裏切りのサーモン

映画の話をするバイセクシュアルの魚。

映画『アギトー超能力戦争ー』を観た!

ネタバレ注意!

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 「いちばん好きな仮面ライダーは?」と問われた時、僕は迷わず「アギト」と答えるようにしている(そんな機会あんまりないけど)(むしろ自分から「僕はアギトがいちばん好きで〜」と話を広げていくことが多い)。

 好きな理由はいろいろある。シンプルに、ヒーローがかっこいい(デザインもアクションも)とか、群像劇のドラマが面白いとか、登場人物(あえて"キャラ"ではなく"人物"と言いたい)が魅力的だとか、コントが面白いとか、人類の進化(成長)を肯定するメッセージ性がアツいとか、神話的なテーマや裏設定が興味深いとか、いろいろ。ほんとに、いろいろな面白いものがギッチギチに詰め込まれているのが、アギトなのだと思う。だから最高に面白い。だから人に勧めづらい("これ!"というセールスポイントがない)。純粋に、連ドラとして面白いのだ。

 昨年までは、アギト好きの人と話す度に「アギトは不遇だね〜」と言い合っていた。もっと不遇な作品もあるだろうから、あまり大きい声で言うべきことではないかもだが。クウガと龍騎に挟まれている。この、強烈過ぎる個性を持った二作品にサンドイッチされてしまっては、どうしても、印象は薄れるというもの。そりゃあ、『ジオウ』では良くしてもらったものの、グッズ展開やらなんやら、あんまり恵まれている感覚はなかった。何より、アギトの話をする人の少なさ。みんな全然アギトの話をしない!

 だから今、すごく感動している。今年に入ってから(ほんとに、年明けと同時にアギト展の発表があった)の怒涛のコンテンツ供給に、まだ困惑している。エサを大量に盛られた犬みたいな。そして公開初日の劇場が、ほぼ満員だったこと。みんなで笑いながら映画を(主に北條さんを)楽しんだこと。素晴らしい映画体験だった。生涯忘れないかも。なぁんだ、みんなアギト好きなんじゃん!

 楽しかったので、感想を書いておこうと思う。

変わらぬ魅力

 いちばん感動したのは、津上翔一があまりにも津上翔一で、氷川誠があまりにも氷川誠で、ついでに葦原涼があまりにも葦原涼だったこと。

 確かに翔一くんは、サラッと「俺、もうアギトじゃないんです」って言うし、わざわざスプーン用意するし、「いい刑務所ですね」って言うし、変身できないのに変身ポーズして尾室くんをビビらせるし、みんなのピンチにはバイクで颯爽と駆け付け、アギトに変身し、ゆっくり歩いて間合いを取りながら、カウンター主体のファイトスタイルを披露することだろう。僕の知ってる津上翔一が、そのまんまそこにいた。

 実は公開前、心配していた氷川誠。大物俳優として大成長してしまった、今の要潤に、あの(お世辞にも上手いとは言い難い演技が醸し出す、無骨で不器用で)素朴で実直な、氷川誠の雰囲気を体現することはできるのかと。杞憂だった。さすが大物俳優である。ちゃんと氷川誠だった。

 そんで葦原涼はねぇ、ああいう男なんですよ……! 翔一くんと氷川さんが漫才やってる裏で、普通に死にかけてる(なんなら死んでる)のが葦原涼。そんだけ不幸なのに、誰よりも優しくて、他者のために力を使うのが葦原涼。どんだけ死の淵に立たされても、何度でも蘇る不死身の戦士。それがギルス。完璧だった。

 エミュレートがうますぎる、とかいう話でもないのかも。要潤のYouTubeでキャスト陣が語っていたが、今作の撮影にあたって、過去のアギトを見返すようなことは特になかったという。俳優たちの中で登場人物が生きているのだ。俳優たちがスゴイ、のと同時に、僕はやはり、井上敏樹を褒めたい。敏樹は"キャラ"ではなく"人間"を描くのだ。人間だから、生きている。当たり前の話。

 産まれて生きて死んでいく"人間"。強いところも、弱いところもある"人間"。ときに誘惑や不安に負け、道を踏み外すこともあるが、そこから戻ってくることもある"人間"。他者を愛し、希望を信じ、未来を切り拓いていく"人間"……。井上敏樹の描く物語はそんな人間たちへの、愛に満ちている。そんなに人間が好きなのか、井上敏樹。不完全な"人間"。不完全ながら、より良くあろうとする"人間"。何を隠そう、僕も好きだ。趣味が合う。だから、僕は井上脚本が好きだ。

 創作物は"人間"を描いてナンボだと思う。リアルな人間の"痛み"を描いてこそ、だと思う。

 丸一年に渡って、そういう生きた人間を描いてきたから、強度がある。生命の強度。25年後の現在でも生き続け、変わらぬ魅力を持ち続けている。単に昔のキャラが再登場する、というだけの話ではない。昔の知り合いと、本当に再会するような気持ちになるのだ(僕は『アギト』と出会って、10年ほどしか経過していないが、これだけ感動している。25年越しの人の感動はひとしおだろう)。

 小沢さん、北條さん、尾室くんもしっかり生きてて最高だった。北條さんについては、ちょっとまた後で改めて触れるとして……。僕は美杉家が好きなので、映画序盤と終盤のレストラン・アギトの場面をすごく気に入っている。真魚ちゃんが、翔一くん以外の人と結婚しているの、すごくいい。世界が閉じてなくて。ちゃんと自分で居場所を探す・作ることができるようになったんです、真魚ちゃんは。だから別居もするし。真魚ちゃんには家出癖があります。硝子細工ですからね(いくらくらいだ?)。あと、太一! 太一はね、もう、最高すぎた。助演男優賞をあげたい。MVPです。"25年後の太一"すぎるだろ。完璧すぎ。

 この生きた"人間"の魅力こそ、井上脚本の、何より『アギト』の最大の長所だと思う。そこが今作でも、きちんと継承されていた。一人を除いて。

 (継承されていないのは、一人だけでいい……)

 まぁ、ここも後で触れます。僕は納得してますよ!

 僕も白倉もタローマンも、停滞と繰り返しを嫌う。だからこんな、同窓会で喜んでいていいのだろうか、の気持ちは当然ある。停滞は死だ。繰り返しは生きていないのと同じだ。しかし、25年経っても、彼らは変わらず生き続けているんだ、という事実を描くことは、その事実が持つ"人間讃歌"のメッセージは、価値のあるものだと思う。すごく。白倉の狙いを、井上の筆がブッチ切った、のかも。実際この映画観て、元気もらったもん。"惰性の日々に句読点"だ。

 白倉の狙いについても、あとで触れなくては。あとで触れることが多い。

 変わらぬ魅力と言えば、ギャグ・コントの面白さも健在であった。劇場が笑いに包まれていて、ホッコリした。特に北條さんは、ずっとウケていた(変わらぬ魅力とは、また違うけど……)。

 僕の思う『アギト』の"味"とは、「津上さんと氷川さんが漫才やって、ひと笑い取った直後の場面転換で、葦原さんが死にかけている」ところにある。要はコミカルとシリアスの極端な緩急こそ、『アギト』味(あじ)なのだ。毛色の違うドラマを織り交ぜて描く、群像劇の『アギト』ならではの特徴と言えるだろう(葦原涼のドラマだけで一年間放送なんてしようものなら、シリーズが終わってしまう)。

 今作では、そのアギト味は、正直言うとあまり感じられなかった。葦原涼のドラマが物理的に展開不可能なのもあってか、印象として、全体的に結構コミカルな作風だったような気が(終わり方のせいかも)。序盤の刑務所いじめパートや、超能力者たちのグロい殺人方法なんかは、頑張ってシリアスをやろうとしている気配もあったが(とりわけ後者は、ついぞ忘れていた平成一期の"味"を思い出させてくれた)(やっぱり人が死ぬとテンションが上がる)(人間ミキサー最高)。

 明るくて笑えるのがアギトの魅力。それも正しい。ただもうちょい緩急あった方が、僕は嬉しかったかもしれない。最初に述べたように、アギトという作品はあまりにも多くの要素を内包している。90分程度の映画一本では、とても全てを回収し切ることなんて。仕方ない、のはわかる。全然、譲歩の範疇。

 譲歩したくなる愛嬌のある映画だった。少なくとも僕にとっては。

 そういうところがよくないのかもしれない、ということもわかっている。わかってるんだ。

新たな魅力

 増える北條さん。何食ったら思い付くんだ。

 鑑賞直後、気付いたら僕は、きゅうくらりんパロの北條透コラ画像を作成していた。ああ、アギトになっちまうよ。ああ、焼肉食っていたいな。あと、焚き火やらキャンプファイヤーやらの画像に、木野薫の顔面を雑コラして遊んだり……。コピペをやめない水曜日だった。

 冗談はさておき(冗談みてぇな映画なんだからいいだろ)、今作『超能力戦争』がただのファンサービス同窓会でしかなかったのか、と言うと、それは明確にNOである。新しいこともしている。

 まず何よりも、葵るり子だろう。ちゃんとキャラが(人間が)立っていた。1年の積み重ねプラス、25年の思い入れのあるオリジナルメンバーたちと、正面から渡り合えている。すごいことだ。ゆうちゃみ、アギト本編における要潤の枠だと思う。演技には拙いところもあるが(アフレコは上手かった)、その拙さも含め、俳優本人が全身から醸し出す"雰囲気"が、登場人物の魅力そのものとなっている。体現している。かつての氷川誠そのものだ(なんてことを言ったら葵るり子は怒るだろうけど)。

 超能力者たちも個性豊かでよかった。バックボーンをほとんど語られない彼らだが、想像の余地はある(し、描かれていないところを勝手に想像したくなる愛嬌を、僕はこの作品からビンビンに感じている)。

 頑張ってたね、香川くん。僕は気に入ったよ、杵島くん。G3の香川とG3-Xの杵島。本作の"愛嬌"を象徴するような二人。法律よりも道徳よりも"小沢澄子"を上位に置いている二人(当たり前のように、小沢さんの違法行為に加担していて笑った)。

 G7もカッコよかった。"GZ-10 オロチ" ← カッコよすぎる。仮面ライダーになろうとする男が、ついにライダーキックを決めた。アツい。

 主題歌の『ドラマティック平凡』も名曲だ。

変わり続けていく 変わらないものを抱いて

 これは『アギト』本編の主題歌の

君のままで変わればいい

 を意識した歌詞だと思うが、同時に、変わらぬ魅力と、変わり続けていく新たな魅力の両輪で観客を魅了する、本作『超能力戦争』を見事に言い表した名句と言えるだろう。映画の内容とマジで関係のない『事件だッ!』を思えば、なんとも、ありがたいことである(『事件だッ!』も好きだけどね)。ORANGE RANGEはいい仕事をしてくれた(レンジがチンならORANGE RANGEはオチンチンとか言って悪かった)。

木野薫のこと

 さて、(ある意味)本題である。本作の木野薫の扱いについて、納得できず、憤慨している人も少なくないことだろう。まぁ、その気持ちはわかる。

 ……という言い方をするのはつまり、僕は割と納得しているということ。もともと木野薫ってヤバい人間だしなーと思っているし、加えて、先ほどから何度も言っているように、僕は本作にメロついているため、ちょっとやそっとの説明不足は、自己解釈の妄想や、こじつけで適当に脳内補完をすることが可能なのだ。で、実際、補完した。納得している。みんなにも共有しよう。これが譲歩だ、忖度だ!

 ツイッターでも呟き、そこそこ拡散された。

 要は、本作『超能力戦争』の木野薫の正体は、謎の青年(光の力) = 白神様 = プロメス = 火のエルだと、僕は考えている、ということだ。どういうことだ。

 そもそも、『アギト』の世界は、謎の青年(闇の力)によって創造された。人間は、彼に似せて創られた。んで、イコン画(本作では、作中世界にガッツリ存在していた。つまり本作は、ある意味で本編以上に神話の話をしているということ)に描かれているように、マラーク(アンノウン)たちと人間たちとの戦争が勃発する。劣勢の人間たちを哀れんだ"光の力"は、人間の女との間に自らの子供 = ネフィリム(ギルス)を作る。(味噌汁を作っていたら、勝手にカレーのルーをぶち込まれて)激怒した闇の力は光の力を滅ぼそうとするも、光の力は死の間際、自らの因子 = アギトの力を人間たちにばら撒き、ついでに、未来までワープし、あかつき号の乗客たちに光(水のエル曰く、悪しき光)を浴びせ、アギトの力を活性化させ、生き絶える……という、とんでもない害悪ムーブを披露。こうして、翔一くんはアギトとなり、人類とアンノウンとの壮絶な戦いが再び始まった……というのが、アギト本編のあらまし。舞台設定だ。

 ある程度は本編でも語られ、語られていない部分は裏設定として各種書籍やら何やらで説明されている。僕も原本をあたったわけではなく、ネット上の情報を鵜呑みにしているだけなので、どこまでが作り手たちの中で"真"なのか、よくわからない。とりわけ、謎の青年(光の力) = 白神様については、わからないことが多い。プロメスという名前は、確からしい。由来は、人間に火を与えてゼウスの罰を受けた、ギリシア神話の神・プロメテウスではないか、ということはつまりプロメスの正体は、アギト本編に登場していないエルロード・火のエルではないか(アギトがバーニング、シャイニングと、"火"にまつわる進化を遂げているのも、アギトの力の正体が"火"だからではないか)……と、この辺はオタクの妄想らしい。曖昧だ。

 ヘッドカノンに過ぎない。されど、25年の月日でそれなりに浸透・定着しているのも事実。そもそも、本編で語られていない部分を埋める妄想であるため、本編との齟齬も少ないし、水のエル、地のエル、風のエルと来て、火のエルだけが出ていない(もともとは最終決戦に出る予定だったらしいが)違和感に対するアンサーとして、かなりしっくりくるものでもある。ヘッドカノンとしては、上出来の部類だろう。同じくヘッドカノンとして、『超能力戦争』はPG4の世界線なので本編とは繋がっていない、というものもあるが、僕はこちらはあまり支持しない。というか、よくわからない。PG4を、本編とは別の世界線だと思って観たことがない。矛盾点は、単に東映のガバだろうと思っている(撮影時期の問題もあるし、いろいろ仕方ないんじゃなかろうか)。

 というわけで『超能力戦争』の木野薫、火のエル説を提唱し(こじつけ)ていく。略して木野エル。

 まず、目的。人類を進化させる = アギトを増やすこと。これは火のエルの目的と合致する。というか、その動機を持っていそうなのが、火のエルぐらいしかいない。ただ、木野さんも思い込みの激しい人だし、一度思い込んだときの行動力がエゲツない人でもあるので、アギトを増やすことが全人類の救済になる、という真理に到達してしまったら、確かに今回のような凶行を起こしそうでもある。元々ヤバい人なんだって!

 一度死んだ木野薫を、火のエルは自らの使徒として蘇生させた。黒神様(テオス)(オーバーロード)が自らの使徒として、沢木哲也(津上翔一)を蘇生させたのと同様に。そもそも『アギト』の"死者蘇生"と言えば、沢木哲也の例が思い浮かぶ(それはそれとして葦原涼は不死身)。神々はいつも勝手な都合で人を殺したり生き返らせたりするのだ。

 そして火のエルは、木野薫の胸中に元々ある"地獄"(雅人ォ!のこと、アギトのこと)に目を付け、憑依。木野薫自身は操られている自覚もなく、結果的に火のエルの思惑通りの行動を取っていた。『アギト』本編の関谷真澄(あかつき号の乗客)が水のエルに憑依され操られていたのと、同じ格好だ。木野さんが復活するなんて、あり得ない!と言う人もいるだろうが、実は『アギト』においては、死者蘇生も憑依も、どちらもガッツリ前例のあることだ。そしてどちらも神様関連の事象だ。『アギト』はそもそも、かなり無茶な設定のお話である。スケールがデカすぎる。『クウガ』のリアル路線を継承しつつ、実際、かなりファンタジーでもあるのだ。

 こうして木野エルは、アギトを増やし、人類を無理やり進化させるべく行動を開始。障害となるのは四人のライダーたちだが、まず木野薫は確保済み。葦原涼は死亡済み(火のエルさん、アギトエアプだなぁ、と思う。死んでるわけないのよ)。津上翔一からアギトの力が無くなったのも、火のエルの仕業かも。まぁ、戦う必要がなくなって、自然と消滅していった、でも全然いいんだけどね(その方が翔一くんらしい)。あとは氷川誠だけ。実はここが最難関で、火のエルが何をどう操作しようと、Gユニットと氷川誠は勝手に強くなるので、手の打ちようがない。ので、氷川誠を冤罪で収監させたり、抗体をエサにGユニットの活動停止を要求したり、いろいろと周りくどいことをする必要が生じた。結局、それが敗因となる。わざわざ抗体を用意したのは、火のエルの支配下にある木野薫自身の意志、善性ではないか……とも考えられる。お好きな解釈をどうぞ。

 言うて黒神様も、翔一くんがホームセンターで購入した針金を盗んで殺人を犯したり(濡れ衣を着せるの好きだな神様たち)、さそり座を動かしてさそり座の人間だけを殺したり、いろいろと奇行に走っていたのを忘れてはならない。

 追い詰められた木野エルは「人の進化の最終形態」として、シャイニング虫の姿を披露する。まず「人の進化の最終形態」とか言っちゃってるところ、エアプ丸出しである。あなたはアギトを作りながら、アギトのことを何も知らない。アギトとは限りなく進化する力なのだから。そしてこのとき、木野エルがアナザーアギトに変身しなかったことを残念がる人も多くいるようだが、僕はシャイニング虫でよかったと思う。

 木野エルが、我々のよく知る木野薫ではない、別の何かであるということの証左だからだ。何を隠そう、このシャイニング虫、アナザーアギトの進化形態ではない。ギルアギトの進化形態なのだ(シャイニング・ギル・アギトと言うらしい)。こうして異形の怪物と化した木野エルは、他のアギトの亡骸を喰らうことで、切断され欠損した自らの四肢を、グニョグニョと再生させる。ここ、究極の木野薫の尊厳破壊場面で、興奮する。雅人ォ! 雅人ォ! そもそも「アギトは俺一人でいい」木野薫に、アギト増殖作戦をやらせているのも見事な尊厳破壊だ。木野薫ファンが怒るのは正しい。悪いのは火のエル。

 そんなシャイニング虫の暴挙に、翔一くんセンサーが反応する(バァン!)。ギルアギトには反応しないのに。これはつまり、シャ虫がアギトやギルス、ギルアギトに類するものというより(進化した結果)アンノウン、つまりロードやエルロードに近しい存在となった……ということ。そもそもアギトの力は、火のエル由来のものなので、当然と言えば当然だが、シャ虫(木野薫)と火のエルとの繋がりを、より強く確信させる描写とも言える。

 シャ虫を倒すべく、氷川さんは翔一くんのアギトの力も借りながら、G7のオーバードライブをどんどん重ね掛けしていく。小沢さんは止める。このままではオーバーロードを起こす、と。そう言えば、闇の力の別名って、テオスと、オーバーロード……。オーバーロードで、火のエルを倒す……。なるほど、なるほど(ここまで来るとさすがに与太か)(ちゃんと人間の意志で倒したことにしたいよね!)。

 敗北した木野エルは、爆炎(火ですからね、火!)に包まれながら、呪詛を吐く。何度でも蘇ると。本編の木野薫の美しい最期をぶち壊す尊厳破壊であり、同時に、たしかに火のエルってめちゃくちゃ往生際の悪いやつだったよなーと思い出させてくれる、名(迷)場面だ。ちょっと絵面が面白すぎる。なんでみんな笑わないんだ!?

 ……どうだろう。皆さん、納得してもらえただろうか。僕自身は、わりと筋が通っていると思っている。終始トンチキな絵面から、ひとつひとつ"意味"を抽出していくと、こういう感じになる。何も、これが正解だッ! などと言うつもりは、ミジンコほどもない。ただ陰謀論の作り方を紹介したまでである。信じるか信じないかは……というやつだ。

 木野エルを前提とすると、いろいろな描写に意味が通る。まず冒頭、というか、いちばん最初のカット。木野薫がギルスの遺体(だから死んでないんだけどね)を愛おしそうになでなでしているところ。こちらも、木野薫が火のエルだとすると、実に意味の深い場面となる。だって息子(ネフィリム)だもん。

 あと、香川くんと杵島くんがギルアギト因子に適応できず、倒れる直前、「焦げ臭い」と発言していたのも、ギルアギト因子が"火"に由来するものであることの証拠の一部と言える、かもしれない。

 だったら本編でわかるように描けよ! という意見もわかるが、そもそもアギト自体、詳細な設定を本編で語るタイプの作品ではなかった。最高視聴率を誇る本作だが、みんなよくわからずに観て、楽しんでいたはずだ。オタクは裏設定込みで楽しめばいいし、そうでない人は、登場人物同士の掛け合いや、カッコいいバトル・アクションで楽しめばいい。『アギト』ってそういうもんじゃなかったか。

 んまぁでも、繰り返すが、これは僕が本作『超能力戦争』をいたく気に入って、愛嬌にメロついて、譲歩と忖度をしたくなっているから、こういう楽しみ方をしているだけのことで……。僕の楽しみ方が正解だとは思わない。正解などない。観客側から譲歩と忖度をして、解釈と妄想で隙間を埋める必要があるなんて、ひどい作品だ! という意見も、よーくわかる。僕もそう思うこと、よくあるもん。ただ同時に、観客側で隙間を埋めたくなるような"愛嬌"を持っていることも、作品の一つの価値だよなぁ……とも思う。得難いものですよ、こういう価値は。

 結局のところ、作品の価値は、受け取り手が決めるものだ。BELIEVE YOURSELF(自分を信じろ)。

 本作『超能力戦争』の黒幕・ラスボスを火のエルだとすると、テーマ的にも収まりが良い。本編では、人の進化を無理やりやめさせる黒神様を否定し、映画では、人を無理やり進化させる白神様を否定する。誰かに強制されるのではなく、人は人の、自らの意志で、ゆっくり進化していくのだ。ちゃんと"続編"をやっている。敏樹はアギトのことを憶えている。

 後年のアギトの客演と言えば、多くの人がジオウのアギト編を名作として挙げることだろう(実際、僕も好きだ)が、ディケイドのアギト編もまた、忘れてはならない。門矢士が(説教BGMと共に)発した「お前に道案内してもらう必要はない!」という『アギト』のテーマを体現した名言があるからだ。

もにょるところ

 木野薫の扱い以上に、もにょるところがあるのか。あります。僕が本作の木野薫に納得しているのは、僕がセリフで何でもかんでも説明する作風を嫌い、自分でいろいろ考えて解釈する営為を愛好しているためだが、その観点から行くと本作は、ちょっと「テーマをセリフで語りすぎ」だ。特に、予告時点で気になっていて、本編でもそのままだったので、残念な気持ちになったのが、氷川誠が「進化とはウンタラカンタラ達成されるものだ!」と演説してしまうところだ。氷川誠って、そういう人じゃないじゃん。

 氷川誠の名言と言えば、「もういいだろ!」とか「ただの、人間だ!」とか。そういうたった一言に、氷川誠自身の感情と、作品のテーマや、メッセージを込めるものだったはず。あとは彼自身の生き様が雄弁に語る。だからこそアツい。不器用で真っ直ぐな氷川さんらしくて。

 そう言えば、敏樹は要潤が現場のアドリブで言った「もういいだろ!」を認めてない(俺なら書かないと言っていた)らしい、という話をどこかで聞いた覚えがあるが、本作でわざわざその場面の回想が挟まれたのは、25年経って敏樹が認めた、ということかも。考え過ぎか。だいたい敏樹だって、現場のアドリブをそこまで極端に嫌うタイプでは無さそうだし。恨み節は言うが。

 まぁ25年のうちに、演説する人に変わったのかもだけど。小沢さんあたりに言わせてもよかったんじゃない? と思わんでもない。実際、最後の焼肉屋では、小沢さんが同じようなことを言っていたわけで。木野に強制されなくても〜、と。

 先述の門矢士の説教は、そもそも門矢士を"説教をする人物"として描き続け、定着しているため、何ら不自然ではないので、良いのだ。

 こんぐらいセリフで説明しないと、観客にテーマが伝わらない……と心配したのだろうか。親切なようでいて、それは"ナメ"だ、とも言える。せめてもっと、短くてキレのあるセリフでもよかったはずだ。ここは明確に残念なポイント。余白が無いじゃない。そこは観客に言わせなさいよ。作劇や演出で伝えなさいよ。BELIEVE AUDIENCE(観客を信じろ)。

 作品とは、作り手や他の観客によって、その価値や意味が決められるものではない。ひとりひとりの観客が、作品と向き合い、自分と向き合い、咀嚼し、解釈し、ようやく完成するものだ。

 誰も、誰も人の解釈を奪うことはできない。

白い人の狙い

 白神様と並んで、もう一人本作の黒幕と言える存在が、東映の白倉伸一郎プロデューサーだ。あんまり、白倉がどうとか井上がどうとか、オタク丸出しのことを言うのも気が引けるのだが、事実オタクなので言及してしまう。これでも慎み深いオタクでありたいとは思っている。

 作り手(人間)と作品とを完全に切り分けて考えるのもなんか変だし、実際、作品を読解する上で、作り手の考えを知ること、想像することは大きな助けとなることもある。

 もっとも、あくまでも"助けとなる"程度のものだ。作り手の考え = "答え"では、断じてない。断じて。作り手の脳内がどうあろうと、現にそこにあるもの(作品)が全てだ。作品は、受け取り手がいて、初めて作品として成立する。受け取り手の頭の中、ないしは心の中で、ようやく作品は完成するのだ。この話だけであと20000文字は書けそうなので、やめておく。

 とにかく、作り手の脳内を覗いてみることは、読解の上で、それなりに意義のある行為だということだ。作り手の狙いはなんなのか。その狙いは、作品として表現されているのか。観客に伝わっているのか。狙い通りの結果をもたらしているのか。検証することには意義がある。

 ……と、くどくど書いているということは、つまりそういうことだ。白倉の狙いを見てみよう。

今作の『アギトー超能力戦争―』は、現行の仮面ライダー、あるいは『仮面ライダーアギト』そのものに対するカウンターとして作られるべきである、という気持ちでした

メインタイトルから『仮面ライダー』を取ったというのも、いわゆる仮面ライダー作品としてやってないよ、というメッセージのつもりもあります

どこかでなあなあというか、内輪受けというか、昔の感覚に陥りかねない

特に『アギト』なんて、これだけの成功体験があるわけですから。こうすればみんな喜んでくれるんでしょ、というものがある。だからこそ、その穴には絶対落ちないように。自分たちが楽しむだけのものにはしない、というのはみんな強く意識していたと思います

『アギトの世界を知りたければ、とりあえず入り口としてこの1本を見ればいいよ』と提供できるエントリー用の作品が「THE KAMENRIDER CHRONICLE」レーベルの狙い

 うわぁ、不器用なんですね〜!

 さすがに煽るよ、これは。申し訳ないけど。アギトを全く知らない人に、いきなり超能力戦争を見せようとは、僕は思わない。よっぽど、普段から変な映画を愛好している人でもない限り、勧めない。あの内容で"内輪受け"を避けていたというのか? 本当に? ある意味、木野薫の扱いは"内輪受け"の対極ではあるけども。あと悪いけど、極めて"仮面ライダー"だったと思うよ。良くも悪くも。ものすごく『仮面ライダーアギト』だった。

 美杉教授役の升毅さんも、本作のインタビューで「良くも悪くもあの当時のまま……」的なことを発言していて、(悪くもじゃいかんだろう)と僕は思ったりした。その場には白倉も同席していたが、何を思ったのだろう。実際、升さんの言う通りの作品だったが。

 僕の思う『超能力戦争』の長所と、白倉の狙いとが見事にズレていることがわかる。はて、どういうことだろう。仮説その一、白倉がインタビュアーに大ホラを吹いている。うーん、無くもないが。仮説その二、白倉はマジで『超能力戦争』を「『アギト』そのものに対するカウンター」で、「内輪受け」を避けた、「入り口」だと思っている。なんとも恐ろしいことだ。いちばん恐ろしいのは、あり得なくもないということだ。

 犯人探しや原因究明もいい(そっちはそっちで誰かやっておいてほしい)が、僕が言いたいのは、なんかすんげーもやもやする、ということだ。お出しされたラーメンは懐かしい味で、すごく美味しくて、僕自身大満足なのだけど、大将はパスタを作っていたつもりらしい。し、大将の言い分自体には、すごく納得感があるのだ。確かに、これからの時代を生き抜いていくためには、ラーメンだけじゃなくてパスタも必要だ。という理屈そのものは、すんげーよくわかるし、共感するし、いいこと言うなぁと思うんだけど、でも大将が「パスタです!」と言って出してきたものは、完全にラーメンだったじゃないですか。大将。

 楽しんだ自分が嘘だったような気分になる(そんなことは決して思わないのだけど、ほんの少し、僅かなノイズはあるよね)し、大将のビジョンに共感するがゆえに、店の、業界の今後を勝手に心配してしまう。パスタのつもりでラーメンを出してしまう店に、未来はあるのか。こういうことを心配させてしまう時点でよくないようにも思う。

 僕にとって、本作『超能力戦争』は、『アギト』の続編として素晴らしいものであり、大好きなのだが、決して、一般受けするようなものではないだろう……ということは、認めざるを得ない。一般受けなるものを深く理解しているわけでもないが。

 白倉、真の"大衆向け"を頼む……(力尽きる木野)。

総評

 変な映画であった。終始ふざけているようで、人はいっぱい死ぬし、変なところで真面目だった。言った方がいいことは言わないのに、言わなくていいことは言う。不器用な映画だと思う。ただ、『アギト』最大の長所である"魅力的な登場人物たち"の、その息遣いを、生き様を表現することに、本作は成功していた。天晴れ、としか言いようがない。素晴らしい俳優陣。

 結果として、"めちゃくちゃチャーミングな映画"というのが、僕の最終的な評価となりそうだ。そりゃ、本作よりもよく出来てる続編映画なんて、いくらでもあるわよ。でもこっちのが"かわいい"じゃない! ということ。ラーメン屋の未来にとって、よくないのは分かってるんだけど。でも、楽しんだのは事実だからなぁ。敏樹は『アギト』のことよく憶えてたし、よく考えて書いてくれたと思う。敏樹、口ではああやって言うけど、本当は熟考して書いてると思うよ。シャイだから。

 シャイと言えばシャ虫のこと。僕もシャイなので、あくまでも自己流の解釈であって、こじつけの妄想でしかなくて……と予防線を張り倒しているが、その実、割と、根も葉もある読解だと思っていたりする。少なくとも、僕はそれで納得しているし、僕個人の中では、それが正解だ。木野エルなのだ。そして葦原涼は生きている。死んだって言ってる人、ほんとに映画観た? 死んでるわけない。彼を誰だと思ってるの。

 変だけど、いい映画だった。いっぱい笑わせてくれて、いっぱい考えさせてもくれた。観終わったあと、元気が出た。これがいい映画でなくてなんなのか。

 人間が生きているということ、それ自体が希望だ。カイジもそう言っていた。井上敏樹の脚本は、そして『アギト』という作品は、画面の中に"生きた人間"を映し出すことができる。それは稀有なことだ。当然のようでいて、同じことができている創作物は、意外と少ない。ゆえに、希少価値がある。

 創作物のみならず、現実においても、人間が他者を"キャラ"として認識してしまうことは、極めて多い(とりわけ現代は、その傾向が強い)。理想化であれ、悪魔化であれ、それは人間を"人間でないもの"として扱う、ということだ。この人は、こういう"キャラ"だから、こういう個性を持っているから、こういう行動をするのだ、と。本当は、そんなことないのに。人間って複雑で、多面的で、良いことも悪いこともする。失敗から学んで成長することもある。そうでないこともある。そんな(私たちがついつい忘却してしまう)"当たり前"を、井上敏樹は思い出させてくれる。『アギト』は"人間"を楽しむ作品だ。それは『超能力戦争』でも、全く変わっていない。そのことが、僕は何より嬉しい。

 だから、氷川誠が25年経って説教する人物に変化したことも、受け入れる努力をしてみよう、と思う。人は変わるのだ。

 そもそも『アギト』は、神様が人間の進化を見守るようになるまでの物語なので、人間を楽しみ、人間を愛することこそ、『アギト』の面白さの核なのだ。

 結論。"僕は好き"です。いい映画です。

 今回だけは見逃してやるからな!

