前編 → "地獄男映画"愛好家の地獄めぐり備忘録【前編】 - 裏切りのサーモン
改めて言っておきたいこと。それは、トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)について論じることは、男らしくあることそのものや、男性であること自体を非難するものではないということ。それはミサンドリー(男性嫌悪)であり、また別のマイノリティ(トランス女性など)を踏み付けることに繋がる考えである。正直、現代社会を生きていて男性の嫌な側面を見ない日などほとんどないし、特に女性は、胸中に多かれ少なかれ、男性嫌悪を内包していることも珍しくないだろう。
それでも、やはり、あくまでも僕の立ち向かうべき相手は、有害な男らしさを生み出してしまう構造だ。目的は構造の解体と改善であり、そのために構造を理解したいと思っている。破壊と再構築の過程で、男性個人の言動を糾弾することも、もちろんあるが……。目的("構造"を改善して多くの"個人"を救うこと)は見失いたくない。憎悪を原動力に、攻撃を目的にしてしまったら、ひどく血生臭い結果が待っているように思う。暴力は、有害な男らしさの再生産にしか繋がらない。まぁ、言うてもわからんやつには、一回痛い目に遭わさなあかんことも、あるとは思いますよ。それは否定しないっす。はい。いざというときはね。でも叩いたら治るようなもんなんやろか。テレビとちゃうねんから。
(呪術廻戦)
同時に、"有害な男らしさ"という構造について語ることは「加害者にも事情があるんですよ」と言って回るようなものでもある。それは事実なのだが、しかし"どっちもどっち"的な相対化の論調に聞こえてしまうきらいはあるし、そういう論調を掲げる人たちに利用されてしまう危険性も大きい。虐げる者と虐げられる者がいるとき、虐げられる者の側に立って、虐げる者へ立ち向かうのが責任ある大人のあるべき姿である。僕もそのようにありたい。
僕は何も「男かわいそう」なんて言いたいわけではなくて(もちろんかわいそうな人もいるが)、社会を蝕む"有害な男らしさ"を理解し、乗り越えるための方法を探したいのだ。それが虐げられる女性やマイノリティ、社会全体、そして加害者である男性たち自身をも救うことになると信じている。
(マトリックス レザレクションズ)
(個人と構造との対決を描くシリーズの最新作。僕にとっても、構造と向き合うための示唆を与えてくれる重要な作品となっている)
一言に「男性」といっても、そこにいるのは一人一人の個人である。個人は構造によって大部分を規定される。運良く、学びや気付きの機会を与えられることで、構造を自覚し、そこから脱却するための術を考えることができるようになる。僕も運が良かった。
社会において多くの場合、男性はマジョリティとして扱われ、"特権階級"に位置しているわけだが、そのことに自覚的な男性は少ないように思う。構造は水や空気のように、あまりにも自然に僕たちの周囲を取り囲んでいるからだ。女性が女性であるというだけで被る不利益を、男性が男性であるというだけで被らずに済むとき、既にそこには"特権"がある。では、全ての男性が特権に守られ、何の苦労もなく幸福に暮らしているかというと、そんなことは全くない。構造的には特権階級に位置し(その罪深さを糾弾され)ながら、実際の生活では全くその恩恵を体感できていない。この現状と認知のギャップが、議論を難しくしている。
繰り返すが、「男性」とは一人一人の個人の集まりである。その中には、当然いろんな個人がいる。裕福な者がいれば貧困に苦しむ者もいる。白人がいれば有色人種もいる。性的少数者も、障害者もいる。同じ「男性」であっても、一人一人の抱える問題は大きく異なる(「女性」にも、他の全ての属性にも同じことが言える)。このことを理解するためには、インターセクショナリティについて知ることが大きく役に立つだろう。元はフェミニズム運動における人種差別を問題提起するための概念だが、今日ではより広く、包括的に差別問題へ立ち向かうために使われている。
インターセクショナリティとは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
結局「加害者にも事情があるんですよ」という話をしてしまった。だって事実なんだもん。同様に、現状の社会では男性と女性とで様々な不均衡があるのも事実。女性やマイノリティの苦しみを棚上げして、男性の苦しみばかりを語ることは、その不均衡を助長してしまう可能性もある(そう受け取られる、利用される危険性)。これはもう、なんとかわかってもらうことを信じ、言葉を尽くして頑張るしかない。上手く伝わらなかったら僕の責任だ。
女性やマイノリティに「頑張れ頑張れ」と言い続けること(エンパワメント)も、もちろん大事だし、男性の罪深さを糾弾することも欠かせない。しかし、被害者に努力や改善を求めるのは、僕は納得できないのだ。悪いのは加害者 = 男性であり、男性を加害者にしてしまう社会構造(それもまた男性たち自身が作り上げている)である。加害者こそ、努力して改善する必要がある。ケアを受けて、自らの行いを反省し、構造を理解して、より良い状態へと作り替えていかなければならない。社会変革のコストは、今"特権階級"にあるマジョリティが支払うべきだ。僕自身も含めて。
今ある社会をより良いものへと変えていくためには、今ある社会で力を持っている男性たちへこそ語りかけるべきだ。僕はそう考え、こういう文章を書いている。また前置きが長くなったが、以上を踏まえて、"そういう文章"にもう少しお付き合い願いたい。
【番外編】映画以外の"地獄男"たち/地獄男と"相棒"の物語
1.『ガングレイヴ』(2003)
ブランドン・ヒート(☆☆☆☆)
ハリー・マクドゥエル(☆☆☆☆☆)
巨大な二挺拳銃と、武器を満載した棺桶を携えた人間兵器、ビヨンド・ザ・グレイヴ。彼こそはかつて暗黒組織「ミレニオン」のスイーパーとして活躍したものの組織の幹部であり親友でもあったハリーの策謀によって命を落としたはずの男、ブランドン・ヒートの生まれ変わった姿だった。蘇る記憶との葛藤にさいなまされながら、グレイヴはハリーの野望を阻止すべく、かつての仲間たちを倒していく。ハリーとグレイヴの最終決戦-二人の男の胸に去来するものは?野望と友情と男の意地が錯綜する中、二人の銃が火を吹く!
