするならば、それはきっと、より多くの、"全ての人たち"に向けた物語となることを、僕は期待している。彼女らは進化し続ける作り手なのだから。
やっぱり上手くまとめられた気がしないが、まぁ、一旦、こんなもんで。どうせ支配のシステムとの戦いは続いていく。形を変えて。せっかくなら、映画でも観ながら、楽しんで行こう。
VIDEO
全ては無駄ではない。変えられるのだ。何だって。