裏切りのサーモン

映画の話をするバイセクシャルの魚。

SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。

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SSUをご存じか?

 ご存じの方に向けた記事だが、念のため再確認をしておこう。耳にタコだ、という方は次の見出しへ。

 ソニーズ・スパイダーマン・ユニバースは、コロンビア・ピクチャーズがマーベル・エンターテインメントと共同で製作するスーパーヒーロー映画を中心としたメディア・フランチャイズおよびシェアード・ユニバースである。wikiより。

 早い話、ソニーが作っている、スパイダーマンに関連するキャラクターたちの映画シリーズのこと。現状、『ヴェノム』『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』『モービウス』『マダム・ウェブ』の4本が公開されており、年内には新作『クレイヴン・ザ・ハンター』『ヴェノム3(仮題)』の2本が公開予定となっている。

 MCU(アベンジャーズ)とは違う世界。昔やってたスパイダーマンの映画(サム・ライミ版)とも、アメイジングスパイダーマンとも違う。というか、今のところ、この世界にスパイダーマンことピーター・パーカーは登場していない。……いや、厳密には登場しているのかも、しれない。どうなんだろう。よくわからない。彼の"知り合い"だけが、次から次へと出てくる世界。まったく、空虚な中心である。なんでそんな奇妙な事態が発生しているのか、それを解説するだけで何本か記事の書けそうな話題だが、今回はスルーする。とにかく、4本の映画がこの世に生まれたのだ。生まれたからには、生きねばならない。

当記事の趣旨

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 はっきり言って評価の芳しくないシリーズである(特に直近2作は。僕もモービウスはちょっとどうかと思う。マダム・ウェブは普通に面白かったけど)。でも僕は好きだ。僕の好きな90年代末〜00年代初頭のアメコミ映画っぽい雰囲気(ファストフード的な良さがある)や、ヴィランやアンチ・ヒーローとして語られる、王道から外れたキャラクターたちのストーリーなど……SSU特有のカラーがあるのだ。ここでしか吸えない栄養素が。僕はそれに、病みつきになっている。

 なので、ほとんどの人がポップコーンを貪りながらボーッと観ているであろう(その鑑賞態度で合ってると思いますよ)SSUを、僕は結構マジに、ガチに観ている。先日公開された『マダム・ウェブ』も、真面目に観た。結構面白かったので、感想を書きつつ、これまでのSSUを概観していたら、あることに気がついた。

 SSUは毎回、それぞれの作品ごとに異なる、多種多様なトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)と、それに捉われた男性キャラクターたちを、批判的に描いているのでは?

 もはやそれがシリーズの目的、一貫したメッセージ性なのでは……と思ってしまうくらい、SSUはトキシック・マスキュリニティに関する表現が多い。元々、ヴィランやアンチ・ヒーローとされる人物たちにフォーカスする頻度の高いシリーズだが、そんな彼ら──他人や自分を傷つけてしまう、ままならない男性たち──の心情や苦悩、それを助長しているトキシック・マスキュリニティを、SSUは毎度、あの手この手で描いてきた。

 意図されたものではなく、おそらく偶然であろうが……僕の中ではすっかり、点と点が繋がって、一本の糸(ウェブ)が出来上がっているのだ。今回はそれを語ろうと思う。

トキシック・マスキュリニティとは

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 有害な男らしさ、と訳されることの多いワード。「男らしさという概念(社会によって構築された行動規範)の持つ、当事者や他者・社会にとって有害な側面」と言えば、より伝わりやすいだろうか。別に、男性的であること、男性であることそのものを「有害だ」などと決めつける考え方ではない。それはミサンドリーだ。僕はミソジニーにもミサンドリーにも同調しない。

 男性は強くなければならない、弱さを見せてはならない……そんな強迫観念から、自己の感情を抑圧し、ときに暴力的な形で発露してしまったり。女性性的少数者など、「男らしくない」と判断した相手を排除することで、力を誇示したり。目を凝らせば、我々の日常にトキシック・マスキュリニティは溢れている。"有害な男らしさ"に呪われているのだ。それは生まれ持ったものではなく、社会構造によるもので、私たち一人一人の働きかけによって、より良いものへと変えることができる。僕はそう信じている。

 当初設定された言葉の意味・定義を超えて、近年では、より広範に及ぶ「男性性のネガティブな側面」を指して、このワードは使われている。僕もそうしている(本記事でもそうする)。意味の拡大解釈については、良し悪しあるだろうが……。少しでも多くの男性が、かけられた呪いについて自覚を持つキッカケになればいいな、と楽観視している。(楽観視はよくないかもしれないので)僕もまだまだ勉強を重ねるが、ぜひ当記事を読まれた方は、男性でも男性以外でも、ご自身で色々と調べてみてほしい。その気付きと学びは、あなたの周囲の人々と、何よりあなた自身を救うことになるだろう。

Toxic masculinity(有害な男らしさ)とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD

注意点

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 さて、そんな気付きと学びに満ちたSSUについて語っていく前に、いくつか注意点がある。

 第一に、先ほど述べた通り、僕が当記事で繰り返し用いる「トキシック・マスキュリニティ」「有害な男らしさ」は、狭義でなく広義のもので、厳密な定義に基づくものではないということ。僕の勉強不足のために「厳密にはそれトキシック・マスキュリニティじゃねぇだろ!」というようなものまで、それに組み込んでしまっている可能性はある。不徳の致すところで大変申し訳ない。優しく指摘してもらえると嬉しい。

 第二に、当然のことながら、SSUの映画作品に関するネタバレがふんだんに含まれていること。特に最新作『マダム・ウェブ』に関するネタバレには充分注意されたい。

 こんなもんでしょうか。ではそろそろ本題へ。SSUに登場する、"有害な男らしさ"に捉われた男性キャラクターたちについて、一人ずつ語っていく。

セルフネグレクト男性:エディ・ブロック

(『ヴェノム』『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』より)

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 映画『ヴェノム』とその続編『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(以下、1と2)に登場するエディ・ブロックは、物語の主人公でありながら"有害な男らしさ"に捉われた人物である。彼の救済、あるいは進歩こそ、ヴェノムシリーズのメインテーマであると言ってよい。彼はひょんなことから、宇宙からやってきた寄生生物(シンビオート)のヴェノムに寄生され、共に生活を送りながら、弱きを助け悪を喰らうリーサル・プロテクターとなったわけだが……。

 2で語られるように、エディは"父親に愛されない息子"だったらしく、そのせいかわからないが、ずっと強烈な自己嫌悪を抱えているようだ。自分のことを愛せない。自分を愛してくれる人にも心を開けない(けど依存はしてしまう)。だからずっと、雑に生きてきた。自分にも他人にも。他人のことを大事にしたい、と思っても、自分を大事にしないことで結果的に相手を傷つけてしまう。セルフネグレクトは本人だけでなく、本人を愛する人たちをも傷つける行為だ。都合の悪いことは無視し、その場の勢いだけで突っ走り、破滅してしまう。金遣いも荒い。弱者を救いたいとか、悪人を懲らしめたいとか、そういう信念はあるけど、後先を考えられないので、上手くいかない。とにかく、自分のケアができない。なんとも救い難い男である(カイジみたいなやつかもしれない。善人だがクズ。クズだが善人)。

 そんな彼にとって……彼を救うことが目的である『ヴェノム』という作品において……ヴェノムというキャラクターは、どのような意味を持つ存在なのだろう?

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 僕の解釈では、エディにとってヴェノムとは"もう一人の自分"である。自分を愛せないエディの代わりに、エディを愛してくれる存在。エディが自分の気持ちと向き合い、自問自答し、本当にやりたいことを見つけるために、対話してくれる存在。そして見つけたやりたいこと="生きる目的"のため、必要なパワーを与えてくれる存在。それがヴェノム。もう一人のエディ。原語版ではヴェノムの声も、エディ・ブロック役のトム・ハーディが演じている。一人二役だ。

 同一人物である以上、ヴェノムの殺人衝動はエディに由来するものと考える(設定の話ではなく、作劇の話)。エディは、"人を食べる"という行為とその感覚のキモさに拒絶反応を示しているだけで、悪人を殺すことそれ自体には、それほど良心の呵責がないように見えた。1のラストでカールトン・ドレイクを殺害する時に言い放つ「いい人生をな!」は、確実にエディの台詞だろう。自分の意志で人を殺している。誰彼構わず喰らおうとするヴェノムの凶暴性は、触れる者を皆傷つけてしまうエディの性質、そのカリカチュア(戯画)だ。自分も他人も尊ぶことない、そういう生き方の現れ。自尊心(それ)は捨てたろ(呪術廻戦を読んでください)。

 そんな危うさとは裏腹に、エディは弱者に優しい人物でもある。もともとジャーナリストとして、リベラルな問題意識を持っていることと関係があるのかもしれないが。仕事と恋人を失ったドン底生活の中でも、ホームレスの女性と友好的に接していたし、その女性が助けを求めていたら、自身が危険な状況下にあっても、迷わず助けようとしていた(後先を考えない性格の現れ、とも言えるか)。

 エディ・ブロックの中に確かに存在している、「悪人を殺したい」「弱者を救いたい」、二つの本能的な欲望。それを体現するヴェノム。2にて「平穏に暮らしたい」などと言っていたエディだったが……それも嘘ではないのだろうが、今のエディ(ヴェノムの有無は関係なく)が平穏に暮らすことは難しいだろう。自分を愛さず、他人を利用し、雑に生きているエディでは、どのみち破滅してしまう。自分の感情を上手く表現できない、トキシック・マスキュリニティに捉われているのだから。

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 ヴェノムのやることは、全てエディにとって必要なこと。傷つけた恋人には謝罪するよう促し、侮辱されたら怒り、生命の危機には身を挺して守る。そして悪を殺し、弱者を救う。そんなリーサル・プロテクター稼業が、今のエディには丁度いいのではないだろうか。他者を救うことで、自分に自信が持てるようになる。自分を愛することから、他者を愛することが始まる。

 時にエディが、自ら露悪的に振る舞うのは……そして「悪人を殺したい」という欲望を内に秘めているのは……彼は自分自身を悪人だと思うことで、そんな自分を殺したいと思うことで、ある種の安心感を得ているのではないか。2で、アンが結婚すると知らされたあと、エディはバイクで暴走する。ヴェノムが傷を治すため、「どうやっても自分を傷つけられない!」と自暴自棄に陥るエディ。この台詞こそ、二人の(同一人物だが)関係性の全てだろう。自分を傷つけてしまうエディと、エディが傷つかないよう守る、もう一人のエディ=ヴェノム。結局エディは、自分を傷つけられないから、もう一人の自分であるヴェノムを傷つけ、二人は喧嘩別れをしてしまうが……やがて仲直りをし、互いを尊重しながら共に生きていくことを誓う。どこまで行っても、エディは自分を愛せない。それでも、自分を愛するために、ヴェノムという"もう一人の自分"を、自分から切り離して、他者として愛することにしたのだ。それが2の結末。まったく難儀な男だが、少しは好転したようだ。自分を無理やり変えるのではなく、ありのままの自分=ヴェノムを受け入れて、より良く生きていく方法を探す、という方向性へと舵を切ったのだ。

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 2における、エディの最大の成長は、アンへの依存を断ち切ったことだろう。クライマックスの戦闘中、エディはアンを守るため、敵の攻撃を背中に受けながら、アンを結婚相手のダンへと手渡す。ヴェノムの顔のまま、目を潤ませて。つらいことだが、今のエディに他者を愛することはできない。自分を愛することが先だ。

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 「弱者を救いたい」エディにとって、虐待を受けてシリアルキラーとなってしまった2の敵、クレタス・キャサディは、救うべき弱者ではなかったか。しかし、エディとヴェノムは容赦なく、キャサディとカーネイジを殺害し喰らう。エディに親近感を抱くキャサディと同様に、エディもまた、被虐待児のシリアルキラーに共感を覚えていたのだろう。自分と同じような悪人、だから殺す。自分を殺したいエディにとって、それ以外の選択肢はなかった。彼がどこまで行っても自分と、自分によく似たものを愛せないことが残酷なまでによくわかる。だからヴェノムと、一時的に分離したのだ。ヴェノムを(本当は自分自身だけど)他者とすることで、自分とは似ても似つかない存在と仮定することで、愛し始めたのだ。まだまだ前途多難だなぁ。

 家族を求めるキャサディを殺し、ヴェノムをファーザーと呼ぶカーネイジを喰らった。父親に愛されなかったトラウマ。そして1の敵、カールトン・ドレイクは「父なる神」を自称するような振る舞いを見せ、聖者のイサクの逸話を引用する。それは父親のため、犠牲になる息子の伝説。『ヴェノム』シリーズは、セルフネグレクト男性のエディ・ブロックを通じて、父親と息子の物語を描こうとしているのかもしれない。トキシック・マスキュリニティについて考えるとき、父親と息子の関係性は非常に重要なトピックである。3にも期待したい。

②関係性に執着する男性:マイロ

(『モービウス』より)

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 『モービウス』に登場するマイロは、作中でヴィランの役割を担うキャラクターだ。主人公マイケル・モービウスの幼少期からの親友で、現在は大富豪。二人とも血液の難病を患っており、医師として治療法を研究するマイケルを何かと支援している。

 幼き日、マイケルはマイロに言った。「僕たちはギリシャ兵だ。二人で大軍に立ち向かうんだ」と。やがて、優秀なマイケルはニューヨークへと移り、医学を修めることに。一人残されるマイロ。

 そもそも、彼の本名はルシアンであり、マイロではない。マイロは、マイケルが勝手に付けた名だ。同じ病院の隣のベッドにやってくる子供を、みんなマイロと呼んでいた。そのうちの一人。しかしルシアンは、自らをマイロと名乗り続ける。マイロにとって、マイケルは何よりも尊い存在。たった一人の親友なのだ。一方のマイケルにとって、マイロはそういう存在だったか、果たして。

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 正直、マイケル・モービウス博士の気持ちは、僕にはよくわからない。淡々として、乾いている。恋人のマルティーも同様だ。よくわからないタイミングでキスをする。僕の感受性の問題か、映画の不備か、あるいは意図された作劇か。