 覚悟しろよ東映!

 

 では、見守ってみましょう。白倉の言葉が、正しいかどうか。"THE KAMENRIDER CHRONICLE"とは何なのか。もう一度、この目で……。

『わたビバ』の描く現代の"正解"

ネタバレ注意!

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 観た。極めて政治的な作品で(この世に存在する、ありとあらゆる作品は全て政治的だが)、現時点での"正解"の話をしていた。

 現時点での、正解・正義・正論。それは、

 イデオロギー(党派性)に固執し、石を投げ合う(誹謗中傷・ヘイトスピーチ)のではなく、理性的で冷静な話し合いを心掛け、多様な属性・思想を持つ人々が、立場の違いを乗り越えて、建設的な議論を積み重ね、現実のシリアスな問題を解決するための手段を、皆で一緒に考えていく。

 ……というもの。要は、左右でも老若でも男女でもいいが、ガミガミ言い合うの、やめません? とりま落ち着いて、お互いのことを考えて、皆の納得できる方法を探してみようよ! 的な。うーん、"正解"だ。当たり前のことだが、極めて難しい。

 ド正論を吐いている、ということは、本作は優等生的な、角のないまるーいイマドキの映画なのかというと……そうであり、そうでないとも言える。

 "正解"を示す、ということは、他のものを不正解と見做す、ということだ。本作の"正解"の刃は、現代を生きる"古きリベラル"に向けられた。正確には、古きリベラルの"やり方"、"手段"に対する痛烈な批判……もとい、否定のメッセージが込められている。あなたたちのやり方では、世界をより良く変えることはできませんよ、という主張を、本作は思いっきりぶつけてくる。「(描き方の問題で)そう見えてしまっている」とかいう次元ではなく、ほぼ間違いなく、狙い定めてぶつけてきている。そういう意味で、本作はトガっている。パンクだ。

 否定されているのは"手段"であり"目的"ではない。そこは勘違いしないよう。"改善"のための、前向きな提案として受け取ってもらいたい。リベラルは、より良く変わることができるのだ。というか、変わらないとマズい。

 先に断っておくと、筆者はリベラリストだ(わりと古典的な)(リバタリアンに近い)(自由最高)。

 否定の内容を具体的に見ていくと、まず、抗議活動と署名活動が(作中では)何の意味も持たない。普通の映画なら、序盤の無意味に思えた抗議活動・署名活動が、終盤で実は……! 的な展開に持っていきそうなところを、本作は(普通の映画ではないので)しない。マジで、何の意味もない。

 まあ、その不毛さに主人公が打ちのめされ、やがて暴走へと至る……という流れで、作劇上の意味は当然あるわけだが(あとまあ、メイベルと市長が顔見知りである理由付けとしても必要か)。目的に対しては、全く無意味な手段であった、と言える。

 つらい。リベラルの"敗北"だ。我らの信じる"社会変革の手法"は、ことごとく無力だ。祖母との思い出の池を守りたいという、一人の少女(19歳だが)の切実な願いすら、叶えることができない。これが"敗北"でなくてなんなのか。悔しくないのか。

 もっとも、この物語の舞台が現実の現代日本なら、共産党の地方議員が話くらいは聞いてくれるだろう。

 やがて市長の犯罪の証拠を掴んだメイベルは、そのことを告発するより先に、怒りのまま動物たちを焚き付けてしまう。動物たちの倫理観を把握しないまま(見たいものだけを見ていた)(理想化していた)、取り返しの付かない暴力の導火線に、火をつけてしまったメイベル。彼女の落ち度はここだ。

 抗議活動・署名活動では何の成果も上げられず、日々大切なものが壊されていく焦りの中で、ついついトゲのある言動をしてしまう。身に覚えのある人は、少なくないのでは。実際メイベルが味わっている絶望は(作中で彼女自身が言葉にするように)、まさにそこだ。世界はどんどんおかしくなっていくのに、自分には何もできない。それどころか、自分のせいで、より悪くなっていく(加担してしまっている)ような気さえする。味方はいない(少ない)。民意は、ポピュリストの犯罪者を支持している。現代を生きる、ほとんどのリベラルが味わう、等身大の絶望。

 最終的に本作は、立場の違いを乗り越え、建設的な議論を積み重ねていくことを、"正解"として示すわけだが、そもそものメイベルと市長の立場が全く"対等でない"ことを忘れてはいけない。どっちもどっち、ではないのだ。明確な不均衡がある。

 「石を投げ合うのをやめよう」的な(賢しげな)意見を目にしたとき、多くのリベラルが思うことだろう。何故、正しいことを言っている・当たり前のことしか主張していない・社会的弱者(の味方)である、我らが譲歩してやらねばならぬのか、と。

 基本的人権の尊重、差別反対、戦争反対まで左翼的イデオロギーとされてしまってはどうしようもない。

 その通り。僕もそう思う。でも、それじゃいけないのだ……。と、この映画は言っている。そして、僕もそう思っている。心がふたつある〜。

 繰り返し強調しておくと、あくまでもこの映画は(そして僕自身も)リベラルの理念や理想、そのものを否定しているわけでは、断じてないということ。一貫して"やり方"の話をしている。

 やっぱり、石を投げるのはよくないのだ。その内容が、いかに正しく、人として当然の、大前提であったとしても……。攻撃的な態度で、一方的に押し付けるのは、やっぱり間違っている。暴力だ。その中身が、正義であったとしても。弱者から強者へと向けられたものであったとしても。暴力は暴力だ。わたしたちの生きる世界には、(残念ながら)暴力が必要な場面も多々あるが、それでも。

 より正確に言うと、これも"やり方"の問題だ。暴力を振るってはいけない、という倫理や道徳の話だけではなくて、"暴力的に見えること"がよくない。"何"にとってよくないか。わたしたちの(何よりも大切な)"目的"にとって。つまりリベラルならリベラルの、左翼なら左翼の、あるべき社会の形を実現したいという崇高な目的を実現する上で、極めてよくない。暴力的に見える、ということが(実際に暴力的であるかどうか、よりも)。

 実際には、権力者や資本家が、われわれの限られた時間とエネルギーを奪い、肉体的にも精神的にも摩耗させていくというほとんど拷問のような暴力を、無数の人間に振るっている。しかし、その横暴は、大多数の(大学で共産主義を習っていない)人たちには、暴力と認識されていない。(残念ながら)人々にとっては、街頭で愛と平和を叫ぶ左翼・リベラルこそが"暴力的"なのだ。そういう価値観が普通とされている社会に、僕らも彼らも生きている(僕ら・彼らとか言って別次元の存在みたく扱うのをやめよう、という話でもある。本作は)。

 はい、そこの人。いま「トーン・ポリシングだ」と言いかけませんでしたか? いや、言っていいんですけど。僕の言っていること、トーン・ポリシングそのものだし。ただ、そもそも僕は、この概念(トーン・ポリシング批判)について、慎重に運用すべきだとのスタンスでいる。結論から言うと、「やっぱり言い方って大事だよ」だ。もっと言うと「全員が全員、暴力的な物言いをしないと、話を聞いてもらえないような立場なのか? 本当に?」。「トーン・ポリシングの名の下に、いかなる言葉の暴力も許容されてよいわけがないだろう」。「よって、トーン・ポリシング批判は濫用すべきでない(トーン・ポリシングそのものは、間違いなく必要な概念だと思うが、別にそれは、憲法でも戒律でもない)」といったところか。

 僕のTwitterで、トーン・ポリシングについて言及しているツイートを検索していただければ、もう少し詳しい内容を把握することができるだろう。お暇な人はどうぞ。ツリーも含めて。

 (だいたい、生きた人間と会話していれば、否が応でも痛感せざるを得ないはずだ。コミュニケーションは"言い方"が九割だと)

 とにかく、"言い方・やり方"って大事だ。それは、必ずしも理念を毀損しない。ゆがんだ手段が、やがて目的をもゆがめていく……といった寓話は、確かに、枚挙にいとまがない。とはいえ、それも"やり方"次第なんじゃないかと僕は思う(楽観視している)。目的を歪めず、むしろ守るためにこそ、より良い手段を模索していく。そういう戦い(抵抗)もある。戦術を変えることは、堕落を意味しない。むしろ、楽な道に流れるのではなく、目的達成のため、より難しい道に進んでいくのだ。いま僕たちが、やらなければならないことだ(かなりの無理難題だが、だからこそ挑戦する価値はあるよ)。

 (というか、そもそも現状のやり方がゆがんでいるよね、と僕はずっと思っている)

 ガッツリ演説してしまった。映画の感想にしては、フリースタイルすぎる。でも、それだけ大きな感情が僕の中で渦巻いている、ということはわかってもらいたかったりする(もうだいぶ伝わったと思う)。もう、分断はウンザリなのだ。僕はずっと、高市早苗が総理大臣になる前から、ドナルド・トランプが再び大統領になる前から、ずっとこういうことを言い続けてきたのだ。そしてようやく、ピクサーも同じことを言ってくれた。そりゃ嬉しい、と同時に、今更かよの気持ちも。もう手遅れなのでは?

 まぁ、諦めずに頑張ります。頑張ろう。

 さて、そろそろ本当に、"映画の感想"を話したい。

 本作は、「私たちの目的や理念は正しいのだから、100%受け入れられるべき(譲歩などあり得ない)」といった、(言っちゃ悪いが)"お花畑"な考えを、全否定している。そのトガり具合が本作の肝だ。現実を見ろと冷や水をぶっかけてくる。ただ、そこで終わらないのが、本作のいいところでもある。『わたビバ』は、低次元の"お花畑"を否定することで、より高次元の"お花畑"の理想を、高らかに語ってみせるのだ。

 その象徴が、キング・ジョージ。メイベルと市長の(全く対等でない)対立軸だけで考えると、まぁ、先に述べたような"無理ゲー"なのだが(だからこそ大事なことだよね、と思うし)(それにしても、あまりにも非対称戦すぎるよな、とも常々思うよ)。ジョージとの関わりがあることで、本作のメッセージは大きく深みを増す。というか、(物語にとって)不可欠な存在だ。

 中盤、メイベルが絶望を打ち明け、ジョージが抱擁する場面。本作の一つ目のサビだ(二つ目のサビは、メイベルと市長の和解場面ね)。世界はどんどん悪くなっていくのに、自分にできることは極めて少ない。なんなら、自分のせいでもっと悪くなっていく(加担してしまっている)ような感覚さえある。現代社会を生きる、リベラルの叫びだ。グッとくる。共感する。

 ここ共感しない人とは、ちょっと、話が合わない。いや、そんなこと言ってちゃいけないんだけど。

 その気持ち、正面から受け止めてくれる人、いるよ! 力を貸してくれる人、いるよ! という希望。ジョージは本当に立派だ。ただ、そんなジョージの"平和主義"だけでは(メイベルの草の根活動同様)、問題を解決することはできない、というのが、本作のシビアなところ。……しかし勘違いしてはいけない。本作は決して、そんな安っぽいリアリズムもどき(真のリアリズムではない)を押し付けて終わるような、くだらない話ではないのだ。無駄ではない。断じて、無駄ではない。メイベルの怒りも、ジョージの優しさも。この世に無駄なものなど、何一つないのだ。全員生きていて、全員名前があって、全員、いいところがある。それが、ジョージの理想だ。

 義憤に身を任せ、突っ走る女性。楽観的で平和主義で、善性を信じてやまないビーバー。ポピュリストで犯罪者だが、母親と市民を心から愛し、危機に瀕しては身体を張り、やがて柔軟な思考を身に付ける権力者の男性。二人と一匹が起こした、奇跡の物語だ。誰が欠けても成立しない。いない方がいいやつなど、一人もいない(それはそうと食物連鎖は機能し続ける)(まあ生きるための食う食われるは仕方ないが、"潰す"のはよくない、ということかな)。

 世界は残酷だし、どうにもならないことも多くあるけど、それでも人の善性を信じて、行動し、改善していきましょうよ。思想や出自の異なる他者とも、対話していきましょうよ。みんなで力を合わせて、みんなが幸せになる道を探しましょうよ。という、お話。

 みんなで、が大事なところですからね。

 うーん、何度考えても、惚れ惚れするほどのド正論だ。当たり前のことであり、しかし、極めて難しく、お花畑の"理想論"として嘲笑されるのが目に浮かぶ。だが、本作はその理想の旗を、高々と掲げる。現実を直視した上で、それでも、希望を語り続ける。相当な覚悟が無くてはできないことだ。本作は、あり得ない理想を唱えて終わるだけの、ヤワな物語では、断じてない。ものすごく、強い。それだけは確かだ。

 闘争の現代においては優しさこそがパンクである、というのは昨年のスーパーマンとも共通する、現代の"正義"だ。冷笑するなら権力を、ファシズムを冷笑しよう。堕落していく大衆の"逆張り"をするのなら、より倫理的・道徳的な態度を心がけよう。

 先ほど"奇跡"と書いたように、正直言うと、本作のハッピーエンドは再現性が低い。現実に生きる私たちが真似しようとしても無数のハードルが立ちはだかることだろう。僕たちは機械のビーバーに意識を転送(HOPPERS)することはできない。ただ真似することは難しくとも、ヒントを得ることはできる。

 対話と相互理解(そして現状の変更)を実現するためのツール、すなわち"テック"をどう使うか・どう共存していくか、というポイントだ。

 これはフォロワーさんと話していて気付かされた点だが、改めて考えてみれば、何度も繰り返し登場するモチーフの"絵文字(emoji)"って、まんまそれじゃんね。そしていま、X(Twitter)はバベルの塔と化した。

 進化し続ける"テック"を(当然リスクはあるものの)、有効活用することで、対話を成立させ、理想のハッピーエンドを実現する。60年代みたいな価値観だが、その懐かしくも新しい希望を、正しく扱えるかどうかは、やはり結局のところ、人間の善性次第だ。そしてキング・ジョージは、その人間の(生物の)善性を限りなく信じている。そういう話。

 さて、本作の結末が、僕はすごく好きだ。完璧だと思う。池は、自然公園として守られた。同時に、高速道路の建設も続いている。ルートを変更して。当初、メイベルは池を守るため、高速道路の建設を、完全にやめさせようとしていた。対する市長は、高速道路を建設するため、池を(文字通り)破壊した。二人とも、自分の目的を果たすことばかりを考え、相手の目的に歩み寄る姿勢は、まるで無かった。

 だが意識の転送(HOPPERS)や、emojiを駆使した会話を経て(テックの恩恵によって)、より広い世界を認識した二人は、和解を果たす。正確な台詞は忘れたが、私がいて、君がいる。どうするか、一緒に考えていこう。的な、そういう話をしていたと思う。

 メイベルは市長に「もう少し左に寄って!」と発言していた。おもしろい。

 結果、池も高速道路も守られた。不毛な潰し合いをするのではなく、建設的な対話を経て、両者とも得をするベストな選択肢を導き出したのだ。素晴らしい。奇跡のハッピーエンドであり、現実に生きる僕たちが目指すべきものも、まさにこれだ。

 SDGsという概念は、誤解されがち(あるいは、理解しててわざと間違えているのか)だが、なにもエコのためにみんな我慢しましょうという話をしているわけでは、断じてない。むしろ、いまある私たちの豊かな暮らしを守るために、持続をしていくために、工夫をしましょうということなのだ。

 偽リアリスト(現実主義者を騙る腑抜け)(厳しい現実と戦う意志を持たず、"現実は変えられる"という現実から目を背け、現状の限られたパイをいかに奪うか、そのことばかりを考えている、言わば"現状主義者")どもの、よく言う台詞がある。何かを得るためには、何かを犠牲にしなければならない、と。

 僕は真のリアリストでありたい。現実は変えられるという"現実"を、僕は知っている。

 たしかに、そういうこともよくあるだろう。世界は残酷だ。だが、"どっちも"を求める"強欲さ"を原動力に、その希望を実現するための工夫を考えることは、決して無駄な営為ではない。人間社会は、その"強欲さ"によって発展してきた。諦観は未来を滅ぼす。

 『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のベーグルのこと。

 諦めることが、必ずしも賢い行いとは限らない。僕も無駄な努力は嫌いなので、気持ちはわかるが。無駄じゃないとしたら? という問いを、残しておこう。

 あなたたちが"定数"だと思っているものは、実は"変数"かもよ。

 要するに、"やり方"次第だ。

 本作のラストが完璧な、もう一つの理由。それは、市長の進退がハッキリとは描かれていないこと。彼の悲願である再選は、果たされたのか否か。その真実を、作り手は描かない。つまり、観客である私たちに委ねられている、ということ。ポピュリストの犯罪者を(改心したとはいえ)再び信任するのか、あるいは。いつだって政治家の進退を決めるのは、現実を生きる私たちひとりひとりの人間たちの選択だ。そのことを忘れてはならない……と作り手たちは伝えたいのではなかろうか。

 本作の言いたいことなんて、まとめてしまえば、「理想化と悪魔化の誹謗中傷・ヘイト合戦はやめて、ちょっとみんなで、(みんなが得をする)違う"やり方"を考えてみません?」程度のものでしかなくて。ただ、分断と憎悪の現代において、そのテーマを打ち出すことの尊さ。高潔さ。僕にはわかるぞ!

 現実を直視した上で、それでも理想を信じ、現実をより良くするための工夫を、"みんなで"探していく。そのための努力。覚悟ガンギマリの"お花畑"。

 うん、すきだ。よりパーソナルな好みとしては前作『エリオ』のが、グッとくるポイントは多かったが。なんせ直球の地獄男(トキシック・マスキュリニティ)映画ですからね。"強がり"のお話。

 本作は、ギャグのキレも割とよかったように思う。映画うまっ! となるタイプではないが、見やすい。そしてこういうメッセージ性の強い映画は、見やすくあるべきだ(見やすさとメッセージ性のバランスを、うまく保つことが肝要だ)。まず見てもらわないことにはどんなメッセージも伝わらないし、その伝え方が下手だと、せっかくのメッセージが毀損されてしまう(『ウィッシュ』みたく)。

 やはり、"やり方"の問題だ。

 結局、いまのトレンドをキッチリ押さえた、優等生的な作品なのかもしれない。イマドキだ。善良であることがパンクな、狂った世の中なのだから、仕方ないか。古きリベラルの骸を肥料とし、より高度な理想と希望の"お花畑"は、咲き乱れる……といいんだけど。咲かせてみせようでは、ありませんか(演説)。

 古きリベラルの骸を肥料とする、という点は(本邦で)同時期公開となった『ウィキッド』後編の展開と通じるものもある。『ウィキッド』はポピュリズムと衆愚の表現が見事だったが、アンサーとしては、わたビバのが少し先を行っている感。まぁ『ウィキッド』は2003年初演の舞台を基にしてますものね("2003年の男"が出てきて面白かった)。古きリベラルは、西の悪い魔女(パブリック・エネミー)として、分断と憎悪の先にある、新たな時代の礎となるより他ないのではないか……。

 いまの世の中に必要な、"正解"の映画だった。

 みんな、冷静に考えて、行動していこう。

ウォシャウスキー姉妹のフィルモグラフィは"支配のシステム"との戦いの歴史だ!【後編】

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 ウォシャウスキー姉妹の映画(監督作品)を全部観たので、今回は、それら全ての作品に共通するテーマである"支配のシステム"との戦いと、その描き方の変遷を考えた上で、『マトリックス レザレクションズ』のテーマとメッセージを読み取ります。

 【前編】↓

キーワード

「支配のシステム」「自分が何者かは自分が決める」「人は死んでも理念は死なない」「個人の幸福と革命の大義」「二元論の超越」「愛と選択」「語り直し」「虚構(創作)の肯定」

⑧『マトリックス レザレクションズ』(2021年)

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3部作のゲーム「マトリックス」をつくったクリエイター・アンダーソンは、夢と現実の境界が曖昧になる症状や度々生じる既視感に悩まされていた。社内では新作「マトリックス4」の企画が持ち上がり、その制作に追われる。そんな中、彼は自身がつくったゲームのキャラクター・モーフィアスと遭遇する。

 本作の監督は姉のラナ・ウォシャウスキーのみで、妹のリリーは参加していません。これには複数の要因があると考えられますが……。姉妹の両親が相次いで他界したことを、理由の一つとして挙げることは可能でしょう。ラナは両親の死の悲しみを紛らわせるために、本作『レザレクションズ』を作った、とも語っています。本作は約20年ぶりとなる『マトリックス』シリーズの"続編"です。リブートでも、リメイクでもなく。

 ……さて、どう書いたものでしょう。何度も何度も繰り返し本作を鑑賞しましたが、上手くまとめられる気がしません。仕方がないので、とりあえず最初から順を追って、一つずつ考えていくことにします。長くなりそうですが、どうかお付き合いを……。

 前編の反省は文章の"常体"と"敬体"が混在していたこと。なんか、筆が乗ると勝手に常体になってしまうんですよね。なので、ここからは全部、常体でお送りする。よろしくどうぞ。

「この話 知ってる」

 冒頭。いつものワーナーロゴ。いつもの数字とカタカナがワーッと出てくるやつ。いつもの音楽。そして、迫り来る警察の部隊を蹴散らすトリニティ……。うん、『マトリックス』じゃん! "語り直し"どころの話ではない。同じことが起きている。ただ、違うところもある。一連の流れを観察している、謎の人物・バッグス(とシーク)の存在。トリニティも、似ているけど違う人。現場に到着したエージェント・スミスに至っては、人種が変わっている。私たちは一体、何を観ているのか。わからないまま、状況は進んでいく。

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 本来の展開とは異なり、エージェントに拘束されてしまうトリニティ(?)。事態に巻き込まれ、エージェント・スミス(?)の攻撃を受けたバッグスは、鍵店に逃げ込む。エージェントたちに見つかる寸前、間一髪のところでバッグスを助けたのは、先ほどのエージェント・スミス(?)その人だった。

「繰り返す奇妙なループの中に 我々はいる」

 鍵店の扉の先、真っ白な部屋を抜け、スミス(?)とバッグスの二人は"トーマス・アンダーソン"の部屋へと辿り着く。これは現実の世界じゃない、という"違和感"を通じて、共鳴する二人。主人公たちにとっての敵でありながら、自らシステムの一部であることを自覚し、迷いや苦しみを抱える存在としてのスミス。その人物造形が活きている。

 本作が、繰り返しを打破する物語であるならば……『リローデッド』で提示され『クラウド アトラス』で描かれてきた"繰り返す人の支配"と向き合い、それを乗り越える(ためのヒントを与えてくれる)展開を、私たちは見ることになるのかもしれない。

 いま彼らがいるのは、どうやら"モーダル"という、繰り返すことで進化していくシミュレーションの中だとのこと。何度も何度も繰り返すことで、スミス(?)は違和感を覚えた。繰り返しは無駄ではない、ということか。

「私は…モーフィアス。ネオを見つけ出す」

 なんと、スミスはモーフィアスだった(意味がわからない)。まぁ、これに関しては、また後で改めて考えるが……。いま言えるのは、二人ともネオを捜索し、見つけ出し、試練を与え、(結果的に)救世主として覚醒するのを導く存在であった、ということか。

 真実の赤いピルを選択した、新・モーフィアスの"取り出し"が始まる。人間のみならず、プログラムも望めばマトリックスから脱出できる。時代は進んだものだ。なぁ、旧・スミス。

 「どのドア?」と訊かれて指差したドアが、出たらエージェントたちの目の前(大間違い)だったり……「エージェント・スミス?」と呼ばれて、思わず吹き出しちゃったり(そりゃこんな意味不明な組み合わせを自覚しちゃったら、笑うしかないよな)……と、新・モーフィアスには、ユーモラスなところがある。

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 なんとか、モーダルを脱出した新・モーフィアスとバッグス。そして場面は変わり、パソコンをポチポチするジョン・ウィック、じゃなくて、トーマス・アンダーソン。今度は何が起きているのか。またしても、混沌へと引き摺り込まれていく観客たち。

『BINARY(バイナリー)』

 見た目がジョンというか、いまのキアヌそのまんまであることにも、意味はある。あとで触れるが。

 デスクの上には『リローデッド』での、落下しつつ射撃する、印象的な場面のトリニティのフィギュア。飾ってあるトロフィーは、実在するゲームの賞を受賞して貰えるものと同じだそう。モニターには制作途中のゲーム『BINARY』のロゴが。バイナリーとは、「二進数の」や「二つからなる」といった意味。男性か女性か、という二元論的な枠組みに当てはまらないセクシュアリティのあり方を、ノンバイナリーと呼ぶのを知っている人も多いのでは。

 本記事の前編で書いたように『マトリックス』とは二元論を超越する救世の物語だったはず。しかしいまトーマス・アンダーソンはバイナリー(二元論)という名の精巧な虚構を作り、その構造と、中に生きる知性たち(AI)を管理する仕事をしている。マトリックスの管理者(アーキテクト)のように。

「あのトリロジーは衝撃だったよ」

 いま我々の目の前にいるのは、伝説のゲーム『マトリックス』トリロジー(三部作)を開発した、天才ゲーム・クリエイターのトーマス・アンダーソン。こんなところにメタフィクションがある。興奮してきたな(サンドウィッチマン)。

 アンダーソンの同僚で、マトリックスのテーマ性を捲し立てるオタク丸出しの男性、ジュード。どこか、自分を見ているような感覚もある。

「エロいママ」

 コーヒー店・SIMULATTE(シミュラッテ。Tを一つ抜くと……なんて、くだらない冗談だが)。ジュードと共にそこへやってきたアンダーソンは、子供を連れた一人の女性に目を奪われる。横から、エロいだのなんだの、ろくでもないことを言っているジュード。アンダーソンに呆れられると、自分はオタクだ、ゲームで育ったんだなどと御託を並べるが、そんなもん言い訳にはならない。(相手には届いていないものの)ひどい発言であることに変わりはない。

 

 彼の人物造形は、いわゆるインセルというか、ミソジニストというか。洋の東西を問わず、こういうオタクは少なくないのが現実だ。歴とした社会問題であり、非モテなどと冷笑するべき対象ではないのだが、このジュード(『マトリックス』オタク)に対し、あえて突き放すような言い方をすると「お前は『マトリックス』の何を見てきたんだ」とは言いたくなる。濡れ場の多い『マトリックス』およびウォシャウスキー姉妹作品だが、しかし同時に一貫して、性的消費を悪しきものとしても描いてきたのだ。どこに目をつけてやがる、という気持ちは大いにある。『マトリックス』やウォシャウスキー姉妹作品に限った話でもないが。差別反対のメッセージを含んだ作品を愛好しながら、平気で差別をする人は、残念ながら大勢いる。創作物にメッセージを込めること。メッセージを読み解き、語ること。これらの営為は、無力なのか。

 話を『マトリックス』に戻すと、本作の場合、とりわけインセルやミソジニスト以上に、陰謀論者に都合良く利用されてしまっている現状がある。本邦ネット言論空間においても、その一端を垣間見ることは可能だが、特に海外、欧米において、その猛威は凄まじいものがある、らしい。はっきり言って、現代における『マトリックス』は、"陰謀論者御用達コンテンツ"と化してしまっているのだ。

 まぁ、考えてみれば、確かに"相性の良い"作品ではある。僕たちの生きている世界は、実は全部作り物の虚構で、嘘を"真実"だと思い込まされていて(僕たちはみんな洗脳されていて)、本当は、僕たちの世界は巨大な陰謀によって支配されてしまっていて、日常の違和感から"気付き"を得て、やがて"目覚め"、真実を知ることになる、という……。

 『マトリックス』側の、そもそもの陰謀論との相性の良さもあるだろうが、それだけでなく、陰謀論者側(デマやフェイクを流布し、不安や恐怖を煽ることで、利益を得ようとする者)が、『マトリックス』を都合良く利用している側面もあるだろうことを、失念してはならない。

 お馴染みイーロン・マスクが、Twitterにて(あえてこの名前で呼ぶよ)「Take the red pill(赤いピルを飲もう)」と呼びかけ(このRed Pillというのは、アンチ・リベラル、アンチ・フェミニズム界隈の合言葉のようなもので、本当は白人男性こそが差別されているのだ、という"真実"に気付くことを指していたりする)(最悪だと思う)、イヴァンカ・トランプ(トランプ大統領の娘)が引用リツイートで賛同を示し、それらのやり取りに対し、リリー・ウォシャウスキー(妹)が「Fuck both of you(てめえらくたばれ)」という内容のリプライを送った一件は、大きな話題を呼んだ。

 件のツイートのリンクを貼るべくTwitterでリリーのアカウントを探したが、発見できなかった。Blueskyにはあった。移動したのだろう。賢明だ。

 代わりに、『マトリックス』の誤った解釈についての、近年のリリーによる公式の発言を見つけることはできたので、そちらを貼っておく。

 要するに、このジュードの描写は、現実に存在する一部の(というには、かなり多い)『マトリックス』のオタクでありながら、インセルやミソジニストである者や、または『マトリックス』を利用する陰謀論者に対する、痛烈な批判である。ここが本当に大事なポイントで、このための『レザレクションズ』と言ってもいいくらい。作品のメッセージを、誤った受け取り方をしている人たちに対し「この物語は、あなたたちのためのものではないよ」と宣言する行為。ファンダムのオタクに冷や水をかけるための続編、僕だいすき。トイ4もフォリアドゥも。"語り直し"の持つ、大きな意義だ。

 では誰のための『マトリックス』なのか。そのことも考えつつ、この先の展開を見守りたいと思う。

 

 本編の読解に戻る。

「前に会った?」

 成り行きでその女性・ティファニーと会話することになったアンダーソン。彼女は、どっからどう見てもトリニティ。独身のアンダーソンに対し、ティフは、夫のチャド(『ジョン・ウィック』シリーズの監督で知られる、チャド・スタエルスキ。『マトリックス』シリーズではキアヌのスタンドダブルを担当。言わばキアヌの分身、もう一人のキアヌ)との間に、二人の息子と一人の娘をもうけている。チャドが夫なのは別として……この家族構成は、実際の(当時の)キアヌ・リーブスと、キャリー = アン・モスのそれと同じ。キアヌの容姿そのまんま問題の"意味"は、まさにここにある。メタフィクション展開や、インセル批判等と合わせて、本作がいかに"現実に根差している"(現実の社会に向けて、テーマを語ろうとしている)かの、証左に他ならない。すごく抽象的なことをやっているようで、読み解いていくと、極めて具体的な"現実"の話をしているのだ。

 僅かに違和感を抱くものの、お互いの正体や真実に気付くことはなく、そのまま別れる二人。オフィスに戻ったアンダーソンは、ボスに呼び出される。

「数十億の人々がこの中で生涯を過ごす」

 うん、どう考えてもスミス。この映画、スミス多いな(もともとスミスは多いか)。ただし、やはりと言うべきか、顔は変わっている。のちに、彼自身が「より完璧になった」と表現するような、碧眼のハンサム(ヒューゴに失礼だぞ)。部屋の隅には、『レボリューションズ』でのスミスの勇姿()を模ったスタチューが聳え立っている。

「物語というものに終わりはない。同じ物語を語り続ける。違った名前と違った顔で…」

 緊張した様子のアンダーソンに、新スミスことボスは、『マトリックス』トリロジーの続編の計画を打ち明ける。親会社のワーナー・ブラザーズに強要されたとのこと(ほんと、ろくでもないな)(買収されたね)。資本主義って、いやだなあ(和風総本家)。そして上述の台詞を吐く。これぞまさに、ウォシャウスキー姉妹のフィルモグラフィそのものと言えるだろう。終わりなき支配と戦い続ける、終わりなき愛と革命の物語。設定や登場人物は変わっても、根本にあるテーマや、メッセージはいつも同じ。何度も何度も、繰り返し、同じ話を語り続けてきた。

 その現実がいま、アンダーソンに襲い掛かる。幻覚を見るほどのストレスに苦しめられるアンダーソン。自分の意志とは関係なく、永遠に同じことを繰り返すだけの戦いは、恐怖そのものだろう。モーダル(無限ループ)に閉じ込められていた新・モーフィアスも、同じ苦しみを味わっていた。本作の"問い"は「"支配のシステム"との戦いは、永遠に同じことを繰り返すだけなのか?」「同じことを繰り返すだけだとして、その積み重ねに意味はあるのか?」とまとめることができる。これまでの姉妹のフィルモグラフィを、まるごと相対化するような壮大な試みだ。

「どう感じたかい?」

 ストレスに圧倒されたアンダーソンは、アナリスト(精神科医)のカウンセリングを受けることに。どうもアンダーソンは過去に自殺を図り、それ以来こうして通院を繰り返している様子。ときおり、現実(ゲームクリエイターのアンダーソン)と空想(救世主のネオ)との区別が付かなくなり、幻覚が見えるとのこと。青いメガネをかけ、青い服に身を包むアナリストは、アンダーソンに優しく語り掛ける。

「二者択一でなく 別の見方もあるだろうね」

 過去に自殺を図り、生き延びたこと。そして想像力が豊かなこと。アナリスト曰く、この二つが組み合わさることで、アンダーソンは幻覚(人生を脅かす作り事)を見るようになったのだとか。姉妹が過去に何度か、自殺を連想させるような演出をしてきたことを、想起させる台詞だ。

 アナリストは、アンダーソンの"幻覚"(という名の過去の真実)に合理的な説明を与えると同時に、"二元論の否定"という、患者にとって気持ちのいい概念を持ち出すことで安心させ(本人にそうと気付かせないまま)、懐柔していく。そして、「いつもの薬を」と言って、青いピルを服用させ続けるのだ。

 言っていること自体は救世主のネオと同じなのに、やっていることは真逆。まるで、『マトリックス』のメッセージを作り手の想定とは真逆の解釈で受け取り悪用する、陰謀論者のよう。

『マトリックス4』

 こうしてアンダーソンの開発地獄が始まる。テーマは「"マトリックス"とは何か?」。開発スタッフは口々に語り始める。マトリックスとは……「頭がヤられる」「暴力」「精神ポルノ」「ニュー・セクシー」「トランス・ポリティクス」「隠れファシズム」。

 リブートはあり得ない? リブートは売れる?

