
【注意】こちらの記事には、以下の作品のネタバレが含まれています。
- 『ヴェノム』
- 『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』
- 『モービウス』
- 『マダム・ウェブ』
- 『ヴェノム:ザ・ラストダンス』
- 『クレイヴン・ザ・ハンター』
こちらの記事は、過去の記事に加筆修正・再編集を施したものとなります。
はじめに
SSUとは?
こっちが聞きたい。なんなんですか、SSUって。
もう知ってる人に向けた記事だけど、一応おさらいしておこう。

ソニーズ・スパイダーマン・ユニバース(Sony's Spider-Man Universe、SSU)は、コロンビア・ピクチャーズがマーベル・エンターテインメントと共同で製作するスーパーヒーロー映画を中心としたメディア・フランチャイズおよびシェアード・ユニバースである。ソニー・ピクチャーズ リリーシングが配給するこの映画は、スパイダーマンとそのキャラクターに関連するマーベル・コミックの様々な作品を原作にしている。マーベル・シネマティック・ユニバースとはマルチバースの関係にある。
……だそうだ。wikiより。なぜwikiなのか、もっとマシな文献はないのか。ないんです。ユニバース全体の公式サイトとか、そういったものは、ない。SSUという呼称自体は公式のものだが、具体的な定義(どの作品を含むのか、含まないのか)は、ない。ないない尽くしだ。もはや、存在自体があやふやなシリーズと言える。
しかし、この世に6本の地獄男映画(※1)が生まれ、その舞台上で、地獄男(※1)どもが自らの命を燃やし(他者の命も燃やし)戦い抜いたこと。これは事実だ。
生まれたからには、生きなければならない。懸命に足掻き生きた、彼らの罪と罰。あるいは報い、償い。その軌跡に、敬意を払いたい。

まぁ、出来の悪いシリーズだが(言うてMCUやDCEUと比較しても、平均点はそんなに変わらん、と思っている)、全体を通して見ると、奇妙な"テーマの一貫性"があることに気付く。コラそこ、クオリティの低さも一貫してるなんて言わない。
"有害な男らしさ"(トキシック・マスキュリニティ)についての、批判的な視線。手を替え品を替え、SSUは一貫して同じ話をしている。僕はそこに惹かれた。
"有害な男らしさ"とは?
Toxic masculinity(トキシック・マスキュリニティ)の訳語。伝統的社会的な行動規範としての"男らしさ"(男はこう振る舞うべき)のうち、負の(有害な)側面があるとされるもののこと。難しいね。もうちょい噛み砕いて説明する。

僕たちの暮らす社会には、ジェンダー(性別)規範というものがある。「男は外で働かなくてはならない」「女は家庭を守らなくてはならない」「男は泣いてはいけない」「女は愛想よくしなければならない」と。「男らしく」。「女らしく」。「デート代は男が全額払うべき」とか「プロポーズは男からするべき」とかも、ジェンダー規範だ。親しみを感じてもらえたかな。
んで、今回は"男らしさ"に注目する。繰り返すが、ジェンダー規範は我々の暮らす"社会"にあるものだ。"社会"(世の中、家庭、学校、職場、メディア、ネット……)が、僕たちひとりひとりに"男らしさ"を、何年もかけて刷り込んでくる。ちんちんを押し付けてくるのだ。
やがて僕たちは、"男らしさ"を内面化してしまう。疑うことなく"男らしさ"の規範に従い、自身の感情を抑圧し、ときに抑圧の反動で激しく感情を爆発させ、自分も他人も深く傷付けてしまう。横柄に振る舞い、男らしくないもの(女性、ゲイ、弱い男性)を嘲笑い、排除しようとする。そうやって"社会"に、ちんちんを押し付けていくのだ。"男らしさ"の再生産である。

社会が個人を変え、個人たちが社会を変えていく。このように、社会と個人は相互補完の関係にあるわけだが、まぁ、構造主義の講義はこのくらいにしておくとして……。
さて、何が言いたいかというと、そんな社会と個人の内面にある"男らしさ"には負の側面、有害なところがあるよね、ということで。そう、大事なのはココ。有害な"ところがある"の部分だ。
僕は、そしてトキシック・マスキュリニティという概念は、何も"男らしさ"そのものを否定しているわけではない。男であること、それ自体が有害だ……などという考えのことでは、断じてない。ここは強調しておきたい。ミサンドリー(男性嫌悪)とは違うのだ。
属性を憎んでも仕方ない。憎むべきは個々の行為、そしてその背景にある構造だ。石を投げるときは、よく狙おう。
むしろ苦しんでいる男性を救うための概念である、と言ってもいい。社会からちんちんを押し付けられて育ち、心にちんちんを抱えて生きる僕たちが、しかし他人にはちんちんを押し付けずに生きていくためには、どうすればよいのか。"有害な男らしさ"について考えることで、そのヒントを得られるだろう。
"有害な男らしさ"を知り、その克服、あるいは共存の方法を学ぶことは、加害者を減らすことに繋がる。加害者が減れば、もちろん被害者も減るし、加害者にならずに済んだ人もまた救われる。いいことばかり。

有害"でない"男らしさを獲得する、というのも一つの解だ。弱きを助け、強きを挫く。ちんちんは使い所次第。押し付けるのはだめだが、合意の上であれば、ちんちんは突っ込んでもいいのだ。交渉次第では僕に突っ込むことも可能。
まずは、当たり前のような顔で(空気のように)僕らの周囲を取り囲む"男らしさ"の規範に対し、疑いの目を向けてみることから始めたい。そのキッカケとしてSSUのような地獄男映画(※1)は、極めて有用である。

(※1)地獄男とは、トキシック・マスキュリニティを始めとする社会の規範・構造に捉われ、自らの言動で他者と自分自身を傷付け苦しめてしまう男性のこと。地獄男映画とは、そんな地獄男と彼を取り巻く環境を描いた映画のこと。SSUは全作該当する。
……いろいろと偉そうなことを書いているが、言い訳をしておくと、このトキシック・マスキュリニティという言葉も概念も、何か厳密な定義に基づくものではない。ふわふわしている。その点ではSSUと同じだ。曖昧なもので曖昧なものを語ろうという、曖昧な試みをしている。「厳密にはそれ"有害な男らしさ"じゃないよ!」なんてことも、あるかもしれない。申し訳ない。
地獄男ユニバース
どういうわけか、SSUはずっと"有害な男らしさ"の話をしている。毎回さまざまな地獄男が登場し、その加害性と構造の悲劇を披露してくる。どういうわけかは、この記事の最後に考えることとして、とりあえず一人ずつ見ていこうではないか。SSUもといTMU(Toxic Masculinity Universe)の血塗られた歴史を彩る、多種多様の地獄男どもを。
この記事を書いた人:裏切りのサーモン。地獄男映画愛好家。近況:スパイダー・ノワールを観るためだけにアマプラに加入した。
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地獄男列伝
エディ・ブロック(『ヴェノム』シリーズ)
"セルフネグレクト男性"

映画『ヴェノム』、『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』、『ヴェノム:ザ・ラストダンス』(以下1、2、3)の主人公であるエディ・ブロックは、"有害な男らしさ"に捉われた人物だ。彼の救済、あるいは進歩・成長("有害な男らしさ"の克服)こそ、『ヴェノム』シリーズのメインテーマであると言ってよい。ひょんなことから宇宙寄生生物(シンビオート)のヴェノムと融合した彼は、共に生活を送りながら、弱きを助け悪を喰らう戦士、リーサル・プロテクターとなったわけだが……。
2で語られるように、エディは"父親に愛されない息子"だったらしく、そのせいか、強烈な自己嫌悪を抱えて生きてきた、らしい。自分のことを愛せない。自分を愛してくれる人にも心を開けない。でも依存はしてしまう。愛されたことがない(と思っている)から(自分も含めた)人の愛し方がわからない。そんな彼は、ずっと雑に生きてきたのではないか。自分も他人も尊ぶことのない、そういう生き方。
(呪術廻戦の伏黒甚爾)(自尊心を捨てた男の例)
"愛する"という概念がそもそもよくわかっていない可能性。他人のことを大事にしたいと思っていても、自分を大事にしないことで、結果的に相手を傷付けてしまう。セルフネグレクトは本人だけでなく、本人を愛する人たちをも傷付けるのだ。
都合の悪いことは無視。その場の勢いで突っ走り、破滅してしまう。金遣いも荒い。弱者を救いたいとか悪人を懲らしめたいとか、そういう信念はあるけど、後先を考えた行動ができないので、上手くいかない。とにかく、自分のケアができない。困ったものだ。
身に覚えのある人も結構いるんじゃないか。
そんな彼にとって = 彼の救済を目的とする本作において、ヴェノムというキャラクターは、どのような意味を持つ存在なのだろうか?