 ただ、マイロのことは非常によくわかる。あまりにもわかりやすい。彼はとことん、マイケルとの"関係性"に執着しているのだ。"二人で大軍と戦うギリシャ兵"であり続けたい。そのためには、二人が常に一緒でなければ。同じでなければ。ギリシャ兵はピッタリと密着し、互いを守り合って戦うのだ。映画『300』を観よう。

 幼少期、マイケルがマイロに宛てた手紙を、いじめっ子たちが奪おうとした。マイロは、そのうちの一人を松葉杖で殴り(他の連中からボコボコにされたが)、大人に見つかり他の連中が去ったあと、動けないでいる一人を執拗に殴り続けた。確かにそりゃ、大事な手紙を奪われるのは許し難いことだが……ちょっと、暴力的な執着心を感じさせる一幕だった。マイロは子供の頃から、こうだった。

 そして現代。散歩の途中、マイロはマイケルに、マルティーヌと最近どんな感じか、おもむろに訊ねる。「惚れたりしちゃダメだ」「恋愛は僕たちには無理だ」と冗談めかして言っているが……。

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 やがてマイケルは、禁断の実験の果てに、吸血鬼の能力を手に入れる。抑え難い血への渇望と引き換えに、超人的な身体能力を獲得し、病気を治すことに成功したのだ。そこへ現れたマイロ。自分にもそのパワーを与えるよう、マイケルに懇願するが、自らの作り出した危険なパワーを恐れるマイケルは、その申し出を拒否する。「君は生き続けるが僕は死ね、そういうことか?」と激昂するマイロ。マイロを巻き込まないよう、ただ「出てけ!」と繰り返すマイケル。典型的なディスコミュニケーション。お互い、トキシックな部分があるな。

 当然、マイケルと同じであることを望むマイロは、こっそり薬品を盗み出しており、マイケルと同じ吸血鬼の能力を獲得する。血の渇望に駆られ、傭兵たちを殺害してしまったことを悔やむマイケルに、自身も看護師を殺害したことを告げるマイロ。「抑えが効かないんだ」。それは、親友の罪を赦すと同時に、自らの行いを正当化する言説。強大なパワーを恐れるマイケルに対し、マイロはこの力を、圧倒的な暴力を、極めて好意的に受け止めているようだ。ここが二人の分かれ道。同じなのに違う二人。

 このパワーを受け入れ、共に怪物として生きていくことをマイケルに提案するマイロ。「俺たちはずっと死に怯えながら暮らしてきただろう?」「なら何故、今度は奴らに同じ気持ちを味わせちゃいけない?」と語りかける。

 マイロと戦いたくないマイケルは、その場から逃走。マルティーの協力を得ながら、吸血鬼のパワーを無くす方法を探す。一方のマイロは、全能のパワーで人生を謳歌する。以前の痩せ細った身体とは大違いの、筋骨隆々の肉体を見せびらかすように踊り(このシーンはミームになった)(というか『モービウス』自体ミームにされている)、生まれて初めてバーへ行き、酒を飲み、女性を口説いた。ついでに、邪魔をしてきた男を何人か殺した。

 僕は、マイロは同性愛者なんじゃないかと思っている。マイケルに対する執着、独占欲……それらが恋愛感情のように見えるからだ。あくまで僕の解釈でしかなく、作中で明言されていないため、正解はない。女性を口説いているからゲイではないのでは(あるいはバイかパンか)、という考え方もあるだろう。ただ、繰り返し主張したいのは、マイロの目的は、マイケルと同じになることだ、ということ。マイケルにマルティーヌがいるのなら、自分にも誰かいて然るべきだ。そう思って、女性に声をかけたのでは……と僕は考えている。

 もう一つ主張しておくなら、現実において、人のことを異性愛者か同性愛者か、ゲイなのかバイなのか、みたいなことを勝手に言ったり書いたりするのは、とても失礼であるということ。僕も、現実の人間に対してそういうことは決してしない。あくまで、創作物に登場するキャラクターの考察、という場においてのみ、こういうことをしている。

 「ドラキュラってロマンチックよねぇ」とか言いながら、ラボの屋上でいきなりキスをするマイケルとマルティーヌ。本当によくわからない。映画史に残るキスシーンだろう。そして、その様子を遠くから、怖い顔で見つめているマイロ。マイロに見せつけるためだけのキスシーンですよね、監督?

 かつて、マイケルとマイロが出会った病院に勤務していた、医師のニコラス。マイケルの才能に気づき、彼をニューヨークに送った。そしてマイケルの代わりに、ずっとマイロの側にいてやった。二人にとっての父親のような存在だ。変わり果てたマイロの凶暴性を恐れつつも、寄り添う姿勢を見せるニコラス。そんな"パパ"に対し、マイロは怒りを爆発させる。「ずっと俺を憐れんでた!」「いつもマイケルの味方だったな!」「完璧なマイケル、人を助けるマイケル、マイケルがお気に入りだ!」。ずっとマイケルと一緒にいたかったマイロにとって、ニコラスは、二人を引き離した存在として、憎むべき相手となっていたのだろう。「俺たちには恥じることなどない」「俺たち少数派が、大軍と戦う」と宣言し、ニコラスをその手にかける。父殺しだ。

 そのあと、なんやかんやでマイロはマルティーヌも殺す。「これで二人きりだ!」。そんなマイロと、怒りを燃やすマイケルとの、決戦の火蓋が切られた。マイケルはコウモリの"大群"を呼び寄せ、マイロはその辺の鉄パイプを、ギリシャの槍のように持ち、激突する。マイロは敗れ、マイケルによって、吸血鬼のパワーを無くす薬品を注射される。生き絶えるマイロ。ただ一言、「悪かった」と言い残して……。

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 これはあれだ、マイノリティの悲劇を描く作品なんだ。そう思う。その文脈で読み解くと、やはりマイロは性的少数者なのか。そのように見えて仕方がない。彼は男性(性別)で、難病患者で、もしかしたら同性愛者(性的指向)かもしれない。そのような、複数のアイデンティティが組み合わさることで起こる、様々な差別や苦しみについて理解するために、"インターセクショナリティ"という概念がある。調べてみてほしい。

インターセクショナリティとは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD

 だからマイロの抱える問題を、トキシック・マスキュリニティという一つの物差しだけで測るのは、とても難しいし、本来やるべきではないような気もするが……。ここは一旦、当記事の趣旨に沿って、ちょっと考えてみる。マイロは幼少期から、暴力的な気質を持っていた。自分たちを憐れむ、あるいは蔑む社会に対する憎しみ。ままならぬ自身の肉体、そして苦痛に満ちた人生に対する怒り。様々な要因があるだろう。「男らしく」振る舞えなかったからこそ、「男らしい」肉体を手にしたあとのマイロは、過度に「男らしく」振る舞う。肉体を見せつけるように踊り、女性を口説き、他者を攻撃して力を誇示する。

 マイケルと一緒になることが、マイロの無二の望みであったはずだ。なのに、マイケルは人を殺したくないと言っているのに、マイロは大勢の人を殺す。マイケルの大切な人たちも。ずっと社会(大軍)から抑圧されてきて、復讐したかったのだ。二人のギリシャ兵で。死ぬなら一緒に死にたかったし、怪物として生きるなら、一緒に怪物になりたかった。最期になって詫びるくらいなら、きちんと話し合う道もあったろうに、マイロは言語ではなく、暴力によるコミュニケーションを選んだ。彼の気持ちは、マイケルにもニコラスにも正しく伝わっていないのではないか。そう思えてならない。二人が対話を呼びかけても、一向に聞く耳を持たず、暴力によってねじ伏せようとする姿勢は、トキシック・マスキュリニティを感じさせる。

 彼自身の抱える"有害な男らしさ"もそうだが、社会に蔓延る"有害な男らしさ"が、彼を追い詰め、怪物へと変えてしまったのかもしれない。突発的な暴力によってしか、他者とコミュニケーションが取れない存在へと。

 もっとも、彼が自身の感情を素直に打ち明けられなかったのは、彼が難病患者であったことや、同性愛者である(かもしれない)ことと、無関係とは言えない。それが、インターセクショナリティについて考えるということだ。多くの場合、トキシック・マスキュリニティは、個人の抱える問題の、ほんの一部に過ぎない。そのことを忘れてはならないが、同時に、一部であっても理解し、改善を目指すことによって、より良い生き方を選べるようになる……かもしれない。僕はそう信じる。マイロの悲劇は、避けられたはずだ。

③女性を抑圧する男性:エゼキエル・シムズ

(『マダム・ウェブ』より)(ネタバレ注意!)

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 前作『モービウス』のヴィランであるマイロが、物語の主軸を担う「もう一人の主人公」とも呼ぶべき存在であるのに対し、今作『マダム・ウェブ』のヴィランであるエゼキエルは、完全に「倒すべき悪役」として描かれており、物語の主軸を担う存在ではない。『マダム・ウェブ』は、彼のための物語ではないのだ。

 主人公・キャシーの母親を殺害して奪った蜘蛛のパワーで、超人となったエゼキエル。過去の苦労がトラウマになっているようで(社会に見捨てられたのだとか)、何を犠牲にしてでも、自らの栄華を極め続けることに執着している。彼の"栄華"が、実際にはどういうことを意味するのか、全く描かれないのでよくわからない。まぁどうせ、酒と博打と女遊び程度のもんじゃないかな。

 そんな彼の栄華を脅かすもの、それは毎晩夢にみる三人の女性。エゼキエルと同じ蜘蛛のパワーを駆使し、彼に死をもたらす存在だ。数十年間、ずっと悪夢にうなされてるのかなぁ。気の毒な人だ。絶え間ない不安に襲われ続けて、それを誤魔化すため、仮初の繁栄を追いかけ続けている。カウンセリングを受けるべきだと思うが、彼が選んだのは、夢の中に登場する女性たちを現実で殺害する、という解決法だった。

 彼女たちを見つけ出すには、政府が極秘裏に開発した"監視ハッキングシステム"を入手する必要があった。それを管理している役人の女性接触するエゼキエル。好きでもないのに誘惑し、一晩を共に過ごして、なんやかんやでシステムを奪うことに成功した。役人の女性は殺害した。寝る必要があったのかわからないが、後に彼自身が、このシステムを「苦労して入手したんだ」と繰り返し語っていたので、どうしても避けられない(そして彼にとってはあんまり望ましくない)過程だったのだろう。エゼキエルは栄華を守るために、自分も他人も犠牲にする。トキシックだと思う。

 そんな苦労の果てに盗み出したシステムを、部下の女性に操作してもらい、夢に出てくる女性たち──現在はまだ少女なのだが──を特定するエゼキエル。少女たちに逃げられたり、口答えされたりすると、その部下を恫喝して当たり散らすのだが、彼は自分でパソコンを操作しない(できない?)ので、殺すという選択肢はない。

 いざ、少女たちをその手にかけるべく、行動を開始するエゼキエルだったが……色々あって未来予知の能力に目覚めていた主人公・キャシーの妨害を受け、電車の中に取り残されたり、車に撥ねられたりして、逃げられてしまう。かつて、蜘蛛を渡そうとしなかったキャシーの母親へ言い放ったのと同じ「黙って渡せばいいものを!」という台詞を、少女たちを守るキャシーにも吐き捨てる。

 少女たちは社会に居場所がなく、孤独を抱えていた。彼女たちと連帯し、彼女たちを守ることを誓うキャシー。容赦なく襲来するエゼキエルを車で撥ね(二回目)、AEDでショックを与え、大量の爆発物が放置されている倉庫へと誘き出す。キャシーの知恵と、覚醒した能力に翻弄され、次第に追い詰められていくエゼキエル。ついに、倉庫の爆発に巻き込まれ、無様にも転落。その栄華に幕を下ろした。

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 こう、まとめて書くと、なんとも薄味なヴィラン(前作のマイロが濃すぎるのかも)に見えるかもしれないが、僕は、薄味であることに意味があるのだと思う。先ほど述べたように、この物語はエゼキエルのものではない。社会に居場所がない少女たちと、彼女たちと連帯し、彼女たちを守る女性・キャシーの物語だ。その物語において、エゼキエルのやることなすことは単なる脅威でしかない。必然、彼のドラマは薄味の作劇となってしまう。それでいいし、そうすべきだと思う。変に同情を買ったり、主役を食うような魅力を発揮してしまうと、話がブレる。公式がSNS#エゼキエルを称えようと言い出したり、劇場でエゼキエルの魅力ダダ漏れステッカーを配布し始めたり、そういうのはおかしい(去年公開の、とある映画の話)。

 それに、この作劇によって(いわゆるカリスマ性のあるヴィランだとか、可哀想な悪役だとか、そういうのとは違う)独特の味わい深さが、エゼキエルという人物に付加されてもいるのだ。詳しくは後述するが、とにかく、よく考えられたキャラクター造形と作劇をしている。

脱線。トキシック・マスキュリニティについて語ること。答えを出すこと。

 僕は、同情すべき悪役が好きだし、人が悪事を働くのは多くの場合、構造に問題があるのだと考えているし、どんな争いもなるべく平和的な対話で解決してほしいと常々思っているのだが……。とはいえ、なんでもかんでも相対化して、誰の敵にも味方にもならない態度を取るのが、社会の成員として相応しいかと言われると、それは違うと思う。虐げられる側に立ち、虐げる側へ毅然とNOを突き付けるのが、責任ある大人のあるべき姿ではないか。

 トキシック・マスキュリニティについて語ると、「悪い男らしさがあるかのような言い方はやめろ」、あるいは「男らしさに良い面があるかのような言い方はやめろ」といった正反対の意見を頂くことが、時々ある(僕も実際、両方言われたことがある)。

 現状の社会において、多くの場合、男性という属性は特権階級にある。女性が、女性であるというだけの理由で被る不利益を、男性が、男性であるというだけの理由で被らずに済むのなら、既にそこには、性別による階級差が生じている。

 しかし、インターセクショナリティを考慮に入れた時、「この世の全ての男性が特権に守られ、何の苦痛もない安寧な日々を送っている」とは、口が裂けても言えなくなる。男性という属性の中には、無数の個人が存在している。富裕層も貧困層も、白色人種も有色人種も、美男子とされる人も、醜男とされる人も、難病患者も、同性愛者もいる。