ここからは、映画以外にも視野を広げて、地獄男とその解放、救済について考えていく。とりわけ、先のゲ謎でも取り上げた"相棒"というトピックについて。なんならトイストーリーもグレイテストショーマンもヴェノムも、捉えようによってはパワーオブザドッグや裏サーも、みんな地獄男と相棒の話をしている作品と言える。相棒とは、対等な関係性の他者のこと。食うか食われるかの世界で生きる地獄男たち(家庭は大事にできない)にとって、外の世界で共に戦いながら、全幅の信頼を寄せることのできるパートナーの存在は、非常に大きい。どんな社会問題の解決にも"連帯"が欠かせないのと同じように、トキシック・マスキュリニティからの解放にも、男同士の連帯は必要不可欠なのだ。しかし男たちは中々上手く連帯できない。互いに信頼し合う、対等な関係性の"相棒"が必要だ。
時にそれは、同性愛を内包することもある。少なくとも、家父長制的な支配・非支配の関係性より、相棒同士の"対等"なパートナーシップの方が、ずっと恋愛の理想的なあり方に近い気がする。恋愛の"型"を作ることには賛成できないが、しかし、トキシックかそうでないか(人権が尊重されているかどうか)の尺度は存在していていいとは思う。大事なのは、対等であること。互いを想い合い、言いにくいこともハッキリ言い合える関係性だ。
『ガングレイヴ』は、ゴッドファーザーやヒートといった、マフィア映画やギャング映画たちの影響を強く受けた作品。暴力に支配された世界で、無二の相棒であったブランドンとハリーの二人は、最底辺のゴロツキからマフィアの"ファミリー"へと成り上がりながら、取り返しのつかない殺しを経験していくことで、"何か"に取り憑かれ、少しずつ二人の心がすれ違っていく……。本作は、その様を非常に丁寧に、緻密に描いた物語である。彼らは"何に"取り憑かれたのだろう。ずっと一緒だったはずの彼らの心は、一体どこですれ違ってしまったのだろうか。ネットではよく「男の義務教育」などと言われる本作。"有害な男らしさ"と向き合うという意味では、その意見に賛成である。ただ間違っても彼らに憧れてはいけない。彼らは破壊者であり、間違ってしまった人たちなのだから。
地獄男が相棒に対して抱く強い感情は、時に暴走し、両者の関係性を"宿敵"にしてしまうこともある。映画『イニシェリン島の精霊』で描かれているのも、そういうことだろう。こういう時は大抵、二人のコミュニケーションが足りていない。地獄男はもっと会話をしろ。本質的な会話を。素直になれば解決するのに、どうしてすぐ暴力に走るのか。まぁ、構造が悪いんだけど……。
(イニシェリン島の精霊)
(男はある日突然、親友から絶縁を告げられる)
2.『ウルトラマンオーブ』(2016)
クレナイ ガイ(☆☆☆)
ジャグラス ジャグラー(☆☆☆☆)
ガイ=ウルトラマンオーブと、次々に蘇る魔王獣との壮絶な戦いが幕を開ける。その背後で、謎の男・ジャグラーが「ダークリング」を手に妖しく笑う--。
ガイとジャグラーもまた、かつて相棒同士でありながら、その関係性の深さゆえに、拗らせた結果として"宿敵"と化してしまった二人である。
ヒーローやヴィランと地獄男の相性の良さは前編で触れた通りだが、本邦のヒーローも中々に業が深い。BvSの時に書いた全裸シャワー。『仮面ライダーアギト』の木野薫(アナザーアギト)や『仮面ライダー鎧武』の呉島貴虎(斬月)なども、全裸シャワーを披露しているヒーローの一人である。
コラム:全裸シャワー
全裸シャワーとは、映像作品における表現手法の一つであり、"業"(カルマ)を抱えた地獄男または地獄女が、ほんのひととき自らの武器を捨て鎧を脱ぎ、無防備な裸体を観客に晒すことで、その者の孤独と痛みを強調する効果がある。最近だと『ゴジラ×コング』でコングもやってたし、ジョン・ウィックも1作目でやってた。大抵の場合、過去に犯した決して償えない罪を悔やむ時か、これから決して赦されない罪を犯す覚悟を決める時に演出される(コングは単純に寂しそうだった)(というかゴジ×コンのコングはめちゃくちゃトキシック・マスキュリニティを克服していた)。
(ゴジラ×コング 新たなる帝国)
(対話と相互理解を経て連帯することで、有害な男らしさの支配を乗り越え、より良い構造 = 新たなる帝国を築こうとするお話)
全裸シャワーが特別なのは、断じて観客の性的好奇心を刺激するためだけに存在しているようなサービスシーンではない、ということ。その側面もゼロではないが、あくまで主目的は対象の地獄っぷりを観客に伝えることにある。たとえば、アニメ『少女革命ウテナ』の有栖川樹璃も劇中でシャワーシーンを披露しているが、その演出意図は明らかに性的消費ではない。男装の麗人として振る舞う(男らしさを背負って生きる)彼女が、一方でどうしようもなく女性の肉体を持って生きているということの苦しみ。その孤独と痛みを描こうとしているのではないか。そう考えて、僕はこの演出を典型的な全裸シャワーと捉えているし、有栖川樹璃のことも地獄女だと思っている。
(少女革命ウテナ)
(桐生冬芽や御影草時といった地獄男も豊富に取り揃えている)
話を戻そう。光に選ばれ、超人の力を手にした男・ガイ。彼の相棒で、実力では上回っていたにも関わらず選ばれなかった男・ジャグラー。その挫折から、ガイと彼を選んだ光を否定し、自分の方が優れていることを証明するため、ジャグはあの手この手でガイに勝負を仕掛けてくる。まともなコミュニケーションを経ない二人の喧嘩は、次第にエスカレーションしていき、どんどん取り返しがつかなくなって、二人は相棒から宿敵へ。やがてジャグは、ガイの愛した星・地球を滅ぼすことを計画するようにまでなる。
かつてジャグとの戦いで巻き添えとなり、愛する地球人の女性を喪ってしまったガイ(男同士の諍いで割を食うのはいつも女性だ)。100年以上の時が過ぎても、ずっとそのことに心を縛られ、戦うことへのトラウマを抱えているガイは、自分一人の力ではウルトラマンに変身することさえ叶わず(EDの暗喩だと思う)、先輩ウルトラマンたちの力が込められたカードを借りて、ひっそりと人を助ける風来坊をしていた。人間との縁ができても、すぐ「俺に構うな」と冷たくあしらうその様は、典型的なダウナー系地獄男。自らの加害性を自覚し、自責の念に苦しめられている。
そんなガイを、ジャグは執拗に追い詰める。本当のお前の強さはこんなものじゃないはずだ、もっと本気を出せと。本気のガイと戦って雌雄を決する(どちらが上か下かを決めることを、オスかメスかで表すの、だいぶ地獄男ワードだな)ことだけが、自らの強さの証明になる。あるいは、自分を差し置いて光に選ばれたお前がそんな腑抜けた態度では、自分は何のために戦っているのかわからなくなるのか。決闘への憧れ、男らしさへの固執が感じられる。そう考えるとアッパー系なのか、ジャグは。でもめちゃくちゃ湿度高いんだよな。