僕の解釈では、エディにとってヴェノムとは"もう一人の自分"である。自分を愛せないエディの代わりに、エディを愛してくれる存在。エディが自らの感情と向き合い、自問自答し、本当にやりたいことを理解するため、対話してくれる存在。そしてそのやりたいこと = 生きる目的を達成するため(自己実現を果たすため)、必要なパワーを与えてくれる存在。それが、ヴェノムだ。もう一人のエディ。原語版ではエディ役のトム・ハーディがヴェノムの声も演じている。一人二役だ。
ヴェノムの声はエディにしか聴こえないという設定も、ヴェノムの存在をエディの別人格のように見せる効果を生んでいる。もしかすると、全部エディの幻聴なのではないか? と(そんなことはないのだけど)。
同一人物である以上、ヴェノムの殺人衝動はエディに由来するものと考えられる(設定の話ではなくて、作劇の話)。エディは、"人を食べる"という行為と、その感覚のキモさに拒絶反応を示したり、トラブルに巻き込まれることを避けたがったりしているだけで、(ヴェノムが)悪人を殺すこと自体には、それほど良心の呵責がないように見える。1のクライマックスで、宿敵のカールトン・ドレイクを殺害する時に言い放つ「いい人生をな!」という皮肉は、確実にエディ自身の台詞だろう。(ヴェノムの力を借りて)自分の意志で人を殺している。誰彼構わず喰らおうとするヴェノムの凶暴性は、近付く者みな傷付けてしまう、エディの性質のカリカチュア(戯画)だ。
そんな危うさとは裏腹に、エディは弱者に寄り添う人物としても描かれている。もともとジャーナリストとして、リベラルな問題意識を持っていることも関係あるかも。仕事と恋人を失ったドン底生活の中でも、ホームレスの女性と友好的に接していたし、その女性が助けを求めていたら、自身が危険な状況下であっても、迷わず助けようとしていた(後先を考えない性格の現れとも言える)。
エディ・ブロックの胸中に、確かに存在している「悪人を殺したい」「弱者を救いたい」という、二つの潜在的な欲望。それを体現するヴェノム。
ヴェノムのやることは、全てエディにとって必要なこと。エディが(元)恋人を傷付けてしまったら、謝罪するよう促し、エディが侮辱されたら代わりに怒り、エディが死に瀕したら身を挺して守る。そして悪人を殺し、弱者を救う。そんな、リーサル・プロテクター稼業が、いまのエディには丁度いいのかもしれない。他者を救うことで自分に自信が持てる。他者を愛することが、自分を愛することに繋がる。逆もまた然り。

2にて「平穏に暮らしたい」と言って、ヴェノムの存在を否定しようとしたエディ。その言葉も、べつに嘘ではないのだろうが。残念ながら、いまのエディが平穏に暮らすのは、ヴェノムの有無に関わらず難しいことだろう。自己も他者も尊ぶことがうまくできず、二つの欲望に翻弄され、後先を考えず雑に生きているエディでは、どのみち破滅してしまう。自らの感情と向き合う方法がわからず、うまく表現できない。トキシック・マスキュリニティに捉われてしまっている。
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脱線:地獄男の分類
(『アイアンマン』シリーズ)(主人公トニー・スタークの物語は、息子として始まり、父親として終わる)
父親に愛されない。父親に認められない。父親を(正しく)超えられない。父親を(正しく)継承することができない……。アメリカの映画は、"父親と息子"の話ばかりしている(キリスト教の影響も大きかろう。アメリカという国家自体が、イギリスという"親"から独立した"息子"であるとも言える)。アメリカの映画では、登場人物の男性は"父親"か"息子"かのどちらかに振り分けられる。エディは断然、息子だろう。父親との関係に起因する、自己嫌悪・自己否定。「自分は一人前の男性ではない」というコンプレックス。ただ物語がエディにかけられた呪いを解く方向性で動いている以上、彼の立ち位置は"息子"と"父親"との狭間をグラグラと揺れ動くことにもなる。
エディの有害性の根源を辿ると、父親との関係性に行き着く。男性性にまつわる不全感。ややアバウトな解釈だが、"有害な男らしさ"の問題として考えても、よいだろう。広く"男性の生きづらさ"に関連する事象であり、また規範と、規範を内面化したことによって生じる苦しみの問題でもある。
地獄男には、大きく分けて三つの種類がある。
- アッパー系地獄男(ちんちんが勃つ)
- ダウナー系地獄男(ちんちんが勃たない)
- 完全体地獄男(いつもちんちんが勃っている)
アッパー系は、いわゆる典型的な地獄男だ。暴力的で、他者への加害を厭わない。ちんちんが勃つので、性交、生殖に関する暴力を振るうことも。かなり遭遇したくないタイプだ。ダウナー系は、ちんちんが勃つことがない。では安全かというと、必ずしもそうとは限らない。名前の通り、いつも気怠げで、アルコールや薬物に依存しがち。セルフネグレクトの傾向があり(生活環境は壊滅的)、メンタルヘルスにも問題があることが多い。加害の矛先が自己に向いていて、結果的に他者を傷付けてしまうタイプだ。むろん、われらがエディ・ブロックもここに属する。そして完全体……これはもう、常時ちんちんがギンギンなので、平然とした顔でやばいことを口走る、やばいやつだ。あまりお目にかかれない。アッパー系でも、たまには感情を爆発させて泣いたり怒ったり、ときには葛藤や揺らぎを見せてくれたりするものだが、完全体にそんなものはない。こわい。もう、"成って"しまっているのだ。ここまで到達するのには才能が要る。
(映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のフィル)(アッパー系地獄男)("有害な男らしさ"の教科書として有用な作品)
(映画『ナポレオン』のナポレオン)(完全体地獄男)(あんまりにも地獄で、僕は泣いてしまった)
むろん、かなりアバウトな分類だし、複数の要素を併せ持っていたり、行き来したりする地獄男もいる。結局は人間と構造の問題でありケース・バイ・ケースだ。あくまでも目安として。
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そんなエディのトキシックなところが、(元)恋人のアンやヴェノムといった、彼をケアしようとした相手に対して強く発揮されてしまうのは、つらいことだ。
ときにエディが自ら露悪的に振る舞うのは(そして「悪人を殺したい」という欲望を内に秘めているのは)、彼は自分を悪人だと思うことで = そんな自分を殺したいと思うこと(自己嫌悪)で、ある種の安心感を得ているからではないか……と、僕は考える。2で、(元)恋人のアンが結婚すると知らされたあと、バイクで暴走するエディ。怪我を負ってもヴェノムが治してしまう。「どうやっても自分を傷付けられない!」と自暴自棄に陥るエディ。二人(同一人物だが)の関係性の全てを表した名台詞だ。自分を傷付けるエディと、エディが傷付かないよう守る、もう一人のエディ = ヴェノム。
結局、自分を傷付けられないエディは、もう一人の自分であるヴェノムを傷付け、二人は喧嘩別れをしてしまうが、やがて復縁。互いを尊重し合いながら共に生きていくことを誓うのだった。どこまで行っても、エディは自分を愛せない。それでも、どうにか自分を愛する(セルフネグレクトをやめる)ため、ヴェノム = "もう一人の自分"を(自分から切り離して)"他者"として愛することにしたのだ。それが2の結末だ。
なんとも真面目なセルフラブ(自己愛)のお話。
2におけるエディの最大の成長は、元恋人アンへの依存を断ち切ったことだろう。終盤、エディはアンを守るため、敵の攻撃を背中で受けながら、アンを結婚相手のダンへと手渡す。血塗られたバージンロード。ヴェノムの顔のまま、目を潤ませるエディ(ヴェノムの状態でエディの感情を発露させる演出は、先述の「いい人生をな!」と同じ。意外とよく出来ている。このシリーズは)。つらいことだが、いまのエディには他人を愛し、共に生きていくことは難しい。まずは自分を愛する = セルフネグレクトの状態から脱する練習を始めてみよう。