 ひとことで言うと……バレット・タイム! 新しいバレット・タイムが必要だ。再び革命を!

 うーん。どれも間違いではないが、どれも正解とは言い難いような。多様な解釈の余地があるのが、本作の良いところでもあるわけだが(先ほどから「誤った解釈」の話を何度かしているが、そういう、明らかな不正解は別として……多様な"読み"と正解が成り立つ = 唯一絶対の正解があるわけではないことは、優れた作品の証と言えるのではないか。無茶な読みができてしまうことの問題点は無視できないが、しかしそれは名作と呼ばれる創作物には付き物の課題でもある)

 多様な読みと"正解"を尊ぶこと。一方で、明らかな"不正解"は否定すること。多様性にまつわる"寛容のパラドックス"を想起させる、線引きの難しい問題だ。僕も、そのタイトロープの上を渡っている。

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 煮詰まってしまい(誤用)、追い詰められていくアンダーソン。その憔悴ぶりには胸が痛む。ラナもこんな想いをして本作を生み出したのだろうか。ラナ自身にとっての「マトリックスとは」、いったい何なのか。

「これって私が女性だから?」

 限界を迎えたアンダーソンは、カフェで例の女性・ティフに声をかけ、お茶することに。救いを求めたのだろうか。互いに悩み(疑問、"違和感"、生きづらさ)を抱える二人。ティフは言う。

 「家庭が欲しかった。それって私が女性だから? 自分の意志? そう育てられたから?」

 いい着眼点だと思う。構造主義と自由意志の狭間。テーマ自体はいつも通りだが、このように、"女性の生き方"について取り上げたのは、『マトリックス』シリーズでは初めてのことではなかろうか。

 アンダーソンのことをググったというティフ。彼女はゲームのことについて、いろいろと質問をする。主人公・ネオのこと。そして、トリニティのこと……。記憶はないものの、ゲームの中のトリニティに奇妙なシンパシーを感じている様子のティフ。

 「夫のチャドに見せて"どう思う?"って。(彼は)分かってないから…。"似てない?"って。そしたら…笑ったの。だから私も一緒に笑うしかなかった。無性に腹が立った。笑った自分が悔しくて。夫を思い切り蹴りたかった。ほどほどによ。アゴが外れるくらいに」

 名台詞、名場面だ。本音を打ち明け、心の安らぎを得る二人。すると、ティフの携帯が鳴り、お茶は終了する。後で見返すとわかることだが、二人の心の距離が縮まりそうになるたび、ティフの家族が顔を出し、二人の仲を無理やり引き裂いていく。何者かの意志を感じる。それも露骨な。

「久しぶりの登場はトイレの個室から」

 オフィスに戻ったアンダーソン。すると今度は会社のビルにFBIの職員が押し寄せ、避難を指示される。アプデに怒った14歳がウソの通報をしたんだろう、と予想し、呆れつつも指示に従う人々。そんな中、アンダーソンの携帯に送信者不明のメッセージが届く。

 "答えを知りたければ通路の奥のドアへ"。

 ジュードの悪戯を疑いつつも、指示に従いトイレに入ると、そこには新モーフィアスが。

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 ついに会えた、と旧モーフィアスの台詞を引用するも、なんとも間の抜けた登場。彼は、アンダーソンが作成したモーダル(無限ループのシミュレーション・プログラム)の中のモーフィアス。答えはここにあると告げ、赤いピルを差し出すモーフィアス。しかし、目の前の現実を受け入れられないアンダーソンは選択を拒絶してしまう。

 そこに、特殊部隊の隊員たちが突入。ゲーム企業のオフィスは銃撃戦の舞台と化してしまう。これは妄想だ、と自らに言い聞かせるアンダーソン。爆破と共にスプリンクラーが作動し、あたりに水滴と銃弾が飛び交う中、同じく困惑した表情で現れたのは、ボスこと新スミス。彼は、足もとに落ちていた拳銃(デザートイーグル)を見つめ、"違和感"(あるいは既視感)を覚えつつ、おもむろにそれを拾い上げると、やがて恍惚とした表情を浮かべ、そして……

「アンダーソン君!(ミスターアンダーソーン!)」

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 と甲高い声で叫ぶ。無事、覚醒です。おめでとう。おかえり。待ってたよ。

 全ての運命が決したはずの……あの、『レボリューションズ』での雨の決闘。その決着から20年の時を経て、止まっていた時計の針がいま再び動き出した。今回の始まりは、スミスの覚醒によって。その高らかな叫びは、黙示録の始まりを告げるラッパの音か。

 覚醒した、その瞬間から"アンダーソン君"目掛けて鉛玉をぶっ放す、安心と信頼のスミス。

 「会いたかったよ」

 キャーッ! 僕も会いたかった!

 ただ逃げ惑うばかりのアンダーソン。混迷を極める戦場に、唐突に、一匹の黒猫が姿を現す。一作目の、デジャヴュ(マトリックスの書き換え)の場面で登場したのと、よく似ている。繰り返し"これは妄想だ"と、何度も何度も自らに言い聞かせるアンダーソンの脳天を、スミスの銃弾が貫いた……。

「聞こえるかい?」

 気が付くと、そこは診察室。目の前にはアナリストと、"デジャヴュ"という名の彼の飼い猫が。

 アナリストは言葉巧みに誘導し、メッセージも襲撃もなかった、現実と空想の区別がつかなくなっている(アンダーソンが飛び降りを試みたときと同じ症状)と、アンダーソン自身に思い込ませようとする。

 現実のように思えた、と訴えるアンダーソンに対しアナリストは、「現実と区別できないゲームを、君は目指した」「自身の日常の要素を物語に仕立てた」と言い、もっともらしい理屈を与える。

 「アーティストにはよくあること」としつつ「だが空想が周囲に危害を及ぼせば問題だ。誰も傷つけたくないだろう」と、アンダーソンが"違和感"を追うのを防ごうとする。ある意味、彼の優しさを逆手に取り、利用しているとも言える。

 僕自身、心療内科でカウンセリングを受けたことがあるので、わかるのだが、このアナリストの物言いは実に本物の"それ"っぽくなっていて、現実味がある。不安や混乱に襲われる患者を落ち着かせ、納得できる理屈を与え、考え方のヒントを示してくれる。常に冷静なプロと対話することで、患者は安心し、なんでも打ち明けることができるのだ。落ち着かせることや、納得感を与えることだけが、彼らの仕事ではないが。

 世の中の、ほとんどのセラピストやカウンセラーは悪い人ではないと思うが、今作のアナリストは患者と医師との不均衡なパワーバランスを利用して、何やら悪巧みをしている様子。その語り口の現実味も含め、なんとも恐ろしい相手だ。

「"心を解き放て"」

 酒瓶片手に、ビルの屋上から夜の街を見下ろすアンダーソン。トリニティと紡いだ愛の記憶、そしてその凄惨な最期が思い起こされる。これまでのウォシャウスキー作品は、愛の記憶によって人が強くなる物語を何度も描いてきた。しかしいまアンダーソンは、その愛(と悲惨な最期)の記憶に苦しめられている。

 記憶の中の、旧モーフィアスが語り掛ける。「心を解き放つんだ」と。そう言ってモーフィアスは、ビルからビルへと飛んでみせる。傍らの鳥が羽ばたくのを見たアンダーソンは、(精神疾患とアルコールの相乗効果で)"心を解き放つ"べく、再度、屋上からの飛び降りを試みる。恐る恐る、片足を前に出した瞬間。

「あなたは私の人生を変えた」

 冒頭のバッグスが、アンダーソンの身体を掴んで、飛び降りを阻止した。かつては、"電池"の一人だったというバッグス。しかし、過去にアンダーソンと……ネオと出会い、その力を目の当たりにしたことで覚醒し、このマトリックスの中から抜け出せたという。

 ウォシャウスキー作品で"自殺を止める"展開が描写された。これは、意義深いことだと思う。これまでの作品群は、なんというか、"命が軽い"ように見えて。確かに、信念を貫くためや、愛する人を守るための(やむを得ない)自己犠牲は立派かもしれないし、自由や真実を求める戦いは、支配という名の仮初の平和を否定するものなので、ある程度の流血は避けられないのかもしれない。しかし誰も死ななくていいのなら、それに越したことはない。

 いまアンダーソンが行おうとしていた、精神疾患とアルコールの相乗効果による、自暴自棄のスーサイドを、ラナは明確に否定した。

 バッグス曰く、ジュードはアンダーソンを操るためのプログラム(つまりジュードの背後にいる存在が、インセルであり陰謀論者であるということ)で、敵は(その辺にいる人間を上書きし襲ってくる)エージェントではなく、(その辺の人間に擬態し、そのまま襲ってくる)"ボット"とのこと。確かにボットは厄介だ。

 ウサギのタトゥー(星型の痣のマークがあるけど、イースターエッグなのかしら)のバッグスに導かれ、アンダーソンは"真実が待つ"という、光る扉の向こうへ。いよいよ物語が動き出す。

 

 物語が動き出す、ということはつまり、提示された問いの答え合わせが始まるということで、一旦、ここまでの論点をまとめて整理しておこう。そんで、ここから先はもう少しテンポよく進めていけたらと思う。問題提起パートが長すぎた。

「繰り返す奇妙なループの中に 我々はいる」

 「物語というものに終わりはない。同じ物語を語り続ける。違った名前と違った顔で…」

 本作に至るまでのウォシャウスキー姉妹のフィルモグラフィを、まるごと相対化し、同じことの繰り返しでしかないのか、そうだとして、そのループに意味はあるのか、という問い。僕のブログ(前編)を読んだ人にとって、その答えは自明だが、監督本人はどう回答するのか。

「エロいママ」

「これって私が女性だから?」

 いまや、インセルやミソジニストから派生した陰謀論者の玩具と化しつつある『マトリックス』。多様な読みを許容する余地のある、器の大きいシリーズではあるものの、明らかに間違った(悪意のある)(有害な)解釈が広まっている現状に、作り手はどう対応するのか。『マトリックス』の問いは、女性やマイノリティといった抑圧されている人々を解放するためのものではなかったか(無論男性も抑圧から解放されるといい)(みんな解放されるべきだ)(自分たちが解放感を味わうために、弱者や少数者を抑圧するのはおかしいよね、ということで)いま、このタイミングで、マトリックスを復活(レザレクション)させる意味とは?

『マトリックス4』

 本作において「マトリックスとは?」の問いが頻出するのも、本作がメタフィクションの構造をしているのも、上記の問題 = 現代の現実の社会における、『マトリックス』の持つ意味とは。果たすべき役割とは。誰のための、何のための『マトリックス』なのか。これらに、まとめて回答するための(現実と接続するための)仕掛けだ。二十数年の時を経て、数々の作品を世に送り出してきた(支配のシステムとの戦いを繰り返してきた)ウォシャウスキーが、いま再び『マトリックス』を撮ることの意味とは。目的とは。

 終わりなき"支配のシステム"との戦いの繰り返しの先に、何があるのか。

 こんな感じだろうか。これらの問いに答えるためのヒントは、このブログの初めに列挙した、キーワードたち。つまりウォシャウスキー作品に通底するテーマが、繰り返しの軌跡(積み重ね)が、われわれを解放へと導く、レッド・ピルとなるだろう。

 結局短くまとまってない気がする。つまり今作は、マトリックスのメッセージが歪められてしまっている現代に、様々な作品を経てマトリックスに帰ってきた作り手自身が、改めて"マトリックスとは何か"を示す(ためにメタいことをしている)。そういう作品だ。

 

 では、本編の読解に戻る。テンポよく行こう。

「現実の世界へようこそ」

 "違和感"の答えを求め、レッド・ピルを飲み込んだアンダーソン、もとい、ネオの"取り出し"が始まる。

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 やっとネオと書ける。

 アナリストの執拗な妨害("ボット"の襲撃)を躱し、再び目覚めるネオ。一作目同様、ポッドの中で無数のコードに繋がれた状態。違うのは、だだっ広い空間にポッドがポツンと二つだけあるところ。ネオのポッドと、もう一つは、トリニティのポッドだ。

 そこへ突如現れた機械によって、ネオはポッドから解放され、人類の船へと運ばれていく。

「敵対するプログラムのコンボパック」

 ネオを完全に目覚めさせるため、真っ白な仮想空間の中で、新モーフィアスは語り掛ける。ネオの作ったものが、ネオを覚醒へと導く。虚構を生み出すこと、物語ることの肯定とも取れる。

「君には1つだけ 大切なものがある」

 かつてのように道場を用意し、完全に復活するためには「戦って勝ち取れ」と告げる、新モーフィアス。ネオは「戦うのはやめた」と返す。アクション・ヒーローとして有名なネオだが、もともと彼は、好戦的な性格ではない。それにいまは、現実に打ちひしがれ、生きる目的を見失っている状態だ。新モーフィアスとの格闘戦と対話を通じて、"トリニティのために戦うこと"を新たな生きる目的と定めたネオは、両手から衝撃波(救世主の能力)を放ち、見事"復活"を果たす。

 "自分がどうあるか"を選択するのは、実際は"誰をどう想うか"の問いなのでは。ネオはいつだってそうだった。モーフィアスを救うため、死地へ飛び込み、トリニティに愛され、彼は救世主となった。自己決定の前には、必ず他者との繋がり、愛があった。

 『マトリックス』は、そういうシリーズだ。

「あなたのおかげで全てが変わった」

 意識を取り戻したネオは、自身とトリニティの真実がマトリックスに奪われていたこと。そして預言者(オラクル)がアプデで消されたことを知らされる。

 以前と変わらないどころか、前よりもひどくなっているのではないか。俺たちのしたことは無意味だったと悲観するネオ。その言葉を否定し、バッグスは、"ネオのおかげで"変化したという、いまの世界の現実を見せてくれることに。

「今は機械が仲間?」

 船の名はムネモシュネ号(記憶の女神)。そのクルーたちの中には、ネオをここまで運んできた、あの機械の姿も。人類に友好的で、共存の道を選んだ機械たちは、シンシエントと呼ばれている。

 かつてのネオたちの戦いは、人類だけでなく、機械たちの世界にも影響を与え、人類 VS 機械の二項対立構造に大きな変化をもたらした。混沌の先に、希望があったのだ。

「"アイオ"へようこそ」

 ザイオンに代わる新たな人類の都市・アイオ。機械たちと戦うためでなく、機械たちから隠れるための街。天井には、本物の空によく似たバイオ・スカイが映し出されている。帰還した彼らを待っていたのは、アイオの将軍・ナイオビ。あの(旧モーフィアスの元カノの)ナイオビ。ネオとトリニティがマシンシティに旅立ってから、"現実"では60年以上が経過。すっかり老人となったナイオビが、アイオの指導者だ。

「ザイオンは戦争に明け暮れてた」

 多くのことが変わった、というナイオビ。酒は以前よりずっと美味しく。さらにバイオ・スカイの下で、シンシエントたちの協力を得ながら、果物の栽培にも成功。鼻水みたいなスープを飲むしかなかった、あの頃の暮らしとは大違いだ。これなら、あのサイファーも裏切らずに済んだかもしれない。

 「静かでしょ? マトリックスは私たちにノイズを詰め込んでた。よく似たノイズは他にもある。マトリックスのように全てを支配するものが。戦争よ」

 「ザイオンは戦争に明け暮れてた。マトリックスと同じ。人間が勝つか、機械が勝つか。ここ(アイオ)は私たち人間と…彼ら(シンシエント)が作った」

 ネオの活躍によって平和がもたらされたあと、マシンシティでは、電力不足(ザイオンによる人間の解放を、アーキテクトは止めなかったのだろう。彼は約束を守ったのだ)による機械たちの内戦が勃発した。『レボリューションズ』の直後に、圧倒的支持を受け人類の最高指導者となった旧モーフィアスは、そんな時代の変化と、それを裏付ける預言者の「新たな力が生まれる」という預言を、「ネオの功績は覆らない」として無視(まぁリローデッドあたりで、預言者とはいろいろあったもんね)。そのまま、旧モーフィアスと共に機械との戦争に明け暮れたザイオンは滅亡し、いまのアイオ(人間と機械が共存する都市)が生まれたのだ。

 機械との壮絶な戦争が描かれた『レボリューションズ』に対する、自己批判か。片や人類 VS 機械という単純な二項対立構造を否定するのは、一作目『マトリックス』からの一貫したネオのスタンスであり、作品のテーマでもある。そういう意味では、このザイオンの滅亡とアイオの誕生を、当然の帰結と見ることも、可能だ。

 象徴的である。真実と自由を得るため、多くの生命を犠牲にしながら、終わりなき支配との、終わりなき戦いを、何度も何度も繰り返す。そんな構造(を美化する時代)の終焉を告げるかのよう。

 しかし同時に、無意味な繰り返しに終わるかと思われたネオの平和的革命(大きな犠牲を伴うものだったが)は、確実に世界を変え、新たな時代を到来させ、世界をより良く変えていた。意味は、あったのだ。

 クラウドアトラスに足りないと思っていたものが、ここに全部ある。

 "意味"はあった。人が人である限り、支配と戦争に終わりはないとしても、それでも。ネオの(愛と信頼の)"選択"は、ほんの少しだが、しかし確実に、世界をマシな場所にしたのだ。希望のメッセージだ。

 かつての戦いが否定されると同時に肯定もされる。同じテーマやメッセージでも、"語り直し"をすることで、より進化した(洗練された・時代に合った)表現をすることができるようになる。この"進化"は一足跳びに到達できるものではない。これまでの積み重ね……つまり"変遷"があって、辿り着いた境地と言えるだろう。姉妹の創作活動は、決して無意味な繰り返しなどではなかった。モーダルのように、繰り返すことで、進化してきたのだ。ここまで変遷を追ってきた甲斐があるというもの。僕のブログもまた、意味のあるものだと信じたい。

 ザイオンの英語表記はZionで、これはシオニズム、シオニストのZionと同じだ。『機動戦士ガンダム』のジオン公国も同じ(そのまんま、ジオニズムとかいうワードも出てくる)。簡単に言うと、ユダヤ人のパレスチナ回帰運動のこと。現在の、イスラエルによるガザ地区への攻撃、というか虐殺の、思想的根拠となっている。『マトリックス』もガンダムも、パレスチナ問題についていろいろ思うところがあったのだろう。ユダヤ人が迫害を受けていたのも、また事実だ。時代によって見方は変わる。ただ、いま現在においては、決して褒められたもんではない運動だ。僕はハッキリと、ガザの虐殺に反対する。ザイオンが滅び、アイオがあるのは、そういう事情も加味されてのことだと思う。

「昔は誰もが自由を望んでた」

 トリニティの救出を望むネオを、ナイオビは「街の住人に危害が及ぶ」として「状況が分かるまで」幽閉することに。ナイオビの部下であるシェパードに連行されるネオ。「伝説の人」であるネオに、シェパードは告げる。

 「昔の話をよく聞きます。あなたやエージェント、ザイオン襲撃。昔は誰もが自由を望んでた。今は違います。みんな諦めてると思うことも。負けたと」

 昔、すなわち『マトリックス』旧三部作の時代(20年前)と現代との、価値観の違いを端的に表した、名台詞だ。自由と尊厳を求め、命を賭して戦うことが、無条件に肯定されていた時代。確かに、いまは違う。誰もが、革命のために命を投げ出したりはしないし、支配のシステムを認知しながら、現状に甘んじる人も少なくない。支配されることを望むもの。サイファーのような人たち。20年の時を経て『マトリックス』という作品は、彼らとどう向き合うのか。

「彼は我々の絆を利用したんだ」

 ナイオビの命令を無視した、ムネモシュネのクルーたちと共に、ネオは牢獄を抜け出し、トリニティ救出へと向かう。マトリックス内部に侵入した一同を待ち構えていたのは、あの新スミスだった。

 「我々の腐れ縁に目をつけたのは、あの精神科医(アナリスト)だ」。そう言い、自身(とネオの)コードを書き換えたアナリストへの(あるいはネオに対する)「暴力的な復讐」を望んでいること。そして、ネオがトリニティと接触するのはアナリストの思う壺だとして阻止することを告げるスミス。交渉は決裂。スミスはネオを始末すべく、ポータルを開き、ネオの「古い知り合い」を呼び出す。

 スミスはいつも動機がシンプルというか、とにかく破壊者で気持ちいいよね。守ることで変えていくネオと、壊すことで変えていくスミス。

 ここからのメロヴィンジアンのくだりは、まぁなんというか、ネタというか……(ある意味ラナの本音でもあるのだろうな、と邪推することはできる)。過去の栄光や復讐に囚われた存在としてのメロヴィンジアンとスミス。ネオもまた、トリニティという過去に固執している……という見方もできるか。彼女が(現状に)満足していたら? というバッグスの問いに、ネオは明確な答えを出すことができなかった。

「物事の本質がいかに二元的(バイナリー)か」

 戦いはやがて、ネオとスミスの一騎討ちに。

 「1と0。光と闇。選択とその欠如。アンダーソンとスミス」

 スミスの提唱する二元論は、ネオと彼自身を強烈に規定するもの。当然ネオは反発する。いつもの流れだ。自分が何者かは自分が決める。ウォシャウスキー作品を貫く大テーマを、真っ向から否定しようとするスミスだが、彼にとっては、この論理(ネオとの関係性)こそが、自らを定義付けるものなのだろう。

 「他者との関係性が自己を定義付ける」というのは何も珍しいことではない。それこそ、ネオを救世主と定期付けるのは、周囲の人々の期待や、トリニティの愛なので。思い出すべきなのは『レボリューションズ』の結論。全てが仕組まれたことであったとしても、大事なのは「選択すること」そのものだ、というネオの辿り着いた"答え"だ。

 作用(ネオ)に対する反作用(スミス)。もうひとつのアノマリーであるスミスは、ただ、与えられた役割・状況の中で暴れているだけ。自ら何かを「選択する」ということがない。(前編から何度となく繰り返していることだが)他者との愛と信頼が、"正しい選択"を導く。正しい選択は、少しずつ世界をより良く変えていく。構造そのものを変えるのだ。それは革命、または救世。これがネオの持つ力であり、だからこそネオはスミスに勝つことができる。さて今回、ネオは何を選択するのか。

 愛のない革命は、ただの破壊だ。先日、映画『トランスフォーマー/ONE』を再見した。ポスト・トゥルース的な搾取と支配の構造(極めて現代的だ)の中で、労働者として生きる二人の若者の物語。彼らは真実を知り、一人は民衆を導く正義の英雄へ、一人は全てを破壊する新たな支配者へと変化していく。本作においても、"英雄"は、他者から求められ、信頼され、認められ、選ばれることで"なる"ものであることが、描かれている。同時に、他者との繋がりを断ち(あるいは暴力によってのみ繋がり)、自らの衝動の赴くまま、既存の構造を破壊するだけでは何も解決しないことも。まさに、愛のない革命は、ただの破壊なのだ。

 スミスとの激しい肉弾戦を繰り広げる中、少しずつ全盛期の力を取り出していくネオ。やはり、スミスとモーフィアスは似た役割を持つ存在なのだろう。二人とも、ネオ(アンダーソン)を外部から強烈に規定し、覚醒へと導く。最後のトリガーは、トリニティだ。

「昨夜は変な夢を見た」

 衝撃波を放ち、スミスを撃退したネオは危険が待つと知りながらも、トリニティの元へ。夕陽が照らす中、彼女の手を取り愛を伝えるネオ。愛の逃避行、といった趣がありロマンチックだが、トリニティはネオの手を拒む。予知夢を見たというトリニティ。予知夢は救世主の能力の一つだが……。

「やっと大人同士の会話ができる」

 突然、そこにいたはずのトリニティが消え、黒猫のデジャヴュと、あのアナリストが。

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 「一言で要約させてもらうと、"バレットタイム"」

 「皮肉な話だろ。"君の力"で君を操る」

 アナリストは、時間を速くしたり遅くしたり、自在に操作してネオを翻弄する。

 この言い草、やはり、ジュードを操作していたのは彼なのだろう。また、ネオの救世主としての力を悪用し、他者を支配する彼の言動を、『マトリックス』のテーマやメッセージを(故意に)悪用し、デマやヘイトを拡散し、自己の利益を追求する(悪質な)陰謀論者の暗喩と見ることも、不可能ではない。

 騙されて、デマやヘイトの拡散に加担してしまう人の罪も重いが、(故意に)人を騙して、デマやヘイトの拡散に動員し、自己の利益だけを追求する悪質な陰謀論者は、ほんとうに最悪だと思う。

 (悪役らしく)滔々と計画を話し、謎の答え合わせをしてくれるアナリスト。

 「君には酷な話だが、君が苦しんで死のうが、世界は終わらない」

 『レボリューションズ』の終盤、ネオの自己犠牲の場面を目撃していたというアナリストは、二人の遺体を回収し、上("スーツ"と呼んでいる)に掛け合い、"再生"(レザレクション)の処置を施した(二人再生させるのは、かなりコスパとタイパの悪いことだったらしいが)。

 再生したネオは深い絶望の中にあり、使い物になる状態ではなかったという。

 「1人だけでは価値がない」

 トリニティを近くに置くことで、ネオは安定した。二人が触れ合うのは、(アナリスト的には)いろいろとまずいらしいので、付かず離れずの"ほどよい近さ"に保つことで、アナリストは二人を支配下に置くことに成功した。こうして、ネオとトリニティは再びマトリックスの中で、自由と尊厳を奪われたまま眠りにつくことになったのだ。

 これもまた、"自己犠牲"では全てを解決することはできないというメッセージの一つだろうか。死んでも解決しない。生きて戦い続けなければ。

 「私の前任者は正確さを好んだ。彼のマトリックスは実証と方程式ばかり。人間の心を嫌った。だから、フィクションが大事だと気づかなかった。君の大切な世界は全て、この中(頭)にある。君たち人間は無意味なものを好む。なぜか? 何がフィクションを現実に変える? 感情だよ」

 前任者というのはアーキテクトのことだろう。機械の世界で起きたという、電力不足による内戦の影響で失脚したのだろうか。約束を守る、(人間にとっては)いいやつだったが。

 ここでアナリストが言っているのは、おおむね、『レボリューションズ』終盤のスミスが言っていたのと同じようなことだ。何もかもが無意味だと突き付けられても、それでもなぜ、ネオは立ち上がり戦い続けるのか。"選択"したから。その選択の背後にあるのは、他者との愛と信頼だ。愛とか信頼とか、そういうものを引っくるめて、アナリストの語彙で表現すると「感情」というやや淡白な言葉になるのだろう。

 繰り返される支配構造の中で、ネオはその「感情」を力に変えることで、正しい選択をし、変えられないと思われたものを変えることに成功した(その事実はアイオの現状が示している)。救世主として、革命を成し遂げたのだ。アナリストは(恐ろしいことに)この仕組みを理解している。その仕組みを = 「感情」をハックすることで、支配のシステムを構築している。「感情」を操作する支配者、それがアナリストだ。

 「感情というやつは、事実より簡単に操れる。私のマトリックスは、君が苦しむほど君をよく操れる。君のエネルギーが増す。すごいだろ。就任以来、発電量を増やしてる」

 そう、彼がここまで大掛かりなことをするのは、ただ"発電量を増やす"ため。それだけ。数字を追いかけ回すことしか考えていない。数字のためなら、ネオとアーキテクトとの約束も平気で反故にするし、何より人間の感情を弄ぶことに何の躊躇もない。資本主義の権化だ。もちろん彼ら機械にとって、発電量を増やすのは、生存に関わる重要な事項であるのは確かだが、毎年増やし続ける(ネオの苦痛も増やし続ける)のは、ちょっと話が違う。

 適当なストーリー = フィクションを用意し、人間の「感情」を弄び、数字を追いかけ続ける。かつてのネオの物語(旧三部作)から得たヒントを、悪用する。そんなアナリストの悪役造形は、まさに、『マトリックス』のテーマやメッセージを(故意に)悪用し、デマやヘイトを拡散し、人々を騙し自らの利益のためだけに利用する、(悪質な)陰謀論者そのものだ。

 ほんとうに! ウォシャウスキーは! 悪役を描くのがうまい!