そんな地獄男二人の関係性がいかなる展開を経て、どのような着地を迎えるのか。それは皆さんの目で確かめていただくとして。貴重な男同士の連帯であるはずの相棒関係が、いかにして破綻し、宿敵関係へと至るのか。そのことを考えてみたい。キーワードは、「置いて行き・置いて行かれ」である。
対等であることが相棒の条件だが、熾烈な競争社会である男性の世界で、この前提は容易く崩壊する。相手とのパワーバランス(単純な能力だけでなく、経済力や社会的地位など)に不均衡が生じたり、気持ちにズレができたとき、二人の距離は離れていく。このときの「自分は相手に置いて行かれたのだ」という感覚は、強烈な劣等感(プライドの毀損)や被害者意識を当人の心に植え付ける。こうして元相棒の宿敵は生まれる。相棒時代の関係性(信頼など)が深ければ深いほど、禍根(裏切られたという感覚)も深くなる仕組みだ。
実に厄介なシステムだが、さらに厄介なのは、大抵の場合、置いて行った側に「置いて行った」という自覚はない。仮にあったとしても、どうすることもできない。相棒と歩幅を合わせるために足踏みしているのが相棒本人にバレたら、相手のプライドは再起不能のズタズタである。そして、ここからが本当に厄介なのだが、無自覚な"置いて行き男"からすると、相棒が突然態度を変えて自分の元から離れて行ったように見えるため、置いて行った側が「自分は置いて行かれた」という被害者意識を持つことすらあるのだ。ジャグは、ガイが光に選ばれたことで"置いて行かれた"が、ガイは、そんな自分のことをジャグが急に敵視して相棒を辞めたことで"置いて行かれた"と感じている可能性がある。双方の自認を突き合わせると、両方被害者で両方加害者みたいな構図が出来上がってしまうのだ。これが「置いて行き・置いて行かれ」の正体である。本当に置いて行ったのはどちらなんでしょうか……。この悲劇を見事に描いた作品として、オーブの他に『長ぐつをはいたネコ』(2011年)と『リズと青い鳥』(2018年)を紹介しておく。
(実質、幼児向け『ガングレイヴ』である)
(リズと青い鳥)
(『裏切りのサーカス』のオマージュ演出が各所に見られる作品。僕はこれ同性愛悲劇だと思うんですけど、皆さんはどう観ます?)
有害な男らしさを克服するため、健全な男性同士の連帯を実現するためにも、どうすればこの悲劇を避けられるのかを考えなければ。方法は様々だが、まず言えるのは、とにかくコミュニケーションを取ることである。冷静な話し合いができればいいが、表層的な建前のやり取りだけでは、真の解決(対話と相互理解)に繋がらない。主にフィクションでよく見られる光景で、実際にやるには法的な制約も多くあるのだが……いっそのこと、決闘してみるのもアリなんじゃないか。別に、河川敷でステゴロじゃなくていい。きちんとしたボクシングとか、スポーツ対決とか、対戦ゲームとか、なんなら口喧嘩でもいいが……。素直な気持ちを言葉に出すのが苦手で、どうしても暴力的になってしまうのなら、(擬似的でいいから)ぶつかり合ってみるのも手だ。双方合意の上でね。そして何より大事なのは、その直後でもいいから、絶対に相手への愛を表明すること。感謝でも信頼でもいい。とにかく、今本気でぶつかり合ったのは、私にとってあなたが本当に大切な人だからなんですよ、ということを伝える。簡潔にまとめると「ぶん殴ってハグ」だ(あくまでもフィクションにおいて有効な手段である、というだけなので、実際にやるんなら本当に色々と、よく考えてアレンジしてやってください。ぶん殴っちゃだめです。暴力反対。目的を見失わないでね)。
(勇気爆発バーンプレイバーン)
(この作品でも、男性同士が"ぶつかり合う"ことで互いの素直な気持ちを打ち明け合い、連帯を深める場面がある。ヒーロー願望などと併せて、有害な男らしさについて考える上での重要な視座を与えてくれる作品だ)
あとまぁ、自分と相棒とは違う人間であるということを、きちんと認めるとか。相手に依存し、相手との関係性の上に自らのアイデンティティを立脚するのは、本当によくない。なぜ良くないかはシュガーラッシュオンラインを観ること。
3.『呪術廻戦』「懐玉・玉折」(2023)
伏黒甚爾(☆☆☆☆☆)
夏油傑(☆☆☆☆)
最強の2人 戻れない青い春
2018年6月、両面宿儺を己の身に宿した虎杖悠仁。2017年12月、祈本里香の呪いを解いた乙骨憂太。そして更に時は遡り 2006年(春)一。高専時代の五条悟と夏油傑。呪術師として活躍し、向かうところ敵のない2人の元に、不死の術式を持つ呪術界の要・天元からの依頼が届く。依頼は2つ。天元との適合者である"星漿体(せいしょうたい)”天内理子、その少女の「護衛」と「抹消」。呪術界存続の為の護衛任務へと赴くことになった2人だが、そこに伏黒を名乗る"術師殺し”が“星漿体”の暗殺を狙い介入する...。
後に最強の呪術師と最悪の呪詛師と呼ばれる五条と夏油、道を違えた2人の過去が明かされるー。
五条悟と夏油傑、彼らもまた「置いて行き・置いて行かれ」の悲劇によって断絶し、対等な"親友"同士から敵対関係へと変わってしまった二人である。その背景には、人間社会や呪術界といった構造の残酷さがある。弱く愚かな人間たち(呪霊を生み出している)を、感謝されることもなく(むしろ異端として恐れられながら)影から守り、そのために次々と犠牲になっていく呪術師たち。その犠牲が出る仕組みを堅持(肯定)し、血統や権威に固執する呪術界。
そんな呪術界の歪みを象徴するような存在が、今作のもう一人の地獄男である伏黒甚爾だ。良家に生まれ、(ある意味で)非凡な才に恵まれながら、生まれ持ったある特質のために認められず、蔑まれ、"術師殺し"として生きる道を選んだ男。五条悟とはコインの裏表のような存在と言えるかもしれない。彼は基本的には攻撃的で威圧的で、金のために人の命を奪うことをなんとも思っていない外道だが、仕事以外の時にはギャンブルでダラダラと時間を潰し、栄養の無さそうなものばかり食い(アニメ版では食べ物を粗末に扱う描写が追加された。悪役演出として良い)、常に無気力でいる様子が目立つ。セルフネグレクトだ。育ってきた環境の影響か、自己肯定感が低いのだろう。抑うつ状態なのではないかと思う。彼自身、「自尊心(それ)は捨てたろ」「自分も他人も尊ぶことない そういう生き方を選んだんだろうが」と自らに言い聞かせている描写がある。そうすることでしか、強く生きられなかったのではないか。まぁやっていることはクズなんですが……。