 事実として特権階級にある(その属性に自分が含まれている)ことと、実際の自分の人生が、とても特権の恩恵を受けられているとは思えないほど、困窮や苦痛に満ちていること。そのギャップが、トキシック・マスキュリニティに関する議論を難しくさせている。ある面では加害者(抑圧する側)であり、別の面では被害者(抑圧される側)なのだ。それを理解するためにインターセクショナリティがある。漠然と、属性やイデオロギーを振り翳して憎み合うのではなく、そこに生きる人間のひとりひとりを見たい。"有害な男らしさ"について知り、学び、考えることは、ひとりひとりのより良い生き方に繋がる。最初の方にも書いた、そんな祈りを込めて、僕はこんな記事を書いている。

 ただ、こうやって書いていると、やっぱりどうしても「なんでもかんでも相対化して、誰の敵にも味方にもならない態度を取」っているように見えてしまうきらいがある。トキシック・マスキュリニティについて語ることは、「加害者にも事情があるんですよ」と説いてまわるようなもので、支持を得るのが難しいのは仕方のないことだろう。

 社会の成員として、虐げられる側に立ちたい。昨今の情勢を踏まえて、より強くそう思う。……まだ上手くまとめられないが、とにかく、僕はこれからも多くを学び、多くを考え、ひとつひとつの事例になんとか答えを出していくだろう。抑圧する側ひとりひとりの事情も考慮に入れつつ、抑圧される側ひとりひとりの味方であり続けたい、と思う。そうやって考えて答えを出す、その訓練のために映画を観るのもいい。僕はマイロに深く同情するが、エゼキエルにはあまり同情しない。そしてどちらも、罪なき人を死に追いやっているので、裁かれるべき悪人である。

脱線おわり。

 さて、エゼキエルの話に戻る。彼は妊婦を殺害して蜘蛛を奪い、役人の女性を殺害して技術を奪い、部下の女性を恫喝し、少女たちを殺そうとする……典型的な"女性を抑圧する男性"である。口癖の「黙って渡せばいいものを!」が象徴的。女性を黙らせ、奪い、殺す存在なのだ。『マダム・ウェブ』の物語が、そんな彼の"ために"あるわけがない。冒頭で妊婦に発砲した瞬間から、彼は許されざる抑圧者だ。そういう作劇になっている。

 ただ、そんな恐るべき存在であるのと同時に、彼の言動からは、一抹の情けなさを感じ取ることもできる。そもそも、ペルーの蜘蛛はキャシーの母親が発見したものだし、苦労して(本当に苦労して)女性から奪ったシステムも、女性の部下にパソコンをぽちぽちしてもらわないと使えないし。女性を抑圧していながら、実際は女性がいないと何もできない非力な存在であることが、明確に描かれている。

 女性を抑圧するくせに、女性に依存している……そんな"カス男性"としての造形が非常に良いことが、エゼキエルというキャラクターの持つ魅力であり、『マダム・ウェブ』(女性たちの連帯と解放を描く物語)のヴィランに相応しい資質だと言えるだろう。だから彼は、毎晩悪夢にうなされ、二度も車に撥ね飛ばされ(ジョン・ウィックにも匹敵する見事な撥ね飛ばされ具合だった)、AEDでショックを与えられ、最後は呆気なく命を落とす。"カス男性"の象徴として、相応しい末路を迎えたのだ。

④"有害な男らしさ"を再生産する男性:クレイヴンの父親

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(画像はクレイヴン本人)

 まだ公開されていない映画の話もしちゃおう。今年公開予定の新作『クレイヴン・ザ・ハンター』。現在、予告編と簡単なあらすじだけが発表されている状態だが、ここから既にトキシック・マスキュリニティに関する表現・作劇を読み取ることができる。まずは見ていただこう。

映画『クレイヴン・ザ・ハンター』予告1 2024年公開 - YouTube

【ストーリー】
幼い時に母親を亡くした少年セルゲイは、冷徹な父親から「強き者が生き残る。相手を全て獲物と思え。」という精神を叩きこまれて育つが、その軟弱な性分から父親の期待に応えられずにいた。ある日、父親と共に狩猟に出たセルゲイは、ライオンに襲われ生死を彷徨う事態に。死と直面し、やがて彼の中である<本能>が目覚める──。「父親がもたらした悪を始末する」と言いながら次々と<狩り>を実行していくが、その狂気は次第に暴走してゆく──。

 どうだろう、今まで以上にド直球ではないか。強さを誇示することに固執し、「男らしくない」ものを蔑む。誰の目から見ても明らかに、クレイヴンの父親は"有害な男らしさ"に捉われている。そして彼の恐ろしさは、その呪いを息子たちにも植え付けようとしているところ。"有害な男らしさ"の再生産を、行おうとしているのだ。主人公・クレイヴンは、そんな父と、父の悪業に立ち向かう。再生産の運命に抗うように。しかし、その壮絶な戦いの日々は、彼の生き方を、よりトキシックなものへと変えてしまうのではないか……。

 SSUの5作目にして、今まで以上に正面からトキシック・マスキュリニティを描こう、という意志を感じる。上の画像やオリジナル予告編にあるVILLAINS AREN'T BORN. THEY'RE MADE.(悪党は生まれながらに存在するのではない。彼らは造られた存在なのだ)という文章は、まさしく構造主義の考え方であり、作り手が"有害な男らしさ"について真剣に考え、作品に活かそうとしていることが期待できる。

 ここまで来ると、やはり僕が冒頭で打ち立てた、SSUは"有害な男らしさ"を描くことを目的としたシリーズなのではないか……という説も、現実味を帯びてくるというもの。どうか『クレイヴン』が、そのメッセージを十全に表現してくれますように。そして、より多くの人間の生き方を、より良い方向へと変えるキッカケとなりますように。そう願ってやまない。

まとめ

 本当は番外編として『スパイダーバース』シリーズのピーター・B・パーカーミゲル・オハラの話もしたかったのだが、(彼らの抱える問題があまりに巨大であるため)さすがに膨大な文量になってしまうし、たぶん年内には3作目『ビヨンド』が公開されるので、そのタイミングで書こう(先送りにしよう)と思う。

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 彼らって本当にトキシックだと思うんです。スパイダーマンという属性(正体を明かせない、軽口で誤魔化す、悲劇に遭う運命が定められている)が、彼らの苦しみを膨らませているのだろうか。マイルスにはどうか、そんな運命("有害な男らしさ"を助長する構造)をもブチ壊してほしい。

 『スパイダーバース』も実質SSUみたいなもんと思えば(『アクロス』で『ヴェノム』の世界も映ったし)、なんだか急にSSUが名作シリーズのような気がしてきた。平均点がグッと上がった。そして、そんなシリーズの全ての作品で、"有害な男らしさ"に捉われた男性たちが描かれている。

 "有害な男らしさ"と一口に言っても、彼らの抱える苦しみは多種多様で、各作品での描かれ方・扱われ方も人それぞれ。大事なのは、インターセクショナリティの概念に基づき、彼らが(記号化された属性ではなく)ひとりひとりの人間であることを認識しておくこと。その上で、特定の属性に付随する苦しみ(当事者にとっても社会にとっても)を取り除くため、社会を変えていくこと。多くの問題は、社会構造に起因しているのだから。

 SSUを始め、多くの映画作品が、現実を生きる我々ひとりひとりの生き方を、より良く変えていくためのヒントを与えてくれるだろう。願わくば、一人でも多くの人がトキシック・マスキュリニティ("有害な男らしさ")について考え、行動してくれますように。モービウスとマダム・ウェブが再評価されますように。いや、モービウスは確かにいろいろだめなところあるけど、それは認めるけど、マダム・ウェブは普通に面白かったよ!ほんとに!

マグニフィ考〜なぜ人は『ウィッシュ』にモヤモヤするのだろう〜

「ウィッシュ」本編映像「無礼者たちへ」Performed by 福山雅治|12月15日(金)劇場公開! - YouTube

まえがき

 みて! 記事の名はマグニフィ考(こう) トラウマ抱えた哀れな王 稲妻操り目からビーム! ウソウソ! ただの冗談よ 弱く愚かしい 孤独な王様

 ……さて、本記事は映画『ウィッシュ』について、何かしら明確な答えを提示するようなものではありません。私自身、昨年末に劇場で鑑賞して以来、ずっとモヤモヤしているのです。いったい何が気に食わないのでしょう。私の思う、『ウィッシュ』の抱える問題点や、マグニフィコ王というキャラクターについて、他の映画作品やキャラクターとの比較を交えながら、本気出して考えてみた……その記録であり、軌跡です。情熱的。だけど冷静。そして誰より慈悲深く考えていきます。皆様のお考えも、ぜひお聞かせください。決して、無礼ではないので。

注意点

 ①筆者は映画『ウィッシュ』を劇場で一度しか鑑賞しておらず、記憶違いをしている可能性が大いにあります。また吹替版を観たため、原語のニュアンスから少しズレた解釈をしている可能性も、これまたあります。ご容赦ください(心の中のマグニフィコ「私の記事に偉そうに文句が言えるほどお前は完璧なのか?」)(いや、なんでもないです!こう考えると、やっぱりコイツの言ってること中々ヒドイですね)

 ②本作のヴィランであるマグニフィコ王に対し、割と好意的というか、擁護とも取れるような記述が散見されるかもしれませんが……マグニフィコは悪くないとか、アーシャの方がヴィランだとか、そういう論調には同意しません。禁書に手を出す前から、マグニフィコのやっていることは悪事です。どんな動機であれ。

 ③作品のテーマについて語る際に、少しばかり政治的な話をします。映画のことを考えるとき、避けては通れない重要な要素なのですが、苦手な方は、ここで引き返すことをオススメします。

 ④以下の作品について、ネタバレを含みます。作品の核となるような情報(たとえば推理モノの犯人を言っちゃうとか)は極力避けますが、これらの作品について「一切の事前情報を得ることなく楽しみたい!」という方にとっては、本記事は禁書です。

『ニモーナ』『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』『ワンダーウーマン1984』『ゾンビーズ3』『シュガー・ラッシュ

あと、当然ながら『ウィッシュ』のネタバレを大いに含みます。もはやそれしかありません。初期案や小説版の情報も盛り込まれています。重ねてご容赦ください。

"何に"モヤモヤしているのか

 さて、人々の願いを魔法で支配していた悪い王様は倒され、新たに即位した女王陛下のもと、王国の人々は(誰かに叶えてもらうのを待つのではなく)自分たちの力で願いを叶えることを誓い、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

 ……うん、いい話ですね。どこに文句を言うところがあるのでしょう。その答えは、スターである皆さん一人一人が自分の力で見つけ出してもらうとして……僕が思うのは、以下の三点。

 ①まず「悪い王様」だったのか? 

 ②女王陛下万歳?

 ③いつまでも幸せに暮らした?

彼の名はマグニフィコ

⑴マグニフィコの罪とは?

 一つずつ整理していきましょう。まずは、最恐のヴィラン(公式サイトより)であるマグニフィコ王から。まぁ宣伝文句なので、あんまり真に受ける必要はないかもしれませんが、このキャッチコピーについても、一応あとで考えます。

 彼は物語の中で、絶対的な悪として憎まれ、コテンパンに打倒されます。少年少女らは、彼の顔が描かれたクッキーを踏み潰すほどの強い気持ちで、真実を掲げる"革命"を起こしました。食べ物を粗末にするのは日本の宗教的タブーなので(海外、少なくともアメリカではそこまで禁忌だと思われていない様子。文化の違いですね。同じディズニーの映画『ゾンビーズ』においても、差別に苦しむゾンビたちの家に生卵を投げつけるよう、差別主義者のチアリーダー・バッキーから命令された人間の主人公が、それを拒み、差別に立ち向かう強い気持ちを表現するため、近くにあったゴミ箱に生卵のパックをそのまま捨てる、というシーンがありました。僕だったら持って帰ってTKGにして食べるのに……)、アーシャたちを憎むあまり、マグニフィコを肯定してしまう人もいるかもしれませんね。

 作中において、マグニフィコは悪とされています。彼の罪はなんでしょう。願いを管理していたこと?叶える願いを選別していたこと?叶えない願いを返さないこと?……違います。アーシャも「危険な願いならやめさせればいい」と言っていたように(具体的にどうやめさせるんでしょうね)、願いを選別すること自体は悪ではない。なにより願い星のスターは、マグニフィコの願いを叶えてくれなかったじゃないですか(小説版には、そのことについての言及があるようです)。願いを管理するのも国民が望んだこと。返さないのも、それ自体が罪ではない。

 マグニフィコの罪とは、国民に嘘をついていることです。願いの選別も没収も、事前に国民に説明し、了承を得ていれば何も問題はなかったのです。それを了承して願いを差し出す人間が、いったい何人いるのかわかりませんが……。とにかく、マグニフィコは嘘をついていた。それが彼の罪。だからアーシャたちは真実を掲げるのです。

ポスト・トゥルースの時代のヴィラン

 僕は社会学者ではないので、聞き齧っただけの情報を語ることになるのですが(間違っていたら遠慮なく指摘してください)、現代はポスト・トゥルースの時代とも呼ばれています。これは、2016年のアメリカ大統領選挙(トランプが選ばれた時のやつ)の頃から多く使われるようになった表現で、噛み砕いて言うと、客観的な事実(トゥルース)よりも個人の感情へのアピールが重要視され、世論が形成されてしまうような、そんな時代のこと。悪質なデマやフェイクニュースプロパガンダが飛び交い、ファクトチェックは機能せず、そうやって形成された世論によって、選挙結果が左右され、政治が行われてしまう。

 映画『ウィッシュ』は、そんなトランプ政権下の2018年に企画がスタートしました。権力者の嘘は大罪で、真実は何よりも尊いめっちゃリベラルですね。僕は好きです。

 別に「マグニフィコはトランプだ」なんて言うつもりもないんですが、しかし持ち前のカリスマ性と都合の良い嘘で国民を煽動するマグニフィコの姿に、現実の権力者の影が、どこか重なって見えるのは確かです。そこに行けば夢が叶うとされる移民の国・ロサスを、現実のアメリと重ねるのは、より容易でしょう。

 同じくトランプ政権の時代に作られ、ポスト・トゥルースの時代をテーマに据えた映画ワンダーウーマン1984。こちらにも、嘘を駆使して人々の願いを集めるヴィランが登場します。現代社会の状況を反映した物語における、悪役の典型なんでしょうね。また後ほど、詳しく触れます。

⑶このヴィランに世界が夢中!

