裏切りのサーモン

映画の話をするバイセクシャルの魚。

語り(ナラティブ)で捉えるブレイバーン

※アニメ『勇気爆発バーンブレイバーン』最終話までのネタバレを含みます。

語り(ナラティブ)とは? 

 物語には、語り手聞き手が存在する。多くの場合、前者は作者で後者は読者(観客)だ。他方、作中の登場人物が自ら語る、一人称の小説もある。その場合、語り手は作者ではなく、その登場人物になる。その人が知り得ないことは、通常その文章に現れることはない。あくまでその当人から見た世界、感じたものが語られるだけだ。単純な物語の筋書き(起承転結、AがBを殺しCが謎を解いた〜など)をストーリーと呼ぶのに対し、そのような物語を、誰が、どのように語るのか……そこに着目した考え方を語り(ナラティブ)と呼ぶ、らしい。

ナラティブ(ならてぃぶ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 まぁ細かい定義は置いておいて。なんとなくわかってもらえれば(僕もなんとなくしかわかってない)。信頼できない語り手とか、同じ展開でも違う人物の視点だと全然違う内容になってるとか……そういうの、好きでしょう。それです。たぶん。

ブレイバーンの語り(ナラティブ)

 さて、先日放送終了したテレビアニメ『勇気爆発バーンブレイバーン』。まったく変なアニメだったが、この物語を"語り(ナラティブ)"の考え方を用いて読解してみよう。できるかな……。

 文学に限らず、映像作品においてもナラティブはある。この物語は、誰が語っているのか……そこに注目すればいい。ヒントとなるのは、ナレーション(これもナラティブに由来する言葉だ)の有無だ。たとえば「199X年、世界は核の炎に包まれた」とか「富、名声、力、この世の全てを手に入れた男」とか。この時、語っているのは誰か。とりあえず、作者自身だと考えるのが自然だろう。作者という語り手が、読者(観客)という聞き手に、世界観や状況を説明している。

 『ブレイバーン』にはナレーターが存在しない。今が西暦何年で、どこで誰が何をしようとしているのか、作者(監督)は直接我々に語ってはくれない。作中の描写から読み取っていくしかない。

 代わりに、登場人物のモノローグが存在する。スミスと、イサミと、ブレイバーンの独白だ。いずれもヒーローがどうの、勇気がどうのといった語りだったが……共通点は、三人ともブレイバーンであるということだ。ブレイバーンのモノローグに始まり、ブレイバーンのモノローグに終わった本作『勇気爆発バーンブレイバーン』の物語は、ブレイバーンによる"語り(ナラティブ)"であるとわかる。言わば、ブレイバーンによる一人称視点の物語だったのだ。

 ちょっと待て、作中にはブレイバーン(イサミとスミスを含む)が直接見聞きしていない場面も含まれていたぞ、とあなたは思うかもしれない。ATFの上官たちの会話や、空中管制機の様子など。しかし、よく考えてみてほしい。ブレイバーンはありとあらゆる電子機器にアクセスする能力を持ち、またあらゆる言語を解してもいる。つまり、彼が直接見聞きしていない物事も、彼の語りに取り込むことが可能なのだ。そんな無法な、とあなたは思うかもしれない。しかし一人称小説の代表的な作品である、夏目漱石吾輩は猫であるにおいても、猫は自らの特殊能力で人間の内心を読み取り、猫自身の語り(ナラティブ)に取り込んでいる。ブレイバーンは、伝統的な語りの技法をオマージュしたのだ。

 ……そういえば、ルルの語りもあったな……。まぁルルもブレイバーンの一部ということにしてもいいだろう……。

語らない語り

 ブレイバーン(イサミとスミスとルル含む)の一人称視点で語られる本作。逆に言うと、ブレイバーンの知り得ないことは、決して語られることがないのだ。サタケとブラムマンが何やら顔見知りらしい、意味深な描写が何度も挟まれたが、結局最後まで彼らの関係性は説明されなかった。それはブレイバーンの語りによる『勇気爆発バーンブレイバーン』という物語(ヒーロー番組)において、語る必要のないことだからだ。語る必要があれば、彼はその超常的な力を用いて、いくらでも他人の過去を調べ上げるだろう。だがそんなことはしない。必要がないから。

 わざわざ意味深な描写を挟み、あえてそれを無視してみせることで、この物語はブレイバーンの一人称視点で語られているのですよ〜と説明してみせる作劇。無駄に文学的だ(褒めてる)。

 そう、このアニメは"ブレイバーンの一人称視点"という設定を巧みに利用して、意図的に"語らない"ことがよくある。その最たる例は、イサミとスミスの恋愛模様だろう。もはや誰がどう見たって、彼らは愛し合っている。なのに、作中で彼らのセクシュアリティや関係性が明言されることはない。逃げた、と捉えることも可能だろう。

 理由付けを行うなら、これはあくまでブレイバーンの語りによるヒーロー番組『勇気爆発バーンブレイバーン』なので、その番組内において、彼らの関係性がなんであろうと、明言する必要がない。最終的に勇気を爆発させればいいのだから。必要がないので、明言しない。それだけ。

 ということになるだろう。同性愛者だと思われるイサミのことを、最終話までずっと普通の人(死に怯え逃げ惑い、それでも勇気を爆発させて立ち上がり、恐怖に立ち向かいそれを乗り越える人)として扱っているのも、同じことだ。彼がゲイだろうがバイだろうが関係ない。わざわざ語る必要もない、普通の人だ。ということ。そういう解釈をするなら、僕は割と支持できる。セクシュアリティを明言するのも、それはそれで勇気爆発の一つの形だとは思うが。

 周りから見ればどう考えても愛し合っている二人なのに、それが語られないのは、語りの主体である彼らブレイバーンが、自らの恋愛感情に無自覚であるから、と捉えることもできる。スミスはだいぶウブだし。朴念仁と言ってもいい。自覚していないものは語りようがない。

ブレイブ読解

 とにかく本作『勇気爆発バーンブレイバーン』は、ブレイバーン(イサミスミスルル含)という"信頼できない語り手"によって紡がれた物語である、ということだ(彼らのこと信頼できる人います?)。彼らの解釈、彼らの見た世界が、切り取って語られているだけで、まだまだあの世界には語られていないことが無数にある。サタケ隊長が意味深すぎることとか。

 だから、作中で肯定されている価値観や、描かれなかった関係性なども、われわれ受け手側が疑いの目を向けて、あるいは限られた描写から考察して、自分なりの読解を積み上げていくしかない。ブレイバーンは、言っちゃ悪いが、だいぶ認知の歪んだ存在である。序盤の、不同意性交じみた行いなども無視できない。

 物語は(ブレイバーンによる語りは)一旦終わりを迎えたが、われわれの読解は今ここから始まると言ってもいい。勇気を爆発させて、この複雑怪奇な作劇に戦いを挑もう。その先に掴み取れるものが、何かあるかも……しれない。