そんな甚爾との戦いを経て、五条と夏油は、とりわけ夏油は構造の残酷さを痛感することになる。「術師というマラソンゲーム その果てにあるのが 仲間の屍の山だとしたら?」という疑問、いやほぼ確信が、夏油の胸中を埋め尽くす。そうして夏油は呪詛師として構造(呪術界と人間社会)を破壊する道を、五条は呪術師として人間社会を守りながら呪術界の構造を内部から変えていくために、優秀な後進を育てていく教師の道を、それぞれ選び取っていく。青春と挫折を経て、若者たちが進路を選択する物語が「懐玉・玉折」だったのかもしれない。
呪術廻戦自体、他の多くの創作物(特にジャンプ系列が多いようだが)から強い影響を受けており、またそれらのオマージュ演出も多く見られる作品である。それゆえ「懐玉・玉折」の地獄男表象にも、他作品のそれと通じるものが多くある。まずそもそも五条と夏油の関係性が、X-MENのプロフェッサーXとマグニートーのそれに酷似している。
(X-MEN:ファースト・ジェネレーション)
(プロフェッサーXとマグニートーの出会いから別離までを描いた、実質「懐玉・玉折」。生まれつき特殊な能力を持つ子供たちを教え導く、人類を守る最強の能力者である先生と、彼の旧友で、人類を支配し能力者の世界を作ろうとしている男との、愛憎入り混じる青春の物語である。ね、五条と夏油でしょ)
それから夏油は作中で全裸シャワーも披露しているし(あれは間違いなく全裸シャワーだった)、「その夏は忙しかった」から始まる夏油のモノローグを聞いていると、『裏切りのサーカス』でスマイリーがカーラについて語るシーンを連想してしまう。どちらも同じことの繰り返しで疲弊していく構造に疑念を抱く"語り"だ。原作者は映画好きらしいし、裏サーも観てたりしないだろうか。
「懐玉・玉折」で、ちゃんとしてるな〜と思うのは、こういう男同士の諍いや構造との軋轢で、真っ先に傷付けられて死んでいくのは、いつも女性たちであるということをキッチリ描いているところ。そんな彼女らのことを、五条も夏油もあんまり気にしてなさそうなのが生々しいというか……。とにかく、地獄男表象が盛りだくさんなのだ。BvS並。
(僕の善意が壊れてゆく前に 君に全部告げるべきだった)
さて、二人はどうすればよかったのだろう。やはりもっとコミュニケーションを取るしかなかったのだが、彼らは本音を話さない。男子同士の、友達同士で、自分の生き方について真剣に議論することの方が稀だろう。だってみんな、そこまで"友達"に依存してないし。五条と夏油の関係性は、彼らの語彙では"親友"として表現されているが、その関係性の深さと依存っぷり(実は夏油より五条の方が相手に依存している)は、一般的な"親友"のそれとは比較にならないレベルだと思う。
正直僕は、二人は愛し合っていたんじゃないかと思っている。勝手な解釈だが。両片思い的な。なんでもかんでも恋愛にすることは叩かれがちだし、実際その通りで、恋愛感情のない人間同士の強い結びつきもあって当たり前なのだが、しかし同性愛はとりわけ"透明化"されやすいし、「なんでもかんでも恋愛にするな」という言説が、その透明化を推進してしまっている側面も、残念ながらある。「誰が誰と恋愛しても、恋愛しなくてもいい」という当たり前のことが、どうしてこうもままならないのか。
五条と夏油が愛し合っているとして(アニメ版のスタッフもその前提で作ってると思うんすよね。劇場版や「懐玉・玉折」編のOPやEDの歌詞も、だいぶ同性愛の文脈じゃないすか?)、しかし2006年に男子高専生をやっている彼らは、自らの気持ちを告白することができず、"親友"以上の感情を抱えながら"親友"として振る舞った(親友なので自分の進路のことなんか相談しない)結果、このような取り返しのつかないことになってしまった……のではないか。愛ほど歪んだ呪いはないのだから。
(これは持論だけどね 愛ほど歪んだ呪いはないよ)
"有害な男らしさ"による悲劇と、同性愛悲劇は、どちらもジェンダー規範に原因がある。そのため、両者の表現には親和性がある。ガングレイヴだってウルトラマンオーブだって同性愛的な読み方はできるし、長ぐつをはいたネコも、リズと青い鳥もそう。X-MENは割とガッツリそう。ウテナは「読み方ができる」なんてレベルではない、真正面からド直球の同性愛だ。イニシェリンもそう読めるかな。冒頭でいきなり虹が出てくるのは、もうそういうことでしょ。ブレイバーンも同性愛です。言い逃れできないぞ。他にも、たとえば前編であげた多くの地獄男映画たちの中にも、同性愛の文脈で読むことが可能な作品は多くある。"有害な男らしさ"と同性愛を絡めて語っている作品を新たに例示するなら、まず『ブロークバック・マウンテン』。そして、その流れの先にある『ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ』。あとアメコミ映画の『モービウス』も挙げておこう。
(男性同性愛者の、加害者(有害な男らしさ)としての側面と被害者(マイノリティ)としての側面の両方を描いてみせた作品。男性同性愛作品界のテルルイ的な立ち位置だと、僕は勝手に思っている)
プライド月間🏳️🌈🏳️⚧️映画祭り2024を自主開催して感じたこと - 裏切りのサーモン
(ストレンジ・ウェイ・オブ・ライフ)
(ブロークバックを踏襲しつつ発展させた最新作)
(モービウス)
(詳しいことはブログに書いたので読んでください)
SSU(ソニーズスパイダーマンユニバース)の描く"有害な男らしさ"。 - 裏切りのサーモン
現状のジェンダー規範の在り方は、多くの人を不幸にする。なんとかして解体し、改善していきたい。五条と夏油が別々の道を歩んだように、戦い方は人それぞれだ。男性の加害性を糾弾するも良し。女性をエンパワメントするも良し。性的マイノリティの声に連帯するのも良い。みんなで家父長制をやっつけよう。僕は地獄男ブログを書くことで、僕なりに懸命に戦っている。今より世界を少しでも良くするために、僕にできる最大限の努力が"これ"だと、割と本気で思っているのだ。そして同時に、バイセクシュアルである僕にとっての生存戦略でもある。
とりあえず五条と夏油はシュガーラッシュオンラインを観ろ。と思ったけど、オンラインの日本での公開日は2018年12月。呪術作中では、とても映画を観てられるような状況じゃないな……。
4.『TIGER & BUNNY』シリーズ(2011〜)
鏑木・T・虎徹(☆☆☆)
様々な人種、民族、そして『NEXT』と呼ばれる特殊能力者が共存する都市シュテルンビルト。そこには『NEXT』能力を使って街の平和を守る『ヒーロー』が存在した。仕事も私生活も崖っぷちのベテランヒーロー、ワイルドタイガー(鏑木・ T・虎徹)は、突然新人ヒーローのバーナビー・ブルックスJr.とコンビを組むことに。二人は対立しながらも悪に立ち向かう…!