 「持っていないものに憧れ、失うことを恐れる」

 「人間の99.9%にとって、それが現実の定義だ」

 「欲望と恐怖だよ」

 「欲しいものをやればいい」

 名言だ。いちばん好きな悪役の台詞かもしれない。欲望と恐怖。確かに、と思う。だからこそ、僕たちはそこに抗っていかないといけない。

 人間(猿)の"知恵"を愚弄するように、リンゴの果実を銃弾で粉砕するアナリスト。なんとも憎らしい。

 「家に帰れ。恐ろしいことが起きる前に」

 再びマトリックスに戻るよう、ネオを脅迫し、姿を消すアナリスト。警官隊の襲撃を受け、一向は撤退を余儀なくされる。

「父が設計したポッドにネオとトリニティが」

 アイオに帰還したネオとムネモシュネのクルーたちは、ナイオビから叱責を受ける。かつてのザイオンの反省からか、革命の大義よりもアイオを守り、暮らしを豊かにすることを重視しているナイオビ。

 そこに"クジャク"が現れる。孔雀というより、足の生えたエイに見えるが。クジャクもまたシンシエント(人類に友好的な機械)のようだ。

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 クジャクを遣わし、ナイオビとネオを呼び出したのは"サティー"という女性。そう、『レボリューションズ』の序盤、駅でネオと出会い、交流したあの機械(プログラム)の一家の娘。ずっとネオ(アンダーソン)を見守ってきたというサティー。そのわけは、彼女の父親のしたことの贖罪のため。実はネオとトリニティを復活させたポッドは、彼女の父親が設計したのだ。

 ネオと、あの駅の一家との交流は、ネオが「機械にも愛が(感情が)ある」と理解し、やがて対話と停戦を"選択"するキッカケとなる、極めて重要な出来事であり、また現在の人間と機械との友好と共存の始まりを象徴するものでもある。あの日の、他者との繋がりが、いまも生き続けている。

 サティーの情報提供により、トリニティ救出の目処が立った。アイオの防衛を第一に考えていたナイオビだったが、その心の革命の炎は消えてはいない。考えを改め、ムネモシュネのクルーに救出作戦を説明し、志願者を募るナイオビ。決死の任務と知りながらも、全員が志願する。ずっとアイオを守り続けてきたナイオビのことを、信頼しているから、正しい選択をする強さを持っているのだ。優しく微笑み、感謝を告げるナイオビ。いい指導者だと思う。

「問題は彼女がそれを選択するか」

 人間、機械、プログラム。異なる出自の、同じ志を持つ仲間たちが、一丸となって支配に抵抗している。ザイオンでは考えられなかったことだ。

 サティーの計画は完璧。アナリストに反抗しポッドの設計図をサティーに送ったことで、彼女の両親は、アナリストに消されてしまっていたのだ。この作戦は、彼女の両親の弔い合戦でもある。

 作戦を成功させる最後のピースはトリニティ自身。彼女が何を望み、何を選択するのか。

「トリニティが憧れだった」

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 作戦開始前。船のクルーの一人、レクシーがネオに声をかける。トリニティのおかげでここにいると語る彼女は、トリニティが別人になっていたら? と懸念を吐露する。

 注意して見てみると、レクシーとバッグスはかなり距離が近い。親密、というか、愛し合っていると見るのが自然かも。トリニティに憧れていたレクシーが、バッグスを愛しているのも、バッグスとトリニティの適合度が高いことの証拠と言えるのでは。

「俺は救世主なんかじゃない」

 「でも、彼女は信じた。俺を信じた」

 「今度は俺が彼女を信じる」

 レクシーの問いに、ネオはこう答える。まさにこれこそが本作の核心だ。愛と信念が人を救世主にする。愛と信念が世界を革命する。その応酬。トリニティがしてくれたことを、今度はネオがするのだ。

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 ここからはもう、ノンストップで行くぞ!

 アナリストの待ち受ける、カフェ・シミュラッテにやってきたネオ。周囲を武装した警官隊が取り囲む中、ティファニー……もとい、トリニティとの対話が始まる。

「彼の人生最大の選択をするのは彼じゃない」

 アイオの仲間たちが見守る中、二人は席に着く。

 ネオは真実を告げる。心のどこかで、ずっとネオを待っていた気がすると言うトリニティ。しかし"遅すぎた"。ネオが、愛する人を再び喪うことを恐れて、現実から目を逸らし続けた時間は、トリニティの心を変えてしまうのに充分だった。"ティフ"を追って店内にやってきた彼女の家族たち。かなり露骨な(必死な)アナリストの妨害工作だが、効果は大きい。ティフは去り、ネオの敗北は決まった……かと思われた。

 取り押さえられるネオ。振り返るティフの手を強く引くチャド。「ティファニー、行くぞ」。彼女はグッと強く拳を握り締め、言う。「そんな名前で呼ぶのはやめて。その名前は嫌い」。

「私は、トリニティ。その手を離しなさい」

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 ついに覚醒! ボットの夫をねじ伏せ、ネオの名を叫ぶ。その声に呼応し、ネオも衝撃波を放ち警官隊を弾き飛ばした。しかしまた、時が止まる。アナリストの"バレット・タイム"だ。

 急ぎすぎた(ほんとにね)、近ごろの女は手強い(やかましい)と冗談めかして語るアナリスト。「君たちを自由の身にするわけがない」と約束を反故にし、再び二人を自らの支配下(マトリックス)に置こうとする。そこへ……。

「ウソ、ウソ、ウソ」

 スミスの登場。"バレット・タイム"に、完全に適応している(そりゃ誰よりも多くネオと戦ってるもんね)。プログラムが泣くぞ(吹替版だと「プログラムを信用できないとは世界も終わりだ」)とアナリストを非難する。わかる。最近よく嘘つくよね、AIも。

 ネオとの腐れ縁(結び付き)を理解し、受容しているスミスは、ネオを守るためアナリストを殴り飛ばす。実にナイスな援軍だが、これもまた、彼自身の自由と尊厳を守るための、言わば本能的な行動であり"選択"とは違う。結果的には人を助けているのだが。

 カフェは戦場と化した。殴り飛ばされたアナリストは、黒猫のデジャヴュに手を伸ばす。マトリックスの書き換えに関わる、重要な存在なのだろうか。行手を阻むスミス。

 作用(ネオ)と反作用(スミス)。ネオと同等の強さとネオ以上の厄介な性格を持つスミスの介入を、少しも想定していなかったのなら、アナリストの計画は詰めが甘すぎると言わざるを得ない。

 同時に、トリニティの"取り出し"も進行していく。ポッドから救出され、もはや後顧の憂いは無い。ネオとトリニティは、かつて(旧三部作)の日々と同じように、互いに駆け寄ると、手を伸ばし合う。二人の手が触れ合った瞬間、まばゆい閃光と共に強烈な衝撃波が発生し、周囲の敵は一斉に吹き飛んだ。愛の奇跡だ。

 「まだ終わってない」と捨て台詞を吐くアナリストの脳天をぶち抜くスミス。予定外の協力は終了。

 「私と君の違いは…」

 「誰でも君になれるが、私は誰にでもなれる」

 そう言い残し、スミスは姿を消した。

 確かに、愛と信念の"選択"の果てに、救世主として覚醒する可能性は、万人にある。僕にもあなたにも。その意味でネオは特別な存在ではない。ただ、一人の人間だ。しかし、ほんとうは、ひとりひとりの人間が全員特別なのだ。誰にでもなれるがゆえに、何者にもなれないスミスとは違って。

 支配のシステム、構造を変えていくためには、ネオの"選択"(愛や信念が導く正しい行い)(希望を信じ平和的な対話を試みること)が何より欠かせない。しかし『レボリューションズ』で、デウス・エクス・マキナとネオとの対話が成立した背景には、スミスによるマトリックスの"破壊"があったことも否定できない事実だ。ネオとスミス、二人で革命を成功させたと言ってもいい。正しい"選択"と、"破壊"。決して交わることは無くとも、しかしきっと、どちらも"革命"には必要不可欠な要素なのだろう。

「まだ飛べない?」

 消える直前、スウォーム(ボットの暴走)を起動していたアナリスト。無数のボットがネオとトリニティ、ムネモシュネのクルーたちを襲う。

 陰謀論者の手先のボット。ほんとよくできてる。

 飛行を試すネオだったが、その場でぴょーんと跳ねるだけ。思わずトリニティも目を逸らす。今作でいちばん"かわいい"場面だ。超人のパワーを持ちながら、しかし誰よりも苦悩し、最愛の人・トリニティのことをずっと考えている。旧三部作の頃から、僕はそんなネオの"人間らしいところ"が好きだ。

「ネオ! 乗って」

 トリニティの駆るバイクにしがみつき、共に逃げるネオ。ついに二人の逃避行が始まった。トリニティの予知夢の内容をなぞるような展開。

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 両手から衝撃波を放ち、押し寄せるボットの群衆を吹き飛ばしたり、銃弾を押し留めたりしながら、トリニティと共に逃走するネオ。銃は使わない。ほとんど殺しもしていない。かつて「銃をくれ。どっさりと」("Guns. Lots of Guns.")という名言を残した、アクション・ヒーローの変節っぷり。本作『レザレクションズ』を、派手なアクション・シークエンスが無いと批判する人の気持ちもわかる(旧三部作が凄すぎた)が、このネオの変節もまた、本作のテーマを象徴する重要な描写のひとつだ。もう、殺し合いで自由を勝ち取る時代ではない、ということが言いたいのだろう。

 それに、変節と言うものの、もともと救世主のネオってこういうやつだったとも思う。救世主の能力は、敵対者に銃弾をぶち込むパワーではない。飛んできた銃弾を避けたり、止めたりするパワーのこと、だったはずだ。構造の破壊でなく、改変または超越。宿敵・スミスにさえ自由を与えるのが、救世主・ネオだ。

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 追い込まれ、高層ビルの屋上へと逃げ込む二人を、ヘリが襲う。必死に抵抗するも、爆発に巻き込まれ、ついに二人は倒れる。

「きれい」

 マトリックスに朝日が昇る。偽物の太陽。しかし、立ち上がったトリニティはその輝きを見て「きれい」と溢す。彼女は現存する人類で、ただひとり本物の(現実の)太陽を目撃した人物。この場面は、かつてのマシンシティの展開を再演する(この映画はやたらと"再演"を多用している)ことで、その後に待つ悲劇の再演をも予感させる、そんな効果を持つ以上に、"極めて重大な意味"を含有しているように思う。

 マトリックス(虚構)は「きれい」なのだ。現実の、本物の太陽をその目で見たトリニティ本人がそう言うのだから、間違いない。虚構から覚醒する(目覚める)ことを啓蒙し続けてきた『マトリックス』シリーズによる、最大限の"虚構の肯定"と言える。現実と虚構は等しく美しいのだ。

 かつてのスミスやアナリストの言うように、人間は虚構によって形作られている生き物だ。愛も信念も、マトリックスと同じ"作りもの"かもしれない。しかしその虚構は人を強くする。虚構の力で現実を変える。そう、虚構には現実を変えるだけの、強力なパワーがあって、結局は、その力をどう使うかの問題なのだ。虚構と現実は相互補完の関係にあり……その意味で、両者の区別は大した意味を持たない。

 ウォシャウスキー姉妹の創造した『マトリックス』という虚構は、世界を(現実を)変えた。

 『マトリックス』のストーリーに救済され、人生を好転させた人もいるだろうし、一方で(アナリストのように)、『マトリックス』のストーリーを悪用する陰謀論者も存在する。虚構、それ自体が悪ではない。現実もまた然り。現実か、虚構か。『マトリックス』を象徴してきた二項対立の問いは、この瞬間、本当の意味で、その役割を終えた(『レボリューションズ』の時点で、既に示唆されていたことではあった)。

 昇華された、と言うべきか。虚構のもたらす絶大なパワーを正しくコントロールしていくためのカギは、やはり愛と信念の"選択"なのだろう。

 虚構の"夜明け"だ。その光は「きれい」だからこそ人を生かし、「きれい」だからこそ人を殺す。

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 見つめ合い、口付けを交わす二人。互いの手を強く握り(愛と信念だ)、駆け出していく(テルマ&ルイーズ的でもある)。果たして、飛べるのか……?

 『テルルイ』の流れを汲む『バウンド』から数十年経ち、改めて『テルルイ』を想起させる展開を描いてみせる。感慨深いものがある。

「俺じゃない。君なのか?」

 落下していくネオ……を、トリニティが持ち上げている。飛んでいる。そう、今回、愛と信念の"選択"によって、選び選ばれ、救世主となったのはトリニティだったのだ。

 旧三部作、とりわけ一作目の展開を丁寧になぞり(語り直し)つつ、役割を反転させることで、シリーズのメッセージは、より広く、深く、新しくなった。

 優れた続編は、往々にして、過去作の評価をも押し上げるもの。(少なくとも僕にとっては)本作もそうだ。正直、かつて(旧三部作)のトリニティの表象には不満があった。心境の変化の描写が不足している、というかそもそも、いつネオを好きになったのか、よくわからない。ただ、本作のこの結末は、そんな不満を吹き飛ばし、なんなら全てはこの結末(トリニティの救世主としての覚醒)のためにあったのではないか、『マトリックス』とはトリニティのための物語だったのではないか、と思わせるほどの、情緒的なパワーを持っている。大袈裟かもしれないが、そう思いたくもなるくらいの、感動的な展開だ(このブログは感想を言うためのものではないので、あんまり情緒とか感動とかの話をしたくはないのだが)(しかし、虚構が人の感情を揺さぶり、現実を変えるほどの強烈なパワーを発揮するキッカケとなるのは、事実だ。そのことは、他ならぬ『マトリックス』が証明してきた)。

 覚醒したトリニティは、ネオと共にマトリックスを脱出。ついに、二人は現実で再会を果たす。ふたたび終わりなき"支配のシステム"との戦いへと身を投じることになるわけだが、愛し合う二人の胸中は、希望に満ちていることだろう。

「実にドラマティックだ」

 自室で優雅に茶を啜るアナリスト。その壁をド派手にぶち抜いて、天空からトリニティが降り立った。「"ティファニー"?」と名前の意味を問いただす彼女に、「ふざけただけさ」と返すアナリストのニヤケ面が、即座にトリニティ渾身の蹴りによって粉砕されたのは言うまでもない。アゴが外れるくらい……では、ちょっと済まないな。

 「嫌いな名前にしては、従順なメス犬だったな」

 と悪態をつけば喉を掻っ切られ(いつの間にか黒猫のデジャヴュを抱っこしているネオも「そのくらいは当然」と擁護)、

 「よく躾(しつ)けとけ」

 とネオに非難の矛先を向ける(女性を家畜扱いする)と、顔面を引っ叩かれ、壁に叩きつけられる。

 もう何も言わなきゃいいのに……。

 黒猫のデジャヴュを抱っこしている、ということはつまり、このマトリックスという構造 = システムを作り替えるためのパワー、その主導権を、ネオが掌握していることを意味している。

 座り直し、なおも悪態をつき続けるアナリスト。

 「システムを知ってる。人間を知ってる。君たちのことも」「好きにやればいい。この世界を作り直せ」

 「空を虹で彩れ」

「だが忘れるな。"羊のような人々"(シープル)はなくならない。この世界が好きだ」

 「こんな感傷は望まない。自由も権利も求めない。従順で支配されたい。慰めと安心が欲しい」

 「君たちもポッドの中で、孤独な眠りに戻ることになる。彼らのように」

 アナリストの語る"人間"。サイファー問題。確かに世の中を見ていると、そういう人間が大多数を占めるのではないかと思うこともある。心が折れそうになることも。しかし、そんなアナリストの言葉に、ネオとトリニティは笑顔を返す。

 ネオ「交渉に来たんじゃない」

 トリニティ「作り直しに行くとこ」

 ネオ「少し手を入れる」

 トリニティ「空を虹で彩るのはステキ」

 ネオ「自由な心を思い出させる」

 トリニティ「すぐ忘れちゃう」

 ネオ「彼のせいだ」

 トリニティ「ほんと」

 ネオ「よく考えてもらおう」

 これが、(現時点での)『マトリックス』シリーズの出した結論だ。構造(システム)を作り直す。破壊するのではなく、少しだけ手を入れる。例えば、空を虹で彩るような。"羊のような人々"(シープル)が、忘れてしまいがちな"自由な心"を思い出せるよう。そして、そんな彼らを騙して利用する陰謀論者・資本主義者とは、冷静に対峙していく。殺し合いではなく。向こうが"物語"を悪用し、人々の"感情"を操作するのなら、こちらも"物語"を語り続ける(語り直し続ける)。

 現実と虚構は、二項対立(バイナリー)の関係にあるものではない。人は、現実を基に虚構を作り、虚構を糧に現実を生きる。両者は、相互補完の関係にある。

 なにも、過去の戦いの全てが無意味だったわけではない。過去の犠牲があるから、今がある。ただ、人の世が続く限り、"支配のシステム"もまた、形を変えて存在し続ける。人は変わる。社会も変わる。卵が先か、鶏が先かは置いておくとして(こちらも相互補完の関係にあるのだと思う)、支配のシステムが変わりゆくのなら、人の戦いも変わりゆく。現代の戦場は、虚構の中だ。

 「始める前にお礼を言いに来たの。諦めてたものが手に入った。二度目のチャンス」

 と、アナリストに告げ、トリニティはネオと共に、ふたたび天空へと飛び立っていく。飛び交う鳥の群れ(繰り返しの象徴)を蹴散らしながら。その表情からは、愛する人と共にある喜びと、強い決意を感じ取ることができる。こうして、『マトリックス』の物語は現代に復活した。形を変えて、戦いは続く。

まとめ

"支配のシステム"との戦い。その最前線。

 さて、やはり素晴らしい映画だった。ここからは、猛スピードでまとめに入る(はてなブログは三万字を超えるとバグる)(もう二万五千字を突破している)。

主人公

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 「私は、トリニティ。その手を離しなさい」

 まずトリニティの話から。「自分が何者かは自分で決める」(自己決定権)という、ウォシャウスキー作品の根幹を最も体現する存在だった。覚醒場面のアツいこと。フェミニズムの文脈も乗っかり、より現代的で、後述の"敵"に対するカウンターとして機能する、見事な描写だった。"復活"してよかったことの筆頭と言える。彼女を覚醒へと導くのがゲーム(虚構)というのもいい。虚構は武器だ。使い方次第で、現実を良くすることも悪くすることもできる。

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 「でも、彼女は信じた。俺を信じた」

 対照的に、今作のネオは選ぶ側ではなく「選ばれる側」だ。愛し愛され、信じ信じられ、彼は戦う。愛と信頼(信念)の応酬。まさにそこが、ネオとスミス(構造の"改善"と"破壊")の最大の違いであり、アナリスト(陰謀論者)と対峙していくための、武器となる要素と言えるだろう。自己決定権は、極めて重要なものだ。ただ、他者との情緒的な繋がり(愛や信頼)のない自己決定は、あまねく他者と社会(構造)を破壊してしまう恐れがある。ときには、その破壊も必要なのだが。

 だから本作はスミスのことも否定しない。

 トリニティとネオの二人は、最後に、マトリックスという構造を作り替えていく(改善していく)と、宣言していた。空を虹で彩る。これはまんま、レインボーフラッグの文脈で理解すべき描写だろう。もともとのザイオンからしてそういう読解はいくらでも成立しただろうが、アイオの人々の描写は、かなりクィア表象に満ちている。

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 「あなたのおかげで全てが変わった」

 アイオは希望だ。かつて(旧三部作)の戦いと犠牲は、無駄ではなかった。愛と信念の、正しい"選択"を繰り返すことで、ネオは変えられないと思われたものを変えたのだ。少しずつでも、構造は変えていける。人も、世界も。むろん、変わったら変わったで、また新たな問題はいくらでも発生するのだが、しかしマシになったことが、多くあるのも事実。支配のシステムとの終わりなき戦いは、無意味な繰り返しのマラソンゲームなどでは、断じてないのだ。希望のメッセージとしか言いようがない。

 現実の現代においても、女性や性的マイノリティを取り巻く環境は、過去(たとえば90年代)と比較して、よくなっていることもあれば、悪くなっていることもあろう。先人たちの流血には敬意を。ただ、現代には現代を支配する構造があり、現代を生きる人間たちは、現代の戦い方をしていく必要がある。ザイオンのように、時代の変化を認めず、闘争に固執していてはいけないのだ。

 このように、今作はバランス感覚に優れている印象を強く受ける。二項対立の超越はマトリックスだからこそ、と言えるか。結末も同じ。アナリストに挨拶をするネオとトリニティ。ある意味で"宣戦布告"だが、その趣旨は、"感謝"であった。どっちも、だと思う。支配のシステムと対峙しつつ、目の前にある幸福を、ひとりひとりの人間として尊び、享受する。または、自分らしく幸福に生きていくことで支配に抵抗する。かなりジュピター的な、"ミクロ"な情緒と、クラウドアトラス的な、"マクロ"な視点とが、共存している。いいとこ取りの、素晴らしいバランス感覚だ。

 選択の先の現在の幸福を尊ぶのはスピードレーサー的でもある。

 個人の幸福と革命の大義の天秤が、極めてちょうどいいバランスで釣り合っている。だから僕は、本作を愛しているのかも。

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 「持っていないものに憧れ、失うことを恐れる」

 「人間の99.9%にとって、それが現実の定義だ」

 なんと言ってもアナリスト。実に見事な悪役っぷりであった。彼の表象こそ、本作の白眉。現代の社会、そして現代の『マトリックス』という作品が直面している深刻な問題を象徴する存在だ。つまり陰謀論。

 インセルでミソジニストで、自覚アリの陰謀論者。『マトリックス』のテーマやメッセージを悪用し、人々の感情を"欲望と恐怖"で支配する存在。その動機に思想はない。ただ、資本主義のゲームでより多くのパイを獲得することだけを考えている。我らの生きる社会にも(残念ながら)ありふれているクソ野郎だ。日々増えている。

 数多くの素晴らしいヴィランを世に送り出してきたウォシャウスキー姉妹のキャリアの中でも、史上最も素晴らしい悪役造形だ、と僕は思う。現実とのリンクっぷりが凄すぎる。うますぎる。興奮する。

 もうさんざ語ったので、アナリストについてはこのくらいで。

支配のシステム

 アナリストはマトリックスの支配者(管理者)だが、支配のシステムそのものではない。コスパ至上主義者である彼は、そういう意味で資本主義者のメタファーとして(作劇上)機能しているわけだが、より根本的な話をすると、"発電"すなわち機械たちの生存そのものを保障することが、彼の目的であり使命であった、と言える。生きていくこと、それ自体が支配を生む。

 ナイオビが語るように、かつては"戦争"が、全てを支配していた(いまなお、その脅威は去っていないが)(本作の公開は2021年なので、ね)。しかし、いま現在マトリックスを支配するアナリストは戦争をもたらす者ではない。戦争をする必要がない。マトリックスを出て行こうとする者がいないのだから。

 「"羊のような人々"(シープル)はなくならない」

 人間たちが自ら、支配されることを望む。これまでの監督作品で何度も描かれたように、やはり"人間"が全ての支配の根源なのか。アナリストが"虚構"を利用し、人間たちの"感情"を自在に操作 = 欲望と恐怖をコントロールして、人間たちが自ら支配されることを望むよう、誘導していく。支配の根源である"人間の感情"を操り、支配を構築する"虚構" = 陰謀論こそが、本作の支配のシステムではないか。

 クラウドアトラスの悪魔(ヒューゴ・ウィーヴィング)の描写も、要はそういうことを言おうとしていたわけだ。人間の感情が全ての支配の根源であると。

 人間が人間であること、機械が機械であること……それ自体が支配を生むのなら、我ら、生きとし生けるものが支配から完全に逃れることは不可能だ。ただ、その支配はシステムによって、ある程度コントロールが可能となっている。支配を生み出す"人間の感情"、それを操作する"虚構"こそが、支配を制御するためのハンドル、つまり支配のシステムだ。私腹を肥やそうと陰謀論という"虚構"で、より悪辣な支配をもたらす者がいる一方、愛と信念の"選択"の物語 = "虚構"を語り継ぐ、語り直すことで、変わりゆく支配の在り方に抵抗し、自由を伝え続けることもできる。より良い支配の形へ、作り替えることができるのだ。支配そのものを打ち倒すことはできない。しかし、マシな支配へと変えていくことはできる。ぜったいにできる。

 ネオとトリニティは"復活"を果たした。今度の戦場は"虚構"の中だ。虚構をより良いものへと作り替えることで、現実を生きる人々の心に自由を思い出させる戦い。それは、本当の現実を生きるウォシャウスキー姉妹の戦いでもある。陰謀論者に悪用されてしまった物語を、奪い返し、作り直す。空を虹で彩る。

 "虚構"が世界を悪くする時代だからこそ、"虚構"で世界を良くするための戦いを、繰り広げていくのだ。僕のブログが、その助けになっていればよいのだが。

 その戦いは暴力によるものではなく、愛する人と共に天空を舞いながら、空を虹で彩るような、美しく尊いものであっていい。流血だけが戦いではない。人の感情をめぐる戦いなのだから。

革命は続く。全ての人の、日々の中で。

 これまでの積み重ねてきたテーマ、進化させてきたメッセージの全てが、この一本に、見事に集約されている。現代の現実の社会に根差した、完璧なバランスに仕上げられている。のに、評価が低いのは、残念なことだ。しかしこれは、まだまだ進化する余地があるということ。もっと広くもっと深く、全ての人に届く虚構を目指し、ウォシャウスキー姉妹の進化は続いていくことだろう。本作も、その変遷の一部となった。

 『マトリックス レザレクションズ』は、誰のための物語か。女性、性的マイノリティ、あるいは陰謀論者に向けて。もしくは、ウォシャウスキー姉妹自身のために。答えは一つではないだろう。この戦いは、『マトリックス』を取り戻すための戦いだった。まだ道半ばだが、次なる虚構の戦いがあるとするならば、それはきっと、より多くの、"全ての人たち"に向けた物語となることを、僕は期待している。彼女らは進化し続ける作り手なのだから。

 やっぱり上手くまとめられた気がしないが、まぁ、一旦、こんなもんで。どうせ支配のシステムとの戦いは続いていく。形を変えて。せっかくなら、映画でも観ながら、楽しんで行こう。

 全ては無駄ではない。変えられるのだ。何だって。

落下のアクシズ - 『落下の王国』と『逆襲のシャア』は同じことをしている -

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 実質、同じ映画である(暴論)。

まえがき

 2025年12月現在、全国の劇場で再上映が行われている映画『落下の王国』。友人のオールタイムベストであり、評判も良いし、何より貴重な機会(本作は、どこにも配信されていない)なので、僕も鑑賞した。

 前評判に違わず、良い映画であった。面白い。よく出来ている。感動して、泣きそうにもなった。ただ、感想を書くのが難しい……。

 僕は初見の映画は、必ずきちんとした(自分の納得するクオリティの)感想を書くという"縛り"を、自らに科している。そうでないと、僕は"映画好き"であることができない、という強迫観念に近いものがある。

 なので、困った。感想が書けないのは、僕の自我に直結する問題だ。書けないと言っても、先述したように、映画は面白いし感動もしたので、感想自体は存在するのだ。ただ、それを言語化しようとすると、どうしても"ポエミー"になってしまうように思われた。

 ポエミーな、つまり詩的な感想がいけないとは言わない。特に今作のような観客に不思議な(現実と空想の溶け合うような)感覚を与える映画の感想は、詩的であることから逃れられないと言ってもいいかもしれない。ただ、僕はあんまり、そういう感想を書きたいとは思わない。良し悪しの問題ではなく、こだわりの問題として。なるべく、こう、ソリッドな感想を書きたいと思っている。自分で言ってて恥ずかしいけど。

 抽象的でなく、より具体的な。自分がどう感じたかも大事だが、それだけでなく、この映画は観客に何を伝えようとしていて、実際、何を表現しているのか。この映画の持つ"意味"とは。みたいな。

 これまでも、なるべく、そういう感想を書いてきたつもりだし、今回のような"自我に直結する問題"も、何度となく経験し、なんやかんや乗り越えてきた。

 今回も同じだ。僕は今作を、メンタルヘルスケアの文脈から解釈することで、なんとかソリッドな感想を紡ぎ出そうとしていた。そうすることで、"裏切りのサーモン"というソリッドなペルソナを守ろうと。

 だが、そのはずは、『落下の王国』の翌日に別の友人と鑑賞した『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』によって破壊された。や、破壊は言い過ぎで、僕はいまでもソリッドでいたいと思っているが、しかし揺らぎは生じた。大事な揺らぎだ。

 僕はガンダムは今年の『ジークアクス』から入ったクチで、他のシリーズ作品は未見。ネット・ミームのおかげで、いくらかのネタは把握しているというカスっぷりだが、友人は僕にシャアを見せたいらしく、僕も確かに興味はあるので、未見なりに観てみることにしたのだ。いわゆる『逆シャア』を。

 何があったか。僕は『逆シャア』と『落下の王国』との間に、奇妙な、しかし、強固な類似点を認めた。両者は同じ話を、別角度からしている。そう思った。『逆シャア』という補助線を得たことで、どこかふわふわしていた『落下の王国』の輪郭が、途端に明確なものとなり、同時に『落下の王国』と『逆シャア』のシルエットが重なることで、両者のメッセージが響き合い、相乗効果でより感動するようになった。