「ウィッシュ」SPOT|【このヴィランに世界が夢中!】編|大ヒット上映中! - YouTube

 マグニフィコの所業が悪であることがハッキリした以上、それを打倒し、彼の嘘による支配を終わらせる正当性が、アーシャたちには確かにあるのですが……。

 ここで気になるのは、果たして彼は「悪いだけの人」だったのか?ということ。この記事を読んでいる方々にとっては自明のことであろうが、答えはノーである。序盤から多くの観客が心を掴まれたであろう、彼の過去。焼けて千切れたタペストリー。言動の端々から滲み出る、不安と焦燥

 私はかねてより、魅力的な悪役の三要素として「カス」「共感」「同情」を挙げています。カスのような悪業。共感を呼ぶ主義主張。同情を誘うバックボーン。それらが揃った悪役は、大抵の場合、名悪役となるのです。マグニフィコは「共感」と「同情」が強すぎて、「カス」が霞んでしまっているように感じます。一部ですが、マグニフィコの言動からこれらの要素に振り分けられるものを、列挙してみましょう。

「同情」

・故郷を滅ぼされている(クーデターで滅びたんじゃないかと私は睨んでいる。だから反乱を執拗に恐れる)

・幼くして両親を亡くしている(『無礼者たちへ』の冒頭で、自分の長所として顔面と名前を真っ先に挙げている。亡き両親が唯一自分に遺してくれたもの)

・夢が叶わないことの苦しみを知っている(小説版で、スターに対し「私がお前を必要としている時にどこにいた?」と発言しているらしい。つらい)

・めちゃくちゃストレスに弱い(『無礼者たちへ』を観てください。情熱、冷静、慈悲の三連コンボのとき、ずっと口角下がってるんですよ。もう限界なんですよこのおじさん)

・爺さんのギターに国家転覆の危険性を感じるくらいの不安を抱えているのに、いきなりスターとかいうワケわからんもんが飛んできて、精神に変調を来した結果、禁書に手を出してしまう(その凶行が過去のつらい経験に起因していると推測できる以上、一方的に叩くのは心が痛む)

・誰にも心を開けず、たった一人で王国を守ってきた(王妃も敵に回っちゃうもんなぁ。別に彼女が悪いわけではないが……。序盤、出会ったばかりのアーシャにシンパシーを感じ、デュエットして王国の秘密まで開陳したのは、本当に奇跡なんだと思う。そこまでアーシャに入れ込んだのは、彼女も親を亡くしているからでしょう?自分を重ねたんでしょう?だいたい、自分が夢が叶わなくてつらかったから、みんながそんな思いをしないで済むような王国を作ろう!と思って行動できる時点で、アンタほんとにすげぇよ)

「共感」

・一応、平和で豊かな国を運営している(願いを一つ差し出すだけで、大して税金も取られない安全な国で暮らせるんなら、喜んでマグニフィコに忠誠を誓おう!という人は少なくないと思う)

・独学で魔法を習得した(努力家はみんな好き)

・休日の趣味はボランティア(文字通り受け取るなら立派な行いである)

・求めるのは感謝の気持ちだけ(質問しただけで無礼者扱いはちょっとアレだが、とりあえず褒めておけば害はない。それにみんな感謝はされたい)

・孤児や障がい者も雇用している(えらい)

・既に他界した国民の職業も把握している(ぜったいアーシャのパパと過去になんかあったって、ずっと思ってるんだけど、なんもなかった……)

・アーシャの家族を経済的に支援していた(小説版で明かされたらしい。あしながマグニフィコおじさん)

・見た目も声もいい(やはりそこは無視できない)

「カス」

・国民に嘘をついていた(でもそれは過去のトラウマに起因する過剰な不安によるもので……誰も傷付かない王国を作りたかったのであって……)

・爺さんの「ギターを弾きたい」という、ささやかな願いすら認めない(怖がりが過ぎる。プロパガンダ音楽は認めてるんだよね。ディストピアだぁ……。もう少し寛容さがあれば、革命を起こされることもなかったんじゃないかな)

・ベニートの服を剥いで貧しい君へ(人の服を剥ぐのはよくない)

・休日の趣味はボランティア(ベニートの〜からの流れでこう歌っているので、自分で放火して鎮火するマッチポンプヒーローごっこをやってたんじゃないか、と解釈している)

・禁書に手を出した(気持ちはわかる)

 禁書に手を出して以降の言動は、明らかにそれ以前のマグニフィコのそれとは違う意志を感じさせるものです。「裏の顔」や「本性」と呼ばれるようなものでは、ないんじゃないかな……と僕は思うんだけど。どうだろう。マグニフィコに甘い解釈だろうか。とはいえ、制御できない力に手を出したのがマグニフィコ本人の意志であることは間違いないので、どのみちマグニフィコに責任があるのは確かなのですが。

 さて、ザッと並べてみました。あくまで私の独断と偏見によるものなので、偏りがあることは否めませんが。やっぱり、こうして見てみると(考えてみると)単純に悪いだけの人、倒されるためのヴィラン、絶対悪……と呼ぶのが憚られるような気がしてきませんか。おっさんの苦労話なんざ知ったこっちゃねぇ、という意見もあるでしょうけど。こうも「同情」や「共感」を誘うキャラ造形をしているのに、マグニフィコは映画の中で、絶対悪として退治されてしまいます。

⑷では、どうしてほしかったのか?

 対話です。最初に答えを言ってしまいました。絶対悪として一方的に断じてしまうのではなく、きちんと話し合って、互いの意見をぶつけ合って、相互理解を目指してほしかった。意見をぶつけたら「なんて無礼な!」ってブチギレるから、難しいだろうけど、それでも話し合ってほしかった。話し合うべきだった。だって、マグニフィコは絶対悪ではないのだから。悪役を排除することがハッピーエンドになるのなら、その悪役は対話の余地がない絶対悪でないといけない。対話すべきであった人を、対話せずに倒してしまったのなら……それはバッドエンドだろう。

 『ウィッシュ』と同じ2023年に公開(配信)された『ニモーナ』という映画があります。外敵を極度に恐れたヴィランが、制御不可能なパワーに手を出し、結果として命を落としてしまう……という、やや似ている話なのですが(マグニフィコは死んではいないですね)。『ニモーナ』のいいところは、終盤、物語の語り手が「全ての人がハッピーエンドを迎えられるわけではない」と言ってくれること。この言葉が何を指すのかは、様々な解釈の形があるでしょう。何を指すにしろ、現代社会の状況を反映した物語において、これは最も真摯で誠実な態度だと、僕は思います。だって僕たちの世界に「いつまでも幸せに暮らしました」なんてオチは、ないのだから。

『ニモーナ』予告編 - Netflix - YouTube

 先述のワンダーウーマン1984に登場する、明らかにトランプを意識したヴィランマックスウェル・ロード。彼は対話を経験します。ワンダーウーマン"真実の投げ縄"を通じて、観客は彼のつらい過去を知ることに。貧しく暴力的な家庭で育ち、周囲の人々からは移民として迫害され、強烈な上昇志向に取り憑かれてしまった男。息子に誇れる父親になりたい一心から、禁忌のパワーに手を出し、人々の願いを無制限に叶え始めます。その結果、世界は大混乱に陥り、核戦争寸前の危機的状況となってしまいました。世界を救うため、居心地の良い嘘を否定し、つらい現実に目を向けたワンダーウーマン。彼女との対話を経て、マックスは息子を守るために、禁忌のパワーを自ら手放します。

映画『ワンダーウーマン 1984』US予告2 2020年12月18日(金) 全国ロードショー - YouTube

 そんなワンダーウーマンと世界観を共有する映画バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』においても、対話は重要な要素です。目の前で両親を殺害されたトラウマから、犯罪者に私刑を下す闇の騎士・バットマンとなった男、ブルース・ウェイン。宇宙からやってきたヒーロー・スーパーマンを倒すべき敵だと思い込んでいた彼ですが、対話を経て、スーパーマンもまた一人の人間であることを認識し、和解します。作中の印象的な台詞に、こんなものがありました。「民主主義において正義とは対話です」

映画『ザ・フラッシュ』公開記念【予告編】『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』BD/DVD/4K UHD発売中&デジタル配信中 - YouTube

 とはいえ、誰もが対話すれば仲良くなれると思うほど、僕も能天気ではありません。最後まで分かり合えないこともあるでしょう。ディズニーの映画ゾンビーズ3』のラストは、カリスマ性溢れる差別主義者のバッキーが、たった一人で宇宙に旅立つ、というもの。本人はノリノリですが、要するにこれは追放でしょう。映画三本を費やして、多くの差別が乗り越えられていく過程を目の当たりにしながら、そして対話も繰り返しながら、それでもバッキーは全く変わらず、差別主義者であり続けました。そんな彼の追放で、シリーズは終わりを迎えます。差別主義者に居場所はない、という強いメッセージでしょう。マグニフィコの末路も、これを踏襲したものかもしれませんが……かたや映画三本分の対話、かたやまともな対話無しです。たとえ相互理解に至ることができなかったとしても、対話しようとする意志は示してほしかった。

ゾンビーズ3|予告編|Disney+ (ディズニープラス) - YouTube

 幸い、マグニフィコはまだ生きているので……もし続編があるのなら、今度こそ対話してくれることを祈ります(小説版のラストは「いつまでも幸せに暮らしましたとさ。ひとまずおしまい。」とのこと。やや含みのある終わり方ですね。素直に受け取れば続編へのフラグでしょうか。完全無欠のハッピーエンドではないよ、と言っているようで、好感が持てます。映画本編もこのオチなら、僕はこんな長文を書かずに済んだかもしれない……)

⑸最恐のヴィランとは?

 と、マグニフィコに甘いことをつらつらと書きましたが、とはいえヤツのやったことは明確に悪いことです。現実において、嘘で民衆を煽動する権力者がもたらす害悪を想像したら、背筋が凍りますね。そういうトランプ的な要素をもって、マグニフィコを"最恐のヴィラン"と呼んでいるのでしょうか、公式は。まぁ気持ちはわからなくないですが……先述したように「マグニフィコ=トランプ」では決してないのです。ロサス=アメリカでもない。たとえモデルにしていたとしても、細部は全然違う。それを雑にまとめて、トランプの罪=マグニフィコの罪、とするのは乱暴でしょう。それはキャラクターじゃないじゃん。生命を宿した人物ではなく、作り手のメッセージ性の依代としてのみ機能する、記号というか。こういう記号的なところは、アーシャもそうだし、『ウィッシュ』という作品全体に通底する問題点だと思うのですが、詳しくは後述します。

 マグニフィコの悪事は、ちょっと伝わりづらいというか……「マグニフィコは悪くない!」と考える人の気持ちも、わからなくはないんです。わかりやすく人を殺して回るわけでもないし。可哀想な過去もついてくる。何より顔がいいし、声もいいし、かわいいし。マグニフィコ擁護派とマグニフィコ否定派の間にある溝。この"分断"こそ、作り手の思惑だったのなら、凄まじいキャラ造形と作劇だなぁ……と思って、心底感心するのですが。たぶんそういうことではないでしょう。創作物で分断を煽らないでほしいし。そういう、現実を侵食してくるタイプの"最恐のヴィラン"となることを狙っていたのなら、すごいことだけど……。

⑹公式とマグニフィコ

 公式が言い出した"最恐のヴィラン"ですが、最近はどうも、公式がマグニフィコをどうしたいのか、よくわからなくなってきました。

「ウィッシュ」特別映像|名悪役マグニフィコ王が歌う「無礼者たちへ」曲に息吹を吹きこまれる瞬間!|大ヒット上映中! - YouTube

 日本で1月10日に公開されたこちらの映像では、脚本を担当したジェニファー・リー(アナ雪を監督してて僕は結構好きなのだが)が「マグニフィコ王は典型的なディズニーの悪役」と語り、監督のクリス・バック「分かりやすい悪役」と言っている。いつ撮られた映像かわからないが、公式のスタンスとしては正解でしょう。悪いものは悪い。僕もそこは認めている。対処の方法がよくなかったね、と言っているだけで。

https://x.com/disneystudiojp/status/1750096106061517150?s=46&t=nP41nelSPAhbfd7kvr8c9A

 ところが1月24日、先ほどの映像を投稿したのと同じディズニー・スタジオ公式が、Xにこのようなポストをしている。#マグニフィコ王を称えようだそうです。あんたらが封印しておいて……と思うのですが。なんだろう、作品のメッセージとマーケティングが喧嘩している。公式はマグニフィコをどうしたいんだ。ヴィランとして人気を出させたいのか、擁護派を盛り上げたいのか。やはり分断を煽る、現実を侵食するタイプのヴィランだったのかもしれない。マグニフィコ恐るべし。

「女王陛下万歳!」

 やっと次のトピックへ行けます。最初にキチンと断っておく必要があるのは、別に女王が即位することをポリコレだからダメだのなんだの言うつもりは、全くないということ。僕がモヤモヤしているのは、みんなついさっきまで、今こそ革命の時!足踏みならせドンドンドン!つってたのに、王政は維持するんすね〜っていう。権力の構造は残すんだ。別に、一足飛びに共和制民主主義まで行っても良かったんじゃない?とか思ったり。

 実際、同じディズニーのアニメ映画でも、10年前のシュガー・ラッシュでは、国民の記憶を改竄し、自分だけに都合の良いディストピアを築き上げていた国王(既視感がありますね)を打倒して、ヒロインのヴァネロペが真の王となる展開があるんですけど、彼女はその場でドレスを脱ぎ捨て「この国は共和国にする!代表は選挙で選ぶ!」とめちゃくちゃ立派なことを言い出すんですね。まぁゲームキャラなので、そういう発想がプログラムされている子なんでしょうけど。10年前にできていたことが、どうして今はできないのだろう。

シュガー・ラッシュ | 予告編 | Disney+ (ディズニープラス) - YouTube

 『ウィッシュ』の初期案では、マグニフィコ王と共に、アマヤ王妃もヴィランだったそうです。もし二人とも退治されていたら、その後のロサス政治はどのような転換を迎えていたのでしょうか。