「弱者を救いたい」エディにとって、虐待を受けてシリアルキラーとなってしまった2の敵、クレタス・キャサディは救うべき弱者ではなかったか。しかし、エディとヴェノムは容赦なくキャサディを殺し、カーネイジを喰らう。エディに親近感を抱くキャサディと同じく、エディもまた、被虐待児のシリアルキラーに共感を覚えていたのだろう。自分と同じような悪人 = だから殺す。自分を殺したいエディにとって、選択の余地は無かった。彼がどこまで行っても自分と、自分によく似たものを愛せないことが、残酷なまでによくわかる。だからヴェノムを、自分とは異なる"他者"として切り離したのだ(2のラストでエディがわざわざ「自分とヴェノムは違う」ということを強調しているのは、このため)。

ヴェノムを「ファーザー(父親)」と呼ぶカーネイジを喰らった("我が子を食らうサトゥルヌス"を彷彿とさせる)。そして1の敵、カールトン・ドレイクは聖者イサクの逸話を引用する。それは、父親のため犠牲となる息子の伝説。『ヴェノム』シリーズが、一貫して父親と息子の話をしているのは自明のことだが、そう考えると、3の敵がシンビオートの創造主 = 父親の、ヌルだったのも当然と言うより他ない。
(さっきからこうして、二人が向き合っている構図の画像を何枚か載せているが、いずれも「殺すべき悪」は右側に配置されている)
3は、父親からの逃避行を描いたロードムービーとなっている。正確には、父親の"呪縛"からの逃走だ。父親本人は出てこない。どこか遠く暗い場所にいる。しかし、その呪縛は息子たちをどこまでもどこまでも追いかけ回し、ようやく掴みかけた幸福を破壊しようとしてくる。どうにかして逃れようと足掻く、エディとヴェノムだったが……やがては覚悟を決め、呪いと真正面から向き合い、立ち向かうこととなる。それは大いなる痛みを伴う作業だ。虐待を受けて育った人間が、親にかけられた呪いを解き、自分を愛し、自分の人生を歩み始めるための戦いだ。シリーズの最終作に相応しいテーマだと思う。

僕はこの映画を観て何度か泣いたのだが、いちばん泣いたのは、キャンピングカーで旅をする家族との、交流の場面だ。みんなで歌う。「歌おう、エディ!」でも、エディは歌わない。気まずそうに笑って、目線を逸らすだけ。……歌えないのだ。つらくて。きっとこんな風に、家族で車で旅行をして、みんなで歌うという、ありふれた思い出すら、エディは持ち合わせていないのだろう。べつにそういう家庭もあるし、何もいけないことはないのだが、エディは傷付いている。いまもずっと。このときのエディの困った表情こそ、本作のテーマである父親の"呪縛"の正体だ。
『こういう人生が、幸せだったかもって思うことがある。……だろ?』
「あのな、怖くたっていいんだ。俺も怖い。そう、もうずっとだよ」
『正しいこと言ったぞ。いい父親になれる』
("父親"と握手することができた。無論エディの父親ではないが、しかし"父親"の属性を持つ人物と握手をした、その事実が大きい)
恐怖を認め、自分と同じ"息子"にやさしく接する。エディにかけられた呪いが、少しずつ解けていく。
はっきり言って、だいぶ下手な映画なので、深読みにも限度がある。終始"靴"をモチーフとして多用してきたのに、最後の最後で"靴"の話をしないの、まじで意味わかんねー。何度も靴を失い、そのたびに人から盗んだり貰ったり(他者から奪ったり施しを受けたり)して、最終的には自分自身の靴で歩くようになる……ってのが、美しい筋だし、そういう話をしたかったんじゃないのか。なぜしない。ひどい映画だ。……でも泣ける。いい映画だー😭
まぁ、とにかく……この家族との心温まる交流は、間違いなく素晴らしい場面だった。彼らを守るため、そして、自分たちを守ろうとしてくれたシンビオートたちの想いに応えるため、エディとヴェノムは戦う。守るというのは、愛するということだ。
これまで何度も繰り返し述べてきたことだが。人を愛し、愛されたいと思うのなら。人の愛を受け取り、愛を返したいと願うのなら。まず、自分を愛することから始めなければならない。セルフネグレクトを乗り越えるための、セルフラブ(自己愛)を描き続けてきた『ヴェノム』シリーズは、クライマックスにおいて、ついに究極の"自己愛"を描く。エディを守る(愛する)ため、ヴェノム = もう一人のエディは、自己犠牲を選択するのだ。

"父親"を暗く冷たい部屋に閉じ込め、カギをかけ、逃げてきたヴェノム。自らをカギと共に消すことで、父親を永遠に閉じ込めておく。つまりエディを、父親の呪縛から永遠に解き放つ。ヴェノムという存在は、はじめから、このためにあったのかもしれない。自分(ヴェノム)で自分(エディ)を愛することで、エディはついに、父親の呪縛 = 自己嫌悪のセルフネグレクトを乗り越える。そして自分の人生を、自分の足(靴)で歩いていく。愛の記憶と共に。
1の終盤で、ヴェノムは瀕死のエディと一体化し、生命を救った。このことがキッカケで、カギが活性化し、父親の呪縛に付け狙われることとなる。つまりは"自己愛"に目覚めたことで、ずっと目を背けてきた父親の呪縛 = 自己嫌悪(自己愛を阻むもの)と正面から対峙せざるを得なくなった。ということ。そして立ち向かい、乗り越えたことで、ヴェノム = もう一人のエディは、その役目を終える。もうエディは、自分で自分を愛することができるし、他人を愛することも、きっとできるはずだ。
こうして『ヴェノム』シリーズの物語は、自己愛(セルフラブ)により、自己嫌悪(セルフネグレクト)を克服することで幕を閉じる。一つのテーマを一貫して描き、駆け抜けたのだ。素晴らしい(これが出来ないシリーズは星の数ほどある)。
(馬は男性性の象徴)
父親の"呪縛"。"有害な男らしさ"。それらの呪いを解くカギは、やはり愛だ。まず自分を愛することから始めなければ……と何度か書いたが、確かに、他者を愛するためには自己を愛することが不可欠なのはそうだが、本当は、両者は同時並行でよいと思う。他人のために働くことで、自分に自信を持てたりする。そこから自己愛に目覚めたりする。
自己愛に目覚めると、今度は自らにかけられた呪いと正面から向き合うこととなる。つらい作業だ。映画と違い現実では、かなりの長い時間がかかるだろう。少しずつ呪いが解けていき、自分の人生の道が開いてくる。自分の弱さを、恐怖を認め、ありのままの自分を受け入れることだって、できるようになる。そこにいるのは、もはや地獄男ではない。
もし自己嫌悪が、あなたを苦しめているのなら。
『ヴェノム』が遺した"有害な男らしさ"を克服するヒントを、是非とも活用してみてほしい。
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マイロ(『モービウス』)
"関係性に執着する男性"