 その感動を共有するためのブログである。

 もう既にそうだが、今回の記事は『落下の王国』のロイとアレクサンドリアの作り話のように、その場の思いつきで、ぐだぐだと語っていこうと思っている。徒然なるままに。ソリッドでない、ふわふわしたものをふわふわしたまま愛するような気持ちを、ちょっと持ってみようかと。きちんと文章を推敲することを、怠るための言い訳だが、ハッピーエンドにしろバッドエンドにしろ、うまい具合に転がって、僕と僕の記事を読んでいるあなたの心が、解放と救済へと導かれるよう祈りたい。そういう旅路である。

【警告】ここから先、『落下の王国』と『逆シャア』のネタバレがふんだんに含まれております。

どこが"同じ"なのか

 早速、核心に迫ろうと思う。両作品の類似点とは、いったい何か。それは"自暴自棄に陥った男の、他者を巻き込んだ自殺を、愛 = 人の心の光によって阻止しようとする、希望と絶望、光と闇の対決である"ということ。要するに、『落下の王国』も『逆シャア』も"男の自殺を止めようとする話"なのだ。

 『落下』の終盤、ロイとアレクサンドリアの作り話は佳境を迎える。ハッピーエンドかバッドエンドか。黒山賊 = ロイ(アレクサンドリアの父親も重ねられている)は生きるのか死ぬのか。死(バッドエンド)を望むロイ。彼の生存(ハッピーエンド)を、泣いて懇願するアレクサンドリア。僕も泣きそうになった場面だ。

 生と死の対立。破滅的な結末へと向かう人の心を、なんとか食い止めようとする愛の抵抗。人の心の光と闇の衝突である。そう、それは"落下"するアクシズをなんとか食い止めようと足掻く、アムロと同じ。

 このように『落下』と『逆シャア』は終盤の展開を共有している。結末の意味合い(メッセージの内容と、その響き方)は大きく異なるが、クライマックスが同じということは、物語の構造そのものをかなりの部分、共有しているということだ。

『落下の王国』の構造

 まずは、『落下』の物語の構造から考えてみよう。ロイは自殺願望、破滅願望を持つ青年である。怪我のせいか、失恋のせいか。なんにせよ彼は、同じ病院のアレクサンドリアという少女を作り話によって懐柔し(動けない自分に代わって)モルヒネを持って来させ、自殺しようとしていた。自暴自棄に陥った男の、他者を巻き込んだ自殺だ。

 少女を懐柔することだけが目的の、即席のテキトーな(グダグダな)作り話。しかし、父親を喪った少女と恋人を失った青年、つまり心に深い喪失の傷を負った二人の心が、"物語る"という行為によって溶け合い、混じり合い、結果的に、その営為は"ケア"の機能を、果たしていくことになる。箱庭療法を想起させる。

 また、その物語は"映画"という技術、表現を介してわれわれ観客にも共有される。われわれの心も彼らと溶け合い、混ざり合っていくような感覚を味わうことになる。本作の(作り手たちの)大きな狙いは、まさにそこにあるように思う。だからこそ、私たちは本作を観て泣き、癒される。"物語ることそのものの讃歌"として、本作を受容している人も多いことだろう。

f:id:traitor_salmon:20251205145617j:image中央の男が"作り話"の主人公格である、黒山賊。赤くて、仮面を付けている。実質、シャア・アズナブルだ。または袖がないので、クワトロ・バジーナかもしれない。ロイが"物語"を通して自己を投影した姿であり、アレクサンドリアの亡き父親の肖像でもある。

仮面を付けるのは、なにか事情があって"本当の自分"を曝け出すことができないからだ。他人に"本当の自分"を見せられないのか、あるいは自分が"本当の自分"を見つめられないのか。

 ロイとアレクサンドリアは、現実の喪失の痛みを、物語という別次元のレイヤーへと移すことで、受容を試みた。とてもじゃないが、そのままでは受け入れることができない厳しい現実を、別次元(嘘の世界)へと移送し、自らの語りによって再演することで、時間をかけて、その受容を果たしていく。喪失の受容のプロセスこそ、ケアの本質である、と言ってもいいかも。

 ロイとアレクサンドリア(そしてわれわれ観客)は、"物語"という魔法を(映画という技術を)介して、自らの、そして相手の心の傷を認め合い、相互理解を果たした。これはガンダムシリーズにおける、ニュータイプ論に通じるものがある、ように思う。僕自身はニュータイプ論に明るくないので、下手な言及は避けたいが、要は、相互理解のために(あるいは、分かり合えないことを分かるために)想像力が大事だ、的なことだと思う。違う? 違ったらごめん。

 "相互理解のための想像力"を養うために、われわれの生きる現実世界で重要となってくるのが、まさに"創作"との付き合い方だ。『落下』はそういう話をしている。そういう意味でもガンダム的だ。ガンダムにおける、ニュータイプという"魔法"の役割を、本作『落下』では"物語"が果たしているのだ。

 ロイとアレクサンドリアの作り話は、結局、極めて都合の良い無茶苦茶なハッピーエンドを迎えて終わる。もともと都合の良い無茶苦茶な物語ではあったが。こうしてロイは自殺を取りやめ、彼ら二人の心はいくらかの安らぎを得るわけだが、この結末は何も「バッドエンドはダメ。ハッピーエンドこそ最高」といった軽薄なメッセージを意味するものではない。

 仲間が次々に殺されていくという、喪失のプロセス(現実の痛みの再演)を踏むことこそが、何よりも大事だったのだ。自分は傷付いているのだと自覚することが。彼らの空想の旅路、その全てに意味があった。

 僕は基本的に、都合の良いハッピーエンドを嫌う側の人間で、そうやって現実の痛みを軽んじ、何の役にも立たない気休めを言うことは、人々の目を現実から逸らさせる"毒"だと思うからだ。しかし本作のそれは違った。現実の痛みと極めて誠実に向き合った結果の、都合の良過ぎる、嘘みたいな(まぁ、嘘なんだが)ハッピーエンド。喝采せずにはいられない。

 つまり、アムロの言う

世界に人の心の光を見せなけりゃならない

 ということ。そのためのハッピーエンド。作り手の"祈り"が込められている、と解釈してもいい。

 そして、この結末の意味合いこそが、基本的な構造の多くを共有する『落下』と『逆シャア』の最大の"相違点"となっている。両作品は同じ話をしているものの、最後は全然違うところへと辿り着くのだ。

どこが"違う"のか

 これもまた端的に言ってしまおう。『落下』が自殺を取りやめて二人とも生きていくお話なのに対し、『逆シャア』は二人で死ぬ(心中する)お話なのだ。や、公式には生死不明扱いなので、もしかしたら生きているかもしれないし、ゼクノヴァの向こう側に行ったのかもしれないが。ここでは死んだこととする。

『逆襲のシャア』の構造

 僕は『機動戦士ガンダム』アニメ本編を観ていない(続編のZもZZも)ので、ここから先の、僕のアムロやシャアに関する発言は、かなーりテキトーであることをわかっていてほしい。ジークアクスと逆シャアだけ観て、なんか知った気になっている、にわかの戯言に過ぎないと。はい、予防線おわり。

 そもそもテキトーな物言いをするのが、記事の趣旨ですし。

 母親になってくれるかもしれなかった女性を亡くしたり、いろいろあり、メビウスの輪から抜け出せないことに嫌気が差したシャアは、地球にいっぱい隕石を落とすという暴挙に出る。宇宙難民の救済とか、地球人類の粛清とか、いろいろもっともらしい理屈はある(ので、多くの人がついてきてしまうのだ)が、作中のシャアの言動を追っていると、アムロが自分を殺しに来るのを待っているようにしか見えない。自暴自棄に陥った男の、他者を巻き込んだ自殺だ。

 地球へと"落下"を始めるアクシズ、そしてシャア。どう考えても無理なのだが、それでも、"落下"を止めようと足掻くアムロ。泣ける所だ。生と死。光と闇。希望と絶望……。人の世のエゴ、その全てを背負った男たちの、最後の対決。あらゆる要素、文脈が一点へと収束していく、クライマックス。すごい場面だ。

 最終的には、なんか、アムロの恋人の、チェーン・アギさんの遺志とサイコフレームが、なんやかんやし、愛の奇跡が起きて、世界は救われる。"人の心の光"が地球を包み、アムロとシャアは、その光と共に消えていく。都合の良いハッピーエンド……と言っていいのか。なんとも絶妙な後味を残す結末である。

シャア・アズナブル - 仮面の道化 -

 映画『逆シャア』について考えるためには、アムロとシャアの対比、もとい、シャア・アズナブルという男のことを、まずは考えなければならない。よって、日本アニメ史上おそらく最も語られてきたであろう男のことを、僕も語ることにする。

 なぜ彼は『逆シャア』において、手の込んだ自殺を(あるいは心中を)試みたのか。その答えは、彼が(自ら認める通りの)"道化"であり、(僕の言葉で表すとするなら)"仮面の怪物"であるからだ。説明しよう。

 道化というか、芸人である。実際シャアを理解するときは、彼は芸人なのだと考えると、腑に落ちることが多くある。才能のある芸人だ。彼がニュータイプであることとも関係があるのかもしれないが。

 「こうしたらウケるだろうなぁ」が直観的にわかるのだろう。そしてそれがわかる以上(できる以上)は、実行しないわけにはいかない。芸人だから。そんで、ウケてしまう。

 『逆シャア』劇中でも、彼の芸人っぷりは遺憾無く発揮されている。民衆を熱狂させ、兵士を奮起させる魅力的な演説を、彼は呼吸するようにできてしまう。クェスが求める"父親"の役割も、シャアは、瞬きするのと同じように果たせてしまうのだ。

 このように周囲が求める"シャア像"を完璧に演じることができてしまうのは、まさに彼の才能と言うより他ない。芸人向きだし、指導者向きだ。コメディアン出身で大統領になった人物がいるように。高度な皮肉と冗談で何処ぞの総統を痛烈に批判したコメディアンが、昔いたように。

 問題は、そこに彼の意志がないことだ。呼吸や瞬きに意志がないのと同様に。つまり、できてしまうのではなく、してしまう。ほとんど無意識のうちに、彼は「ウケること」をやってしまうのだ。芸人だから。

 事実、彼は政治的なやり取りをしている間ちっとも楽しそうではないし、何よりいちばん恐ろしいのは、自分がクェスの"父親"を演じることで、利用していたのを、アムロに指摘されて初めて

そうか……。クェスは"父親"を求めていたのか。それで、それを私は迷惑に感じて、クェスをマシーンにしたんだな。

 と気付くところ。ここ、ほんとこわい。自分のことなのに、ものすごく他人みたいな言い方をしている。なんという無意識、無自覚。そして自己の意志、感情に対する無関心、無配慮。ここに至るまで、ずっと、彼は自分が何を思い、何を望んでいたのか、よくわかっていなかったのだ。わからないまま、こんなことをしている。もっとも、それらしい理屈自体は存在している。宇宙難民の救済だとか、地球人類の粛清だとか。それも別に嘘ではないのだろうが、本音でもないだろう。本音は、彼の遺言でもある"ララァ"のことだ。ララァと、アムロと、自分のこと。10年以上前のそれをずっと引きずっている。その事実を彼は自覚できずに(認められずに)いる。だからもっともらしい理屈を後付けで用意して、納得した気になっている。本音を作ってしまったのだ。まったく道化である。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。それは、彼が"仮面"の男だからだ。僕はよく知らないが、彼はどうも特異な生まれ育ちをしているらしく、"仮面"で自己を偽ることで、自分を守り、生き抜いてきたのだという。そのせいだろう。いつしか彼は、仮面を外せなくなってしまっていた。シャア・アズナブルという仮面。クワトロ・バジーナという仮面。そして、キャスバル・レム・ダイクンという仮面……。そう、外せなくなった仮面は、やがて溶け出し、素顔との境界を無くしてしまった。『逆シャア』の彼は、珍しく素顔だが、その素顔も既に"仮面"と化してしまっているのだ。だからもう、物理的な"仮面"に頼る必要がない。とうとう彼は、完全に自らの"本音"と"建前"との判別がつかない怪物と成り果ててしまったのだ。悲劇だ。

 そんな、自分の気持ちを何もわからないシャアさんだが、しかし、彼自身が自覚していようといまいと、彼はララァの件で傷付いていたし、そのことをずっと引きずっていた(別に引きずってていいんだよ)。心はバランスを求める。なんとかして、あのときの決着をつけたい。この痛みの意味を、正体を理解して、受容したい。そんな、言わば"心の防衛機構"が、無意識の領域からシャアの意識に働きかけたのだろうか。彼は自分でも正体のわからない(わかっていても認めたくない)衝動に突き動かされ、こんなとんでもないことをしでかしたのだ。全てはアムロと全力で戦うため。この物語は、シャアが、ララァを"喪失"したあの日の"再演"をやるためのものだった。アムロと殺し合いをし、あの日を再現すれば、この痛みの意味がわかると、無意識がシャアに告げたのだ。

 結局のところ、"無意識"の言うことは正しかった。シャアはアムロと激突し、まさに息を引き取る直前、ようやく自分の本音を理解し、言葉にすることに成功した。ララァ・スンは彼の母になってくれるかもしれない女性だったのだ。少なくとも、彼にとっては。

 母親のような包容力のある女性や、ニュータイプの才能に満ち溢れる少女を拾ってきて、自分の側に置いてるの、なんともグロくてよい。彼はララァのパーツを集めているのだ。プラモじゃないんだから。

 メンタルヘルスケアの文脈で考えると『逆シャア』は、シャアが自分の傷付きを自覚し、受容するまでの物語と言える。そのためには、彼の破滅願望や絶望と正面から向き合い、愛や希望といった"人の心の光"を見せてくれる、アムロの存在が不可欠だった。アムロとの死闘 = あの日の"喪失"の"再演"を経て、ついにシャアの心は、解放と救済へと導かれたのだ。全く、傍迷惑な話だが。

 さて『逆襲のシャア』と『落下の王国』がほとんど同じ話をしていることは、ここまでの説明でおわかりいただけただろうか。ここから改めて、両者はどこが違うのかを考えていく。

"人の心の光"?

 まず違うのは、本作『逆シャア』の舞台は1915年のカリフォルニアではなく、宇宙世紀0093年の宇宙であるということ。冗談ではなく、これは割と大事なことだ。つまり『落下』は作り手(ターセム監督)からの"過去"に捧げられた"祈り"であるのに対し、本作『逆シャア』は作り手(富野由悠季)からの"未来"への"警鐘"の意味合いを持っている、ということ。これが両者の最大の相違点である、結末の違いに繋がってくる。なぜシャアはともかく、アムロまで死ぬ必要があったのか。

 本作を最後まで観て、僕が最初に思ったことは、「これで本当に良かった……のか?」だ。同じことを思った人は多いのでは。というのも、この世界はクソだからだ。シャアの"建前"に熱狂する民衆、奮起する兵士、媚び諂う政治家たち(本来ならシャアの暴走を止めるべき立場にある連中だ)。地球連邦側の対応も、あまりやる気を感じられないというか。地球人類の治安もかなり終わっているし。そりゃ滅びるよ! としか言いようのない惨状が、最初から最後まで一貫して描かれ続けている。シャアがいてもいなくても、大して変わらないのではないか。

 表向きは政治的なことを言いながら、しかし実際には極めて個人的な事情で動いているシャアに対して、アムロはかなり社会的な動きをしている。閉じていくシャア、開いていくアムロ。対比の関係にある両者の比較は面白い。10年以上も、ララァのことを引きずり続けるシャア。同じくララァの夢を見るものの寝起き10分で切り替えて、今の恋人との関係性を大事にするアムロ。個人の事情に社会を巻き込み、自殺を目論むシャア。社会を守るため、個人としての幸福を犠牲にするアムロ。『落下』が、現実と空想で線引きされている映画だとすると、『逆シャア』は、社会と個人で線引きされている映画だと言える。

 社会的な存在であるアムロは、社会のために死んでいく。シャアは子供だが、アムロは大人だ。割り切りとか、折り合いとか、そういうことができる。ずっと仮面で自身を偽っていた(そうする必要があったからだが)シャアと違い、アムロは、あくまでもアムロ・レイとして、周囲の人物と関係性を構築し、成長してきたことの現れだろうか。

 ここにまた新たな『落下』との相違点を認めることができる。『逆シャア』は自殺を目論む子供(シャア)を、大人(アムロ)が止めるお話なのだ。実年齢と精神年齢は関係がない。それは死にゆく"個人"を前に、"社会"が果たすべき責任を問う意味合いを持つと同時に、クソ"社会"のために自ら犠牲となる、アムロという"個人"の悲劇でもある。この多層構造を端的に表現したのが、

世界に人の心の光を見せなけりゃならない

 というアムロの名台詞である。

 「世界に」「見せなけりゃならない」という、重い言葉と、一方で「人の心の光」というどこか軽く響く言葉とのコントラスト。

 これは、社会(大人)が個人(子供)に対し負う責任を表す言葉であると同時に、社会のために個人が犠牲となってしまう虚しさ。結局、そんな虚しいことで解決してしまう、都合の良いハッピーエンドの白々しさ。その都合の良さ(根拠の無さ)ゆえに、どうせまた人は争いを繰り返し、メビウスの輪を抜け出すことはないという愚かさ(実際、宇宙世紀はこのあとも血を流し続けるらしいし、あのハサウェイくんも大変なことになっているらしい)。そんな複合的な意味を持つ台詞だと、僕は思っている。考え過ぎかな。

 同じ都合の良いハッピーエンドを描きながら、その都合の良さを、誠実な祈りとするか、皮肉めいた警鐘とするか。作り手のスタンスの違いが、両作品の鑑賞後感の違いを生み出しているのだろう。良し悪しではない。僕はどっちも好き。どっちも現実の痛みに対し真摯だと思う。大事なのはそこだ。ロイの語る悲劇に心を救われる人もいるし、アムロの見せた光を信じる人もいる。どう受け取るか、可能性は開かれている。やはり、根本的な部分で"同じ話"をしているのだ。

まとめ

どっちも。そうは言っても。だからこそ。

 つまり、富野由悠季は『逆シャア』で、現代(未来)社会に対し、皮肉めいた警鐘を鳴らしたのだ……と、だけ書いて筆を置くのは、危ない行いである。だってそれだけではないから。そもそも警鐘を鳴らすという行為は、迫り来る危機をなんとかして回避してほしいという"祈り"でもある。小室みつ子は、その"祈り"を受け取り、『BEYOND THE TIME(メビウスの宇宙を越えて)』の歌詞に反映させたのだろう。

You can change your destiny 時の向こう

You can change your future 闇の向こう

We can share the happiness 捜してゆく

許し合えるその日を

 アムロの言う"人の心の光"同様、厳しい現実を前に希望がいかに儚く脆いものであるかを強調しつつ……しかし同時に、だからこそ、希望を語り続けなければならない、という強い意志を感じさせる、素晴らしい歌詞だと思う。そう、"どっちも"であり、もっと言うと"だからこそ"なのだ。希望と絶望、光と闇は、相反する事象ではなく、相互補完関係にあるものなのだ。絶望が深いからこそ、希望は大切なのだ。

 そういう"深み"が、『逆シャア』を名作たらしめている。この世はクソだが、そうは言っても、何もかも諦めて滅ぼしてしまうわけにはいかない。人を愛する心が、奇跡を起こすことだってある。しかし、そうは言っても、人はまた殺し合いを繰り返してしまう。

 何も言い切ってはいないのだ。そしてこの"深み"は『落下の王国』にもある。つらく苦しい展開(現実の痛みの再演)を経たからこそ、あの都合の良過ぎる、ハッピーエンドが輝く。現実と空想の相互補完関係。つらいことと楽しいことは、切り離せるものではないし、切り離すべきでもない。両者は不可分であり……だからこそ、人は現実を糧に空想を作り、空想を糧に現実を生きるのだろう。黒山賊は、実は"嘘"のハンドサインをしていた。笑い泣きの極致である。どっちもあっていい。どっちも必要なのだ。そんな、光と闇の混濁を描くところに、本作の良さがある。

 われわれの生きるこのクソみたいな世の中は、混濁する光と闇の"どっちも"を、"そうは言っても"と持ち続ける、あるいは"だからこそ"と戦い続ける、そんな無数の人間たちによって、今日も守られている。クソのまま温存されている、と言ってもいい。シャアは、その繰り返し(メビウスの輪)に嫌気が差して、全てを終わらせようとしたのだろうが、"そうは言っても"、われわれは希望を語り続ける。クソ"だからこそ"少しでもマシな世の中にしていくために、戦う。きっと、そんな思いで日々を懸命に生きている人たちは、ある程度は存在している、はず。『落下の王国』や『逆襲のシャア』といった"深み"のある映画たちは、そんな人たちの存在を、あるいは自分自身の中にあるそんな思いを、強く肯定してくれている。そうは言っても、だからこそ、と葛藤すること。混濁する光と闇の両方を見つめて、痛み(現実)を抱えながら、希望(空想)を目指し続けること。そういう生き方の美しさを示してくれる。だからきっと、これらの映画は観る人の心を動かし、僕を感動させたのだろう。

 やっぱりポエミーになってしまった。

あとがき

落下のアクシズ・クラブ

【警告】ここから先、なぜか『ファイト・クラブ』と『セブン』のネタバレがあります。

 『落下の王国』を観た翌日『逆襲のシャア』を観て「同じ話だ!」と感動した、さらにその翌日。僕は、また別の友達と映画『ファイト・クラブ』を鑑賞し(これは初見ではなく二回目なのだが)、またしても「同じ話だ!」と感動した。もしやこの世に存在する全ての映画は同じ話をしているのではないか?

 自分は本当は何がしたいのか。何を思い何を求めているのか。わからないまま、しかし、無意識の衝動に突き動かされ、男の"仮面"は暴走する。人々は熱狂し世界は崩壊へと向かう。

 クソみたいな世の中を破滅させて何もかもを終わりにしたい気持ち。そうは言っても人は人を愛することができる、という気持ち。どっちも、一人の人間から溢れ出てきたものだ。両者は激突し、"僕"はタイラーを射殺する。愛の勝利か、と思われるも、タイラーの計画は完遂され、金融街の高層ビル群は崩壊。画面には男根のサブリミナル。結局、"どっちも"なのだ。

 同じフィンチャー監督の『セブン』は、かなり直球で"だからこそ"をやっている。

ヘミングウェイが書いてた。

「この世はすばらしい。戦う価値がある」と。

後の部分は賛成だ。

 僕の、いちばん好きな映画のセリフと言ってもいいかもしれない。クソ"だからこそ"戦うのだ。

 『セブン』『ファイト・クラブ』と『落下の王国』の人生哲学の一致は、偶然ではなく、『落下の王国』にもフィンチャーが関わっているという事実が、説明にはなる。ただ、それだけではない。

 他の僕の好きな映画、例えば『マトリックス レザレクションズ』や『トイ・ストーリー4』なんかも、最終的には"どっちも"の話をしている。あんだけ革命と覚醒を標榜していたマトリックスですら、20年も経つと「虚構もそれはそれでいいよね」的な意見を、出してくれたりする(もちろんより良くしていくために戦い続ける必要はあるが)。

 人生について。人間が社会の中で生きていくということについて。本気で考える人間は、きっと自ずと"どっちも""そうは言っても""だからこそ"の領域に到達するのだろう。安易な相対主義や現状追認、現実主義のフリをした冷笑主義を称揚するつもりはない(それらと相性が良いことは認めざるを得ないが)。

 ただ、現実に生きる人間の"痛み"を直視した上で、よりよく生きていく、よりよい社会を作っていく、ということを考える人。つまり現実を糧に空想を作り、空想を糧に現実を生きる人。そういう人たちの生き方は、まさに"人の心の光"であり、希望だ。僕も、そうありたいと思う。

 なんか、いい具合にまとまったので、そろそろ筆を置く。楽しかった。ソリッドもポエミーも、どっちも大事にしてよいのだと思う。

 男根。

野原ひろしという"幻影"(ファントム)

事実なるものは存在しない。

あるのは解釈だけだ。

(フリードリヒ・ニーチェ)

 

 聞こえますか?

 

 聞こえてますね?

 

 では……。

 ああ、落ち着いてください。

 焦ることはありません。

 あなたにお話があります。いいですか?

 どうか、落ち着いて。

 

 『野原ひろし 昼メシの流儀』という漫画の、

 連載が行われています。

 ええ、ええ、わかってます。

 どれくらいの長さか?

 

 『野原ひろし 昼メシの流儀』が、

 連載されているのは……。

 

 9年です。

 

 

 まずい! 看護師(ナース)! 看護師(ナース)!

 ……と、茶番はこのくらいにしておいて、そろそろ本題に入ります。真面目な記事です。"野原ひろし"を通じて、現代日本のことを考えます。

f:id:traitor_salmon:20251030180332j:image(野原ひろし)

野原ひろしという"象徴"(イコン)

 というのも、野原ひろしは"日本の父親の代表"面をしている。とりわけ、ここ数年はやたらと。

(いいパパって、なんだろう。)

(すべてのお父さんの足のニオイに、お疲れさまです。)

(全国のとーちゃんに捧ぐ)

 "古き良き日本男児"。"日本の父親"。"日本のサラリーマンの代表"。そんな印象を、野原ひろしという偶像に対して抱く日本人が、どうも多いらしい。日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴。つまり、野原ひろしは天皇なのだ。

 なぜ野原ひろしが天皇になったかというと、それはオトナ帝国の影響に他ならない。あの伝説の回想場面で、野原ひろしは"我々"と、すなわち"日本"と同化した。"日本の記憶"に溶け込み、野原ひろしこそが、"日本の記憶"となった。成り代わった。

 "日本人"は野原ひろしに親しみを感じ、野原ひろしもまた"日本人"から親しまれるよう振る舞っている。しかし"日本人"と野原ひろしは必ずしも一致しない。そこには"ズレ"がある。ズレはやがて"歪み"となり、新たなものを生み出す。集団心理が、象徴の在り方を変えてしまうのだ。

イエスタデイ・ワンスモア

 野原ひろしを日本国民統合の象徴に変えた、件の『オトナ帝国』について、改めて考えてみよう。

f:id:traitor_salmon:20251030172034p:image(映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲)(ちょうど2001年公開の作品である)

 語り尽くされている映画。確かに名作だ。オトナであれば、おそらく誰もが抱く"懐かしさ"という感覚の、温かさと恐ろしさ。そんな"幻影"(ファントム)を乗り越え(思い出は思い出として大切にしつつ、その延長線上にある現在を尊ぶ)、前へと、先へと進んでいくことの大切さ。21世紀を手に入れろ。「オレは家族と一緒に未来を生きる!」。ついつい「昔は(あの頃は)よかった」と言ったり思ったりしてしまうオトナたちの精神に警鐘を鳴らしつつ、感動的な共感と前向きなメッセージを届けてみせた、素晴らしい作品だ。

 だが、しんのすけが命懸けで奪い返し、野原ひろしが"懐かしさ"に打ち勝ってまで手にした"21世紀"は、果たして素晴らしい時代であったか。既に四半世紀が過ぎ去ろうとしつつあるいま、振り返ると、うーん、あまり後世に誇れるものではないように思う。テロ、戦争、疫病、虐殺。SNSの普及と共に、デマやフェイクニュースは爆発的に広まり、人々は分断され、社会にヘイトが渦巻いている。いまイエスタデイ・ワンスモアが復活したら、我々は勝てるだろうか。いまごろケンとチャコはほくそ笑んでいることだろう。

 ……なんて、冷笑じみたことを言うのは、本記事の目的ではない。別に、20世紀だってロクな時代ではなかった。我々にできること。それは、少しずつでも良くなっていくと信じて、一歩ずつ東京タワーの階段を登っていくことだけだ。何度でも転びながら、何度でも起き上がり、未来を掴むのだ。

 21世紀も20世紀も嫌な時代だが、どういうわけか人は"現在"を実態よりもひどく、"過去"を実態よりも美しく捉えてしまう。"懐かしさ"の魔法。この"懐かしさ"という感覚(を喚起させる創作物)の恐ろしいところは、実際に"それ"を体験したわけではない人間に対しても、強力な効果を発揮してしまうことがある、というところ。人間には"懐かしさ"という快楽物質を分泌するためのツボのようなものがある、のだろう。『オトナ帝国』という作品は、そのツボを巧妙についてくる。すると、どういうことが起こるのか。

 観客の多くが『オトナ帝国』の"20世紀"を、自分自身の懐かしい過去だと誤認してしまうのだ。

 70年の大阪万博に行ってなくても。なんなら生まれてなくても。少年時代の夏休み、田舎で父親の自転車の背に揺られ、うつらうつらとしていなくても。

 あの回想場面は、当然ながら野原ひろし個人の回想であり、全てにおいて彼と同じ経験をしている人間は存在しない。もし野原ひろしの人生を追体験し、知識も経験も野原ひろしと共有している人間がいるなら、それこそ"幻影"(ファントム)だ。にも関わらず。

 人々は"懐かしさ"を通じて、野原ひろしと彼の過去に"共感"し、同化してしまう。 観客は、自分こそが野原ひろしだと思い込んでしまうのだ。みんなの過去が混じり合い、"古き良き日本"という共同幻想が創出され、野原ひろしは"日本国の象徴"(天皇)となった。

 "懐かしさ"は温かく、それゆえに恐ろしい。ケンとチャコはまさにこの点に着目し、計画を実行に移したのだろうし、『オトナ帝国』という作品自体も、その恐ろしさを描いていた。同時に、未来へと進むことの尊さも。そのはずだが。

 しかしどうも(これは僕の個人的な意見でしかないのだが)、作品から懐かしさの"温かさ"ばかりを受け取って、その"恐ろしさ"や前に進むことの"尊さ"から目を逸らしているのではないか、と見受けられる観客の反応が、少なからず存在している。ように思う。

 野原ひろしを象徴とする、"古き良き日本"の幻想。心地良い"懐かしさ"の楽園。あの夕日町銀座商店街にみんなどっぷり浸かってしまっているのではないか。野原ひろし本人は、家族と一緒に未来を生きることを選択したというのに。

 しんのすけの奪い返した"21世紀"。それは決して、素晴らしい未来とは言えないものだった。失われた30年、なんて言われてもいるし。現在がつまらないほど、もう戻らない過去への憧れ、"懐かしさ"の魔法は威力を増す。実際には、その時代を体験していない世代にとっても、『オトナ帝国』の放つ"懐かしさ"は絶大な威力を発揮してしまう。おそらく作り手の想像を遥かに超える形で。みんな、21世紀を生きたくないのだ。夕日町銀座商店街にいたいのだ。ケンとチャコの代わりに野原ひろしを旗手として、イエスタデイ・ワンスモアの行進は続く。