いつまでも幸せに

⑴社会と寓話とハッピーエンド

 先ほど『ニモーナ』について触れた時にも、ちょっと書きましたが、現実世界の状況を反映した物語の結末が、御伽噺のような完全無欠のハッピーエンドなのは、どう考えてもおかしいと思うのです。御伽噺が嫌いなわけではなくて。寓話は、個人の救済を描く物語において、極めて有効な表現手法だと思っています。さっきのシュガー・ラッシュシリーズや『アナ雪』シリーズもそうですし(アナ雪2はちょっと社会の話もありましたが)、『レゴバットマン ザ・ムービー』は、そのような救済の寓話として完璧に近い出来の作品です。ただ、それを現実社会の諸問題とリンクさせた時、どうしても齟齬が生じてしまう。その齟齬を、無理やりなハッピーエンドで押し通そうとする作品を、欺瞞だな、と僕は思います。『ウィッシュ』と、あとズートピアも(飛び火)。どうしてもハッピーエンドにしなきゃだめですかね。

 勘違いしてほしくないのは、僕は何も、アニメや映画で政治の話をするな、と言っているわけではないのです。むしろどんどんやってほしいんだけど、やるんなら「みんな幸せに暮らしました」は無いだろうと。その「みんな」の中に僕はいないなと、思うだけです。

 寓話で社会問題を扱う場合は『ニモーナ』のように「全ての人がハッピーエンドを迎えられるわけではない」と示した方が、ずっと真摯で誠実だと思う。課題は山積で、苦しみは絶えないけれど、それでも微かな希望を信じる。『ウィッシュ』も、そんな終わり方で良かったのでは。

⑵始まりに過ぎない

 誰かに叶えてもらうのでなく、自分の力で願いを叶えるんだ、というのは立派なことですが……別にそれはゴールではなくて、スタートラインに立っただけではないでしょうか。そもそも、願いを人に捧げて叶えられるのを待つなんていう、マグニフィコ・システムの支配下にあるのが異常なのであって。国王の庇護下から飛び出し、異常を正常に戻しただけのこと。とはいえ、殻を破り飛び立とうとする、その決意・覚悟は尊いものです。願いを叶える冒険は今これから始まる。その気高さを表す語彙は「幸せに暮らしました」ではない、と思う。

まとめ

 一旦、まとめます。最大のモヤモヤポイントはマグニフィコ王の扱い(絶対悪ではないのに対話を経ずに退治されてしまう)であり、その原因は、ラストの「いつまでも幸せに暮らしました」に代表される、本作の寓話性("政治的な教訓を伝えるための例え話"としての作劇)にある。政治的な寓話がダメだなどとは、天地がひっくり返っても言うつもりはない。『ニモーナ』はまさにそれをやって大成功しているので。

 あまりにも"寓話過ぎる"のです。純化された、記号的で一面的な物語。「ロサス=アメリカ」「マグニフィコ=トランプ」という、記号としての役割しか与えられていないキャラクターたち(それをキャラクターとは言わない気がする)。アーシャも、その仲間たちも、みんな記号です。理念が服を着て歩いている。思想の擬人化。生きた人間の感情がない。生きた感情を持っているのは、ただ一人、マグニフィコ王だけなのです。

 過去のトラウマ、つらい体験。それらに起因する不安と焦燥。ストレスと秘密を抱えながらも、自分なりの善行を貫こうとする強い意志。それを実現させるための、弛まぬ努力。彼のとった「禁断の最終手段」とは、国民を脅したり殺したりするのでなく、自らの精神と尊厳を悪魔に売り渡すこと。

 繰り返しますが、間違いなく彼のやっていたことは悪行です。しかし、そのような凶行に至ったのも、彼が"人間であるから"こそ。記号ではない。ましてトランプその人でもない。彼の名はマグニフィコ。ロサスの偉大な王、と思われていただけの、一人の弱い人間です。

 しかし「移民の国(アメリカ)で、"嘘"をついて願いを奪う悪の権力者(トランプ)に、少年少女が"真実"を掲げることで立ち向かい、歌の力で革命を起こし、願いを取り戻す」という、現代アメリカの状況を反映した、希望と革命の寓話において、マグニフィコは絶対悪の記号となってしまう。生きた感情を持つ、対話すべき人間ではなく。アーシャと仲間たちは絶対的な正義であり、それゆえに彼らは「いつまでも幸せに」暮らす。

 現実ってそんなことないじゃないですか。別に、物語の中で希望を見せるのは結構だけど、綺麗事を言い続けるのも尊いことだけど……でも、人間を記号にしてしまう物語に、悪いけど感情移入はできない。戦争や虐殺が続く現代で、このメッセージ性は、ちょっと欺瞞じゃないかな。

 相手を対話不可能な絶対悪と決めつけて、排除することが幸せな結末?今の世界情勢を見て、本気でそう思ってるの?

 バッドエンド(ビターエンド)にするか、対話して和解するか、対話したけど和解できず追放するか……色んな選択肢があったはず。この終わり方は違う、と思う。どうしてマグニフィコを、こんなに魅力的に描いたんだ。やはり観客の分断を煽るため?どうかと思うぞ、それは……。

結論(仮)

 さて、モヤモヤが晴れたような、ますます深まったような……。寓話性が強すぎて、作品の構造と、マグニフィコ以外の登場人物が全て"記号"と化しており、そんな物語には感情移入できないし、そんなメッセージは欺瞞だと思う……というのが、今の私の答えです。今後も考え続けていきますし、どうしてこういうことになったのか、の検証も行っていくつもりです。長い間お付き合い頂き、どうもありがとうございました。皆さんの願いが叶いますよう。あるいは、叶えられなかった願いの苦しみから解放されますよう。

 

 

余談:ウィッシュとニモーナ

 『ニモーナ』は、クィア表現を含む作品です。当たり前のようにゲイカップルが登場し、また主人公ニモーナも、特定の性別や見た目に縛られないキャラクターとして描かれています。もともとはディズニーで製作されていました。というか、ディズニーが買収した20世紀フォックスのアニメーション部門が作っていたのですが。経営的判断によって、一度は製作中止の憂き目に遭います。ただ、捨てる神あれば拾う神ありで、Netflixの出資によって、なんとか配信にこぎつけることが叶ったのです。

 2022年には、ディズニーが傘下のピクサーに対し、LGBTQ+のキャラクターやその愛情表現の描写を削除するよう検閲していた、という内部告発がありました。『ニモーナ』と関係があるかどうか、わかりませんが……。

 ところで『ニモーナ』と『ウィッシュ』には、似ている点がいくつかあります。まずはキャラクターデザイン。バリスターとマグニフィコ、校長とアマヤ王妃。それから、初期案では何にでも変身できる少年の姿だったというスターと、何にでも変身できるニモーナ。外敵の脅威に怯えたヴィランが、禁忌のパワーに手を伸ばし、自らの破滅を招いてしまうオチも似ていますね。

 うーん、偶然でしょうか……。

とうらぶミリしら成人男性による『映画刀剣乱舞-黎明-』の正直な感想。※批判的

※当記事には『映画刀剣乱舞-黎明-』の核心的なネタバレおよび批判的な内容が含まれています。これから観る予定の方や、この映画が大好きだという方にとっては、あまり好ましくない文章であることが予想されますので、閲覧を推奨しません。

※それから、どういうわけか仮面ライダー鎧武』ネタバレも含まれます。念のため。

※あと、虐待やその他の暴力について言及する場面があります。ご了承の上、お読みください。

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【経緯】

ハァイ! どうも、パートナーがへし切長谷部を推していることと、無双シリーズのオタクで刀剣乱舞無双』の体験版だけプレイした経験があることから、ほんのちょっとだけとうらぶを知っている人です。普段は映画ばっかり観てます。『無双』でなんかイイカンジだなーと思った山姥切国広山姥切長義が、今やってる映画でも活躍しているらしいぞ!と噂を聞きつけ──長義役梅津瑞樹さんのお顔が大変好みだったこともあり(三國無双司馬懿とか演ってほしい)──ミリしらながら鑑賞して参りました。

(冒頭に物々しい注意書きを致しましたが、別に批判一辺倒ってわけじゃないです。褒めるところも沢山ありました。ただちょっと、どうしても看過できないところがあって、文章に残しておこうと思った次第であります。ご容赦を……)

(それからミリしらとは「1ミリも知らない」の略語ですので、定義に当てはめれば、私は嘘つきになります。無双に出ていた男士たちの顔と名前くらいは把握していますし、審神者本丸時間遡行軍などの設定もある程度は知っています。そういう意味ではにわかという語の方が適切でしょうか……いやでもにわかの本来の意味を考えると……そもそも知っている/知らないの定義とは?みたいな哲学の世界に突入してしまうので、今回はタイトルの見栄えを重視して、少し嘘をつかせてもらいます。お許しを……)

【レビュー】

ハァイ! さっそく本題へ。鑑賞直後の率直な感想は……

「途中まで良かったのに、最後いきなり日和ったよなぁ!!?」(マイキー)

……という感じです。日和るんなら、最初からあんまり攻めない方が良かったのでは。

もちろん、良かったところも多々ありました。ただ、許せないくらいダメなところもあって……良い意味でも悪い意味でも、記憶に残る作品でした。刀剣乱舞というコンテンツの持つ莫大な熱量パワーを感じさせられましたね。今回の問題が、今後何かしらの形で回収されるのなら、これからも作品を追っていきたいな……と思わせられる程度には。

一つずつ書いていきます。

【良かったところ】

①まず、刀剣男士の皆さんの御尊顔が大変美しい。お顔だけでなく、スラリとしたお身体もですが。もうそれだけで画面が持ってしまうんですね。飽きることなく観ていられる。ビューティフル・イズ・ジャスティス。己の内に潜むルッキズムに辟易しながらも、それでもやはり、美しいものには抗えません。そして、その美しい顔面を際立たせるメイクと撮影の技術にも感服致しました。東映メイク見てるか?「美しい人を美しく撮る」という一点に掛ける、作り手の執念にも似た情熱を感じました。

②男士たちの刀剣アクションも見応えがありました。特に、廃工場やボロアパートでの男士VS男士の戦闘シーンは、本作の白眉と言ってもいいでしょう。正直、映像のアクションって誤魔化しが効いてしまうのです。あまり動けない人でも、動けているように見せることができてしまう。それが映像の凄いところでもあるわけですが……。そこはさすが、誤魔化しの効かない舞台上でのアクションを着実にこなし、日々、激しい稽古に励んでいらっしゃるであろう、この俳優陣。海外の大作映画にも見劣りしない、骨太の生身アクションが堪能できました。これはどこに出しても恥ずかしくありません。

③そんな男士たちも含めて、全体的に演技のクオリティは安定していたように思います。中でも、酒呑童子伊吹という、時代を超えた一人二役を見事に演じ切った中山咲月さんは非常に素晴らしかった。観ていて心が締め付けられるような、生々しい痛みを感じさせる名演でした。今後の活躍も楽しみです。

【悪かったところ】

さて、ここからです。

①扱い切れない重いテーマは、中途半端に触れるべきではない。

観ている途中、私はワクワクしていたのです。ゾクゾクという表現の方が正確でしょうか。というのも、この映画はとうらぶというコンテンツの(ある種の)根幹に迫っていたから。ある時点までは。

刀剣男士たちの目的は、歴史の修正を目論む時間遡行軍を倒し、本来ある歴史を守ること。しかし、歴史というものは、ただ美しい出来事ばかりではないことを誰もが知っています。今作の冒頭で描かれていたのは、まさしくそれでしょう。その時代の権力によって、何の罪もないのに虐殺される人々。彼らは歴史の犠牲者とも言える存在です。そして、男士たちは間接的に(しかし大きな影響力をもって)この悲劇に加担している。「それが歴史だ」とはいえ、その事実に心を痛める山姥切国広

うん、すげーいいじゃん!

これはとうらぶの設定がはらむ悲劇性であり、シリーズにとっての重大な問題提起だと思います。ある意味でとうらぶの根幹を揺るがしかねないテーマであると同時に、この問いに答えを見出せた時、とうらぶというコンテンツ自体がより深く広いものとなるでしょう。

男士たちは、悪く言えば公僕です。権力に与し、彼らの歴史を守るために戦う。道具だから仕方ないのかもしれませんが……。そんな彼らの物語で「権力による虐殺」と「それに苦悩する男士」の描写を挿入されたら、そりゃあ期待するでしょう。作品世界を揺るがしかねない権力批判の物語。そんな難題に挑む作り手の熱意倫理観。一体この物語は、どんな結末を迎えるのだろう……?そう思って、ワクワク&ゾクゾクしていたのです。

こういうテーマを扱った物語の結末は、その悲劇を繰り返さないために主人公が行動する(権力と対決する、あるいは被害者を救済する)、というのが健全だと思います。あるいは権力が維持され、悲劇が繰り返されるバッドエンドもまた、逆説的な権力批判として機能するでしょう。しかし、本作はそのどちらでもないのです。

権力による虐殺の被害者、すなわち歴史の犠牲者である酒呑童子は、最終的には、恐ろしいとして斬り捨てられてしまいます。彼の怨念が込められた角の飾りもまた、破壊されてしまいました。モノには想いが宿る。酒呑童子の無念は、歴史の犠牲者の怒りや苦しみは、この世に存在していてはいけないものなのでしょうか?

そもそも、歴史の犠牲者を恐ろしい鬼として描くこと自体が、権力側の見方を強化しているように思えます。劇中では酒呑童子本人が望んだこととはいえ……実際の歴史で、鬼や化物として淘汰されてきたものが、一体何だったのかを考えると。

権力による虐殺を目撃し、気持ちが揺らいだかに見えた山姥切国広も、結局は"想い"を消され、洗脳されていただけだと判明します。最終的に、権力や政府の在り方に疑問を呈する登場人物は、一人もいません。酒呑童子は斬られました。過去でも現代でも。

こうして、男士たちの活躍によって権力機構は維持されます。バッドエンドですらありません。誰も不正を認識すらしていないのですから。これで例えば、三日月や国広が躊躇っているところに、颯爽と現れた山姥切長義酒呑童子の首を(伊吹ごと)斬っておしまい、だったら良かった。胸糞エンドですが、逆説的な権力批判として機能しています(脚本の人は元ニトロプラスなんだから、それくらいやっても良かったように思う)。あるいは、せめて酒呑童子角の飾りは残しておいて、それを手にした琴音酒呑童子の無念の声を聞く。そして仮の主である政府の男神職の男に渡して、丁重に祀ってもらう。これだけでも少しは良くなったように思います。

とうらぶに権力批判なんて求めるな、と言われるかもしれませんが、最初に権力批判要素を持ち出してきたのは映画の方ですから、重いテーマを取り上げたからには、きちんと最後まで描き切るのが誠実な態度だと思うのです。描き切れないのなら、いっそ娯楽性に振り切った方が良かった。中途半端不誠実な作品になってしまっているように思います。

②被虐待児の扱いが雑。

995年に虐殺されてしまった酒呑童子は、1000年後の日本に復讐を誓い、鬼となります。伊吹は恐らく1995年生まれで、酒呑童子の生まれ変わりか何かなのでしょう。2012年時点で17歳くらいでしょうか。(1995年の日本で起こった様々な事件災害も重ねてるのかな、それは深読みし過ぎ?)