続いて、『モービウス』に登場する地獄男のマイロは、作中でヴィラン(悪役)の役割を担う人物。主人公マイケル・モービウスの幼少期からの親友で、現在は大富豪。二人とも血液系の難病を患っており、医師として治療法を研究するマイケルを、マイロは何かと(主に資金面で)支援している。
子供の頃、マイケルはマイロに言った。「僕たちはギリシャ兵だ。ふたりで大軍に立ち向かうんだ」と。やがて優秀なマイケルはニューヨークへと移り、医学を修めることに。ひとり置いて行かれるマイロ。
そもそも、彼の本名はルシアンであり、マイロではない。マイロは、マイケルが勝手に付けたあだ名だ。同じ病院の隣のベッドにやってくる子供は、全員マイロ。そのうちの一人。しかしルシアンは、自らをマイロと名乗り続ける。マイロにとってマイケルは何より尊い存在、たった一人の親友。いっぽうのマイケルにとって、マイロはそういう存在だったか。

正直、マイケル・モービウス博士の感情は、僕にはよくわからない。淡々としていて、乾いている印象がある。恋人のマルティーヌも同様。僕の感受性の問題か、映画の不備か、はたまた意図的な演出か。
でもマイロのことはよくわかる。痛いほどわかる。わかりやすすぎる。彼はマイケルとの"関係性"に執着している。"ふたりで大軍に立ち向かうギリシャ兵"であり続けたい。そのためには、二人が"ずうっといっしょ"でなければ。ギリシャ兵はピッタリと密着し、互いを守り合って戦うのだ。映画『300』を観よう。
幼少期、マイケルがマイロに宛てた手紙を、いじめっ子たちが奪おうとした。マイロは、そのうちの一人を松葉杖で殴り(他の連中からボコボコにされたが)、大人に見つかり他の連中が去ったあとも、動けないでいる一人を執拗に殴り続けた。確かにそりゃ、大事な手紙を奪われるのは許せないことだが……ちょっと、暴力的な執着心を感じさせる一幕だ。マイロは子供の頃から、こうだった。
そして現在。マイロはマイケルとの散歩の途中で、マルティーヌと最近どうなのか、おもむろに訊ねる。「惚れたりしちゃダメだ」「恋愛は僕たちには無理だ」と冗談めかして言っているが……。

やがてマイケルは、禁断の実験の果てに、吸血鬼の能力を手に入れる。抗し難い血への渇望と引き換えに超人的な身体能力を獲得し、病を克服したのだ。そこに現れたマイロ。自分にもそのパワーを与えるよう、マイケルに懇願するが、自らの作り出した危険な力を恐れるマイケルは、その申し出を拒否する。
「君は生き続けるが僕は死ね、そういうことか?」と激昂するマイロ。マイロを巻き込まないよう、ただ「出てけ!」と繰り返すマイケル。典型的なディス・コミュニケーション。お互い、トキシックなところがある。

当然、マイケルと同じであることを望むマイロは、密かに薬品を盗み出しており、マイケルと同じ吸血鬼の能力を獲得する。理性を失い、傭兵たちを殺害してしまったことを悔やむマイケルに、マイロは、自身も殺人を犯したことを告げる。「抑えがきかないんだ」と言い、親友の罪を赦すと同時に自身の凶行を正当化するマイロ。強大なパワーを恐れるマイケルに対し、マイロはこの力を、圧倒的な暴力を、極めて好意的に受容している。ここがふたりの分かれ道。同じなのに違うふたり。
このパワーを受け入れ、共に怪物として生きていくことをマイケルに提案するマイロ。「俺たちはずっと死に怯えながら暮らしてきただろう?」「なら何故、今度は奴らに同じ気持ちを味わせちゃいけない?」と語りかける。
マイロとの対決を望まないマイケル(こいついつもマイロと向き合わず逃げてるな)は、その場から逃走し、マルティーヌの協力を得ながら、吸血鬼のパワーを無くす方法を探す。一方のマイロは、全能のパワーで人生を謳歌する。以前の痩せ細った身体とは大違いの、筋骨隆々の肉体を見せびらかすように踊り(この場面はミームになった)(『モービウス』自体、ミームとして消費されている)、生まれて初めてバーに行き酒を飲み、女を口説いた。ついでに、邪魔をしてきた男を何人か殺した。
have sex
典型的なトキシック・マスキュリニティの仕草だ。そういう"男らしいこと"をしたくて、わざとしているのだろう。本当は女に興味なんてないはずだ(偏見)。
典型的というか、誇張し過ぎた男らしさというか。ずっと男らしいことに憧れていたけど、実際にはそういうことを経験していない人の、何か勘違いしている(ズレてる)"男らしさ"が、見事に描写されている。

「ドラキュラってロマンチックよねえ」などと言いおもむろにラボの屋上でキスをする、マイケルとマルティーヌ。よくわからない。が、洋画の男女って割とよくわからないタイミングでキスしがちだ。そして、その様子を遠くから、怖い顔で見つめているマイロ。マイロに見せつけて嫉妬させるためだけのキスシーンですよね、監督?
かつてマイケルとマイロが出会った病院に勤務していた、医師のニコラス。マイケルの才能に気付き、彼をニューヨークに送った。そしてマイケルの代わりに、ずっとマイロの側にいた。二人にとっては父親のような存在だ。豹変したマイロの凶暴性を恐れつつも、寄り添う姿勢を見せるニコラス。そんなパパに、マイロは怒りを爆発させる。「ずっと俺を憐れんでた!」「いつもマイケルの味方だったな!」「完璧なマイケル、人を助けるマイケル……マイケルがお気に入りだ!」。マイケルと同じであることを望むマイロにとって、ニコラスは二人を引き離した張本人であり憎むべき相手。「俺たちには恥じることなどない」「俺たち少数派が、大軍と戦う」と宣言し、ニコラスを殺害する。父殺しだ。
そのあと、なんやかんやでマイロはマルティーヌも殺す。「これで二人きりだ!」。ついに決戦の火蓋が切られた。怒りに燃えるマイケルは、蝙蝠の"大群"を呼び寄せる。マイロは、鉄パイプを(ギリシャ兵の槍のように)構え、ひとりで突撃する。激突。マイロは敗れ、マイケルによって、吸血鬼の能力を消す薬品を注射される。生き絶えるマイロ。ただ、「悪かった」と言い遺して……。