今作も同性愛的な読み方はできる、というかそういう売り方をしていると思うのだが、一旦置いておいて、とりあえず男性同士の連帯の話をしてみる。ようやく、拗らせたり宿敵になったり殺し合ったりしない"相棒"の登場である。そして虎徹さんは地獄男だ。
第1話(バーナビーと知り合う前)の虎徹さんの生活を見てほしい。まず仕事では力任せの強引なやり方で、そんなことをすると自分だけでなくお世話になっている会社にも迷惑がかかるとわかっているはずなのに、やめられない。「正義の壊し屋」として、昔ながらのヒーロー像に憧れと固執の感情があるようだ(幼少期に伝説のヒーロー・Mr.レジェンドに助けられたことがヒーローを目指したキッカケになっている)。自室には酒の空き缶・空き瓶が転がっているし、食事も炒飯ばかりの様子。炒飯は地獄男フードである。
数年前に妻を亡くし、それでも(妻の想いもあって)ヒーローを続けているが、活躍も業績も振るわない……。実は、1話時点で虎徹さんは、結構ギリギリの状態だったのだが、それでもなんとか人の道を踏み外さずにいられたのは、もちろんヒーローであることへの誇りと、そして愛する娘の存在。そして、そんな崖っぷちの虎徹さんが再起を果たし、より良い人生(単なる仕事の成功、というだけの意味ではなく)を歩むようになるキッカケとなったのが、何を隠そうバーナビーとの出会いである。
バーナビーもまた辛い過去を背負う戦士。ほとんどバットマンだ。年齢差や目指すヒーロー像の違い、仕事のスタンスなどを巡って二人は衝突しながらも、同じヒーローとして、市民を助けるために力を合わせて戦っていく。共に日々を過ごすうち、互いの意外な一面を知ったり、自分にはない相手の長所を理解したりと、互いへの敬意が生まれてくる。宿敵との対決に激情を燃やすバーナビーを、虎徹が長年の経験で冷静にアシストしたり、虎徹ひとりでは救えなかった命を、バーナビーの活躍で助け出したり。そもそも二人の邂逅は、命の危機に瀕した虎徹をバーナビーが"お姫様抱っこ"で救出するところから始まっている。このシーンに象徴されるように、虎徹はバーナビーとの出会いを通して、彼自身を苦しめる"有害な男らしさ"とセルフネグレクトから解き放たれていくのだ(シュガーラッシュオンラインにも似たような展開がある)。
様々な困難に直面しながらも、互いを愛し、違いを尊重し合う虎徹とバーナビーは、理想的なバディと言えるだろう(およそバディが遭遇し得る、ありとあらゆる困難を乗り越えてきた)。虎徹の抱える地獄も、バーナビーの抱える地獄も、相手との連帯によって克服されていく。タイバニは、地獄男の解放と救済を目指す上での重要なヒントを与えてくれる作品だ。ルナティックさんもなんとか……救済できませんかね……? あれが救済ですか? そうですか……。
(言いたいこと言って、とことんぶつかってこその相棒だろ!)
虎徹はバーナビーと連帯することで、"有害な男らしさ"から解放され、救済されたわけだが……。では男性が連帯すべき相手とは、一体どのような人物なのだろう。"相棒"とは誰のことなのか。虎徹にとってのバーナビーのような存在。似ているところもあれば違うところもあり、健全なコミュニケーションを取ることができて、互いの短所を互いの長所で補い合えるような……そんな関係性。理想的な相棒。
「連帯」というワードには様々な意味があり、特にエンパワメントの文脈で用いるならば、女性や性的少数者、特定の国籍や人種の人など、様々な属性を持つ人と"連帯"することは非常に重要なアクションなのだが……。いま僕が言っている「連帯」は、パートナーシップのこと。互いの人生に責任を持ち合う関係性。背中を預けて戦う同志。それでいて依存し過ぎることなく、互いを個人として尊重し、違いを認め合える存在。それはマジョリティがマイノリティに手を差し伸べるような、一方的で非対称的な関係性ではなく、相手の弱みを受け入れると同時に、自分の弱みも相手に曝け出せるような……そして互いに迷惑を掛け合ったり、喧嘩したりしながら、支え合って共に生きていく対等な相棒。必然的に、対称的(属性が似通っている)な二人が相棒になりやすい。つまり、結局のところ、男性同士の連帯。互いに本音をぶつけ合って、喧嘩して傷つけ合って、「ぶん殴ってハグ」しても壊れない相手。ブランドンは壊れても戻ってきたし、ガイとジャグは全然壊れないし。夏油は壊れた。
男性をケアする役割を、女性に押し付けてはならない。男性もケアを覚える必要がある。他人と、自分自身のケアを。自分を愛することができない者に、他者を愛することはできない。セルフネグレクトは、あなた自身だけでなく、あなたを愛してくれる人のことをも深く傷つける行為だ。
地獄男と共に生きていくのは、修羅の道である。めちゃくちゃ傷付くと思う。これまでに紹介した地獄男映画たちで、地獄男の配偶者になっていた人たちのことを思い出してほしい。みんな気の毒な目に遭っていた。よくない。しかし地獄男が誰とも連帯せず、一人でいるのもよくない。もっと拗らせて、もっと多くの人を傷付けることになる。なんとか間に合ううちに、相棒を見つけたい。何度も言うが、大事なのは対等であること。互いの危機を、互いに支え合って乗り越えることだ。だから、相棒が地獄男に奉仕する関係性ではいけない。地獄男の存在が、相棒を救うことにならなくては。
ここで挙げておきたいのが、ドラマ『MIU404』の志摩と伊吹だ。過去にトラウマを抱える志摩にとって、伊吹の存在は希望となっていく。伊吹は死なないから。互いに傷付け合っても壊れない。伊吹にとっても、経験豊富で冷静な志摩がいるおかげで、より多くの人を救える。そうすることで、"誇れない過去"を乗り換えることができる。喧嘩して本音をぶつけ合いながら、やがて互いの違いを尊重し合うようになる二人もまた、理想的な相棒同士と言えるだろう。
(MIU404)
難しいのは、こうした男性同士の連帯がホモソーシャルを内包したボーイズクラブになってしまいがちなこと。それは"有害な男らしさ"の温床になってしまう。ううーん、難しい。どうすればいいんだ。やはり関係性に依存するのではなく、個人を確立し、本音で語り合い、堂々と自分の弱みを晒して、互いの違いを尊重し合うことができれば……そしてその尊重を、コミュニティの外にいる人たちにも向けることができれば、いいんだけど……。課題は山積みである。