彼と、彼の生まれ育った家庭は、多くの問題を抱えていました。まず、経済的な困窮父親による子供たちへの暴力。そして弟の死。ちょっと死因が確認できなかったのですが、たぶん事故死ですよね。近くに車が止まっているようには見えなかったので、轢き逃げかな。そのあと父親がどうしているのかもわかりませんが、姿が見えないので、今も一緒に暮らしているわけではなさそうですね。

弟の死を認識し、絶望した伊吹は鬼として覚醒。日本中の人間から"想い"を奪ってしまいます。そんな伊吹に、仮の主である琴音審神者に通じる力を用いて、遺品から亡き弟の想いを励起させます。復讐など望んでいないと告げられた伊吹は、国広に自らを斬らせ、鬼の力伊吹は分離。鬼は三日月宗近によって斬られ、日本中の人々に"想い"は戻りました。

一連の、遺品から故人の想いを励起させる、という展開それ自体は見事なものです。単に口先だけの「復讐は何も生まない」だの「故人は復讐なんか望んでない」だの、寝ぼけた台詞を吐くよりはずっと説得力があるし、とうらぶの設定も上手く活かされています。ここは素直に感心したのですが……何か納得できない自分がいる。なぜだろう。

先述した通り、伊吹の抱える問題は複数あるのです。簡単に分けると①貧困家庭内暴力弟の死、の三つになりますね。琴音の説得で解決されたのは、この内の③だけではないでしょうか。弟の死は自分のせいだと思い込む伊吹に、そうではないと告げる亡き弟。それは結構なのですが、①と②は解決してないよね!?

伊吹が鬼として覚醒した直接のトリガーは③ですが、それに至るまでの①と②も、決して無視できない大きな問題です。そしてそれは、亡き弟からのメッセージというような、いわゆる感情論で解決すべきことではないように思う。必要なのは社会福祉による援助であり、医療的に適切なケアです。一応、本編の最後で伊吹がそれらと繋がれてるような描写があったので、ちょっと安心しましたが……。

貧困家庭内暴力は、もちろんその家庭の大人の責任であると同時に、社会問題であり、社会にも責任原因の一端があります。社会、すなわちその成員たる大人たちであり、高度な意思決定を行う政府権力者のこと。であれば尚のこと、先ほど述べたように政府批判権力批判のメッセージが作中でより強く示されて然るべきだったのでは。

それから、先ほど酒呑童子が滅ぼされてしまったことを批判しましたが、作り手の目論見としては「酒呑童子生まれ変わりである伊吹を救った(実際に救えているのかは別として)のだから、これで酒呑童子も救われたことになるのだ」と考えている可能性もあります。もしそうなら、それは間違った考えだと思う。酒呑童子の受けた苦しみと、伊吹の抱える苦しみとは、全くもって別のものです。別の人なのですから。生まれ変わりを救えば前世も救われたことになる、ってのはちょっと都合の良すぎる解釈じゃありませんか。やっぱり、酒呑童子を祀る祠か何かを建てておいてほしかった。

あと、虐待描写そのものの扱いの雑さですね。映すんなら注意書きが要ります。去年の映画ザ・バットマンでは、公開前に公式から「水害のシーンが一部含まれております」と注意喚起がありました。日本での公開が3月11日だったことも影響しているのでしょうが。『すずめの戸締まり』も、私は好きな映画なのですが、やはり地震に関する注意書きは欲しかったなぁ、と思ったのを憶えています。虐待は災害ではありませんが、性暴力ペットが傷つけられる描写と並んで、不特定多数の人にトラウマ体験を思い起こさせる、ある意味で危険な映像です。普段から、人がバラバラにされたり臓器がばら撒かれたりするホラー映画戦争映画を見慣れている、一部の映画オタクたちは「そんなことを気にしていたら映画を楽しめない!」と言うかも知れませんが、本作『映画刀剣乱舞-黎明-』はホラー映画でも戦争映画でもありません。本作が、どのような客層を想定して公開されているのかは知りませんが、少なくとも、ゴア表現を喜んで受け入れるようなタイプの人たちをメインターゲットにしたものではなさそうです。であれば、そういう映像表現は避けた方がいいように思います。虐待設定を無くせと言っているのではなく、描写を無くした方がいいと言っているのです。別に直接的な描写を避けても、物語上で虐待や暴力を描くことは可能です。それが映画ってもんです。

小橋秀之さんと共に本作の脚本を担当した、元ニトロプラス鋼屋ジンさん。彼が過去に参加していた作品仮面ライダー鎧武』にも、伊吹と似た境遇の男・駆紋戒斗(くもんかいと)が登場します。強大な権力を誇る大企業によって、両親が営んでいた工場は奪われ、貧しい暮らしを強いられることに。父親は荒れ果て家族に暴力を振るい、母親は首を吊り自ら命を絶つ。全てを失った戒斗は、弱者が犠牲になってしまうこの世界を破壊し、新たな世界へと作り変えるため、強大な力を追い求め、やがて禁断のパワーに手に出してしまう……というような展開です。

『鎧武』のメインライターは有名な虚淵玄さんですが、鋼屋さんは虚淵さんと共同で8話分、単独で1話分の脚本を担当していますので、戒斗の設定を知らないはずはありません。しかし、戒斗に比べて伊吹の話は、テーマが後退しているように見えました。

世界を作り変えてしまおうとする戒斗の目論見は、今ある世界を守ろうとする主人公によって阻止されてしまいます。ここまでは今作と同じですが、鎧武のラストでは、主人公の仲間たちが、戦いで傷ついた人々や街を救ったり、過ちを犯した大企業の在り方を見直したりと、より良い世界を実現するための具体的な行動をとっていました。本作でも、そういった実践が目に見える形であれば、また違う感想になったのかな……と思うと、少し残念です。

【重箱の隅】

ここからは、取り立てて騒ぐほどでもない、ちょっとだけ気になったところを少し。

①安っぽい(邦画っぽい)撮り方

邦画っぽいと言うと、真剣に邦画を撮ってらっしゃる方々に失礼ですが、なんかこう……安く見えてしまうんですよね。上手く説明できないけれど。画面の構図とか、人が台詞を喋る時の間(ま)とか。スクランブル交差点での決戦がグリーンバック感満載なのは、まぁ仕方ないと思いますが。

それも裏を返せば見やすいということですし。テンポが悪いという感想も多くあるようですが、私はこれくらいが丁寧でわかりやすくて良いのではないかなーと。例えば作中で「"それ"はこれだったのか!」という時、"それ"が何なのかを直接映像で見せてくれるんですよね。たとえ3分前に見たばっかりの映像でも、そのまんまお出しして「"それ"とはこれのことですよー!」と教えてくれる。クラスの全員が理解するまで先に進まない小学校の授業みたいな感じ。映画ばっかり観ている人間はウンザリするかもしれませんが、普段あまり映画を観ない人(そしてそういう人たちがメインターゲットだと思う)にはこれくらいがちょうどいいかも。『とうらぶ無双』に操作簡単モードがあったように、映画にも簡単モードがあっていい。

②ラストの雑な集団戦

悪い意味東映っぽい、仮面ライダーっぽいシーンでしたね。最近のMCUもこんな感じになりつつありますが。みんなの大好きなキャラクターたちが一人ずつ登場して、必殺技を披露して、おわり。別に良いんですけど、推しが出たら盛り上がるんですけど、いい加減もうそろそろ、いいんじゃないですかね。ちょっと芸がないです。せっかく集団戦なんだから、コンビネーションを発揮したり、意外なチームを組ませてみたり、きちんとそれぞれの特性を活かした戦術を考えてみたり……と、もっとできることはあるはずです。

【結論】

まとめると「俳優さんたちを始め現場のスタッフは最高の仕事をしたけれど、重すぎるテーマを掲げた結果、最終的には中途半端で不誠実な結末を迎えてしまった惜しい作品」といった所です。良くも悪くも記憶に残る一作。元はブラウザゲームから始まって、ここまでの規模の映画を作れるまでに至るコンテンツのパワーに感服しますし、それを日々支えていらっしゃる審神者の方々には尊敬の念を抱きます。私のような門外漢があれこれと文句を言うのは筋違いかもしれませんが……それもこれも「より良い映画を作ってほしい」という私の想いが励起したものです。そしてそれは、きっと審神者の皆さんの幸せにも繋がるはず。次回作が公開されたら、再び劇場に足を運ぶつもりです。今回提起された問題は、上手く回収されなかったとはいえ、とても重大なもの。今後も刀剣乱舞の行末を見届けていくことで、いつか何か答えのようなものと出会えたら……と、期待し続けます。門外漢にも、そう思わせるだけの強大なパワーが、とうらぶにはあるのです。

【最後に】

とうらぶといえば、映画に限らずアニメ舞台など、様々なメディアミックスが特徴的ですね。もしこれら既存の作品で、私のモヤモヤを解消してくれるようなものがあれば、是非教えていただきたい。あと、長義が活躍している作品も……何卒……。

『高田馬場ジョージ』という最強のアイドルに狂わされた成人男性の話。

 

久々に狂わされてしまった。

思えば数日前。パートナーに勧められ、アニメ映画『KING OF PRISM by PrettyRhythm』を観たことが全ての始まりであった。

それを観て、私は泣いてしまったのだ。

◎概要

KING OF PRISM(以下キンプリ)は、タカラトミーアーケードゲームプリティーリズム』のテレビアニメから派生したアニメシリーズ。『プリティーリズム』は後継作品『プリパラ』『プリチャン』を経て、現在(2022年)は『プリマジ』がゲーム、アニメ共に人気を博している。また、一連の作品群は『プリティーシリーズ』と呼称されている。

プリティーシリーズ10th記念サイトhttps://www.takaratomy-arts.co.jp/specials/pretty10th/

プリマジ公式https://primagi.jp/

いわゆる"女児向け"のシリーズだが、キンプリは少し様子が違う。第一に、キラキラの衣装を着てステージに立ち、歌と踊りのパフォーマンスをしてみせるアイドルたち(キンプリ劇中では"プリズムスタ"と呼称されているが、当記事では便宜上"アイドル"と表記する。後にアイドル論にも触れるため)が、皆"男性"であること。第二に、彼らはパフォーマンス中(比喩表現とはいえ)観客に向かってキスをしたり、ハグをしたり、全裸になったり、全裸になってキスをしたりハグをしたりする。早い話が、他の『プリティーシリーズ』よりも、やや上の年齢層をターゲットにしているのだ。

当然、テレビアニメの放送日時も、他作品が土日の朝であることが多いのに対し、キンプリは平日の深夜であった。

キンプリ公式→https://kinpri.com/sp/

◎経緯

パートナーから「筋骨隆々の男性が、割れた腹筋から衝撃波を放ちスタジアムを爆破する作品だ」という、にわかには信じ難い話を聞き、私は映画の鑑賞を決断する。

結果、オバレが星座になったところで、私は泣いた。オバレに感情移入しすぎて、直後にシンくんが出てきた時ちょっとムカついた。

それから先はもう一瞬のこと。映画2作目『PRIDE the HERO』で地球が黄色かったことを確認し、流れるようにテレビシリーズ『Shiny Seven Stars』(以下SSS)の視聴を開始した。

そして迎えた第5話『THE シャッフル ジョージの唄』で、事件は起きる……。

高田馬場ジョージ

高田馬場ジョージ(たかだのばばじょーじ)は、主人公たちが所属するアイドル養成校『エーデルローズ』と敵対する組織『シュワルツローズ』に所属するアイドル。シュワルツの総帥・法月仁(のりづきじん)に気に入られ、The シャッフルというグループのリーダーを務めている。

その性格は軽薄そのもの。絶大な権力を誇る法月には媚びを売り、一方で、The シャッフルのメンバーたちには「誰のおかげで飯が食えているんだ」と偉ぶってばかり。女性関係の黒い噂も絶えず、プリズムショーでは(法月の指示によるものだが)インチキ上等のダーティーな戦法も辞さない。

声優・杉田智和氏のコミカルな演技も相まって、私はてっきり、コイツはギャグ枠の小物キャラなのだな……と、思い込んでいた。

正直言って印象はかなり薄く、後述する彼の"秘密"にも気付かないほどだったのだが……。

◎本編

冒頭。夜、そびえ立つシュワルツローズのタワー(東京でいちばん高いらしい)。総帥・法月仁がいつものように、自校のアイドルたちへ檄を飛ばしている。鞭を打ち、罵声を浴びせる法月。体調が悪いと釈明する生徒らを、容赦なく『奈落』へ突き落としていく。

以前から描かれていることだが、法月はどうも"男らしさ"に囚われた人物であるようだ。異常に高く目立つタワーを建て、権力を誇示し、強者・勝者であることに固執している。強い自分を維持する為に、誰にも弱みを見せられない。前作『PRIDE the HERO』では、敵対するエーデルローズの主宰・氷室聖から女性を奪い(ここには色々と込み入った事情があるようだ)勝利の証としていた。このように、悪い意味での"男らしさ"に囚われ、それによって苦しんでいるという、わかりやすく"呪われた男性"である。

法月は、自身の主催するプリズムショーの大会『PRISM.1(ぷりずむわん)』に出場するアイドルたちを発表する。当然、日頃からゴマをすっているジョージは内定。The シャッフルの面々も次々に出場を決め、最後に"補欠"として池袋エィス(いけぶくろえぃす)の名が呼ばれた。