……さて、もうお分かりのことと思うが、マイロはおそらく(九分九厘)同性愛者だ。そういう描かれ方をしている。マイケルとの"関係性"に対する(暴力的なまでの)執着が、恋愛感情のように見えて仕方ない。明らかにゲイだ(実在の人間にこういうこと言っちゃダメだよ)。そしてこの『モービウス』は、マイロというマイノリティの苦悩を描くことを主題とする物語だ、と言うより他ない。どう考えても、そこを中心に据えてお話を作っている。そうでもないと中身が無さすぎる。
彼は男性で、難病患者で、おそらく性的少数者だ。このように、複数の属性・アイデンティティが重なり合うことによって生じる、さまざまな差別や苦しみについて理解するために"インターセクショナリティ"という概念がある。
だからマイロの抱える問題を、"有害な男らしさ"というひとつの物差しだけで測るのは難しいし、不適当なのだが、一旦記事の趣旨に則り、また、あくまでも一つの見方として、"有害な男らしさ"批判の文脈で、マイロのことを考えてみる。
マイロは幼少期から、暴力的な気質を持っていた。自分たちを憐れむ、あるいは蔑む社会と周囲の人々への憎しみ。ままならぬ自身の肉体、苦痛に満ちた人生に対する怒り。数多くの苦しみが彼の暴力性を育て、しかしその苦しみゆえに、彼は暴力性を発散する = "男らしく"振る舞うこと、ができずにいた。そういうフラストレーションがあるからこそ、"男らしい"肉体を手にしたあとのマイロは、過度な"男らしさ"を披露する。力を誇示する。裸踊りはその典型だ。
マイケルと"ずうっといっしょ"であることがマイロの無二の望みであったはず。だがマイロは、マイケルの(人を殺したくないという)希望を無視し、大勢の人を殺戮する。マイケルの大切な人たちさえも。運命の分岐点だ。社会(大軍)から抑圧されてきて、復讐したかったのだろう。難病患者として、社会からの抑圧を受けてきたのは、マイケルとマイロで同じはずだが、社会に対し強烈な憎悪の感情を向けているのはマイロだけ。ということはつまり、マイロの抱える苦しみは、マイケルのそれとは大きく違う、ということだ。(おそらく)同性愛者であることも、理由の一つか。
めちゃくちゃインターセクショナリティの話だ。
ふたりのギリシャ兵として共に大軍に立ち向かい、死ぬなら、一緒に死にたかったし、怪物として生きるなら、一緒に怪物として生きたかった。最期に詫びるくらいなら、きちんと想いを打ち明け(わりとマイロは打ち明けてたけどね! マイケルが鈍感すぎるのも悪いよ!)話し合うこともできたのでは。だがマイロは対話ではなく、暴力を選んだ(最初に一方的に拒絶して"関係性"を破壊したマイケルも悪いよ)。マイロの想いは、マイケルにもニコラスにも正しく伝わっていない気がしてならない。二人が対話を呼びかけても応じず、暴力で無理やりねじ伏せようとする姿勢は、トキシック・マスキュリニティを感じさせる。
難病患者であり、(おそらく)性的少数者。"弱者"として、社会に蔓延する"有害な男らしさ"(弱者を蔑む思想)の抑圧を受けてきたマイロ。強烈な憎悪の感情が、発散されることなく、彼の胸中で育ち続け、爆発した。過度な(誇張した)"有害な男らしさ"を身につけ社会に復讐を果たす。まさに、社会・構造が、個人に"らしさ"を押し付け、内面化させてしまったのだ。
こうして"有害な男らしさ"を内面化し、表面化までしてしまったもんだから、自身が同性愛者であることを告白できない。"弱さ"を覆い隠し、突発的な暴力によってしか、他者とコミュニケーションを取ることのできない怪物と化してしまった。どこまでが彼自身の責任か、社会の罪か、線引きは難しい。トキシック・マスキュリニティ。インターセクショナリティ。複数の"物差し"を持っておくことが大事だ。マイロの悲劇は避けられたはずだし、もう繰り返してはならない。そう誓うことが、せめてもの供養である。
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エゼキエル・シムズ(『マダム・ウェブ』)
"女性を抑圧する男性"

『モービウス』のヴィランであるマイロが、物語の主軸を担う"もう一人の主人公"とでも呼ぶべき大きな存在であるのに対し、『マダム・ウェブ』のヴィランであるエゼキエルは、徹頭徹尾"倒すべき悪役"として描かれており、この物語の主軸を担う存在ではない。『マダム・ウェブ』は、彼のための物語ではない。
主人公・キャシーの母親を殺害し、強奪した蜘蛛のパワーで超人と化したエゼキエル。若い頃はよっぽど苦労したらしく(社会に見捨てられたのだとか)(詳しいことはわからない)、何を犠牲にしてでも自らの栄華を極め続けることに執着している。その"栄華"というのが、具体的にどういうことなのかも、やっぱりよくわからない。大したことではないのだろう。
そんな彼の栄華を脅かすもの、それは毎晩夢にみる三人の女性。エゼキエルと同じ蜘蛛のパワーを駆使し、彼に死をもたらす存在だ。数十年間、ずっと悪夢にうなされているのだろうか。気の毒だ。絶え間ない不安に襲われ続け、それを誤魔化すため、仮初の繁栄を追い求め続けている。カウンセリングを受けるべきだと思うが、彼が選んだのは、夢に出てくる女性たちを現実で見つけ、殺害するという解決法だった。
彼女らを見つけ出すため、政府が極秘裏に開発した監視システムの奪取を目論むエゼキエル。NSA(国家安全保障局)の女性と接触し、ワンナイト。やがて、蜘蛛の毒を流し込んで脅迫し、パスワードを無理やり聞き出し、システムを奪取した。女性は殺害した。
どうせ脅して聞き出して殺すんなら、セックスする必要があったのか謎だが、のちに彼自身が「苦労して入手したんだ」と繰り返し語っているのを踏まえると、どうしてもカットできない(彼にとってもあまり望ましくない)過程だったのだろう。
そんな苦労の果てに盗み出したシステムを、部下の女性に(パソコンポチポチ)操作してもらい、夢に出てくる女性たちーー現在はまだ少女なのだがーーを特定するエゼキエル。少女たちに逃げられると、その部下の女性を恫喝するのだが、彼は自分でパソコンをポチポチしない(できない?)ので、殺すことはできない。他に部下もいない。部下の女性の指示に従って、自分の足で歩き回る。
いざ、少女たちをその手にかけるべく、行動を開始するエゼキエルだったが、いろいろあって未来予知の能力に目覚めていた主人公・キャシーの妨害を受け、電車の中に取り残されたり、車に撥ねられたりして、逃げられてしまう。かつて蜘蛛を渡そうとしなかったキャシーの母親に言い放った「黙って消えりゃあいいものを!」という台詞を、少女たちを守るキャシーにも吐き捨てる。

少女たちは社会に居場所がなく、みな孤独を抱えていた。彼女たちと連帯し、彼女たちを守ることを誓うキャシー。容赦なく襲来するエゼキエルを車で撥ね(二回目)、AEDでショックを与え、(都合よく)大量の爆発物が放置されている倉庫へと誘き出す。キャシーの知恵と、覚醒した能力に翻弄され、次第に追い詰められていくエゼキエル。倉庫の大爆発に巻き込まれ、無様にも転落。ペプシの看板の下敷きとなり、ついにその栄華と悪夢の人生に、幕を下ろした。