5.『Detroit: Become Human』(2018)
ハンク・アンダーソン(☆☆☆☆☆)
それは命か、それともモノか。
2038年、デトロイト。人工知能やロボット工学が高度に発展を遂げた、アンドロイド産業の都。人間と同等の外見、知性を兼ね備え、さまざまな労働や作業を人間に代わって担うようになったアンドロイドは、社会にとって不可欠な存在となり、人類はかつてない豊かさを手にいれた。しかし、その一方で、職を奪われた人々による反アンドロイド感情が高まるなど、社会には新たな軋轢と緊張が生まれはじめる。
そんな中、奇妙な個体が発見される。
“変異体”と名付けられたそのアンドロイドたちは、あたかも自らの意志を持つかのように行動しはじめたのだった。
いよいよ最後は映像作品の世界を飛び出して、ゲームの世界へ。本作の特徴を、公式サイトの文章を引用して紹介しよう。
《プレイヤーに開かれたシナリオシステム》
「オープンシナリオ・アドベンチャー」と銘打つ本作は、プレイヤーの行動で大きく変化していくシナリオシステムが最大の特徴。物語の中でプレイヤーの下す決断、発言、行動が、その場の状況を分岐、変化させ、ひいては物語自体の展開や結末にも大きな影響を与えていく。予め決定したシナリオを体験していくのではなく、プレイヤー自身の選択と行動がつむいでゆく、これまでにはない物語体験が味わえる。
つまり、プレイヤーの行動次第でめちゃくちゃ分岐するのだ。同じゲームを遊んでいるのに、他の人と話すと、全然違う物語をプレイしていることに気付く。とりあえず誰かの実況動画を観てきていただければ、どういうシステムかはすんなり理解していただけるだろう。そしてプレイヤー・キャラクター(主人公)のうちの一人である、アンドロイドのコナーが出会い、相棒となるのが、ハンク・アンダーソンという地獄男である。プレイヤーの選択次第で、コナーとハンクの関係性は様々な変化を遂げ、その結末も無数の種類が用意されている。コナーの行動によって、ハンクは地獄男の状態から脱することもあれば、より地獄が深まることもある(物語開始時点で既にだいぶ極まっているのだが)。つまり『デトロイト』は、地獄男との連帯を体験できる相棒シミュレーションなのだ。
コナーとハンクの連帯がどのような過程を辿り、どのような結末を迎えるかはプレイヤー次第なので、ここで僕から語れることは少ない。ルートによっては、コナーの存在がハンクの救いとなり、ハンクの存在がコナーに大きな影響を与え、互いに支え合い尊重し合い愛し合う、理想的な相棒同士となる可能性もある。ぜひ頑張っていただきたい。
年齢差のあるバディは、親子や兄弟といった家族関係を模倣することもある。一つの関係性を別の関係性に準える(個人に別の個人の役割を担わせる)のは、ややトキシックな傾向のあることだが、双方合意の上であれば、一時的な措置として悪くはないのかも。家族とはいつでも帰れる居場所であり、人間はいずれそこから巣立っていくものだ。
(RRR)
(正反対の境遇を背負う二人の青年が"兄弟"となり、連帯して共に支配構造を破壊する物語。めちゃくちゃ面白い)
(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3)
(心に傷を負う者たちが集まり、擬似家族コミュニティを形成して生きるお話。シリーズ最終章では、彼らの巣立ちが描かれた)
あと、デトロイトのついでにゲームの"地獄男と相棒"の話をしておくなら、PS2『エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー』は欠かせない。これは"相棒が地獄男"なのだ(恋人がサンタクロース的な)。最終的には、戦闘機で馬上槍試合をやることになる。戦うことで相互理解を果たす物語。
(戦う理由は見つかったか? 相棒)
映画と違うゲームの利点は、その没入感にあるだろう。プレイヤーは物語の一部となり、作中の地獄男と直に触れ合う。そうして彼らを苦しめる構造を理解し、場合によっては、そこからの解放と救済を導く。現実のトキシック・マスキュリニティと対峙するときの参考になるだろう。
そろそろ話すことも無くなってきたのでまとめる。
まとめ(2) 具体的で効果的な解決法
我々の生きる社会を蝕むトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)という構造を理解し、そこから解放され、加害者を減らすことで被害者を減らし、社会をより良くするためにはどうすれば良いのか。古今東西(最近のが多かったですね)の創作物からヒントを得るべく、地獄男と、その相棒(対等な他者との連帯)というトピックに着目し、ここまで約五万字に渡って色々なことを考えてきた。
まず言えるのは、とにかくもっとマトモなコミュニケーションをしろ、ということ。自分の感情と向き合い、それを言語化してみよう。怒りでも悲しみでもいい。同様に、嬉しいことや楽しいことも言葉に変えてみてほしい。素直な気持ちを。その訓練として、映画でも漫画でも、自分の好きなものの感想をSNSなどで呟いてみるのがいいかも(旧Twitter現Xは言論空間としてクソなのでやめとこう。ブルスカとかにしとこう)。僕はそこから始めて、ここまで来た。自分の好きなものをきちんと愛する。言葉にすることでより強固になる。やがて自分自身を愛し、他者を愛し、対等な関係性で"連帯"することができれば、いいね。一人で生きてくのもいいけど。
僕は個人主義者なので、できることなら一人で生きていきたいし、社会のクソっぷりに嫌気が差しているんだけど、でもどうやら人間はどこまで行っても(山奥の小屋で一人隠れ住んだとしても)構造からは逃れられないらしい。社会 = 権力 = 暴力から完全に自由になることは、人が人である限りは不可能だと思う。それで「人間も社会もクソ!」と居直るのは簡単。でも諦めたくない。個人の尊厳が蹂躙されていく現状を是認したくない。世界を最高の状態にすることは不可能でも、今よりマシにはできるはず。自分にできることをやりたい(その結果が地獄男ブログだ)。