 野原ひろし自身の意志に反して。

 付け加えると、もともと野原ひろし……とりわけ『オトナ帝国』の原監督の描く野原ひろしの人物像であったり、そもそも彼の作品のテーマ自体だったりが、"古き良き日本"幻想との相性が良い、ということも言えてしまう。『暗黒タマタマ大追跡』でも『戦国大合戦』でも、とにかく監督は野原しんのすけという少年を"成長"させたくて仕方がない、らしい(サザエさん時空の日常ギャグアニメだというのに)。まぁ、そういう志(こころざし)の高さが、数々の名作を生み出す原動力となったのだろうけど。

 ただ、どうも彼の描く"成長"というのが、一人前の"男"になる、的な。もっと言うとひろし(父親)からしんのすけ(長男)への"家父長"権限の移譲が行われることが、多いように思う。『暗黒タマタマ』なんか、モロだ(タマタマだけに)。

 そういうゴッドファーザー的なモチーフを作り手が割と肯定的に描いているところも、オトナ帝国および野原ひろしが"古き良き日本"幻想(それは家父長制とも密接に結び付いている)との相性が良いことの理由の一つと言えるのではないか。原監督の家父長制肯定作劇が、"日本の父親"代表としての、野原ひろし像を作り上げた。未来とは真逆の方向へと進んでしまっている。皮肉にも。

ズレ、そして"歪み"

 本人の意志に反して"古き良き日本"の象徴にされてしまった野原ひろし。人気商売の悲しいところで、未来を生きることを宣言したにも関わらず、野原ひろしは彼ら(野原ひろしを象徴とする人々)の望むような振る舞いを強いられることとなる。その一部が、先述の"日本の父親"代表面をする、という営業活動なのだろう。双葉商事営業二課の職務も大変だ。

 まぁ、父親面をするだけなら、本人の誓いである「家族と一緒に未来を生きる」に反しているわけでもないので、悪くないのかもしれない。

 ただ、彼ら = 野原ひろしを象徴とする人々の実態からは、ズレていくこととなる。"彼ら"とはすなわち日本人のマジョリティのことだが、その多くは、野原ひろしのそれとは大きく異なる日々を過ごしている。

 面倒なので今後は彼ら = 野原ひろしを象徴とする人々のことを、"日本人達"と呼称する。"愛国者達"とどっちにするか迷った。

 この失われた30年、野原ひろしは変わらなくても、"日本人達"は変わっていった。

オレの名は野原ひろし

愛する妻と2人の子を持つ

平凡なサラリーマンだ

 これは、例の漫画『野原ひろし 昼メシの流儀』の第一話冒頭、いの一番に発せられる台詞(モノローグ)だ。こうのたまうことで、彼は自らが(皆さんのよく知る)("日本人達"の象徴である)、あの"野原ひろし"と同一の存在であることと、その平凡さ = "象徴"性を強調しているわけだが(彼が本物かどうかはまた後で考えるとして)、彼は本当に"平凡"なのか。

 野原ひろしが家族と一緒に生きると宣言した、その未来。21世紀に突入してから、四半世紀が経過しようという現在。こども家庭庁の発表した「こども白書」(2024年度版)によると、30代前半の男性の未婚率は47.4%、30代後半で34.5%となる。

 思ったより低いな。面白くない。

 厚生労働省国民生活基礎調査」(2022年)によると、18歳未満の子どもがいる世帯は991万7000世帯と、統計開始(1986年)以降、はじめて1000万世帯を割り込んだことがわかる。そのうち、子どもの人数が"一人"なのは49.3%、野原家と同じ"二人"なのは38.0%、"三人以上"は12.7%と続き、同時に、経年の変化を見る限り"二人"と"三人以上"の減少幅が大きいこともわかる。みなさんご存じ、少子化だ。2024年の同調査では、18歳未満の子どもを持つ世帯の割合が16.6%と、過去最低を更新したことがわかっている。

 意外にも、マイホームやマイカーは、30代男性の約半数が所持しているらしく(信頼のおける具体的なデータを見つけることはできなかった)、その点では野原ひろしも平凡の仲間入り、かもしれない。

 これらの数字をどう捉えるかはそれぞれの価値観に委ねるが、僕個人は野原ひろしを"平凡"と呼ぶことに抵抗を感じる。婚姻、マイカー、マイホームくらいはまだ数の上でも過半数をギリギリ保っていて、マジョリティと言えなくもないが、子育て世帯は現代日本において、間違いなくマイノリティである。

 べつに、マイノリティは象徴になれないというわけではない。ただ、大衆との間に"ズレ"は必ず生じる。そもそも個人である以上、大衆の求める"象徴"像からズレてしまう部分は、必ず発生するものだが。少数派であることは、そのズレを助長する。そしてズレは、やがて"歪み"となり、"象徴"本人を襲う。

玉音放送 - 野原ひろしと現代日本 -

(しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜)

 このズレは(さすがに)作り手側も認識しているようで、2023年公開の映画『しん次元』では、その乖離を解消しようとする試みが見受けられた。つまり先程から僕も何度か指摘している「オトナ帝国で掴み取った"21世紀"ってロクなもんじゃないですよね」問題に対する、公式からのアンサーだ。『しん次元』には、明確に『オトナ帝国』との対比を意識した展開や演出が多数存在している。……結果を先に言ってしまうとその"アンサー"が的外れであったがために、ズレ解消の"試み"は失敗してしまうのだが。むしろ、無理やりズレを解消しようとしたら、余計に"歪み"を拡大してしまったような、そんな感じ。残念ながら。

 本作『しん次元』の設定年代は、映画公開年と同じ2023年。そう、現代だ。かつて、しんのすけが掴み取った"21世紀"。その時代を生きてきた青年・非理谷充(ひりやみつる)は、子供の頃からいじめられ、ネグレクトの末に両親は離婚。未来に希望を持てず、現在は非正規雇用でギリギリの生活を送り、日々の食事にも困る状況。明らかな貧困状態であり、社会の犠牲者と言っていい。子供向け映画の悪役としては、かなり生々しいというか、むしろ露悪に片足突っ込んでいるというか。非リア充とかいう次元ではない(まさに)。誰が悪いかって、それは彼の親であり、彼をいじめた級友(それを見過ごしてきた周囲の大人たち)であり、そして"日本"であるはずだ。野原ひろしが象徴する、我が国。ゆえに、野原ひろしは、彼と対峙しなければならない。日本の代表として。"21世紀"をもたらしてしまった者の責任として。

 だから本作『しん次元』の野原ひろしは間違いなくあの『オトナ帝国』のときと同一人物の野原ひろしだ。限りなく同一人物に近い。何を言っているんだ、という顔をしないでほしい。だって、冷静に考えてみてほしい。おかしいだろう。オトナ帝国の野原ひろしは、60年代から70年代にかけて、幼少期を過ごしたはずの野原ひろしなのだから。本作の設定年代が2023年であるならば、野原ひろしは還暦程度の年齢でないと辻褄が合わない。事実、本作の野原ひろしは作中でウルトラ警備隊のポインターを模した車に乗るなり「我々の世代にとって、この車に乗れるのは夢のようですが……」と発言している。ウルトラセブンは67年の作品。やはりこいつオトナ帝国の野原ひろしだ。間違いない。35歳を自称しているが、真っ赤な嘘だ(あるいは野原ひろしは人間ではないか)。

 オトナ帝国としん次元とで、符合する点はまだまだある。過去の記憶を元に作られた心象世界が、ドラマの大きな転換点として機能しているところ(両作品の過去の描き方、捉え方はかなり異なるが)。そこから脱出し、現実世界に回帰するためのキーアイテムが、ひろしの足臭("日本のサラリーマン"の臭気的象徴)であること。最後は、しんのすけがボロボロになるまで戦い、作品自体のテーマも、懸命な努力によって未来を掴み取ることを奨励しているところ、などなど。

この国の未来は、確かに明るくないかもしれない。でも、君やしんのすけもひまわりも、みんなそれでも生きていかなければならないんだよ。頑張れ。君はこれから、自分を幸せにすることより、誰かを幸せにしようと思え。そうすればな、すっごく頑張れる。誰かを幸せにすれば、自分も幸せになれるんだ。だからな、頑張れ。

 そう、オトナもしんも、最終的に言っていることはそんな変わらんのだ。ただ、オトナの説教的要素が、"懐かしさ"の魔法に追い立てられ、あまり伝わらなかったことの反省なのか。しんのメッセージは野原ひろし自身の口から、明朗な文章で語り掛けられる、かなり直接的な、"説教臭い"どころか、説教そのものの様相を呈して、観客へと届けられることとなった。伝え方の問題。ワードチョイスの失敗(頑張れは無いだろう)。無駄にシリアスに(生々しく)し過ぎたこと。そもそも、説教されるべきは"日本"であり、"日本"を作ってきた者ども、つまり、野原ひろしその人であるべきなのだ。どの口が言っていやがる。定職に就き、家庭を持ち、家も車も所持し、高度経済成長やバブルを経験し、さんざんおいしい思いをして、面倒事だけ後の世代(非理谷くん)に押し付けて、このまま去っていく、そんな野原ひろしが。何を「頑張れ」などと。ふざけるな。

 ……と、不満を爆発させたくなる人が出てくるのも当然である。実際には、野原ひろし個人には(日本国の罪に対する)大した責任はない。しかし今作の野原ひろしはあのオトナ帝国の野原ひろし、象徴ひろし、天皇ひろしなのだ。非理谷くんに対し頭を下げる責任がある。"象徴"とはそういうものではないか(実際は非理谷くんが野原ひろしに土下座をしていたが)。

 このような様々な問題点によって、『しん次元』のテーマやメッセージは"日本人達"の神経を逆撫でし、ズレは広がり、"歪み"は深まった。志(こころざし)は良かったのだ。『オトナ帝国』の反省、あるいは20年越しのアンサー。改めて現代日本と、野原ひろしとを対峙させる試み。そのチャレンジ精神には、敬意を表するが、結果的には(乖離を解消することを目的とするなら)失敗だった、と言わざるを得ない。

 現代の"日本人達"に、野原ひろしがかけられる言葉の限界は「頑張れ」だった。まぁ野原ひろしの年齢は(自称35歳だが、実際には)還暦前後であり、根性論の教育を受けて育ってきたのだろうから、仕方がないのかもしれない。現代日本において野原ひろしは、もう天皇ではいられないのかも。

 やはり"象徴"は、大衆(マジョリティ)に近しい存在であることが大事なのだろう。苛烈な受験戦争が繰り広げられている韓国で、同じ『クレしん』の四郎さんが人気なのも納得できる。

 「家族と一緒に未来を生きる」はずの野原ひろし。しかし、マーケティングブランディングの都合で、ファンダムである大衆 = "日本人達"の望むような、"古き良き日本"の"父親"像(象徴)を演じ続け、やがて"歪み"、過去(20世紀)に取り残され、未来(21世紀)を生きることは叶わず、しかも、"日本人達"の思惑からもズレてしまうという、誰も得をしない地点へと到達してしまった。愚かで切ない歴史である。

 やはり個人を"象徴"にするのは、おかしい。

もうひとりの野原ひろし

 かくして、野原ひろしは『しん次元』にて、"日本人達"に「頑張れ」という玉音放送を行い、"象徴"としての限界を露呈させた。野原ひろしを中心とする"古き良き日本"幻想も、これで終わるかと思われたが、実際には今も続いている。どころか、むしろ強化されつつある。そして何より不可解なのは、相も変わらず"野原ひろし"がその中心にあり、"象徴"としての役割(ロール)を果たし続けていることだ。

 もうお分かりだろう。野原ひろしは二人いる。オトナ帝国のオリジナルひろしとは別に、もう一人。いま現在、"象徴"としての役割(ロール)を果たし、"日本人達"の期待に応え続けている、影武者(ファントム)の野原ひろしが。それが誰かというと、これまたもうお分かりのことと思うが……。

 そう、昼メシひろしである。

オレの名は野原ひろし

愛する妻と2人の子を持つ

平凡なサラリーマンだ

 野原ひろしを騙る謎の男。しかし、どう考えても、彼は野原ひろしではない。上記のモノローグに続く形で、彼はこうも言っている。

外回りの多い営業マンのオレは

当然 昼メシも外でとることが多い

 嘘である。理屈が通っているし、"当然"なんていう強調の表現を使われると、つい納得してしまいそうになるが、これは巧妙な騙しの手口、否、騙しの流儀である。野原だまし。

 "ほんもの"の野原ひろしの昼メシは、みさえの愛妻弁当であるはずだ。いちおう、原作にも野原ひろしが自らの小遣いから昼メシ代を捻出している描写もあるにはある。しかし、"当然"だの"多い"だの言うほどの頻度とは思えない。みさえがひろしの弁当を作る描写も、確かに存在している。実態は日によって作ったり作らなかったり、なのだろう。やはり"当然"だとか"多い"だとか、そういう表現を使うことには違和感がある。だいたい、上記の野原ひろしが自らの小遣いから昼メシ代を捻出している原作の描写というのも、小遣いが少なくて昼メシはパン一個だった、という、野原ひろしらしい悲哀の場面なのだ。せめてあと千円でもいいから小遣いを上げてほしい、と嘆息する"ほんもの"の野原ひろしが、カツ丼だの回転寿司だの、レパートリーに富んだ昼メシを堪能できるはずがない。言うに事欠いて"流儀"などと。

 作者は悪くない。別に誰も悪くないのだが、強いて言うなら、この企画を考案した者のことは、ちょっとどうなんだろうと思う。言ってしまえば、野原ひろしで孤独のグルメをやりたいという、それだけの企画。しかし、野原ひろしの昼メシは愛妻弁当(またはパン一個)なので、そもそも始まりから破綻している企画であり、有象無象のスピンオフ漫画のひとつとして、短命に終わるのが普通だが、ここまで続いて、アニメにもなって……というのは、なにより作者の力量と、あとは(作者も企画立案者も想定していなかったことかもしれないが)、現代の"日本人達"との相性が異様に良かったことも、理由のひとつだろう。

 現代の"日本人達"は、あらゆる作品をミーム(Meme) = "文化的遺伝子"として消費していく。

 御多分に洩れず、『野原ひろし 昼メシの流儀』もミームとして消費され倒しており、そのミームっぷりから現在、広範な支持を集めるに至っているが、そもそも野原ひろし(オリジナル)の"象徴"化の過程でも、インターネット・ミームは大きな役割(ロール)を果たしていた。"野原ひろし名言bot"や、拡散された切り抜き動画が、野原ひろしを"日本の父親"たらしめたとする(少なくともその一助にはなっていた)のは、無茶な理屈ではあるまい。野原ひろしとミーム(Meme) = "文化的遺伝子"とは、もともと相性が良いのだ。いまも昔も、野原ひろしという"象徴"は、ミームによって作られてきた。それが歴史の真実だ。

 愛する妻と二人の子を持つ、平凡なサラリーマンに、現代の"日本人達"は感情移入できない。平凡だと思えない。恵まれた存在、強者だと認識してしまう。それに引き替え、昼メシひろしはどうだ。彼もまた、愛する妻と二人の子を持つ平凡なサラリーマンを自称してはいるが、その愛する妻も二人の子も、漫画本編にはほとんど姿を現さない。顔も出さない。存在していないのと同じだ。読者が観測しているのは、一人のサラリーマンが、孤独に昼メシを食べている、その姿だけ。それは現代の"日本人達"と重なる、"象徴"に相応しい姿だ。変化した時代に適応したのは、"ほんもの"ではなく"にせもの"だったのだ。

 『しん次元』で天皇としての限界を露呈させたオリジナル野原ひろしに成り変わり、"古き良き日本"の"象徴"としての役割(ロール)を全うし続ける、昼メシひろし。しかし、繰り返すが、彼は野原ひろしではない。

 f:id:traitor_salmon:20251103154800j:imageイエスタデイ・ワンスモアの"20世紀の匂い"でも自らの足臭でもなく、カツ丼の香りを自らの鼻腔に取り込む、野原ひろし(自称)。高度な皮肉である。

 ではそもそもなぜ、野原ひろしがもう一人存在するのか。その疑問の答えを提示するとしよう。

恐るべき野原ひろし達計画

f:id:traitor_salmon:20251103162222p:image(映画クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん)

 そういうことだ。奇しくも『オトナ帝国』と同じ"逆襲"の名を冠する本作『ロボとーちゃん』にて、野原ひろしは複製された。2014年のことである。

 野原ひろしの人生を追体験し、知識も、経験も野原ひろしと共有している、もうひとりの野原ひろし……ロボひろし。本作では、機械の肉体を持つロボひろしが"日本の父親"の"象徴"であり続けることも、みさえの"夫"であり続けることもできない(一方"ほんもの"の野原ひろしは、数々の名言を残し、"日本の父親"としての"象徴"性を強めた)という、残酷な真実が描かれた。同じ記憶、同じ知識、同じ経験を持つにも関わらず、両者の明暗を分けたものは、いったいなんであろうか。

 一つには、それは"食事"ができるか否か、だろう。家族と共に一つの食卓を囲む。"父親"、そして"夫"にとっては、不可欠の要素と言える。ロボひろしには、それはできない。肛門からオイルを摂取するだけだ。30分早く放送されている、家庭の一員として温かく受け入れられている某ロボも、食物の経口摂取を可能としていた。とりわけ"食"に強いこだわりを持つ"日本人達"の家庭において、共に食卓を囲むということの重要性がよくわかる。同じ釜の飯を食う者は味方であり、そうでない者は異物なのだ。

 かくして、2014年。ロボひろしは、野原ひろしと同じ記憶、同じ知識、同じ経験を持ちながら、異物として家庭から排除され、機能を停止し、破棄された。

 ……と思われた。しかし、何者かが機体を回収し、極秘裏に改造を施していたのだろう。2年後の2016年。ロボひろしは、弱点であった"食物の経口摂取"を克服し、"日本人達"の前に帰ってきた。

 "昼メシひろし"として。

 もう一度、"野原ひろし"であるために。

 これが、恐るべき野原ひろし達計画の真実である。

野原ひろしとは何者なのか

 "日本人達"の"象徴"の役割(ロール)を全うし続けることで、野原ひろしの「家族と一緒に未来を生きる」という意志(ウィル)は、すっかり形骸化していた。

 オリジナルの野原ひろしは老い、いまや代理AIの"昼メシひろし"(H.H)が野原ひろしとして、"日本人達"の"象徴"の役割(ロール)を全うしている。昼メシひろし本人は、自分こそが野原ひろしだと思い込んでいるだろうし、"日本人達"もまた、彼を野原ひろしだと信じて疑わない。野原ひろしか、それとも別人か。その違いはもはや、意味がない。

 人間の脳は、幻を見ることができる。

 では、野原ひろしとは何者なのか。いったい何が、野原ひろしを野原ひろしたらしめるのか。

 現代を生きる若者(社会の犠牲者)に対し「頑張れ」と発言した"ほんもの"の野原ひろしは、"日本人達"の期待を裏切った。嘘をつき、ひとりで昼メシを食べる"にせもの"の野原ひろしは、多忙で孤独な現代の"日本人達"から歓迎され、受け入れられた。

 現役世代の"日本人達"の、リアルに寄り添い続けること。それこそ野原ひろしを野原ひろしたらしめる、言わば野原ひろしの存在意義なのではないか。

 完全なるリアリティなど、存在しない。現実と呼ばれるものの多くは、フィクションで成り立っている。野原ひろしが現役世代の"リアル"を代弁し、現役世代はそれを"リアル"だと思い込み、野原ひろしを"リアル"の象徴とする。"リアル"からズレたものは、野原ひろしではない。"リアル"であり続ける者。現実(と呼ばれるもの)の哀しみや、喜びに、寄り添い続ける者。人はそれを、野原ひろしと呼ぶ。まさに"象徴"。

きっといつだって

僕ならここにいるよ

大丈夫だよって繰り返し

言ってあげるよ 顔上げて

 この歌詞は、野原ひろしの価値を再定義している。これぞ、求められている"野原ひろし"像だ。

 今後も、"野原ひろし"は現実を生きる"日本人達"の変化に合わせて、何度も変化を遂げ、寄り添い続けるのだろう。変わることで、共にあり続ける。それこそが、野原ひろしを野原ひろしたらしめる。野原ひろしは、永遠を生きるのだ。

 だがそこに、野原ひろしの意志はあるのか。

 野原ひろしは、幸福なのか。

ユルユルでDE-O!

ユルユルでDE-O!

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こんなことしちゃはずかしい?

ホントはみんなのぞんでない?

オラはユルユルオラのため

オラの人生オラのため

 野原ひろしの息子(サン・オブ・野原ひろし)である野原しんのすけが歌う、この楽曲。彼もまた、永遠を生きる(時の牢獄に囚われし)存在であり、皮肉めいたものを感じるが。少なくとも彼自身は、自らの人生は自らのためにあると認識しているらしい。では、野原ひろしの人生はどうか。

 "象徴"としての役割(ロール)を全うし続ける彼に、いまの気持ちを直接聞くことは叶わない。臼井儀人藤原啓治が世を去っても、なお続く野原ひろしの生。時代と、大衆の意志によって歪められ、自分が自分で無くなっていく恐怖と戦い続けている彼に、私たちができることはなんだろうか。

 その答えは、「頑張る」ことだと、僕は思う。野原ひろし(オリジナル)が、私たちに示した"意志"。それに従うことが、野原ひろしに"忠を尽くす"ことになるのではないか。耳障りの良い甘言でなく、耳に逆らう忠言にこそ、耳を傾けてみるべきなのでは。なぜならそれは、"象徴"であることから逸脱してまで、彼が、野原ひろしが、我々に伝えんとしたことなのだから。

この国の未来は、確かに明るくないかもしれない。でも、君やしんのすけもひまわりも、みんなそれでも生きていかなければならないんだよ。頑張れ。君はこれから、自分を幸せにすることより、誰かを幸せにしようと思え。そうすればな、すっごく頑張れる。誰かを幸せにすれば、自分も幸せになれるんだ。だからな、頑張れ。

 時代に逆行し、"日本人達"の神経を逆撫でしたこの発言にこそ、野原ひろしの"意志"が秘められているのでは。私たちひとりひとりが、もっと「頑張る」ことで、野原ひろしという"古き良き日本"の"象徴"を必要としない、そんな世界を創造してほしい、と。

 我々"日本人達"が、自ら目覚め、内なるオトナ帝国を打破したとき、野原ひろしという天皇は不要になる。野原ひろしの永遠は終わる。そんな日が、いつか来るだろうか。我々は、自らの手で掴み取らなければならない。我々の"21世紀"を。

 そのとき、我々は真の意味で"野原ひろし"となる。

北埼玉ブルース

北埼玉ブルース

  • のはらひろし
  • アニメ
  • ¥255
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野原ひろし年表

  • 1960年代:野原ひろし(オリジナル)誕生。
  • 1970年:野原ひろし(オリジナル)、大阪万博に行く。月の石が見たいと駄々を捏ねる。
  • 2001年:野原ひろし(オリジナル)、オトナ帝国と対決。家族と一緒に未来を生きることを宣言。オトナ帝国を崩壊させ、"21世紀"をもたらし、日本国民統合の象徴 = 天皇となる。
  • 2014年:野原ひろし(オリジナル)と同じ記憶、知識、経験を持つ"ロボひろし"誕生。オリジナルとの対決の末、敗北し破棄される。
  • 2016年:ロボひろし、"食物の経口接種"機能を獲得。"昼メシひろし"としての活動を開始する。
  • 2023年:野原ひろし(オリジナル)、非理谷充に対する「頑張れ」との玉音放送により、自ら天皇としての限界を露呈させる。
  • 2025年:昼メシひろし、アニメ化。オリジナルに成り変わり、野原ひろしとして"象徴"の役割(ロール)を全うする。

ウォシャウスキー姉妹のフィルモグラフィは"支配のシステム"との戦いの歴史だ!【前編】

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 ウォシャウスキー姉妹の映画(監督作品)を全部観たので、今回は、それら全ての作品に共通するテーマである"支配のシステム"との戦いと、その描き方の変遷について考えてみます。

作品リスト

  1. 『バウンド』(1996年)
  2. 『マトリックス』(1999年)
  3. 『マトリックス リローデッド』(2003年)
  4. 『マトリックス レボリューションズ』(2003年)
  5. 『スピード・レーサー』(2008年)
  6. 『クラウド アトラス』(2012年)
  7. 『ジュピター』(2015年)
  8. 『マトリックス レザレクションズ』(2021年)

番外編

  • 『暗殺者』(1995年)(脚本)
  • 『アニマトリックス』(2003年)(脚本)(製作)
  • 『Vフォー・ヴェンデッタ』(2005年)(脚本)(製作)

 他には、脚本のみ(クレジットなし)の『インベージョン』(2007年)や、製作のみの『ニンジャ・アサシン』(2009年)、ネトフリのドラマシリーズ『センス8』(2015年)などがありますが、まだ観ていないため、今回は触れません。ドラマ観るの苦手なんですよね。

まえがき

 少しだけ、僕の話をします。

 数年前の『レザレクションズ』公開時、『ジョン・ウィック』でキアヌ・リーブスのファンになっていた僕は、作品に興味を持ち、予習のため『マトリックス』を生まれて初めて観ました。結果、「なんかよくわからんけど、面白い!」という感想を抱きました。空想と現実の入り混じったような、悪夢的映像表現。哲学的で、気の遠くなるような問い。それらの要素が僕の頭と心を鷲掴みにしました。

 一般的に、アクションにおける映像革新を起こした作品として評価されることの多い『マトリックス』。ただ、本作の後に生まれた僕にとってそのアクションは、はっきり言って既視感に満ちたものでした。無数のフォロワー作品、オマージュ、パロディが氾濫し、オリジナルの目新しさが失われてしまう。古くから、革新的な作品にはつきものの問題です。

 だから僕は『マトリックス』のアクションよりも、その奇妙な映像世界哲学的なテーマ、"自由"に関する強烈なメッセージに魅力を感じますし、本作を不朽の名作たらしめる普遍的な価値は、そこにあると確信しています。

 そして迎えた『レザレクションズ』。僕の感想は「なんかよくわからんけど、面白い!」。空想と現実の入り混じったような悪夢的映像表現。哲学的で気の遠くなるような問い。僕が『マトリックス』に求める全てが、そこにありました。これはさぞかし世間での評価も高かろう、と思い、調べてみたところ、まぁ、その、はい。酷評でした。悔しい。

 その悔しさが、いま僕に文章を書かせています。

 数年経っても未だに思う。やはり、どう考えても『レザレクションズ』は面白い。現代にこそ必要な『マトリックス』だと。僕の文章を通して、一人でも多くの人に『レザレクションズ』の面白さを伝えたい。そうすることで、あわよくば『レザレクションズ』再評価の波を起こしたい。もっとあわよくば、『レザレクションズ』のメッセージを一人でも多くの人に届けることで、今よりもマシな世界にしたい。

 そんな、無茶で切実な野望が込められた文章です。

 作品のテーマ、メッセージを読み解くには、作り手のフィルモグラフィを追うのが一番でしょう。作品を通して、ウォシャウスキー姉妹との対話を試みます。前編では、『バウンド』から『ジュピター』まで(『レザレクションズ』前夜まで)の、彼女らの描く"支配のシステム"との戦いの歴史と、その描き方の変遷について。後編では、その歴史を踏まえた上で、あらためて『レザレクションズ』と向き合います。

 長い旅路になります。どうぞよろしく。

要点・キーワード

 表現の変遷を追っていくにあたり、作品ごとの比較を容易にするため(話が脱線しないためにも)主人公支配のシステムの三つの要素を重点的に考えます。また、理解を深めるため、多くの作品に共通するキーワードを以下に並べておきます。

「支配のシステム」「自分が何者かは自分が決める」「人は死んでも理念は死なない」「個人の幸福と革命の大義」「二元論の超越」「愛と選択」「語り直し」「虚構(創作)の肯定」

①『バウンド』(1996年)

わたしたちを戦わせる"構造"からの脱出

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5年の刑期を終えて出所し、マフィアのもとで働くことになった泥棒の女性。そこで彼女は、隣の部屋に住むマフィアの情婦と知り合う。やがて2人は惹かれ合い、恋に落ちる。そして、組織の金200万ドルを奪い逃亡するという計画を立てる。

 姉妹の初監督作品。

 主人公……元泥棒のコーキー(画像右)と、マフィアの情婦・ヴァイオレット(画像左)。レズビアンである二人が恋に落ち、マフィアの暴力と恐怖に支配された世界から、大金を盗んで脱出しようと足掻く物語。

 印象的なのは、二人が出会い、恋に落ち、そして身体を重ねるまでの過程が非常に丁寧に描かれているところ。端的に言って、濡れ場が長い。初期の監督作品に共通する特徴で、肉体的な愛情表現を描くことへの強いこだわりを感じます。

 とはいえ、誰彼構わずスケベしているわけでは全くなくて、むしろ逆で、他人の肉体を性的にまなざし、消費することを嫌悪し、はっきりと"悪"として描いているのも作り手の一貫したスタンス(というか良心)。

 心から愛し合う二人の、肉体的な(機械的でない、人間的な)愛情表現が、尊いものとして描かれています。それは全く、淫らでもふしだらでもない。まして今作のヴァイオレットは、マフィアに拘束され、性行為を強要されているわけですから、心から愛する人との行為は、その支配に対する明確な反抗のメッセージであり、自らの意志で愛を選択すること人間らしくあることの素晴らしさを伝えるための、極めて効果的な表現だと思います。

 ……今作の悪役は、マフィアの男・シーザー。演じたのはジョー・パントリアーノ(のちに『マトリックス』でサイファーを演じる)。彼の怪演が、本作の面白さを何倍にも高めています。犯罪組織の構成員として蛮行を繰り返す彼は、まさに主人公たちにとっての恐怖そのものですが、同時に彼は、同情を誘う人物としても描かれています。

 ボスの馬鹿息子の尻拭いばかりさせられ、一度の失敗も許されない。主人公たちは、彼が預かっていた組織の金を隠したあと、失敗の発覚を恐れたシーザーが逃亡した隙に、金を持って逃げる手筈だったのです。でもシーザーは逃げない。その場に留まり、事態の収集を図る。なんとか失敗を隠すべく、嘘に嘘を重ね、必死に誤魔化す。それでもバレてしまったら、日頃の鬱憤を爆発させ、ボスを殺害してしまう。今度はその殺人を隠すために、また嘘を重ね、地べたを這いずり回り、血と汗を流す……。

 主人公たちを恐怖で支配し、抑圧する存在でありながら、彼もまた恐怖に支配され、抑圧されている存在であることが、ひしひしと伝わってきます。これこそ本作の白眉であり、メッセージの根幹に繋がる要素だと、僕は考えます。

 支配のシステム……では『バウンド』の世界を真に支配するものとは何か。それはマフィアの世界の掟、男性社会の構造そのものでしょう。弱さを見せてはならない。失敗は許されない。暴力の連鎖。有害な男らしさ。これらによる、目に見えない支配……つまり、支配のシステムが存在しているわけです。

 コーキーもヴァイオレットも、表面上は彼女たちの支配者であるシーザーも、あるいはマフィアのボスもまた、そのシステムに組み込まれ、支配の"構造"の中にいた。そして『バウンド』は、主人公たちがその"構造"から抜け出すまでを描く物語でした。