エィス「クソッ……総帥の犬っころ、PRISM.1で地獄に落としてやる!」

ジョージを憎悪するエィス。一方のジョージは、最近狙っているグラビアアイドルからのメールが届き、鼻の下を伸ばしている。およそアイドルにあるまじき姿だ。

◎ジョージだからこそ

第5話の面白さは、このような"アイドルにあるまじき姿"が多く見られることにある。言わずもがな、キンプリは女性向けアイドルアニメである。物語の主人公たる『エーデルローズ』のアイドルたちは、決して女遊びなどしない。無論彼らとて常に完璧なアイドルという訳ではなく、観客には見えない所で、それぞれが人間らしい苦悩や葛藤を抱えているのだが。それでも『エーデルローズ(主役)』のアイドルとして"越えない一線"というものは、確実にある。

しかし我らがジョージは、その一線を越えてゆく。彼は『シュワルツローズ(敵役)』のアイドルなのだから。結果、他のエピソードでは絶対に見ることのできないジョージだからこそのストーリーが展開されていく。

OP映像にもジョージの姿はあるのだが、喋らないジョージは本当にかっこいい。黙っていれば最高のイケメンだ。一言も発さないジョージは、個性的な主役たちに比べると、やや没個性的かもしれない。派手な水色の髪が唯一、ジョージの外見を特徴付けている。顔立ちだけを見れば、実に理想的な(絵に描いたような)ハンサムがそこにいるのだ。

テレビ局の楽屋。The シャッフルの面々が雑談している。そこに主役アイドルたちのようなキラキラはなく、各々が好き勝手にゲームや生配信をしていた。本物のそれを見たことはないが、妙にリアリティのある場面だ。もちろんジョージもいつもの調子で、件のグラビアアイドルを電話で口説いている真っ最中。

よくやるね。写真撮られたら一発でアウトなのに

総帥が結構揉み消してるらしいよ

絶対にエーデルローズのアイドルたちはこんな会話をしない。

そして楽屋の外に一人。固そうなソファに腰掛け、焼肉弁当を頬張るエィス。ペットボトルのお茶を置く机もなく、ソファの上にちょこんと乗せているのが切ない。

エィス「俺がいなかったら、お前なんて…!」

ジョージへの不満は根深いようだ。そのジョージは、自身の弁当がないことに気付き憤慨。

「誰か二つ食ったろ! 誰のおかげで飯が食えると…」

ジョージとエィス、二人とも「俺がいなきゃお前(ら)は…」と同じことを言っているのが面白い。

ジョージのスマホにメッセージが届く。それはジョージを"のり君"と呼ぶ"ミヨ"なる女性からの連絡であった。驚くジョージ。

場面が変わって、エーデルローズ法月との過去を語る氷室。かつての法月は優しかったが、あるとき急に人が変わり、氷室を恨むようになったという。たぶん母親との間で何かがあったのだろう。

後日、東京駅。The シャッフルとエィスを引き連れ、東京に来た"ミヨ"を迎える"のり君"ことジョージ。なぜか『探偵物語』の松田優作の格好をしている。顔が良いので中々決まっている。方言話者のミヨは、のり君に久々に会えて嬉しいと語る。ジョージはミヨに「コイツらは舎弟だ」とThe シャッフルの面々を紹介する。ミヨは彼らの顔と名前を把握していたが、エィスのことだけは分からない。世間にほとんど認知されていないのだろう。そんなエィスのことを「靴裏のガム」「俺に憧れメジャーデビューを目指し、頑張っている」などと、無茶苦茶な説明をするジョージ。

エィス「俺は、お前の歌を…!」

と思わず"秘密"を暴露しそうになるエィスを、シャッフルのメンバーたちが止める。バラしたら総帥に消されるらしい。

スペシャルな東京を味わわせてやる」
岡山には無いもんが東京にはいっぱいあるんだJOY(たまに出る口癖)」

と張り切るジョージ。仲間たちに嫌味な態度を取るのはいつものことだが、この気合の入り方から、今日のジョージはいつもの軽薄なジョージとは何かが違うことを感じさせる。

そもそもの話、アイドル作品で"異性の幼馴染み"はタブーではないか。特にキンプリは、いわゆる「夢女子」への(露骨なまでの)サービスに特化したシリーズである。固有の名称・特定の外見を持ったヒロインを出し、メインキャラと深い関係を結ばせるなど、言語道断のはず。しかしエーデルがやらないことを、シュワルツはやる。ジョージならできるのだ!

東京タワーに登り、シュワルツローズのタワーを見せながら大声で自慢話をするジョージ。すると周囲の女性たちが大挙して押し寄せ、即席のサイン会が始まってしまう。人波に飲まれるミヨを、エィスが救出。まるで正統派アイドルのような、女性への優しさ。彼はエーデルローズに入った方が良いのでは?

エィス「いいの?放っておかれて」
ミヨ「うち、のり君が夢叶えられて嬉しいんよ」

ミヨの声に嘘は感じられない。

エィス「ねぇ、その"のり君"って…」

ミヨはエィスに"のり君"の過去を語り始める。

◎ジョージの過去①

XX年前、本川則之(もとかわのりゆき)はプリズムショーを愛する岡山の少年だった。メガネをかけ、体型は太り気味。意地悪な学友たちに"のりまき"と揶揄されている。助けてくれたミヨに、則之は切実な想いを語った。

「ぼく、この街嫌いじゃ。はよ東京に出たい」
「絶対、プリズムスタになるんじゃ」

自作の切り抜きノートを見せ"法月仁"という憧れのプリズムスタァのことを熱弁する則之。

完璧で正確で、汚ねぇ手を使っても必ず勝つ
「いつか東京に行って、仁に弟子入りするんじゃ!」

"のり君"の夢を応援するミヨ。ミヨに「すげぇプリズムショーを見せる」ことを約束する"のり君"。

その後、則之はダイエットに励み、体力作りに勤しみ、両親を説得し上京したという。頑張り屋の"のり君"をずっと間近で見てきたからこそ、ミヨは今でも心の底から「スタァになる」という彼の夢が叶ったことを嬉しく思っている。

……こんなんさ、好きになるしかないやん。

"のりまき"と揶揄された"のりくん"が憧れたのは、トップスタァ"のりづきじん"。

◎アイドルの容姿(ルックス)

高田馬場ジョージの、ある種"没個性的"とも形容される美しい容姿は、血の滲むような努力の積み重ねによって、後天的に作られたものだった。トップスタァに相応しい"理想的"なルックス。完璧で正確な、最高のイケメン(没個性的こそ理想的、という考え方もできるかもしれない)。

こんなん、推しますやん。推しました……。

アイドルにとって、ある意味で最も重要な"ルックス"に関する話が、これまで多くのアイドルアニメで無視されてきたように思う。エーデルローズの主役アイドルたちは、子供の頃から当たり前のように容姿端麗で、堂々とステージに立つ。無論、彼らにもそれぞれの苦悩や葛藤は絶えない。しかし、こと"ルッキズム"に関しては、そんな価値観など存在しないかのように扱われることが多かったのではないか。それは、私たちの社会に今も根強く残り、またアイドルという存在の根幹を成す価値観であるにも関わらず。

(ちなみに、女児向けの『プリマジ』では"甘瓜みるき"というキャラクターがルッキズムに触れており、私は彼女のことも推している)

◎呪いは受け継がれる

サイン会を終え、戻ってくるジョージ。「待たせてごめんくらい言えよ」というエィスの発言を無視し

「俺のスタァの証、見せてやるよ」

と言って、真っ赤なオープンカーを披露する。

車と腕時計にこだわる男性の気持ちが、私にはよくわからない。どうも、彼らはそれを"ステータスアイテム"と呼ぶらしい。

松田優作ルックを見た時から思っていたが、ジョージの"スタァ像"は昭和的だ。もっと言うと、保守的な男性的というか……。

彼の美学は"法月仁"によって形成されている。そこで"呪われた男性"の再生産が行われたのではないか。そう思えてならない。過去を語らなかったり、努力をひた隠しにしたりするのも、実に男性的(=法月仁的)だ。

あるいは地方コンプレックスを拗らせ過ぎた結果か。

エィス「お前いったい歳いくつだよ…」

冷静なツッコミが笑える。高校2年生の設定を無視し、ジョージは皆を乗せて高級車を飛ばす。得意げな笑みを浮かべながら。昭和的男性スタァとしての頂点の心地であろう。

"舎弟たち"に荷物持ちをさせてショッピングを楽しんだかと思えば、今度は握手会が始まった。またしても置いてけぼりを食らうミヨ。心配するエィス。

昼食にフレンチやイタリアンを提案するジョージ。しかし、ミヨが希望したのは昔ながらのラーメンだった。チャーシュー抜きモヤシマシマシを注文するジョージ。やはり体型維持にはストイックなのだろう。彼はスタァであることに関しては、とことん本気だ(あとエィスに弁当を盗まれていることが、体型維持に寄与している可能性もある)。

懐かしいと語るミヨ。

親父さんの葬式……出れなくて悪かったな」

詫びるジョージ。ミヨの父は、ジョージの活動を応援してくれていたらしい。

◎ジョージの過去②

X年前、ミヨの父が営むラーメン店に、疲労困憊の"のり君"が訪れる。髪は既に水色で、巨大なリーゼント。改造した制服を着こなし、見事な岡山ヤンキーに成長したようだ(声優繋がりで、某その血の運命を連想してはいけない)。

「昼飯、食いそびれただけじゃ…」

か細い声で300円のラーメンを注文するも、手持ちが足りない。ミヨ父の温情で、出世払いとなった。心配するミヨ。

のり「早く金貯めたいんじゃ…」
ミヨ父「父ちゃん、まだ反対しとるんか?」
のり「俺ァ、工場は継がん。絶対プリズムスタァになるんじゃ…」

少年期の発言を繰り返す則之。しかしそれは、仁に憧れ、新聞の切り抜きに目を輝かせていた"あの頃"の言葉とは、少し意味合いの異なるように聞こえた。

高校へ通いながらバイトに明け暮れていたのだろうか。昼食も摂らず、300円のラーメンすら頼めないほどに生活費を切り詰め、必死に金を貯めていた。東京へ行くための金を。

ミヨは先程「両親を説得し上京した」と言っていたが、事実と違うようだ。また、そんな恩人であるミヨ父の葬式にも顔を出さなかったジョージ。忙しかったのだろう。どうしても外せない仕事があったのかもしれない。仁に気に入られる為、やむを得ず……。

でも、もしかすると、帰りたくなかったのではないか? 大嫌いな岡山に……。

「美味しい!ほんまにお父ちゃんのラーメンに似とる!」

「だろ?」

ミヨは父の味に似たラーメンを求め、ジョージがこの店を紹介した。つまりジョージは上京した後も、あのラーメンと似た味を求めて東京中のラーメン店を食べ歩いたのではないか。体型維持にストイックなジョージが。

◎"のり君"をジョージに変えたもの

ミヨは、昔"のり君"が刺繍してくれたというハンカチを差し出す。

「えっ、裁縫できるの?」

The シャッフルのフェミニン担当"御徒町ツルギ"が驚く。"のり君"が糸工場の息子であることを皆に話すミヨ。黙り込むジョージ。

「あっ、そうじゃ。うちが東京行くって言ったら、のり君のお父さんがな……」
「やめろよ」

「どうせ岡山に戻って来いとか、そんなことだろ!」

激昂するジョージ。父への憎悪。あるいは、裁縫という"女っぽい"特技をバラされたことに、彼の"男らしさ"が拒絶反応を示したのか。

「ふざけんじゃねぇ!俺は東京で、立派にスタァとしてやってんだ!」

「のり君のお父さんが、そんなことほんまに言うと思っとん!?」
「こんなことで気持ちが揺れたんじゃとしたら、迷っとんはのり君の方じゃ!」

「その! "のり君"っての、やめてくれよ……!」

店を出るジョージ。

やはり、両親を"説得して"上京した訳ではなかったようだ。学校へ通いながら金を貯め、半分家出・半分勘当くらいの勢いで飛び出したのだろう。成功した今も連絡を取ることはなく、ジョージはわだかまりを抱え、苦しみ続けている。

夢を、努力を認めてくれなかった父。学生時代の苦労。少年期の屈辱。それらが渾然一体となって、ジョージの心に岡山という悪魔を作り出した。ミヨにスタァとなった自分を、つまり東京を見せることで悪魔を追い払おうとしたが、敵わず。悪魔の使者と化したミヨの前から、ジョージは逃げ出した。

本川則之高田馬場ジョージに変えたもの。それは岡山という悪魔からの逃避と、幼き日に浴びたスタァの煌めき

少年期は後者が重く、学生時代は前者が重い。この変化が、彼を"のり君"でないものに変えてしまったのだろうか。

ひとりぼっちで真っ赤なオープンカーに乗り、グラビアアイドルに電話をかけるスタァ高田馬場ジョージ。

「ほーんと、ほんとだってぇ〜♪ 愛してる〜ん♪ ほんとだってぇ〜ハハハッ……」

「はぁ……」

「くだらねぇッ……!」

法月仁に憧れ、彼のようなスタァになるべく、やれることはなんでもやった。岡山に呪われた弱い"のり君"ではなく、東京を闊歩する強い"ジョージ"になるんだ。誰よりも強い"法月仁"のように。

ジョージは見事に上り詰めた。学生時代、命を削ってまで欲しかったスタァの玉座。その景色。

そこにあるものは、心底くだらない、空虚なものだけだった。夢を叶えれば呪いが解け、"幸せ"になれるはず。そう信じていたのに。その"幸せ"は今、彼の魂を削り続けている。

ただひとり

スタァの玉座

腰掛けて

震えるジョージ

裸の王よ

◎英題

キンプリSSSには毎回、英語のサブタイトルが付く。それは大抵の場合、CMに入るタイミングで明かされるのだが、今回はジョージが「くだらねぇ」と吐いた、この絶望的な場面で発表された。

Fatal? Attraction

87年に公開されたアメリカ映画『Fatal Attraction』。邦題は『危険な情事』。なるほど確かにジョージはいま危険である。

◎秘密

エィス「あいつは、東京に来て変わったんだよ。岡山のこと、もう忘れてる」

法月仁も、高田馬場ジョージも、変わってしまった男なのだなぁ。

立ち去ろうとするミヨ。その腕を掴むエィス。

「もうあんなやつ放っとけよ……!」
高田馬場ジョージは紛い物のスタァなんだよ!」
俺がPRISM.1で歌わなければ、岡山に帰ることになるはず!」

そう、これが高田馬場ジョージ秘密

彼は"口パクアイドル"なのだ。

実際に歌っていたのは、舞台袖の池袋エィス

ジョージという名前も、容姿も、歌声も、その全てが作られたものだった。自らの努力によって、あるいは他人から与えられて。ジョージは作られたアイドル、すなわち偶像だったのだ。