(事実に打ちのめされるのと 諦めるのは違うことだと)
この"ヒーロー願望"も僕のマスキュリニティなのかもしれないが、あんまりトキシックではないと思うので、いいかなと思っている。「有害」なのがいけないのであって、「男らしさ」自体は悪ではない。暴力的に見える怒りや憎しみも、社会変革の原動力となる。問題は、そこに捉われて自分や他者を傷付けてしまうことだ。そうなったら「有害」です(僕もたまに思い詰め過ぎてしんどくなるし、人に失礼なことを言って傷付けてるかも)。
"有害な男らしさ"から解放されるためのルートを、二つ示しておこう。一つは、"より良い男らしさ"を身につけることだ。「男らしさ2.0」とでも言うべきか。男たるもの、社会問題に関心を持ち、正しい知識を身につけ、弱者や少数派と連帯し、彼らの人権を擁護し、自分の感情と向き合うことからも逃げず、身近な人たちときちんと対話し、自らの加害性を自覚しつつ、自らの持てる力を正しいことのために使う……。そんな感じ。心の中にザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)を住まわせてみよう。ロック様が痴漢などするだろうか。弱者や少数派に暴言を吐くだろうか。いやしない。ロック様がしないことを、なぜお前はするのか。
(ワイルド・スピード/スーパーコンボ)
(デヴィッド・リーチの映画はいつも賛否両論だが、『ブレット・トレイン』も最新作『フォールガイ』も、いわゆるマッチョイメージの俳優を多く起用し、彼らと共にトキシック・マスキュリニティを乗り越えようとしている素振りは見せている。表層的だが、やらないよりはだいぶマシだ)(内容はともかく"やってるから褒める"ってのも、そろそろやめたいんだけど)
別にロックじゃなくて、他の好きな俳優でも誰でも、キャラクターでもいい。僕もロックと個人的に知り合いなわけじゃないから、彼のパブリック・イメージと言動だけを頼りに適当なこと言ってるだけだし。そもそも誰か特定個人を過度に理想化(崇拝)し、自らの生き方を預けてしまうのは、あまりオススメできることではない。割と簡単でお手頃だが、それゆえの危うさがあるので。ロックだって、"聖人"と持て囃されるキアヌ・リーブスだって、いま虐殺されているガザの人たちに連帯を示しているわけではない。アンドリュー・ガーフィールドやチャニング・テイタム、オスカー・アイザックに憧れた方がいいかも。
ハリウッドがガザとイスラエルの停戦を呼びかけ、著名人58名がバイデン米大統領に宛てた書簡が公開 | Branc(ブラン)-Brand New Creativity-
とにかく"より良い男像"(ロールモデル)を心の中に思い描き、それを実践してみよう。生まれ持った自分の属性を保持し、より高めるわけだから、人間の生理に反していない。精神衛生上、健全だと思うので、多くの人が手を出しやすいだろう。結局は性別二元制(男女二元論)のジェンダー規範に捉われているし、なんならそれを強化してしまう恐れもあるので、これだけだと不十分なのだが。自らの加害性を認識し、その上で自分のことも他人のことも愛するのを忘れてはならない。愛するというのは、弱さや醜さも受け入れるということだ。自己満足のマッチョイズムを他人に押し付けてはならない。あくまで自戒として、胸に留め置いておきたい。同じ男性に見えても、一人一人の抱える事情は千差万別なのだから。
映画における「男らしさ2.0」は、子育てと共に描かれることも多い。"子育てマッチョ映画"というジャンルが存在するのだ。例えば『コマンドー』とか。最近だと『ソー:ラブ&サンダー』や『アクアマン/失われた王国』など。どちらもチームヒーローのマッチョ(男らしさ)担当だ。彼らがエプロン付けて料理したり、赤ん坊のオムツを替えたりする様は、マッチョヒーローのステレオタイプ的な表象とのギャップで、キャラクターの新たな魅力を発掘することにも役立っている。「ケア」こそ、マッチョの生きる道なのでは。
(コマンドー)
(その所作、ファッションスタイル、メイトリクスへの執着、その娘への執念などから、悪役ベネットはゲイなのでは? 筋肉モリモリマッチョマンのメイトリクスと、そんなベネットとの愛憎入り混じる同性愛の文脈で読むことも可能なのでは? なんてことを思ってもいる)
(アクアマン/失われた王国)
(王の証となるトライデントなんて直球の男根メタファーだ。それを打ち付け合う"決闘"で勝利した者がオーシャンマスターになれるなんて、もはや隠す気もないだろう)
自己も他者もケアする"より良い男らしさ"を身につける道は、先に言った通り、ジェンダー規範の強化に繋がるため、完全な解決とは言えないのだが……とりあえず「有害」ではなくなる。ゼロにはならないが、だいぶマシにはなる、はずだ。これは言わば、破壊を伴わない"構造の改善"である。つまりもう一つの道は、構造の破壊、あるいは構造からの脱出を意味している。すなわち、"男らしさから降りる"ことだ。
男らしさから降りることは、自己や他者をケアする義務から解放されることを意味しない。「男だから」「男らしく」「男として」みたいな理由を抜きにして、単に人として、自分なりの考えに基づいて、生きていくのだ。男らしさから降りたからと言って、あなたが男性でなくなるわけではない。ノンバイナリーやトランスジェンダーなら別だが。僕は"バイセクシュアルの男性"として生きている。両性愛は性的指向だ。ジェンダーもセックスも男性として生きていくのなら、"男性としての責任"のようなもの(弱きを助け強きを挫く的な)に背を向けて生きていくのは、あまり褒められたものではないような気がする。できれば、余裕のある範囲で、自己も他者もケアしてほしい。それは「男として」ではなく「人として」。人権を守るのに、あなたのジェンダーもセックスも関係ない。戦える者が戦えばいい。僕も戦うので。