カルバン・クラインの男性下着看板の前に屹立する、トキシック男性(女性抑圧者)(スーパーヒーローのコスプレをしている)を女性の運転する救急車が、看板ごとぶち抜き、撥ね飛ばす。映画芸術のダイナミズムに満ちていて、"ABSOLUTE CINEMA"としか言いようのないシークエンスだ。
こう、まとめて書くと、なんとも薄味のヴィラン(前作のマイロが濃すぎるのかも)に見えるだろうが、僕は、薄味であることに意味があるのだと思う。先述したように、この物語はエゼキエルのためのものではない。社会に居場所がない少女たちと、彼女らと連帯し、彼女らを守る女性・キャシーの物語だ。その物語においては、エゼキエルのやることなすこと(女性を抑圧してばかり)、脅威でしかない。女性たちの連帯と救済を描く物語の、ヴィランとして設定されているのだから、そりゃそう。当然彼の物語は薄味となる。それでいいし、そうすべきだと思う。
変に同情を買ったり、主役を食うような魅力を発揮してしまうと、話がブレる。公式がSNSで#エゼキエルを称えようと言い出したり、映画館でエゼキエルの魅力ダダ漏れステッカーを配布し出したり、そういうことにもなりかねない。それはおかしい。
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もっとも、キャシーや少女たちにエゼキエル以上の魅力があるかというと、うーん、まぁ、みる人によるか。
女性の解放と救済を描きつつ、男性の生きづらさも描いてみせるうまい映画も確かに存在していて、僕はそういうの大好きだが、SSUにそんな難しいことは期待しない。充分、よくやっている。
それに、この作劇によって(いわゆるカリスマ性のあるヴィランだとか、可哀想な悪役だとか、そういうのとは違う)独特の味わい深さが、エゼキエルという人物に付加されてもいるのだ。詳しくは後述するが、とにかく、よく考えられたキャラクター造形と作劇をしている。
エゼキエルは魅力的な悪役だ。
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脱線:トキシック・マスキュリニティについて語ること。個人(ぼく)(あなた)のこと。
映画『ブロークバック・マウンテン』。同性愛者の男性という属性は、マイノリティでありながら、マジョリティでもある。
僕は同情すべき悪役が好きだし、人間が悪事を働くのは大抵の場合、"構造"に問題があると考えている。とはいえ、なんでもかんでも相対化して、誰の敵にも味方にもならない態度を取るのが、社会の成員として相応しいかと言うと……必ずしも、YESとは言えないだろう。虐げられる側に立ち、虐げる側へ毅然とNOを突き付けるのが、あるべき大人の姿だと、思う。
"有害な男らしさ"について(SNSで)語ると、「悪い男らしさがあるかのような言い方はやめろ」、あるいは「良い男らしさがあるかのような言い方はやめろ」といった正反対の意見を頂くことが、しばしばある。実際、僕自身、どちらも言われたことがある。
現状の社会において、多くの場合、男性という属性は特権階級にある。女性が、女性であるというだけの理由で被る不利益を、男性が、男性であるというだけの理由で被らずに済むのなら、既にそこには、性別による階級差が生じている。むろん、男性が男性であるというだけの理由で被る不利益もまた、存在している。
繰り返すが、男性であることが悪いわけでは決してない。社会(構造)が、"男性"という属性に、(勝手に)特権をトッピングして、階級差、不均衡、権力勾配を生み出している。望んで得た力ではない。いい迷惑、ですらある。が、望むと望まざるとに関わらず、我々"男性"は、(現状の社会で)"強い側"に配置されてしまっている。その事実を、受け止めておきたい。
現状を正しく認識するところから、身の振り方も決まってくる。リアリズムの話をしている。
ここまでは、フェミニズムの教科書の"まえがき"に書いてありそうなこと。もう少し深掘りする。物差しは一つではない。そう、インターセクショナリティの登場だ。インターセクショナリティを考慮に入れると、「この世の全ての男性が特権の加護のもと、何の苦痛もない、安寧の日々を享受している」とは、口が裂けても言えなくなる。男性という属性の中には無数の個人が存在している。富裕層も貧困層も、白色人種も有色人種も、高学歴も低学歴も、難病患者も、同性愛者もいる。
事実として、自分自身が特権階級にある(その属性に含まれている)ことと、実際の生活が、とても特権の恩恵を受けられているとは思えないような、苦痛に満ちていること。そのギャップが"有害な男らしさ"の議論を難しくしている。ある面では加害者(抑圧する側)であり、また、ある面では被害者(抑圧される側)なのだ。だから、インターセクショナリティが重要となってくる。漠然と、属性やイデオロギーを振り翳し(男だ女だ、右翼だ左翼だと)憎み合うのではなくて、そこに生きる人間。個人。一人一人をもっと見たい。知りたい。考えたい。"有害な男らしさ"について学ぶことは、一人一人のよりよい人生に繋がる。最初にも書いた、そんな祈りを込めて、僕は文章を書き続けている。
社会と個人は連動している。社会が変われば、人間も変わる。しかし、社会を変えていくためには、まず人間が変わる必要がある。僕がやろうとしているのは、そこだ。僕の言うこと、書くことをキッカケに、ここにいる、"あなた"。そう、"あなた"の人生がよりよくなることを、何よりも願ってやまない。その積み重ねが、何百年、何千年後の未来、社会を変えるかもしれない。
……なんてことを言っていると、"なんでもかんでも相対化して、誰の敵にも味方にもならない態度"を、取っているように見えてしまうきらいがある。有害な男らしさについて語ることは「加害者にも事情があるのですよ」と説いてまわるようなもので、支持を得るのが難しいのは仕方のないことだろう。
社会の成員として、個人として、虐げられる人たちを見捨てないために。僕はこれからも、"個人"に目を向け続けていきたい。いろいろなことを学び、ひとつひとつの事例に、自分なりの答えを出していきたい。答えを出せずとも、考え続けたい。抑圧する側ひとりひとりの背景に想いを馳せつつ、抑圧される側ひとりひとりの味方でありたい、と思う。そうやって考えて答えを出す、その訓練として"映画を観る"のも、悪くない。僕はマイロに深く同情するが、エゼキエルにはあまり同情しない。そして両者とも、関係のない他人を殺害している。許されることではない。
属性(年齢、性別、人種、貧富……)やイデオロギー(右翼か左翼か、保守かリベラルか、○○主義、○○主義者……)で、何かとカテゴライズし、敵味方思考で分断を煽り、人間同士で憎み合う社会。相手を打ち負かすことが目的化し、建設的な議論が進まない……どころか、それ以前の問題として、正しい情報を共有し、共通認識をもつことすら困難を極める。みんな、困ってるはずだ。なのに、なぜ、こんなことになっているのか。それは、こうなることを望み、この分断によって利益を得ている者どもがいるから……と考えるのは、短絡的だろうか。とにかく、カテゴリーで憎み合っても、僕たちには何の得もない。もっと"個人"をみよう。
レスバで勝っても仕方ないんだよ。僕たちをレスバさせてるやつらを倒さないと。"やつら"とは特定個人のことかもしれないし、目に見えないシステムのことかもしれない。
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さて、エゼキエルの話に戻る。彼は妊婦を殺害して蜘蛛を奪い、NSA職員の女性を殺害して監視システムを奪い、部下の女性を恫喝し、少女たちを殺害しようとする。典型的な"女性を抑圧する男性"だ。口癖の「黙って消えりゃあいいものを!」が象徴的。女性を黙らせ、脅し、奪い、殺す存在。『マダム・ウェブ』の物語が、そんな彼の"ために"あるわけがない。冒頭で妊婦を射殺した時点で、彼は許されざる抑圧者だ。
ただ、そんな恐るべき存在でありながら、彼の言動からは、どこか"情けなさ"を感じ取ることもできる。そもそも、ペルーの蜘蛛はキャシーの母親が発見したものだし、女性から強奪したシステムも、女性にパソコンポチポチ操作してもらっている。そして、悪夢に現れる女性たちに、怯え続けている。女性を抑圧していながら、実際には女性がいないと何もできないし、女性に怯えている非力な存在であることが、ハッキリ描写されている。あるいは、だからこそ女性を抑圧するのか。
そんな"カス男性"としての造形が非常に良いことが、エゼキエルという登場人物の、カス悪役としての魅力であり、『マダム・ウェブ』(女性たちの連帯と解放を描く物語)の悪役に相応しい資質だと言える。だから彼は(二度も)車に撥ねられる。カス男性の象徴として、使命を全うしたのだ。

本当に『マダム・ウェブ』は、女性たちの連帯と解放を描く物語だろうか。エゼキエルの情けなさを描くことが主題で、引き立て役として、キャシーたちの物語が用意されているのではないか。と、思うこともある。うーん、まぁ、みる人によるか。
"悪"とは何か。フィクションの悪役を分類し、現代の"魅力的な悪役"について考えたブログは、こちら。
(宣伝)
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セルゲイ(『クレイヴン・ザ・ハンター』)
"トキシック・マスキュリニティを継承する男性"
VILLAINS AREN'T BORN. THEY'RE MADE.
(現状の)SSU最終作。"有害な男らしさ"を、真正面から描いた作品であり、シリーズの集大成と言ってもいい。ほとんど地獄男(と、プロットの擬人化のような都合のいい女性)しか出てこない。で、その中心に据えられているのが、トキシック・マスキュリニティの"継承"というテーマだ。なぜシリーズの集大成で、そんな話をするのか。どんなシリーズなんだ。