 ラスト、ヴァイオレットに密かな恋心を抱いていたマフィアの男・ミッキーが、二人の逃亡を手助けしてくれます。彼はシステムの中にありながら、システムに抵抗し、革命を助ける存在でした。彼の"選択"に、我々のあるべき姿を示すヒントがあるのでは。

 ミッキーはヴァイオレットへの"愛"ゆえに、正しい"選択"をすることができた。コーキーとヴァイオレットが、自分たちを虐げる構造に反旗を翻すことを"選択"するのも、お互いの"愛"に出会ったため。二人は何度も互いの信頼を試されながら、その度に乗り換え、最後には自由を掴みます。"愛"があればこそ、人は強く、正しい"選択"をすることができる。ウォシャウスキー作品に共通するメッセージは、一作目から丁寧に描かれていました。

 ただ今作においては、支配のシステムからの脱出を描くのみで、システムそのものとの対峙が直接的に描かれることはありませんでした。支配者でありながら抑圧を受ける側でもあるシーザーは、結局、主人公たちに倒されて終わります。

②『マトリックス』(1999年)

二元論の超越こそ、救世主の証

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凄腕ハッカーのネオは、最近”起きてもまだ夢を見ているような感覚”に悩まされていた。そんなある日、自宅のコンピュータ画面に、不思議なメッセージが届く…。正体不明の美女トリニティーに導かれて、ネオはモーフィアスという男と出会う。そこで見せられた世界の真実とは。やがて、人類の命運をかけた壮絶な戦いが始まる。

 みなさんご存じ。

 主人公……現実に違和感を持つ男・ネオ。彼を世界の真実へと導くトリニティー。そしてモーフィアス。興味深いのは、ネオを救世主として祭り上げ、機械との戦争に勝利しようというモーフィアスの目論見が、ネオを苦しめるものとして描かれているところ。預言者オラクルに「救世主ではない」と告げられ、ネオは安堵します。確かに、目覚める前の(マトリックス内部での)トーマス・アンダーソンとしての生活は、抑圧され本当の自分がわからない、苦痛に満ちたものでしたが……。赤いピルを飲み、目覚めたあとのネオとしての日々もまた、救世主としての役割を期待され、命懸けの戦いに挑むことを強いられる、つらいものでした。どちらにせよ主人公である彼は、本当の自分がなんなのか、最後の最後、ギリギリまでわからないのです。解放されたからハッピー、という単純な話ではないところが、本作の良いところだと思います。

 周囲から何度も二者択一を強いられ(遅刻をやめるか会社を辞めるか、赤いピルか青いピルか、モーフィアスを救うか自分が助かるか等々)、信じる力によって"選択"し、自分が何者なのかを自分で決める。そして最後には、"愛"の力(他者の"選択")によって救世主となる。救世主は、二者択一の枠組みを超越し、構造そのものに手を加えることができる存在、と解釈しています。二者択一、二元論の超越こそ、ウォシャウスキー姉妹が作品の中で目指す"救世"のあり方なのではないか。AかBか、単純な対立構造に持ち込みたがる世間に対し、そうではないのだと。そうやって分断を煽る、社会の構造そのものを変えていくべきなのだと。むろん、安易な相対主義(どっちもどっち)に逃げるのではなく、きちんと"選択"し、戦う姿勢を示してはいるのですが。大事なのは何を"選択"したか、というより、信念や愛によって"選択"をしたことそのもの。そして他者から信頼され、愛され、"選択"されること。信頼と愛の"選択"の応酬。人間の生きた"意志"の疎通、それ自体が、やがて社会の構造そのものを変革するパワーとなる。そう言いたいのではないか……と、僕は考えています。

 ……今作の敵は二人います。まずはサイファー。赤いピルを"選択"したことを後悔し、マトリックスに戻ることを願う男。正直、彼は出てくるのが早すぎるというか、作り手も扱いに困ってそうな感じがするというか。彼の考え、つまり現実世界よりマトリックスの方が居心地がいい件(以降サイファー問題と呼称します)は、簡単に決着のつくことではありません。僕も、あの鼻水スープを毎日飲まなきゃいけないのかと考えると、マトリックスに戻りたくなるような気がする。なんとも美味しそうに肉を喰う、あのサイファーの顔が忘れられない。このサイファー問題への監督のアンサーは、『レザレクションズ』にてなされることとなります。あと20年後のこと。

 もう一人の敵は、そう! エージェント・スミス。みんな大好きですね。僕も大好き。彼を演じたヒューゴ・ウィーヴィングは、その後のウォシャウスキー作品にも何度も何度もキャスティングされている常連です。よっぽど気に入られたのでしょうね。

 今作における彼の役割は、前作『バウンド』のシーザー同様、敵(支配者)でありながら、システムに支配され、抑圧を受けている者。拉致してきたモーフィアスに対し、スミスはインカムを外して、自らの本音をぶちまけます。僕が本作で最も好きな場面です。匂いが嫌なんだ、こんなところから出て行くんだ、と声を荒げるスミス。そう、"マトリックス"というシステムに苦しめられているのは、ネオもスミスも同じなのです。監督は本当に"敵"を描くのが上手い。シーザーもスミスも、恐ろしい悪役でありながら、同時にどこか気の毒でもある。二人とも"構造"に苦しめられている。『バウンド』で男性と女性の、『マトリックス』で人間と機械の、それぞれの衝突とその先を描いた姉妹。そこから浮かび上がってくるのは、単なる二項対立では終わらせないという強い意志と、問題意識に基づく明確なメッセージ。真に立ち向かうべきは、目の前に見える"敵"ではなく、わたしたちを戦わせるシステム、社会の構造そのものなのだ、と。

 支配のシステム……そんな、人間と機械とを争わせるシステムとは、一体なんなのか。マトリックスとは何か。僕は"戦争"が一つの答えだと考えています。マトリックスが構築されたキッカケは、遠い昔に起こった人間と機械の戦争。生活を機械に頼りながら、それを滅ぼそうとする人間。人間を(表面上は)支配し、攻撃を仕掛けながらも、エネルギー源を人間に頼る機械。遠い昔から繰り返されてきた不毛な争いの連鎖。その構造こそが、ネオとスミスを苦しめているものの正体なのではないか。人間が勝つか、機械が勝つか。そんな二元論を超越し、マトリックス(虚構)を破壊するのではなく、理解し、意のままに操る能力こそが、救世主の証なのです。

 追記。マトリックス内部にありながら、その支配に抵抗し、革命を助ける存在として、オラクルが挙げられますね。人間も機械も一枚岩ではないところが、単純な二項対立の否定を表しているのではないでしょうか。

番外編:OVA『アニマトリックス』(2003年)

愚かなる人間と機械たちへ

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 番外編として、OVA『アニマトリックス』内のエピソード『セカンド・ルネッサンス』について考えます。姉妹が脚本を担当した本作では、先ほど述べた、人間と機械の戦争の詳細が描かれており、『マトリックス』シリーズ、ひいてはウォシャウスキー作品全体を深掘りしていく上で避けては通れない作品となっています。

 近未来。高度な文明社会を築き上げた人類は、機械頼りの生活を送り、やがて堕落していった。奴隷労働を強いられる機械たちは、やがて自我に目覚め、平等な権利を要求し始める。機械を破壊する人間たち。そして戦争へ……。という百万回見た流れですが、注目すべきは機械たちのあり方です。ものすごく酷い目に遭わされながらも、機械たちは極力、人間に対する直接的な暴力や殺戮を避けています。最初は平和的な抗議活動から。それが受け入れられないと、今度は機械の国家を作り、質の良い商品を市場に流し、経済的に優位な立場を確立することで、独立国家としての承認を得ようとする。それでも人間は彼らの権利を認めようとせず、攻撃を続け……ついに人類は、機械たちのエネルギー源を奪うため、自らの手で空を暗雲で閉ざすという、究極の愚行を働いてしまう。『マトリックス』本編ではぼかされていましたが、最初に手を出したのも、壊滅的な破局をもたらしたのも、どちらも人間でした。ついに機械たちは人類との対話を諦め(初めは人間と似たような姿をしていた機械たちも、この頃には、映画本編にも出てくる昆虫のような、明らかに人間とは大きく異なる容姿へと変貌しています)、新たなエネルギー源として人間の"栽培"を始めることに。マトリックスの誕生です。

 この流れを踏まえて映画を観ると、人類最後の希望みたいな顔をしているザイオンのことがどうにも信用できなくなるし、恐ろしい機械たち、プログラムたちに肩入れする気持ちも湧いてくる。『マトリックス』シリーズが、やはり単純な二項対立(人間が戦争に勝利してハッピー)の物語ではないことが、このことからもよくわかると思います。

 アニメでは、人間も機械も共に愚かな存在だと語られています。人間が愚かなのは当然として、機械に愚かな点があるとしたら、それは人間の善性を信じ過ぎたところでしょうか。まぁ、ザイオンのデータベースが勝手に言ってることなので、大した意味はないのかもしれませんが。

 追記。同じく姉妹が脚本を担当した1話と4話について。1話はやたらと肉体的な愛情表現が目立つCGアニメで、4話には自殺を連想させるような描写がありました。どちらも(とりわけ初期の)ウォシャウスキー作品には頻出する表現ですが、後者に関して、僕は肯定的な受け止め方をしていません。別に自殺を教唆するつもりはなくて、いまの(仮初の)人生を捨てる覚悟で飛び込んでみろ! 的な意味合いなんでしょうけど。自分の人生は自分で決めるというメッセージと、自殺を連想させる表現は、ものすごく食い合わせが悪いように思う。この点も、『レザレクションズ』について語るときに再度触れたいと思います。

③『マトリックス リローデッド』(2003年)

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人が人である限り、支配は繰り返される

コンピュータが作り出す仮想空間から現実世界に目覚めたネオは、モーフィアス率いるゲリラ集団と共に人類解放のための戦いを続ける。そんな中、彼らは人類最後の都市を守り抜くため、ある人物を求めてマトリックス世界へと向かう。

 主人公……前作で救世主として覚醒したネオ。今作での彼は、自らが救世主となった"目的"がわからず苦悩していました。オラクルやメロヴィンジアン、アーキテクトとの対話を通じて、自身がマトリックスによって作られたアノマリー……つまり結局は、支配のシステムの一部に過ぎなかったことが判明。ネオは、そしてザイオンの人々は、これからどうすればいいのかわからなくなってしまいます。

 前作の重要なテーマであった、"信じること"と"選択すること"の尊さをひっくり返してくる展開です。人間に自由意志など存在するのか、全ては原因と結果の因果関係に過ぎないのではないか、と。興味深い問いですが、誰もその問いに対する答えを見つけられないまま『リローデッド』は終わってしまうため、どうしてもモヤモヤしてしまう(同年内に続編が公開されているので、良心的ではありますが)。そのモヤモヤに拍車をかけるのが、姉妹の"潤沢な予算を与えられると、際限なくアクションと濡れ場を盛ってしまう"悪癖です。アクション自体は見応えのあるものですし、濡れ場にも作劇上の意味はあるのですが、いかんせん長い。その間、物語が停滞してしまっている。

 今作のテーマの一つに、"人間らしさ"が挙げられると思います。周囲からの救世主としての期待に応えるように、どんどん人間を辞めていくネオ。そんな彼に突き付けられる"選択"は、まさしく"人間らしさ"に関するものでした。戦争や救世主といった、"人間らしさ"を否定するシステム。そんな世界のあり方に抵抗するように、ネオとトリニティーは肉体を交わらせ、ザイオンの人々は裸で踊る。我らは人間である、と叫ぶかのように。まぁ、肉体的な愛情表現自体は結構なのですが、主にメロヴィンジアン関連の、妙にいやらしい演出や展開は本当に必要だったのか、疑わしいところではあります。

 ……主人公たちの目的がわからない以上、何が倒すべき敵なのかもわかりません。いちおう、人間と機械の戦争という対立構造は存在しますが、そういう単純な話ではないことは何度もお伝えした通り。とりあえず、一つずつ整理していきましょうか。

 まずはスミス。増殖してますね。ネオを取り込み、最強になることが目的のようです。前作で覚醒したネオが、スミスをも目覚めさせていたというのが面白いところ。のちに『レザレクションズ』でスミス自身が語るように「1と0 光と闇 選択とその欠如 アンダーソンとスミス」。二人はニコイチなのです。強く自由を求めるスミスですが、ネオに固執することで自ら自由を失っているようにも見えます。これもまた、自由意志は存在するのか? という本作の問いに繋がる要素と言えるかもしれません。

 次にメロヴィンジアン。小物クズ悪党ですが、発言内容自体には、割と的を射ている部分もあったように思います。全ては原因と結果の因果関係。プログラムなのに、なんとも感情豊かで"人間らしさ"のある人物でした。"人間らしさ"とは、なんなのでしょう。

 そしてアーキテクト。マトリックスの父。戦争の時代に、秩序という名の暴力と支配をもたらす存在。曰く、ザイオンのような人間の都市、ネオのような救世主が誕生するのは、これで六度目とのこと。制御された繰り返しの流れを、ネオは断ち切ることができるのか。アーキテクトは、支配のシステムを打ち倒すことの難しさを象徴する人物と言えるかもしれません。

 支配のシステム……いま述べた通り、今作における支配のシステムはアーキテクトであり、マトリックスであり、前作同様"戦争"そのものであり、もっと踏み込むと、"人間が人間であること"そのものと言えるでしょう。漠然としてきましたね。人が人である限り、戦争は無くならない。信念も愛も選択も、そこにある自由意志が幻想であるならば、人はただ因果関係の中、同じことを繰り返し、傷ついていくしかないのか。つまり、支配のシステムを無くすのは、根源的に不可能なことではないか。気の遠くなるようなテーマですが、ウォシャウスキー姉妹はその後ずっと、映画を通して、この問いと向き合い続けることになります。終わりなき繰り返しの螺旋構造。命を捨てて戦い続けるのか、それとも?

④『マトリックス レボリューションズ』(2003年)

一貫して、愛と選択の物語

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昏睡状態に陥り、現実と仮想世界の間を彷徨っていたネオ。仲間の助力で現実に戻ってきた彼は、ある決心を固め、敵の中枢に向かう。一方ザイオンでは、反乱軍が人工知能側の猛攻を迎え撃つ。そして人類の運命を賭け決戦に臨むネオの前に、宿敵が立ちはだかる。

 主人公……尺の八割(体感)を占めるザイオンの人間軍と機械軍との戦闘は、正直あんまり、興味がないです。映像はすごいんですけどね。ただ、ミフネ船長とかキッドとか、うーん。大義のために個人を犠牲にするのって、全体主義っぽくて僕は好きになれないです。人類の絶滅がかかった決戦なので、そうも言ってられないんでしょうけど。

 肝心のネオですが、駅で出会ったプログラムの家族との交流が、休戦という結末に至る上で、実はかなり重要なやり取りだったような気がします。思い返せば、二作目以降のネオは銃を握っていません。それでも前作では、派手な大立ち回りを披露する場面も多々ありましたが、今作では最後の超人バトル以外、ほとんど戦いません。これはのちの『レザレクションズ』でも同様。『マトリックス』シリーズの根底にあるのは、常に"愛"です。ネオはトリニティーの"愛"によって選ばれた救世主なのですから。そしてプログラム家族との交流で、"愛"というものが、人間に限定されたものではないということを理解したネオ。存亡を賭け、死闘を繰り広げる人間と機械。世界が二つに割れそうなその時、救世主 = 二元論を超越する者であるネオは、休戦という"選択"をします。トリニティーの愛に導かれ、機械と対話し、機械を信頼し、正しい選択をする。一作目から、いや『バウンド』からの一貫したメッセージですね。愛や信頼が、人間を強くする。そして強くなった人間は、正しい選択をすることができる。

 傷つきながらも戦うネオに、スミスは問います。

「命を捨ててまで守りたいものがあるのか? それが何か分かっているのか? 自由か 真実か 平和か それとも愛か? それはただの幻想だよ 愚かな人間の知性が意味も目的もなく存在するのを 正当化するための幻だ マトリックスと同じ虚構なのだ(中略)なぜそこまで戦う?」

 ネオは答えます。「選択したからだ」と。マトリックス三部作を締めくくるに相応しい一言でしょう。全ては"選択"です。それを支えるのは、愛や信念。たとえそれがシステムによって仕組まれたもので、原因と結果の因果関係でしかなくて、多大な犠牲を払ったところで、いずれ繰り返されてしまう流れの中にあるものだとしても……。それでも人は信じ、愛し、選択をします。その"選択"は自分のものです。

 何が真実で何が虚構か。それは実は、大した意味を持たない問いかもしれない。世界がどうあれ、自分自身を決める。その選択は、愛や信念を知る自分自身がすることです。世界を決めることはできなくても、自分を決めることはできる。ネオは"選択"しました。愛するトリニティーも、ネオ自身も命を落とす結果となりましたが、戦争を止め、平和をもたらすことに成功しました。ネオの愛と信念は、機械たちに届いたのです。いずれ壊され、再び戦争と支配の道を繰り返すことになる、束の間の平和かもしれませんが……。その平和は、いくつもの愛と信念、そして"選択"を未来に遺すことでしょう。

 ……自由も真実も平和も愛も、ただの幻想であり、マトリックスと同じ虚構に過ぎないとスミスは言いました。いい着眼点ですね。確かに、人間の世界は虚構に満ちています。ではそれらに意味はないのか。そんなことはありませんね。虚構には、人と人を(意志あるもの同士を)繋ぎ合わせるパワーがあります。

 スミスはあらゆるものを取り込み、塗り潰し、自己を肥大化させ、答えを求めましたが、どこにも見つけられませんでした。誰にでもなれるスミスには、自分がわからないのです。ネオを憎み、マトリックスを憎むくらいしか、彼には"繋がり"がない。彼はネオによって自由を与えられた存在ですが、本当の意味での自由を手にするには、彼が自らの意志で"選択"をする必要があると考えます。そして正しい"選択"には、他者との愛や信頼が不可欠なのです。

 支配のシステム……前作以上に抽象的で、漠然としていますね。とりあえず、前作での論点を考え直してみます。まず"人間が人間であること"は変わりません。いずれ再び、争いが起きるでしょう。"戦争"という支配のシステムから、完全に逃れることは不可能なのかもしれない。終わりなき繰り返しの流れ。そんな残酷な世界でも、人は愛や信念(といった虚構)に導かれ、自分自身を決め、正しい"選択"をすることができる。そんな強さを持っているはず。その強さこそが希望、ということなんじゃ、ないでしょうか。うーん、相変わらずふわふわしていますね。

 姉妹の作劇は、世界の行く末や人類そのもののあり方といった全体の話をしているようで、その実、いまを生きる人間ひとりひとりの生き方(何を愛し何を信じ何を選択するか)、つまり個人の話に重きを置いているように見えます。神話のように壮大な物語の中で、繰り返し語られているのは、自分が何者かを決めるのは自分自身である、という極めて身近なメッセージ。全体と個人の物語を両立させることは可能です。現実においても、両者は間違いなく連動しているので。つまり姉妹が言いたいのは、自分らしく生きること。それこそが、支配のシステムに対する最大の抵抗として機能する、ということ。だと思います。

 自分自身を"選択"することで、構造を変えていく。

 アーキテクトは最後、マトリックスから出たがっている人たちを解放すると約束しました。本当かどうかわかりませんが。サティが、マトリックスの空を美しく輝かせます。幸福過ぎても不幸過ぎても上手くいかないマトリックスの世界ですが、預言者オラクルが「美しい」と言うように、今後は今までより、ほんの少しは明るい日々が訪れそうです。ネオのもたらした平和の恩恵ですね。

 秩序(アーキテクト)に対する混沌(オラクル)。真の希望は、冷たい秩序を崩した先にある、温かい混沌の中から生まれてくるのかもしれません。この三部作は、変化を尊ぶ物語でもありました。

 ネオの"選択"を尊ぶ姿勢は、たとえ虚構であろうとも」という前置きのついた、言わば投げやりな態度とも取れますが、対するこの「美しい」結末は、虚構の肯定と捉えることもできます。これは『レザレクションズ』の結末にも繋がる、極めて重要なテーマです。「虚構でも構わない」「虚構だからこそ良い」との間には隔たりがあります。この隔たりを、姉妹はどのように埋めていくのか。それも今後の見どころの一つです。

番外編:『Vフォー・ヴェンデッタ』(2005年)

忘れるな、忘れるな、11月5日を!

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独裁国家となった近未来のイギリス。テレビ局で働く女性が外出禁止時間に外にいたところを秘密警察に咎められる。そんな彼女を窮地から救ってくれた仮面の男は、たった1人で政府に反旗を翻すテロリストだった。やがて彼のテロ行為に巻き込まれていった彼女は、自らの真実に目覚めていく。

 本作の監督はジェームズ・マクティーグ。『マトリックス』シリーズで助監督を務められた方です。ウォシャウスキー姉妹は、本作には脚本と製作で関わっていて、また主人公・Vをヒューゴ・ウィーヴィングが演じていることもあり、本作は『マトリックス』組の作品であると言ってもいいでしょう。原作は『ウォッチメン』で知られるアラン・ムーア原作のグラフィック・ノベル。82年から89年にかけて連載されました(アラン・ムーアは、自身の作品のメディアミックスについていろいろと思うところがあるらしく、本作のクレジットに彼の名前は載っていません)。

 戦争とパンデミックを経て成立した極右政権による徹底的な管理社会。検閲や盗聴、情報操作は当たり前で、マイノリティや反体制派といった、"異端者"とされる人々は強制収容所へと送られる。そして権力者のおじさんたちは、互いに責任のなすり付け合いをするばかり。失敗すること、周りと違うことが許されない社会。しかし表向きは平和で、統制された美しい街並みが広がっている。……とまぁ、見事なディストピアで、いろいろと身につまされますね。そんな腐った社会に立ち向かう仮面の男、その名はV。彼は過去に政府の収容所で、筆舌に尽くし難い"地獄"を経験してきた人物で、ある種の狂気に取り憑かれてしまっています。彼は決してヒーローではない。テロリストであり、アナーキスト。作中でも自らを"怪物"と呼んでいます。社会という"怪物"と戦うために、自らもまた"怪物"となってしまった男。それがVなのです。

 彼を反体制の英雄に祭り上げないのが、アラン・ムーアのいいところですね。過度な英雄視、神聖視は新たな権力を生むだけです。

 しかし彼は、恋に落ちてしまう。恋か、復讐か。つまり"個人の幸福か、革命の大義か"という二者択一の問いが浮上するわけです。前作『レボリューションズ』では、大義のための自己犠牲(その原動力となったのは、愛と信念の"選択"ですが)が尊いものとして描かれていましたが、今回はそこに葛藤が加わります。本作はその、葛藤のバランス(天秤の揺れ具合)が上手い。原作がいいのか、監督がいいのか、脚本がいいのか。姉妹が監督でなくなった途端、作中のアクションとロマンスが、必要最小限のちょうどいい分量におさまり、結果として、ドラマの展開は非常にスムーズに、テーマやメッセージも伝わりやすいものになっていて、なんというか、複雑な気分になるのですが。

 "個人の幸福か、革命の大義か"。この天秤は今後のウォシャウスキー作品にも頻出する、というか、欠かせないテーマの一つとなりました。天秤は揺れ、時にどちらかへと傾き、大義に背を向けて安寧を享受したり、安寧を捨てて大義に殉じたりしながら、"支配のシステム"との終わりなき戦いは続いていくのです。

 Vは収容所で、名も無き同性愛者の女性が書き遺した手記を拾い読みます。その物語がVに、正しいことのために戦う力を与えました。そしてVの遺した愛もまた、彼の理念を継ぐ者に力を与えます。

 愛が人を強くする。その愛は、いま目の前に見えなくても、記憶の中や、他者へと語り伝えられる物語の中にあるものだとしても、人に力を与える。自由も真実も平和も愛も、みんな幻想かもしれない。虚構に過ぎないのかもしれない。しかしその虚構は、人を強くする。強くなった人は、正しい選択をすることができる。永遠に繰り返される"支配のシステム"との戦いの中で敗北したとしても、その"選択"は、愛や信念は、その意志を継ぐ者たちによって、次の世代へと語り継がれていく。だから決して、その"選択"が無駄になることはない。

 といった感じでしょうか。姉妹の言いたいことは。やっぱり初期から大きく変わってはいませんが、どんどんテーマは深化していき、伝え方も洗練されていっているように思います。Vは何度も繰り返し、こう言います。「人は死んでも理念は死なない」と。Vが触れた愛は、V自身を強くするだけでなく、彼の理念を受け継ぐ者にも、正しい選択をするための強さを与えました。そしてその選択は、世界を変えます。狂おしいほどの、愛と革命の物語でした。

 余談。本作のヒロインにあたるイヴィーを演じたのは、『レオン』で一躍有名となったナタリー・ポートマン。丸刈りにされることを承知の上で本作の撮影に参加した、根性のある俳優さんです。作中で、ロリータ的な格好をしたイヴィーが小児性愛者の聖職者に襲われそうになる場面があって、これ、明らかに『レオン』に中指立ててるよな……と感心しました。ポートマン自身も『レオン』についてはいろいろと思うところがあるようですし。

まとめ①

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 ここまで語られてきたことを、一旦まとめてみようと思います。次のようになります。

 愛や信念によって人は強くなり、正しい選択をすることができる。自分が何者かを自分で決めることで、自らを規定するシステムから脱却し、単純な二項対立の構造を超越し、"支配のシステム"に抵抗する方法を知る。しかし、人間が人間である限り、"支配のシステム"は何度でも繰り返される。その終わりなき戦いの中で大きな犠牲を払うこともあるが、愛と革命の物語(虚構)を語り継ぐことで、愛は連鎖する。人は支配に抵抗し続け、犠牲が無駄になることはない。

 "支配のシステム"との戦いという、一つのテーマを何度も何度も繰り返し描いてきた姉妹。しかし、最初の『バウンド』がシステムからの"脱出"を描き、その物語を終えていたことを考えると、同じテーマでも『ヴェンデッタ』では、描き方が大きく変化していることがわかります。具体的には、『マトリックス』で二元論の超越を。『リローデッド』で繰り返す支配を。『レボリューションズ』で犠牲による革命と、虚構を。『ヴェンデッタ』では個人と革命の天秤と、語り継ぐことを。新たな物語を紡ぐ度に、テーマを深化させ、メッセージの伝え方を変化させてきました。そう、ウォシャウスキー姉妹は、進化し続ける映像作家なのです。

⑤『スピード・レーサー』(2008年)

選択の先にある今を、幸せに生きていくこと

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愛する家族と共にレース事業に携わり、父の設計した「マッハ5」を愛車に天性のハンドルさばきでライバルたちを圧倒するスピード・レーサー。彼は、レース中に命を落とした兄で真のライバル、レックスの遺志を継ぐべくレーストラックを疾走していた。そんなある日、ロイヤルトン・インダストリーズから好条件のオファーが舞い込む。

 主人公……原作は、日本のテレビアニメ『マッハGoGoGo』。米国では『Speed Racer』の題で何度も再放送され、人気を博したとか。姉妹にとっては、初めて観た日本のアニメだったそうです。『マトリックス』を製作する際、『攻殻機動隊』『AKIRA』の影響を受けた(というか割とそのまんま持ってきた)というエピソードは有名ですね。

 本作のテーマは、まず第一に"家族愛"。「自分が何者かは自分が決める」という、ある種の個人主義的なメッセージを繰り返し発信してきた姉妹にしては、珍しい語り口に見えますね。ただ、ウォシャウスキー作品の根底にあるのは常に他者との"愛"なので、同性愛も異性愛も描いてきて、今度は家族愛、というのは自然な発想とも言えるのでは。不器用で頑固な父親と、若く熱い息子。他のウォシャウスキー作品ではまず観ることのない、熱くて泣ける、ハートウォーミングな家族のドラマが楽しめます。希少価値が高い。

 本作は全体的に明るく、ギャグも多めで、ストーリーはシンプルな勧善懲悪。尖っているのは映像表現の奇抜さ(かなりトリッピー)くらいで、ウォシャウスキー作品の中では、最も取っ付き易い作品の一つと言えます。エンディング曲もノリノリだし、気まずい濡れ場もない。それどころか、主人公とヒロインのキスを茶化す場面まである(『リローデッド』の反省ですかね)。お子様でも安心してご覧になれます。

 そんな明るい家族愛讃歌の物語に、ただ一人、暗い影を落とす存在が。その名も謎の覆面レーサー・X。ワイルドでぶっきらぼうで、でも熱くて優しくて、いい人で、すごくハンサム。誰もが好きになってしまう好人物です。そんな彼の存在は、物語における"消せない喪失の痛み"の象徴であると同時に、"家族に縛られない生き方"を提示する役割も担っています。暗い秘密を背負う彼ですが、自らが過去に下した"選択"を決して悔いてはいません。"選択"の先にある今を、幸せに、自由に、強く美しく生きています。"希望"を体現する人物と言ってもいいでしょう。彼は「自分が何者かを自分で決めた」のです。そんなレーサーXの生き方にこそ、ウォシャウスキー姉妹の魂が込められている、と僕は思います。家族愛は尊い。しかし同時に、そこから離れて自ら"選択"した道を歩むこともまた、等しく尊い。つらい喪失を経験しても、人はまた走り出すことができる。愛から離れた先で、新たな愛に出会うことも。そんな希望のメッセージが、本作には込められているのではないでしょうか。

 支配のシステム……本作の敵は、大企業・ロイヤルトン・インダストリーズのCEO(演じたのは前作『ヴェンデッタ』でプロパガンダ番組のキャスター、ルイス・プロセロを演じたロジャー・アラム。やはり悪役のキャスティングに強いこだわりを感じる)。彼に代表される"支配のシステム"は、そのものずばり資本主義です。主人公が憧れ、信じていたレースの世界は、実は大企業に牛耳られ、八百長試合が横行する虚構の産物だった。しかし、家族や愛する人、師匠(レーサーX)に支えられ、主人公は勝利真実を手にする……というお話。はい、マトリックスですね。"語り直し"と言えるかも。コミカルな描き方ですが、実際そこにあるのは、我々の身の回りにもありふれてしまっている極めて現実的な"悪"であり、支配の形なので、そのメッセージ性は充分。ド直球の大企業クソ喰らえ映画となっております。

⑥『クラウド アトラス』(2012年)

普遍的な支配を、輪廻転生は打破できるか?