「わかっとったよ。あれ、エィスさんの声じゃったんじゃな」

ミヨはそれを承知の上で、"のり君"のを、スタァ・高田馬場ジョージを応援していた。

そこへ、高級車に乗ったスタァが現れる。

「のり君……」

「行きなよ」

ミヨの背中を押すエィス。彼の感情は、正直よくわからない。腕を掴み、壁ドンをし、秘密を打ち明ける。まるでミヨを狙っているかのようだ。本当なら自分が座っていたはずの、スタァの玉座。その煌めきを奪ったジョージへの報復と、自分こそが真のスタァであるという証明。そのために、ジョージからミヨを奪おうとしたのではないか。エィスもまたシュワルツローズのアイドル。法月仁を受け継ぐ者。

しかし、秘密を知ってもなお、ミヨの心は"のり君"と共にあった。エィスは負けたのだ。いや、勝負の土台にすら立てていなかった。

「ありがとう! でもな……やっぱり"のり君"は、うちのスタァなんよ!」

ミヨを乗せて走り去るスタァ。
路地裏で項垂れる、スタァになれなかった男。

「そうだよな……スタァっていうのは、このタイミングで登場できる男のことを言うんだよ」

池袋エィスの身長は162cm。彼の年齢は明らかにされていないが、高校生くらいだろう。日本の高校生男子平均や、作中の同年代アイドルたちのそれと比べても、低い方であることは間違いない。個人の努力ではどうしようもない性質でありながら、アイドルという職業において、それは致命的な欠陥となり得る。無論、彼と同じかそれより低い身長で、立派にスタァの煌めきを体現しているアイドルたちも、エーデルローズには少なからず存在している。しかし完璧・絶対の勝利を求めるシュワルツにおいて、エィスの小ささは、スタァの玉座に腰掛けることを許されないものであった。ちなみにジョージの身長は175cmである。

◎夢の先へ

車内。ジョージはミヨに語る。

「俺はあの頃に戻らない。俺はもうダサい"のりまき"じゃない! 高田馬場ジョージだ!」

空虚なものと知りながら、スタァの称号を振りかざすジョージ。岡山から来た悪魔の使者・ミヨと再び対峙する。今度こそ、自分の中の悪魔と決別するために。そして、スタァの証を手にするために。

「お前……なんで東京に来たんじゃ」

ここで初めて岡山弁が出る。

「お前がその気なら、こっちで面倒みてもいいんだぞ」

まさにスタァだ。いかにも松田優作が言いそうなことだ。そういえば、松田優作遊郭の一角で生まれ育ったことや、韓国国籍であったことを悩んでいたという。製作陣はルーツへの苦悩という点で、松田優作高田馬場ジョージを重ねている……のかもしれない。さすがにこれは邪推が過ぎるか。

ジョージは、ミヨを欲した。それは岡山という呪いを打ち払い、東京のスタァとして成り上がったことの証明。トロフィーワイフだ。法月仁の考えそうなことである。呪われた男性、ここに極まれり。

口づけを迫るジョージ。

「うち、結婚するんよ」

……皆さんはこれを、どう思われるだろうか?

ではないか? 婚約指輪なども付けていないし……

ミヨの面倒をみる。それはジョージがスタァでなくなることを意味しているのかもしれない。そのことにジョージが自覚的かどうかはわからない。彼自身は、既に夢を叶え終わったと思っている。プリズムスタァになるという夢。その夢を叶えた証として、ひとりの女を手に入れる。それでジョージは完成してしまう。言い換えれば、終わってしまう。岡山から逃げ、スタァからも逃げて、ミヨと共に生きる。めでたしめでたし。御伽噺はこれでおしまいだ。

一方のミヨは、それを望んでいない。"のり君"はうちのスタァなのだ。スタァであり続けてほしい。たった一人の愛する女の為に生きるのではなく、大勢のファンに愛され、街に出れば握手会を開き、ステージに立てば最高のパフォーマンスを披露する。そんな夢を、叶え続けていてほしいのだ。

ここに、二人の""に対する認識の齟齬がある。

◎The Show Must Go On

PRISM.1』当日。楽屋で項垂れるジョージを、メンバーたちが心配している。

「俺に気安く話しかけんじゃねぇよ!」

結局、魂を削る空虚な玉座に、しがみつくしかないのか。

「ミヨちゃん、見に来てるんだろ?」

愚かなジョージを煽るように、エィスは次のことを宣言する。

お前が出ないなら、俺が出る

ステージに向かおうとするエィス。

「おい補欠!」

エィスを呼び止めるジョージ。

「俺を誰だと思ってる」

ジョージもまた、高らかに宣言してみせる。

「俺はThe シャッフルのリーダー、高田馬場ジョージだ!」

音楽が鳴り始め、プリズムショーの幕が開く。ジョージはステージに立たなければならない。強い男であるために、ファンの声に応えるために、ミヨとの約束「プリズムショーを見せる」を果たすために。

そんなジョージのプロ意識と、ミヨの想いに絆されたのか、不本意ながらもマイクを握るエィス。

◎最弱でも最強!

ジョージのショーが始まった。しかし、曲が流れても歌が聴こえてこない。『奈落』に落とされたシュワルツローズのアイドルたちが、ジョージを陥れるべく、エィスのマイクのコードを抜いたのだ。

「つまんねぇ小細工してんじゃねぇよ!」

怒るエィス。

「奴が消えれば、お前はステージに上がれるんだぞ!」

彼らの発言はもっともだ。エィスもそれを望んでいたはず。しかし。

「ジョージの姿を見てみろよ! どんなトラブルが起こっても、全く動じることなく、笑顔で完璧にステージをこなし……俺の声を待っている!

それはまるで、在りし日の法月仁

完璧で、正確で、汚い手を使っても必ず勝つ

ジョージもエィスも、仁の精神を受け継いでいる。二人の心は、仁を介して繋がっている。エーデルローズのアイドルたちが披露する、"自己実現"や"自己表現"を重視したショーではなく、シュワルツローズの勝利のため、目の前の観客を楽しませることに重きを置いたショーを。そこに"真実"は必要だろうか?

お前が出ないなら、俺が出る」。その一言で、ジョージはエィスを信じた。空虚な玉座に腰掛ける、孤独なスタァ・高田馬場ジョージ。補欠の発言に、生意気な……と反発するも、その言葉から「お前は一人じゃない」というメッセージを受け取ったのではないか。そう、ジョージが受け入れるのを拒んでいただけで、元々高田馬場ジョージ』は一人じゃない。孤独なスタァなどではないのだ。玉座には、二人で座ればいい。ジョージはエィスを、対等の存在・同じ仁の精神を受け継ぐ者として認めたのだ。シュワルツローズのアイドルならば、個人の感情を優先して、観客へのパフォーマンスを蔑ろにし、ファンを(そしてミヨを)悲しませるようなことはしないはず。だから信じて、待ち続けた。

エィスを認め、受け入れること。それは自分が一人ではステージに立つことすらできない、"弱い存在"であると認めることに他ならない。"男らしさ"に呪われたジョージにとって、それは耐え難い苦痛であるはず。普段からエィスに対する当たりがキツいのは、そういう感情の表れだろう。しかしジョージは今、エィスを受け入れた。エィスもまた、その想いに応えようとする。

ショーは初めからやり直しに。法月仁が見つめる中、真の『高田馬場ジョージ』のプリズムショーが始まる。暗いステージ裏で、一人マイクを握るエィス。ステージ上で一人、明るいスポットライトを浴びるジョージ

「ねぇ〜そこの君? 高田馬場で、俺とジョージ(情事)しない?」

ジョージの語りから、曲が始まる。タイトルは『JOKER KISS!』。完璧な容姿、完璧な歌唱、完璧なパフォーマンス。最強のアイドル『高田馬場ジョージ』が観客の眼前に、確かに存在していた。

プリズムショーでは、プリズムジャンプという必殺技みたいなものを何回出せるかが勝負の決め手となる。4回連続で飛べたら大したものだ。

1回、2回と飛び、観客を魅了するジョージ。

3回目、影から飛び出した『もう一人のジョージ』が、華麗なジャンプを披露した。

そして4回目、『二人のジョージ』がプリズムジャンプを魅せる。

「「お前と一緒なら、最弱でも最強! 可能性は無限大! ワンペア・ラブ!!」」

高田馬場=ババ=ジョーカー。エィス=エース。ポーカーにおいて、ワンペア最弱の手である。しかしエースは最強のカードで、ジョーカーはそのエースを含めたどんなカードにも成り代わることができる。ジョーカーとエースは、ワンペアの中で最強の組み合わせだ。

法月仁の呪い、すなわち"男らしさ"に囚われ、"弱さ"から目を背け続けてきたジョージ。しかし今、自らの"弱さ"であるエィスを受け入れることで、二人は一つとなり、最強のアイドルが爆誕した。弱さを強さに変えたのだ。

◎讃美歌

高田馬場ジョージ』はトップの得点を叩き出す。二人がかりで実質5回飛んでいるのでズルい。口パクの時点でズルい。しかし、誰よりも観客を楽しませたことは揺るがない事実。

ミヨとの約束を果たしたジョージは、ステージ上で「ありがとーう!みんなのおかげでーす!」と叫ぶ。みんなのスタァ、みんなのアイドルだ。

岡山。古い家屋。老夫婦がテレビに映るジョージを観て、涙を流している。テレビ台には、録画した番組をダビングしたであろう、ディスクケースが大量にある。ミヨの言う通り、ジョージは両親を"説得"できていたのかもしれない。彼自身の知らぬ所で。

ステージ裏。倒れるエィス。3回のジャンプを平然と飛んだジョージに対し、2回でバテてしまっている。やはりスタァの器ではないのか……。

そこへ現れる法月仁。エィスに背を向け

「貴様を今日からThe シャッフルのリーダーに任命する。しかしこれまでの仕事は続けること」

と伝える。

ショーを終え、早速、総帥に媚びるジョージ。

「ジョージ、お前は今日からソロでやれ」

またしても背を向けたまま、平坦な口調で告げる法月。"男らしさ"に呪われた男。温情をかけるとき、その顔を他人に見られてはならないのだ。

エィスを褒め称えるThe シャッフルのメンバーたち。

「コラ〜! The シャッフルの"初代リーダー"は、この高田馬場ジョージだJOY!」

いつものように威張るジョージ。しかし、その言葉は遠回しに"二代目リーダー"を認めているかのようだ。笑い合うThe シャッフル。こうして物語は終わる……。

今回のエンディングテーマは『高田馬場ジョージGS(ゴーストシンガー)』による、TRFの楽曲『JOY』のカバーだ。則之とミヨの過去を中心に構成された映像が涙腺を刺激する。『JOY』はさながら、弱さを受け入れ強くなったジョージへの"讃美歌"のように鳴り響く。

◎まとめ

◎アイドルという偶像

高田馬場ジョージ』は"偶像"である。彼の名前も、容姿も、歌声も、全てが作られたもの。というか、そもそもアニメでありフィクションだ。現実ではない。

しかし、現実に生きるアイドルたちもまた、現実(人間)とフィクション(偶像)の狭間に存在している。彼らだって昔は太ってたかもしれないし、口パクかもしれない。そしてファンたちは、そのことに薄々気付いていたりする。目の前の推しに熱狂しながら、頭の片隅で考えたことはないだろうか。これは嘘なのでは? と。

今回のジョージのライブシーンをよく観てみると、口の動きと歌唱がリンクしていない箇所が、ほんの少しだけあることに気付く。意図的な演出だろう。彼は口パクなのだから、当然といえば当然なのだが。きっと、作中世界にはミヨの他にも、ジョージの秘密に気付いているファンは少なからず存在することと思う。

アイドルは嘘である。では、嘘はいけないのか?

この問いに、キンプリは「嘘だからこそ美しいのだ」と答える。高田馬場ジョージという"敵キャラ"を主役にすることで、アイドルを語る際に避けては通れない(でもタブー視されてきた)アイドルの"偶像性"に触れ、さらにそこから「偶像であるからこそ最高」という肯定的な結論まで導き出した。

ミヨはジョージの秘密を知った上で、それでも応援している。私も同じだ。ジョージとエィスの嘘を愛し、彼らのことを推している。彼らは"嘘をついてまで"私たちを楽しませようとしてくれているし、嘘で固められたスタァ『高田馬場ジョージ』は最高のアイドルだ。アイドルという"偶像"は、"偶像"であるからこそ美しいのだ。

◎"男らしさ"からの解放

法月仁の"呪い"を受け継いだジョージ。彼は自分の弱さを受け入れることで、孤独の苦しみから解放され、最弱でも最強になった。彼らは不完全であったからこそ、単なる法月仁の"再生産"にならなかった。弱いからこそ、強くなれたのだ。これは先の「偶像であるからこそ最高」とも繋がって、今作のメッセージ性を深めている。

◎キンプリの視点、ジョージだけの物語。

キンプリの凄いところは、アイドルという行為・存在を俯瞰している点にある。単にキラキラした、観客を楽しませて消費されるだけの存在ではない。彼らは生きた人間なのだ。生きた人間であることと、アイドル(偶像)であることは、特に反目する。

アイドルたちはそれぞれに悩みを抱え、パフォーマンスを通じて自己実現を果たし、成長していく。ジョージも例に漏れず、自己実現を果たしてはいるのだが……彼の場合、他の(エーデルローズの)アイドルたちよりもずっと"生きた人間である"ことの重みが大きく描かれている。主役ではない、敵役のジョージだからこその、ジョージだけの物語が描かれているのが第5話だ。

◎結論

キンプリSSS第5話『ジョージの唄』は、「"男らしさ"からの解放」「アイドルという偶像の肯定」といったテーマを、「敵キャラで口パクアイドルのジョージ」を使ったストーリーテリングで、見事に描いてみせている。奇跡的な完成度と言っていいだろう。そりゃ推しますわ!

 

※あとがき

ブログ公開後、「プリズムショーを鑑賞中のミヨちゃんの隣にいる男性が夫なのでは?」との指摘を頂き、己の不明を恥じるばかりJOY……。