男らしさを降りる生き方に、ロールモデルは存在しない。存在しないのが自然だ。「男らしさを降りた人らしさ」なんてものを求められたら嫌だし、本末転倒だし。先を照らす明かりのないまま、線路のない道をズンズン進んでいく。ジェンダー規範に捉われない生き方をしたいなら、ジェンダー規範を押し付ける社会、その社会を牛耳るトキシックな男たちと戦うことになる。自分で学び、自分で考え、自分で戦い、誰かと連帯しながら、自分で生き抜いていくのだ。これが自由である。
僕自身は、どちらかと言うと後者(男らしさから降りる)の生き方で頑張っている。性的指向もあって、自分のことを"純然たる男性"とはあまり思えないし、男性同士のホモソ的なノリにも着いて行けなかった。僕のリアルの友達はみんな日常的に料理をしている。狙ったわけではないのだが。
まとめ(終)
改めてまとめよう。社会を蝕み、多くの人を苦しめるトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)。それを乗り越えていくためには、加害者である男性たちこそが、改善のための努力をしなければならない。まずは、加害の自覚がない男性たちに自覚をさせるため、その行為を糾弾し、可視化する必要があるだろう。次に、可視化された男性はケアを受けるべきだ。プロのカウンセリング(心療内科など)を受診し、"有害な男らしさ"を克服する努力をしよう。本を読んで学ぼう。映画を観るのもいい。そして健全なコミュニケーションを身に付けよう。自分の本音も、他者の意見も尊重しよう。傷付け合うためではなく、わかりあうために対話をしよう。健全な対話と相互理解ができれば、他者との対等な連帯が可能になる。ここまで来れば大したものだ。あとは二択。"より良い男らしさ"を身につけるか、"男らしさ"から降りるか。前者の方が取っ付きやすいと思うが、僕は後者をオススメする。ジェンダー規範を押し付ける社会、それを牛耳る男性中心の構造に、共に立ち向かおう。
だいぶ生温いことを書いてしまった。それでもやっぱり、どうしようもなく救い難い人間(現実の地獄男)はいるし、そういう人間には厳しい罰を受けてもらうべきだと思う。繰り返すが、これは女性やマイノリティに「男性にも事情があるので許してあげましょう」なんてことを伝えるための文章ではない。断じてない。男性たちに対し「お前たち(僕たち)が作り上げてしまったクソ社会を是正するコストは、俺たちで払おうぜ」と言っている。わかってる。悪いのは上の世代だ。今を生きる若い世代は、男性の特権なんて感じる暇もないまま、先の見えない社会を懸命に生きている。政治が悪いです、政治が。でも、だからこそ戦わねば、永遠に社会はクソのままだ。
社会をより良く変えるための戦いは、僕たち自身にとっての生きやすい場所を確保するための戦いでもある。とりあえず、一緒に地獄男映画を観よう。
(あとがき)この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ……?
我を過ぐれば憂ひの都あり、我を過ぐれば永遠の苦患あり、我を過ぐれば滅亡の民あり(山川丙三郎訳)……というのは、ダンテの『神曲』地獄篇の一説である。地獄の門が自ら喋り、地獄の惨状を説明している。憂ひの都、永遠の苦患、滅亡の民……。さながら現世のようだ。地獄のような現世に産まれた我々は、一切の希望を捨てねばならないのだろうか?
この「地獄の門」をテーマとして、オーギュスト・ロダンは巨大なブロンズ像を制作した。未完に終わったが、彼の作った『地獄の門』の上部に、かの有名な『考える人』の像がある。この考える人は、地獄の門の上で熟考するダンテを表したものであるという説や、ロダン本人を表している説などがあるが、ハッキリしたことはわかっていない。
(考える人)
この男が誰であれ、彼は考え続けている。地獄の門は惨状を説明し、希望を捨てよと説いているにも関わらず。永遠の苦患、滅亡の民を前に、男はずっと考え続けているのだ。それは抵抗ではないか。「希望はない」とする門と対峙しながら、地獄の様子をその目で見ながら、それでも希望を諦めないからこそ、彼は考え続ける。なんとかして地獄を救いたいのではないか。永遠の苦患を取り除き、滅亡の民を救済したいのでは。
僕はこの『考える人』のようにありたい、と思う。何かを想い、考え続けることは、絶望への抵抗だ。考えるだけじゃなくて行動にも移したいが。あるいは、彼は待っているのかもしれない。自分と同じように考え、連帯して行動を起こしてくれる人の存在を。
(追記)映画批評と"有害な男らしさ"
この記事を書いている間に、ネットでは色々あって、特に本邦の映画批評界隈の男性たちによる、ミソジニーを拗らせた見るに耐えない言説が多く飛び交う、地獄の光景を多く目にした。彼らの信奉する『ダーティハリー』を観て、面白くないという感想を言っただけの女性に対する、彼らの集団攻撃は本当に酷い。筆舌に尽くし難い。最大級の侮蔑を向けたい。
(ダーティハリー)
こういうのを見ていると、同じ地獄男映画を観ても、全然わかりあえない人も大勢いるんだよな……という、まぁ知ってたけど、改めて突き付けられるとしんどい事実に直面する。『ファイト・クラブ』観て、タイラーに憧れてんじゃねぇよ。
(ファイト・クラブ)
そして、そんな"有害な男らしさ"を拗らせた連中を、ある種擁護するような(そんなつもりはないんだが、意図は関係ない)(繰り返すが、意図は関係ないのだ)記事を書いてしまったことを、恥じる気持ちもある。まだ早かったか。そろそろみんな、自らの加害性を自覚し始めて、どうすればそこから脱却できるかを模索しているフェイズかな? と思っていたが。まだ全然、自覚できてなかったか。映画をたくさん観て、たくさん批評している、アカデミックな人たちでさえも。というか、本邦の映画批評という空間そのものがトキシックな要素を含んでいることに、僕自身がもっと自覚的であるべきだった。後悔。
それでもいつかは、彼らにこの文章が届くといいな、なんて非現実的な理想論を掲げて、この長い記事は幕を下ろすことになりそうだ。どうすれば、この術(有害な男らしさを乗り越える方法)が本当に必要な彼らに、情報が届くのだろう。この理想を現実へと着地させていく思案は、これから少しずつやっていきます。現実的に、具体的に、効果的に……。