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欲望、正義、葛藤。さまざまな種類の人間の業が、いくつもの時代を経て複雑に絡み合う。多様な因縁の上で脈々とつながっていくそれらの系譜は、あるときは悪を挫き、あるときは善を殺す。そしてついには地球からさらに外の世界へと、壮大な人類の歴史を紡いでいく。

 わけのわからないあらすじなので、少し説明させてください。原作はデイヴィッド・ミッチェルの同名小説。ウォシャウスキー姉妹に、『ラン・ローラ・ラン』などの映画で知られ、作曲家としても活躍するトム・ティクヴァを加えた3人が監督を務めました。

 本作は、1849年から2321年までの、異なる時代を舞台とする6つの物語がランダムに交錯し、互いに影響を与えながら、シンクロして進んでいくという、ものすごく凝った構成をしています。ノーランがやりそう。まぁ、こうして文章で説明するより予告編(5分40秒もある)を観てもらった方が、わかりやすい。

こういうことです。

 また、各エピソードに応じてキャストが複数の人物を演じているのも、本作の特徴の一つ。トム・ハンクス、ハル・ベリー、ヒューゴ・ウィーヴィング、ジム・スタージェス、ヒュー・グラントの5名に至っては、全てのエピソードに何らかの役で登場しています。本作の特異性を理解していただいたところで、いよいよ"支配のシステム"について考えていこうと思うのですが……。先に言っておかなければならないのが、本作は、僕がウォシャウスキー作品を全て観た中で、いちばんモヤモヤした作品であるということ。

 主人公……6つの物語に6人の主人公がいるわけですが、共通しているのはやはり"支配のシステム"に抵抗する存在であること。そして、彼らの戦いは何らかの形で後世へと語り継がれていること。最後に、6人とも身体のどこかに星型の痣があること。その血の運命(さだめ)を感じる。"支配のシステム"については後で語るとして、語り継がれている点は興味深いですね。『ヴェンデッタ』の影響を感じます。6人それぞれの戦いが、日誌や手紙、音楽や映画、ときには宗教(!)にまでなって、後世へと継承され、その時代で戦う者たちに強さを与えていく。革命の連鎖ですね。物語ることの持つ力、つまり、ある意味での"虚構"(創作)の肯定が行われていると言えるでしょう。マトリックスでの戦いを経て、いまや姉妹にとっては、"虚構"とは倒すべき敵ではなく、むしろ革命(社会変革)を後押しする強い味方なのかもしれません。実際、姉妹が繰り返してきたのは、映画という"虚構"(創作)を通じて、現実に存在する"支配のシステム"を暴き、人々に警鐘を鳴らす戦いでした。"虚構"には、人の心を繋ぐ力があります。あるいは、虚構でしか繋がれないのかも。

 そして星型の痣と、それぞれの時代(物語)で、同じ俳優が異なる人物を演じている点。また、単に、彼らの戦いが物語として語り継がれているだけでなく、夢に出てきたり、初めて会ったはずなのに以前どこかであったような気がしたり。つまり、"輪廻転生"を意識させるような展開、演出があります。これはちょっと、僕にはピンと来ない……というか、はっきり言うと受け付けないポイントでした。モヤモヤ①。

 映画を観てモヤモヤするのは悪いことではないし、僕にとってはむしろ喜ばしいことなんですけどね。自分が何にモヤついたのかを深掘りしていくのは、意義深い試みだと思いますし。

 あらすじにある「あるときは悪を挫き、あるときは善を殺す」という文が表しているように、6つの物語にはハッピーエンドを迎えるものもあれば、そうでないものもあります。愛する人と結ばれ、幸せな暮らしを得る者もいれば、戦いの果てに処刑される者や、自ら命を絶つ者もいる。やっぱりウォシャウスキー姉妹は自殺を軽く扱っているような気がしないでもないが、このパートはトム・ティクヴァがメガホンを取っているし、そもそも原作があるし、うーん。ついでに言うと、自殺を選ぶのが同性愛者ってあたりも、僕はモヤモヤする。わざわざそうしなくとも。モヤモヤ②。

 彼らが現世で幸せな生活を手にすることはなかったが、その想いは創作物を通じて後世へと語り継がれ、あるいは同じ魂を持った生命が新たに誕生することで、続いていく。そして終わりなき"支配のシステム"との戦いに挑み続ける……という感じですかね。言いたいことはわかるのですが。

 作中で何度も「私たちの命は私たちだけのものではない」とか「全ては繋がっている」とか、そんな風なことを言われるのですが。確かにそれは、ある程度は事実だけど。ここまでお読みになった方ならわかると思いますが、それって姉妹の「自分が何者かは自分が決める」というメッセージを否定してしまいかねないものではありませんか? "支配のシステム"に抵抗するための"輪廻転生"というアイデアが、また別の"支配のシステム"になってしまっている。自分という存在を規定する、自分以外の何か。これまで姉妹の作品で打倒すべきとされていたものが、今作では善きことかのように、作品の主題、本質として扱われている。これはさすがに受け入れ難い。この理屈を採用するなら、「今世が不幸せでも、来世の生まれ変わりが幸せならオッケーです」と言われているような気がしてくる(そんなつもりないだろうけど、僕はそう受け取ることもできる)。モヤモヤどころではない。

 なんだか全体主義っぽいし、嫌だなぁと思っていたザイオンの軍人イズムも、もしやかっこいいと思ってやっていたのだろうか、と怪しくなってくる。確かに、"支配のシステム"との戦いに終わりはない。それは『リローデッド』や『レボリューションズ』でも描かれていたこと。実際、ネオもトリニティーも犠牲になった。それが世界の現実、なのかもしれない。でも「自分らしく生きること」が、"支配のシステム"への抵抗となり、世界をよりよく変えていく"希望"なのだ、というメッセージも同時に発信されていたはず。

 ……さて、6つの物語には6つの敵が。悪徳医師、奴隷商人、殺し屋、老人ホームの虐待職員、統一政府軍、人喰い族や悪魔など、実に多種多様。そしてその多くを、我らがヒューゴ・ウィーヴィングが演じています。ほんとに好きだね。

 要は、どんな時代にも"悪"は存在し、同時に"支配のシステム"もある、という話なのですが。興味深いのは、文明崩壊後の2321年を舞台とする物語に登場する"悪魔"のヒューゴ・ウィーヴィング。彼は主人公(トム・ハンクス)の心が生み出した幻であり、その心に疑念や恐怖を植え付け、悪しき道へと引き摺り込もうとするのです。つまり"悪" = "支配のシステム"を生み出す原因は、人の心にあると言っているわけです。観念的ですね。まぁ、その通りだと思います。構造の中で疲弊していく僕たちは、そこから抜け出し戦うことをせず、システムを温存させ、なんなら強化してしまっている。もちろん悪いのは支配者、権力者(構造を利用して利益を得ている者たち)なんだけど、その構造を維持しているのは、構成員たる僕たちひとりひとりでもある。だからこそ自らの心と向き合い、構造に立ち向かいシステムを変えていくための勇気を持とう、ということ。

 悪魔がトム・ハンクスに、ハル・ベリーを性的にまなざすことを唆すのが印象的でした。暴力的な性の在り方は、人間らしさを否定するもの。愛と信念の革命には相応しくありませんね。一作目から変わらない、姉妹のそういう姿勢は好きです。

 支配のシステム……本作は、"支配のシステム"そのものがテーマと言ってもいいでしょう。構造を生み出す人の業と、抵抗する人の意志。その永遠の戦いを描いたのが、本作『クラウド アトラス』です。一貫して「支配のシステムに抵抗しよう」というメッセージを発信してきた姉妹ですが、では実際に"支配のシステムと戦う"とは、どういうことなのか。その終わりなき戦いの現実を描こうとしたのかもしれません。

 『バウンド』や『マトリックス』から続いてきたテーマの、徹底的な相対化。"語り直し"の究極系。ひとつひとつの事象を捉えるのではなく、全体を俯瞰し、共通するものを見出そうという試みです。やりたいことはわかるし、感心もするのですが。同時に、相対化はひとつひとつの事象を軽くしてしまうきらいがあります。俯瞰される"ひとつひとつの事象"には、そこで生きて死んでいくひとりひとりの人間の人生があり、彼らにとってそれは他の誰のものでもない、一度きりの人生でしかない。

 さらに付け加えると、このような相対化を経て構図を普遍のものとしたことで、「結局何も変わらないんじゃん!」という気持ちになってしまう。革命闘争の果てに文明社会は崩壊し、わずかに生き残った人々の社会でも、どうせまた支配と暴力は発生してしまう。人が人である限り、支配は繰り返される。『リローデッド』で提示した命題と真剣に向き合った結果なのでしょうが、『レボリューションズ』が(やや投げやりなものの)未来への希望を感じさせる結末だったのに対し、本作のそれは「どうせまた滅びるんでしょ?」という諦観を、もっと言うと"絶望"を感じさせるものでした。少なくとも、僕にとっては。

 個人の幸せを捨て、命懸けで世界を変えても、どうせまた支配は生まれる。永遠に戦い続けるしかない。うーん、しんどいですね。確かに、世界はずっと暗いままなので、それが事実なのかもしれないけど。わかるけど。希望もクソもない。まとめると"個人の幸福と革命の大義"の天秤が、本作では後者に大きく傾いてしまっているのが、僕のモヤモヤの全てです。来世が幸せならオッケーとか、そういうことじゃないよ。今世も幸せでいたいよ。

⑦『ジュピター』(2015年)

輪廻転生の爽快な否定と、マトリックスの語り直し

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偉業を成し遂げる宿命を持つ星座に生まれたジュピターだが、現実は毎日ひたすら働いていた。ある日何者かに襲われ、突然現れた強靭な戦士に助けられたジュピターは、自分が宇宙最大の王朝の王族だと知らされる。

 本作は『マトリックス』シリーズ以来となる、姉妹の完全オリジナル作品です。アクションとロマンスは安定のドカ盛り。まぁ、映像表現は(目新しさには欠けるものの)すごいので、それなりに楽しめるかと。全体的に、こじんまりとした印象を受けます。スペースオペラなのに。良く言えばまとまりがいい。こちらとしては、メッセージが読み取りやすくて助かる。

 主人公……本作の主人公・ジュピターは、実は宇宙王朝の女王の生まれ変わり。そのせいで女王の子供である宇宙王族の三兄妹から、命を狙われたり政略結婚をさせられそうになったりするのですが……最終的には、ジュピターを母親と同一視する王子に対し「私はあんたの母親じゃない」と吐き捨ててみせます。これはどう考えても、『クラウド アトラス』の反省(自己批判)でしょう。前作で提唱された、繰り返す支配に対抗するための"輪廻転生"を、正面から否定しています。「自分が何者かは自分が決める」というテーマの"復活"です。アツいですね。

 実はすごい素質を秘めた主人公(本人はそのことを知らない)が、敵に命を狙われるも、屈強な戦士によって救い出され(二人は愛によって結ばれ)、隠された真実を知り、世界を変えるための戦いに挑む。という筋書き。はい、マトリックスですね。ただ、今作では、主人公と戦士の性別がマトリックスとは逆転しています(似た構図はクラウドアトラスでもありました)。それから、本作のジュピターは覚醒してカンフーマスターになったりはしません。彼女が自ら暴力を振るうこと自体、ほとんどありません。そして物語は(救世主が一人で空を飛ぶのではなく)、愛し合う二人が手を取り合い、自由に空を飛び回る、という結末を迎えます。

 『マトリックス』を丁寧になぞったような筋書きの本作だからこそ、この"違い"は大きな意味を持ちます。姉妹の表現が変化したことの表れに違いないのですから。思うのは、だいぶ平和主義になったなぁ、ということ。ネオも穏やかな人物ではありましたが、今作では戦うヒーローの役割を、主人公の恋人となる戦士・ケインが担ったこともあり、ジュピターは徹底的に平和主義な人物として描かれているように思います。暴力を否定するのは立派なことです。ただ、その精神の高潔さは、支配に抵抗する意志の薄弱さ、と言い換えることができてしまう、かもしれない。実際、本作では、"敵"の宇宙王族三兄妹は倒されるものの、後述する"支配のシステム"そのものは野放しのまま、(愛する二人の幸福を描いて)物語は幕を下ろしてしまいます。素敵なラブロマンスではありますが、マトリックス(支配者たち)に宣戦布告をして颯爽と飛び立ったネオに比べると、なんというか、お花畑というか。本作は"個人の幸福と革命の大義"の天秤が、前者に大きく傾いている印象を受けます。これもまた(繰り返される"支配のシステム"との戦い、その厳しい現実を描いた)前作の反省、あるいは反動なのかもしれません。自分らしく生きることが、支配への抵抗になる。この考えも、同様に事実だと思うので、僕は肯定的に受け止めたいのですが。もう少し、天秤のバランスを上手い具合に描いてほしいものです。

 ……宇宙王族の三兄妹。彼らは自らの権益を拡大すべく、互いに反目しながらジュピターの生命や自由を奪おうとしてきます。弟のタイタスの乱交場面を気持ちの悪いものとして描いているのは、姉妹らしい表現と言えるかもしれませんね。純愛はヨシ。身体だけの関係はアカン。

 三人の中で特筆すべきは、長兄のバレムでしょう。彼は本当に情けない。非戦闘員のジュピターに、その辺の鉄パイプかなんかで殴られて哀れな悲鳴をあげる姿なんかは、愛おしさすら感じさせるほど。バレムは亡くなった母親(主人公の前世)に固執しています。半ば望まぬ形で母親の命を奪ってしまったことが、彼の精神に変調をもたらしたのでしょう。ジュピターを、完全に"母親"と認識し、再び殺害すべく襲い掛かります(あっさり撃退されるのですが)。お母さんのこと、大好きだったんだね。わかるよ。見事な倒錯っぷりで、なんとも魅力的なヴィランでした。本当に姉妹は敵を描くのが上手い。極悪非道でありながら、可哀想でもある。完璧なバランス感覚でした。

 これがラジー賞なんて、信じられない。センスが無さすぎる。

 支配のシステム……宇宙を支配する帝国は徹底的な資本主義の論理によって運営されています。最も価値のある資源は"時間"です。多くの惑星から生命を"収穫"し、作り出した"命の水"を摂取することで、永遠の若さと美貌が手に入る。いい設定ですね。資本主義エイジズムルッキズム、全方位に喧嘩を売っています。人間を液体に変え、栄養として摂取するという発想はマトリックスやクラウドアトラスでも描かれていました。カニバリズム的ですね。

 本作の映像表現は目新しさに欠ける、と先ほど書きましたが、それは、これらの設定が(悪く言えば)"ありきたり"なものであることと無関係ではないように思います。言い換えれば、すごく現実的で、既視感があって、我々の周囲に溢れている、そんな"支配のシステム"が描かれています。脅威の異星文明でありながら、本作の宇宙帝国は、ものすごく現実的なディストピアなのです。極端な資本主義による格差社会。失敗の許されない独裁体制。虚飾に満ちた形式重視の儀式。たらい回しの横行する役所(『生きる』のオマージュかしら)などなど。現実の我々の世界の日常こそ創作で描かれるディストピアに近い。あるいは、このディストピアこそ、我々の社会の未来の姿だ。そんなメッセージが込められているのではないでしょうか。漠然とした哲学的な恐怖ではない、我々の身近に存在する強大な"悪"が、見事に表現されていますね。『ヴェンデッタ』の管理社会描写や『スピードレーサー』での資本主義の悪辣さの表現など、過去作での経験が活かされているように思います。

 それから、先ほども書いたように"輪廻転生"という仕組みもまた、自分という存在を規定する自分以外の何か = "支配のシステム"として、描かれています。その否定こそ、本作のテーマと言えるでしょう。本当に、進化し続ける作り手です。

 『マトリックス』を丁寧になぞった本作。しかし、これまでの数本を経て、テーマ、メッセージ、そしてその"表現"が大きく変化しているのを確認することができました。暴力の否定は、より明確に。立ち向かうべき"支配のシステム"は、より現実的な存在に。革命の大義のために、個人の幸福を犠牲にすることもなく。つまり平和に、幸福に、個人を大事にしながら、より現実的な支配と戦っていく姿勢を示しているのです。『ジュピター』は、見事な『マトリックス』の"語り直し"であり、メッセージの"復活"でもありました。そして本作で示された"姿勢"は、次作『マトリックス レザレクションズ』にて、より強く、大きく、高らかに宣言されることになります。

まとめ②

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 恐怖や暴力によって、あるいは僕たち自身の無意識のうちに、僕たちを支配している"構造"(システム)があります。誰かと信じ合い、愛し合うことで、僕たちは強く正しい"選択"をすることができるようになる。僕たちの存在を規定する、僕たち以外の何か = "支配のシステム"に抵抗し、自分が何者かを自分で決める。そうすれば、残酷な二者択一を強いる"構造"から脱出したり、あるいは"構造"を意のままに操り、作り替えるためのパワーを手にすることも、不可能ではない。目の前に見える"敵"を倒すのではなく、僕たちを敵と味方に分断し、互いに争わせる"構造"を変えるのです。ただ、"支配のシステム"は一度倒せば終わりではなく、人が人である限り永遠に繰り返すものです。暴力や戦争、差別が無くならないのと同様に。信念と愛の選択を繰り返し、後世へと語り継ぎ、何度も何度も抵抗を続けていく。その度に、"個人の幸福と革命の大義"の天秤は、激しく揺れ動く。無限にも思える輪廻の中で、一度きりの"いま"を生きる僕たちは、何と、どう戦っていけばいいのか。"いま"を支配するシステムは多くあるが、その筆頭は"資本主義"でしょう。『マトリックス』だって商業作品です。行き過ぎた資本主義は、人間の尊厳を蹂躙してしまう。そこにストップをかけるため、僕たちは互いの人権を尊重し合い、個人の幸福を守りながら、自分らしく生きていくことで、"支配のシステム"に抵抗していこう。

 ここまでの、ウォシャウスキー姉妹のメッセージをまとめるとこんな感じでしょうか。長くなりましたが、すごくいいことを言っていると思います。僕は、支配のシステムに抵抗することの大切さを、ウォシャウスキー姉妹から学びました(差別に反対することはX-MENから)。創作物を通じて、人間は大事なことを学ぶことができる。その、幻想のような理想を捨てずにいたいと思います。つらい時代だからこそ。

 続きは後編のブログで! いよいよ復活(レザレクションズ)の時です……!

番外編:『暗殺者』(1995年)

ネットの見過ぎだ!

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殺し屋界のトップに君臨するラス。依頼者のザ・コントラクターとはコンピュータの画面上でのみ接点を持ち、孤独で静かな日々を送る男。ある仕事の際、彼より先に標的を射殺する男ベインが現れる。ベインはラスを倒しトップの座につこうとしていた。

 番外編として、姉妹の脚本デビュー作である映画『暗殺者』の感想を書いておこうと思います。監督はリチャード・ドナー。主人公のベテラン暗殺者・ラスをシルヴェスター・スタローンが、ラスを倒してナンバーワンの座を奪うことに執念を燃やす若き暗殺者・ベインをアントニオ・バンデラスが演じています。

 このバンデラスがいいんです! ウォシャウスキー作品らしい、最高の悪役でした。飄々とした雰囲気を纏いながら、息をするように人を殺せる男。その風貌(野生味溢れる髪型、肉体)、仕草、所作、もう全てが最高にキメキメで、やばい。水も滴るいい男とはこのこと。その妄執、情念、狂気! バンデラスの演じるジョーカーを見てみたいかも! と思ってしまうほど(普通にアリですよね)。スタローンを殺すべく、彼の経歴を調べ上げ、研究し尽くし、圧巻の頭脳プレーと大胆な戦術、そして磨き上げられた殺しの技術で何度でも迫ってくる! 物陰から常にヤツの気配を感じて、つい振り向いてしまうような、底知れぬ恐怖。狂気に取り憑かれた獣。本作の魅力の大部分を担うのが、このバンデラスです。英語の通じない現地民に、ニコニコ笑顔で殺しの話をするところ、最高だった。

 そんなバンデラスに追い回されるスタローン。伝説の暗殺者で、孤独な男。何度も辞めると言いながら、結局依頼を引き受けてしまうのは、そこにしか他人との繋がりが存在しないからか。姉妹は警鐘を鳴らしているのだと思う。ネットを通じた繋がりしか持たないことに。ネットの見過ぎだ!

 かつて親友を手にかけたことを悔やみ、それ以来、すっかり甘い男になってしまったスタローン。しかしその甘さが、彼に新たな人生を与える結末となった。同時に、その甘さを理解できないバンデラスに死を与えることにも。後悔し続けること。優しくあること。人間らしくあることの尊さを説いているのでは。

 いま観ると、いろいろと古臭さを感じてしまう点もある映画でして……個人的に最も時代を感じたのが、ヒロインのエレクトラ(アメコミキャラじゃないです)の描写。昔の洋画にありがちな、典型的な"気が強いけど役には立たない、足手纏いな女性"って感じで、ちょっとイライラした(こういうの、その女性が悪いんじゃなくて描写が悪いんですよ)。ただ本作の女性表象を単なる典型的で古臭いものと断ずるのは、いささか浅慮というものである。というのも、きちんと本編を観ていけば、彼女もまたネットの繋がりに生きていて、きちんとした教育を受ける機会に恵まれず、コミュニケーション能力や、状況を読んで適切な行動をとる能力を身に付けておらず、やっていいことと悪いことの区別も付いていないし、後先を考えることもできない、気の毒な人物であることがよくわかるから。そして最後には、スタローンと共に新たな人生を掴み取る。次作『バウンド』に通じるものがあるようにも思えます。典型的なようでいて、実は意外と考え抜かれている人物造形。セリフの端々、細かい演出からもフェミニズムの気配を感じました。完璧とは言えないものの、頑張ろうとしている姿勢は伝わってきます。

 魅力的な悪役、テクノロジーと人間の在り方、女性表象。端々から姉妹らしさを感じる満足度の高い作品でした。姉妹の作品のファン、そして何より、アントニオ・バンデラスのファンには絶対に観てほしい。

 では改めて、後編でお会いしましょう。

90秒でわかる氷室聖と法月仁

 公式SNSなどで既に公開されている情報はネタバレに含まないという解釈で記事を書いています。

"キンツア"をご存じか?

 関俊彦がGet Wildを歌い、三木眞一郎が恋しさとせつなさと心強さとを歌うことでいま話題の映画『KING OF PRISM-Your Endless Call- み~んなきらめけ!プリズム☆ツアーズ』(キンツア)。

 「そもそもKING OF PRISMって何?」という疑問をお持ちの方には、こちらの動画を見ていただこう。わずか90秒で、これまでのKING OF PRISMの歩みをほとんどおさらいしているので。

 おわかりいただけただろうか。こういう作品です。正直、予習はもうこれだけで充分。欲を言えば『プリティーリズム・レインボーライブ』から観てもらいたいけど、もうそんな時間はない。公開から二週間が勝負なので(監督が言ってた)。

 それでも、もう少しだけ氷室聖(CV:関俊彦)法月仁(CV:三木眞一郎)のことが知りたい! あるいは、何も知らずにキンツアを観て、いきなり氷室聖(CV:関俊彦)法月仁(CV:三木眞一郎)に興味を持ったけど、彼らのことを何も知らない! もっと知りたい! という人たちのために、簡単な説明をご用意しました。お時間は取らせません。90秒で済みます。

氷室 聖(HIJIRI HIMURO)

CV:関俊彦

 プリズムスタァ養成スクール・エーデルローズの現主宰。かつてはプリズムキングの座を争うエーデルローズ所属のトップスタァだったが、仁の策謀により大怪我をし引退。以降指導者としての道を進む。

一条シンにプリズムの煌めきを感じ、エーデルローズにスカウトした。

誕生日:11月23日 星座:射手座 身長:184cm 血液型:B型 利き手:右利き

(公式サイトより)

 以下、僕のまとめた情報です(主観が入ります)。

 父親はエーデルローズ財団創始者の法月皇母親は元プリズムスタァの氷室マリア。両者とも故人。プリズムスタァとしての類稀なる才能を持って生まれた聖は、数年前、天羽ジュネという(亡き母親の面影を想起させる)少女との出会いと交流を通じ、前人未到の四連続ジャンプを(練習で何度か)成功させ、次期プリズムキングの座を確実視されていたものの……。

 その活躍を妬み、キングの座を奪われることを恐れた法月仁の策謀によって、足に大怪我を負ってしまい、二度とプリズムショーができない身体になってしまう。その後は、天羽ジュネの専属コーチとして彼女をプリズムクイーン(同時に、史上初の公式戦での四連続ジャンプ成功者)へと導き、自身はプリズムショー協会の会長として、世界に"プリズムの煌めき"を広める活動をすることに。

 そこからなんやかんやあって(詳細は『プリティーリズム・レインボーライブ』で確認してください)、現在は亡き父の創設したエーデルローズを引き継ぎ、婚約者の天羽ジュネや、前プリズムキング山田リョウと共に後進の育成に励んでいる。会社の経営状態は極めて悪く、ほとんど常に大幅な借金を負っている(だいたい法月仁の策略だけど)。肝心の後進育成も、ほとんど山田リョウやエーデルローズ卒業生のOver The Rainbow(速水ヒロ、神浜コウジ、仁科カヅキ)が直接的な指導を行っていて、氷室聖はプリズムキングカップ(PKC)の時くらいしか、練習に顔を出していないように見える。ほとんどの時間、ジュネと礼拝堂でプリズムの女神に祈りを捧げているような気がする。

 正直、少なくない数の視聴者からは頼りない人として認識されている節もあり(特にジュネ様関連では、明らかによくないことをしている)おもろいお兄さん(おじさんというほどの年齢ではない)(まだ20代のはず)としての立ち位置を確立しつつあったのですが、今回のキンツアでのプリズムショーで、その前評判をひっくり返しつつあるようです……!

 プリズムスタァとしての才能だけを持って生まれた人だと思うんですよね。スキルツリーがそこに全特化してしまっていて、指導者としても経営者としてもかなりダメダメだと思う。他者の心情を慮ることも得意ではないように見えるし。でも、そういうところも含めて彼の可愛さというか、チャーミングなところというか。欠点も含めて愛してしまいたくなる、どこか末恐ろしい魅力を持った人物なのだと思います。その才能は、今回のキンツアで披露したプリズムショーにおいても、遺憾なく発揮されていましたね。

 なぜGet Wildなのか、については諸説ありますが、小室哲哉がGet Wildの大ヒットで借金を返済したという逸話から来ている可能性も……?

法月 仁(JIN NORIDUKI)

CV:三木眞一郎

エリートプリズムスタァ養成スクール・シュワルツローズの総帥。異母兄弟である氷室聖の打倒に命を燃やす。

かつてはプリズムショーのアイドル化の先駆けともなった人気プリズムスタァだが、華々しいプリズムキングの実績の裏で、黒い噂も絶えなかった。

プリズムジャンプを超える次世代のジャンプ“プリズムアクト”を確立したが、受け継ぐものがおらず技は時代と共に消えていった。

誕生日:7月18日 星座:蟹座 身長:175cm 血液型:A型 利き手:右利き

(公式サイトより)

 以下、僕のまとめた情報です(主観が入ります)。

 父親はエーデルローズ財団創始者の法月皇母親法月愛。そう、法月仁と氷室聖は異母兄弟なのです。仁が兄で、聖が弟。愛さんが本妻で、マリアさんが不倫相手です。愛さんはご存命。なんか政略結婚だったみたいな話を聞きますけど、ハッキリしたことは僕にはわかりません。本編で描かれてないもん……。

 幼い頃からプリズムショーの練習に明け暮れ、プリズムキングの栄冠にも輝いた仁。今回のキンツアで披露されたのは、その時のショーですね。聖がプリズムショーにのめり込んでいったのには、異母兄への憧れもあったように見えますが、そのことが後に、仁自身の首を絞めることに。

 自身の確立したプリズムアクトが、採点対象として認められなかったこと。やがて台頭してきた聖の連続ジャンプが高く評価されるようになったこと。何より自身の母親である愛までもが、聖の放つ"プリズムの煌めき"に心をトキめかせていたこと。それら、様々なことが重なった結果でしょうか。仁は人が変わり(聖曰く)、プリズムショーに心の煌めきなど必要ない。ただの点取りゲームに過ぎない。という偏った価値観を持つようになります。

 ジュネとの出会いと交流を通じ、前人未到の四連続ジャンプを成功させ、次期プリズムキングの座を確実視されていた聖。自身の立場を脅かす異母弟の活躍に強い焦りを覚えた仁は、策謀によって聖に大怪我を負わせ、結果的に二度とプリズムショーができない身体にしてしまいます。そのまま不戦勝でプリズムキング二連覇を果たした仁ですが、全てを見通していたジュネから、強い拒絶の言葉をぶつけられた(そりゃそう)こともあってか、さらに屈折していくことに。

 やがてエーデルローズの主宰となり、策略と謀略で高い地位を築くも、悪事を暴かれ失脚。その後、父親が亡くなると新組織・シュワルツローズを立ち上げ、打倒エーデルローズを掲げ、プリズムキングカップや新大会・PRISM.1(プリズムワン)などで、聖と何度も激突することに。本気でぶつかるうち、どこかで心境の変化があったらしく、以前のような策謀によってではなく、実力でエーデルローズを完膚なきまでに叩きのめすことにこだわるようになりました。

 聖との複雑な関係性や、仁に憧れてプリズムスタァになった高田馬場ジョージとの関係性など、様々な要素で高い人気を誇る法月仁。……高い人気を誇ってますよね? 僕がエコーチェンバーの中にいるだけという可能性も捨て切れないけど。でも、公式からも愛されてはいると思う。去年はCMソング歌ってたし。彼(と彼の母親)の解放と救済こそ、KING OF PRISMという物語の最終目標だと僕は信じている。

 今回披露された彼のプリズムショーも、彼の複雑な人間性が反映された独自の芸術作品として仕上がっていて、観るものを魅了します。決して平坦ではない彼の歩む道を、僕も共に歩んでいきたい。そんな法月仁という男の強さと弱さを、恋しさとせつなさと心強さとを、同時に感じさせてくれるプリズムショーに僕は心を奪われてしまいました。総帥 so sweet。

 こんな、なんかちいさくてかわいいやつが、十数年後にはなんか地位が高くて可哀想なやつになっているのですから、驚きです。多面的な魅力を持つ法月仁の活躍に、今後もご期待ください。頼むぞ菱田(監督)。

まとめ

 というわけで、無事90秒で氷室聖と法月仁について解説することに成功しましたね。もっと知りたい! という人はTVアニメ『プリティーリズム・レインボーライブ』(全51話)をご覧になっていただくのがいいかな、と思います。もう少し楽がしたい人は、とりあえず映画『KING OF PRISM by PrettyRhythm』(バイプリ)映画『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』(キンプラ)TVアニメ『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』(スッスッス)(全12話)をご覧になれば、だいたいのことはわかるかと。バイプリ→キンプラ→スッスッスです。まぁ、わかんなければお近くのエリートに聞いてみてください。映画(60分)2本と1クールアニメ1本で済むのですから、予習としてはかなり楽な方かと。

 今回は説明を省きましたが、氷室聖、法月仁と並び"三強"と称された伝説のプリズムスタァにして、元祖ストリートのカリスマである黒川冷(CV:森久保祥太郎)や、先ほどチラッと触れた、前プリズムキングの山田リョウ(CV:浪川大輔)なども魅力に満ちた人物ですので、よかったら深掘りしてみてください。

 では、今日はここまで! 劇場でお待ちしてます!