ニコライ・クラヴィノフ。裏社会のドン。完全体の地獄男。"強き者が生き残る"という哲学を持ち、自身の息子たち、セルゲイとディミトリにも、"力こそが全てだ"と叩き込んできた。そんな彼の"地獄語録"の一部を、ご紹介しよう。
- (息子たちの母親が自殺したことに対して) 「弱い奴だ。心を病んでた」
- 「決して死を恐れるな」
- 「男らしくしろ」
- (弟を庇って猛獣に殺されかけた息子への第一声)「なぜ撃たなかった」
- 「恐怖は蝕む。お前を弱くする。母さんみたいに弱くて、脆いのか? それとも俺みたいになるか。もし敵に弱さを見せれば、それは敵に、付け込む隙を与えることになる」
- 「(酒を)注げ。男らしくだ。たっぷり注げ」
- 「(身代金を)もし払えば、弱いってことだ。もし弱さを見せれば、生涯を懸けて築いた全てを失い始める」
"弱い"のゲシュタルト崩壊が起きそうだ。あと酒を男らしく注ぐ、の意味がわからない。終始こんな調子なので、息子たちも内心、父親のことをかなり嫌っている。だが、どれだけ反発しても、やはり肉親との縁は簡単には切れないのか。セルゲイもディミトリも、戦いを経験する中で、父親の教え = "男らしさ"(弱さを見せないこと)の意味を知ることとなっていく。

母親を亡くし、父親に反発し、家を飛び出した青年セルゲイ。裏社会の悪人を始末する"ハンター"としてクレイヴンを名乗り(頭文字のKを間違えないこと)、日々"狩り"に勤しんでいる。
亡き母親の置き手紙には「絶対、お父さんみたいな人にはならないって、約束して」と。その言葉を胸に父親のような"悪"を憎み、戦っている。

弟のディミトリ。セルゲイが家を飛び出す時、自分も連れて行くよう言ったが、置いて行かれてしまった(当時10代の子供だったセルゲイに罪はないが)。その後、現在に至るまで父親のニコライと生活を共にしている。"弱虫"と侮られながら。離れ離れになっても、兄弟の絆は続いているらしく(父親という共通の敵がいることも大きいか)、年に一度ディミトリの誕生日には、セルゲイも極東ロシアの密林を抜け、ロンドンまで会いに来る。

裏社会で暗躍する謎の男・アレクセイ。またの名をライノ。ニコライを敵視しており、ディミトリを拉致し、身代金を要求(払うことは弱いことなので、当然ニコライは払わない)。愛する弟を傷付けられたセルゲイは怒りを燃やし、ライノの首を狙う。こうして、動物バトルの幕が開いた。

ロンドンで弁護士をやっている女性・カリプソは、かつてセルゲイ少年がライオンに殺されかけたとき、スピリチュアルおばあちゃん(わざわざ強風吹き荒ぶ屋外でタロットカード占いをやるおばあちゃん)から貰った秘薬を与え、命を救った張本人。そして現在、セルゲイと再会した彼女は、拉致されたディミトリの行方を追う手伝いをすることに。電話一本であらゆる情報を集めてくれる、便利すぎる存在。脚本上の困りごとを全部押し付けられている。
「そのリストの人を追い続けてると、大切な人たちが傷付く」「因果応報よ。カルマが追ってくる」
カリプソのありがたい助言。しかしクレイヴンは、
「俺はこのために生まれてきたんだ。間違いなく、この世で最も偉大なハンターだよ」
「(カルマは)追い付けない。俺のほうが速い」
と、聞く耳を持たない。
「でもディミトリは違った」
彼女の言う通り。

ライノの手先としてクレイヴンの前に立ちはだかる暗殺者のザ・フォーリナー。クレイヴンに、師匠の"ヒットマン"を殺され、復讐を誓っている。催眠術や毒を駆使し、次第にクレイヴンを追い詰めていくザ・フォーリナー。絶体絶命の瞬間、サマーキャンプでアーチェリーを習っていたカリプソの一矢が、ザ・フォーリナーの命を奪った。法はどうした、弁護士!
どこまでもプロットの権化。

動物バトルの果てに、ライノを撃退することに成功したクレイヴン。しかし、全てはライノの排除を目的とする、父・ニコライの計画だったのだ。セルゲイは目に涙を浮かべつつ、ニコライを殺す。「決して死を恐れるな」。父殺しだ。レジェンドは死んだ。

一年後、再びディミトリの誕生日。以前とは打って変わって、明るく自信に満ちたディミトリの様子に、違和感を覚えるセルゲイ。実は、ディミトリは父親の稼業を継ぎ、裏社会と深く関わっていた。更に、あのライノに超人的な能力を与えた医師とも繋がり、容姿を自在に変えられる特殊能力を身に付けていたのだ。
「兄さんもやっぱり自分のエゴで狩りをする人間に過ぎない」「弱いままでいてほしいんでしょ? 自分のほうが強い。けど僕は強くなった」
ディミトリに言われて、いまや誰も住む者のいない実家に戻ってきたセルゲイ。亡き父親の置き手紙と、毛皮フサフサの戦闘服を見つける。
「お前は俺。俺はお前だ。俺たちはハンター。最も偉大なハンターだ」

クレイヴン・ザ・ハンター 完!
地獄男映画の金字塔『ゴッドファーザー』を彷彿とさせる、気持ちのいいバッドエンドだ。オイディプス王のように、悲劇を回避しようと行動した結果、悲劇が起きてしまった。古典的で、美しい。

レジェンドを殺した者はレジェンドとなる。いかに父親を憎もうとも、同じ殺戮の道を歩み続ける限り、待っているものは同じ暗黒だ。父親と息子は同化し、最も偉大なハンターによる"狩り"は続く。こうして、正しく"継承"が行われたわけだ。
興味深いのは、かつてニコライに軽んじられていたアレクセイ(ライノ)の遺志を、同じく父親に侮られていたディミトリが"継承"したこと。裏社会のビジネスと怪物のパワーを引き継ぎ、真の勝者を目指すのだ。こっちはこっちで、"継承"が行われていた。
このように、"有害な男らしさ"は無から突然ポップするものではなく、誰かから・どこかから輸入されてくるものだ。肉親、敵対者、そして社会……。
"闘争"という不可避の構造の中、人は"弱さ"を憎むようになる。弱者には、大切なものを守ることなど、できないから。もっと強く。もっと男らしく。殺せ。奪え。恐れるな。そうして、"闘争"を自己目的化した結果、本当に大切なものを自ら破壊してしまう。よくある話だ。あくびが出るほど。
"闘争"は家庭に、学校に、社会に持ち込まれ、拡散されていく。構造が生まれ、一人一人が規範を内面化し、構造を強化していく。その、繰り返し。ここまで読んでくれている人にとっては、自明のことだろう。
VILLAINS AREN'T BORN. THEY'RE MADE.
映画のポスターに書かれている、この宣伝文句は、本作の、ひいてはSSUの伝えようとしていることを、端的に代弁している。そして、それは、僕の言いたいことでもある。"構造主義"の問題だ。生まれながらの"悪"など存在しない。"悪"は作り出されるのだ。
映画『クレイヴン』は"有害な男らしさ"が生まれ、育ち、次の世代へと"継承"され、広まっていく過程を描いた物語だ。"地獄男ユニバース"の集大成として、地獄男の根源を描いたとも言える。エディも、マイロも、エゼキエルも、みんな同じこの構造の中にいた。生きて出ていく者、死んで出ていく者。
SSUは、いつも大事なことを教えてくれる。では、そもそも、何故SSUはこんなことをしているのか? 大いなる謎に挑んでみようと思う。
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まとめ
ここまでずっと"構造主義"の話をしてきたが、人間は"構造"の奴隷ではない。そうあってはならない、と思う。人間には"自由意志"がある、はずだ。例えば、僕が給料日に、何か美味しいものを食べようとして、お寿司屋さんに行くとする。"給料日には、美味しいものを食べる"。"寿司は美味しい"。これらの発想は、資本主義やナショナリズムといった"構造"が規定した規範と言える……かもしれない。だが、焼肉でもよかったはずだ。でも、寿司を選んだ。これは"自由意志"と言えるのではないか。
実際のところ、明確な区分は無いように思う。複雑に入り組んでいるというか、グラデーションというか……。ある程度のことは"構造"によってあらかじめ決められているし、ある程度のことは、"自由意志"によって決めることができる。だから人間社会は、人間の行動について、どこまでが仕方なくて、どこからは仕方なくないのかを、よく考えて判断するようにしている。責任の所在をハッキリさせておくべきことは、いろいろある。
そのうちの一つが、SSUのことだ。
クオリティのことは、目を瞑る。(結果的に、だが)全六本の映画シリーズで、終始"有害な男らしさ"の話をしている。やり切った。はっきり言って、変なことだ。もっといろんな話をしたほうがいい。この世界、語るべきことは他にも多くあるはず。なぜ、なのか。責任の所在というと糾弾するような雰囲気だが、単にどのくらい"構造"の影響を受けた"仕方ない"ことで、どのくらい"自由意志"による"仕方なくない"ことか、考えてみようと思う。急ぎ足で(長く語り過ぎた)。
"構造"
過程はスッ飛ばして、とにかく、スパイダーマンの悪役や関連人物"だけ"が登場する映画シリーズを作ることになった、としよう。あなたが。あり得ない作劇は、あり得ない前提から生まれる。この"構造"の中で成功を掴む = 観客の支持を得るためには、主人公 = ヴィランを、魅力的に描く必要がある。
あくまでも"悪役"であるヴェノムやクレイヴンを、観客が共感し、感情移入できる人物として描くには、彼らがなぜ悪事を働くのか、その背景を語るべきだ。人間は、なぜ悪人となってしまうのか。VILLAINSは、どのようにMADEされるのか。そこを真剣に描写しようと思うなら、"構造"の話から目を背けることはできない。男性の悪役なら、"有害な男らしさ"の話をする、"構造"上の必然性があるのだ。
結果、SSUは"成功"せず、あの世界は(ヴェノム1のカールトン・ドレイクが言っていた、環境破壊による数十年以内の人類滅亡を待つことなく)滅びたわけで、やはりそもそもの前提が狂っていた、と言うより他ない。歪んだ"構造"の中では、最適解を叩き出したとしても、結局のところ、うまくいかないのだ。SSUが、クオリティの面で最適解を叩き出していなかったことには、目を瞑ると言ったはずだ。
……いつか、SSUの"前提"がどうしてこんなことになったのか、経緯をまとめた記事を出せたらいいなーと思う。やる気があれば……(ややこしいんだよな)。
"自由意志"
"構造"上の必然性という理由だけでは、エゼキエルやマイロのことは説明できない。明らかに、なんらか意図を持って(自発的に)有害な男らしさの話をしようとしている人間がいる。
舞台裏の事情には明るくないし、インタビューなども読める範囲でしか読んでいないのだが、おそらくSSUの首謀者はプロデューサーのアヴィ・アラッド。ブレイド、X-MEN、F4などの実写映画の製作を担当し(SSUが全体的に"あの頃"のアメコミ映画の風情を漂わせているのも、この人のせいではないか)、またソニーのスパイダーマン映画"全作"のプロデューサーをやっている。全作は凄い。とんでもない権力者だ。そして無類の"悪役好き"である(証明完了)。
映画『シニスター・シックス(仮)』をやりたくて、たまらないらしい。そもそも『ヴェノム』の単独映画の実現は、彼のゴリ押しによるものらしいし(トム・ハーディもやたらとやる気あるよね)(トムのフィルモグラフィはかなり"有害な男らしさ"を意識したラインナップとなっている)、『ノー・ウェイ・ホーム』の、過去の悪役たちを"救う"展開も、彼の発案によるものだとかなんとか。SSUのメッセージ性の部分は、かなりアヴィ・アラッド個人の思想によるところも、大きいのだろう。たぶん。
気が合うじゃん、イェーイ! とハイタッチしたいところだが、そうもいかない。イスラエル出身で、元イスラエル軍兵士(徴兵制があり、国民皆兵なので、大抵のイスラエル出身者は男性も女性も元兵士だ)のアヴィ・アラッドはイスラエル軍によるガザでの虐殺を強く強く支持している、極めて積極的な虐殺加担者だ。よくBNDでマーク・ラファロと仕事できたな。
あそこまで"構造"のことを考えられる人間なのに。それだけ政治のこと、宗教のことは根が深いのか。
どうする?
見過ごせない。見過ごすことは、できない。出身がどこだろうと、どんな経歴だろうと、いま、その考えを持っているのならば、肯定することはできない。
"個人"として。"自由意志"を持つ者として。
……心苦しいし、SSU自体、もう観ないほうがよいのでは……とも思うが(迷い続けてはいるが)、しかしまぁ、キャンセルするだけが全てではなかろう、と。アヴィ・アラッドの虐殺加担は批判しつつ、アヴィ・アラッドの手掛けた作品群の素晴らしいメッセージを受け取り、発信し続けていくことは、両立するのではないか、と。うーん、どうだろう。無理かな。難しいよな。都合のいい解釈すぎる。
僕が"有害な男らしさ"の話をするようになった理由は、イスラエル軍によるガザでの虐殺を、西洋の社会が止められない(どころか、加担することもある)のを見て、西洋リベラルの掲げる"正義"に漠然と乗っかることができなくなり、何か、自分なりに社会に対してできることはないか、言えることはないか、自分の"武器"はなんだ、と模索した結果、辿り着いたのが"有害な男らしさ"について語ること、だったからだ。溺れる者が掴んだ藁なのだ。
そんな、希望の光であるSSUが、こともあろうに、虐殺加担者の手によって作り出されていた。最悪だ。僕はどうするべきなんだ。誰か、教えてくれ……。
未来の……素晴らしいところは……
ん?
未来の素晴らしいところは……
まだ決まっていないこと……
そ、その声は……

マダム・ウェブ!
俺たちには、恥じることなどない……
えっ!
俺たち少数派が、大軍と戦う……!

マイロ!
怖くたっていいんだ……

エディ!
温かさが恋しい時ほど、己の強さに頼れ……
寒さに負けるな。#クレイヴンの言い分 3日目 pic.twitter.com/mMIPNDTxbh
— 映画『クレイヴン ・ザ・ハンター』公式 (@KravenMovie_JP) 2024年11月16日
クレイヴン!
そうだ……"父殺し"だ……! アヴィ・アラッドが生み出したものによって、アヴィ・アラッドを倒す。
"父殺し"
SSUが教えてくれたことだ!
SSUは虐殺加担者のアヴィ・アラッドが作り出したものだが、SSUを愛する僕たちは、アヴィ・アラッドの支配下にあるわけではない。僕らには僕らの思想があり、闘争がある。彼の虐殺加担を批判し、僕たちの信じる正しいこと・善いことを広めていきたい。その積み重ねが、いつか社会を変えるなら、いつか虐殺を止めるなら、その結果こそ、僕らの"父殺し"だ。
僕らが手にした"有害な男らしさ"という物差しは、トランプやネタニヤフを批判することができる。微々たるものかもしれないが、諦めてはいけない。未来は決まっていないし、僕たちに恥じることはない。
その上で、どうか"個人"をみることをやめないで。属性やイデオロギーに引っ張られて、"構造"のことや、"有害な男らしさ"のことを深く深く理解しているのに、虐殺に加担するような、そんなかなしいことはしないでほしい。
ザ・ラストまとめ

結局、長くなってしまった。SSUの元凶はアヴィ・アラッド、ということでいいだろう。彼は虐殺加担者だが、僕たちはSSUから"父殺し"を学んだ。気の遠くなるような積み重ねの果て、遠い遠い未来の社会で、きっと僕らの"父殺し"は成し遂げられることだろう。

僕らは創作物から多くを学ぶことができる。そして世界をよりよく変えることも。その可能性を諦めたくないし、そのことを、僕は語り続けていきたい。血の果てまで、狩り尽くす。その所存だ。

ヴェノム、モービウス、(無から生えてきた)ヴァルチャー、クレイヴン……そして、"ぼく"と"あなた"。おれたちが、シニスター・シックスだ!









































